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(C)DEADLINEショウビズ界で目覚ましい活躍をした著名人に贈られるハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムの星。ずらりと並ぶ星の中に、トランプ大統領の名も刻まれている。ミス・ユニバース機構の単独出資者として様々なメディア展開を行ったり、リアリティー番組『アプレンティス』へ出演したりと、大統領選出馬前はテレビ業界で大きな存在感を放っていた。 昨年10月、このトランプ氏の星をツルハシで滅多打ちにする男の映像がネット上に流れた。ジェイミー・オーティスという名のこの男は、地面から取り出した星のエンブレムをオークションにかけ、売上金をトランプ氏のセクハラ被害に遭った女性たちのために遣うつもりだと話していた。 オーティスの公判が21日に結審し、器物破損による有罪と3年の執行猶予が言い渡された。弁護人によるとオーティスは不抗争の答弁を行い、損害賠償及び弁護士費用として4,400ドル(約50万円)の支払いと、20日間の社会奉仕活動を受け入れた。
2017年02月22日最近でも何かと主人公の座をかっさらいがちな、戦国武将「織田信長」。歴史に造詣が深くなくても、聖地を巡れば楽しめる!?安土城で織田信長に想いを馳せてみた。 人間は、広い世界のほんの一部で生きている。全てを知ることはできない。世界のどこかには、自分の知らない何かを熱狂的に愛してる人がいる。研究する人がいる。そんな人が集まると、小さなブームになる。誰かの世界を、少しだけ覗いてみちゃおう。それが「うさこの覗いた世界」なのだ…! これはひとりの歴史オンチが歴史を探訪する物語である。 歴史。日本の歴史は世界的に見ても長く、それは調べれば調べるほど奥が深い壮大なストーリーだ。2000年以上に渡ってこれまでたくさんのヒーロー・ヒロインを輩出してきたといっても過言ではないだろう。学生の頃「日本史」の勉強として詰め込んできたものはほとんど忘れてしまったけど、漫画や小説を通じて「人生」として見るとそこには驚くような策略や、運命のいたずら、人の美学や生き様が見られたりする。紀元前の卑弥呼あたりから始まり動乱の幕末に至るまで、誰もが知っている人物も数知れず。興味を持って接すれば楽しいことが待っているのは分かっているのだが、積極的に歴史を摂取できない自分も否めない。 知り合いの歴史大好き女子を見ていると、知らない身からしたらただの「お墓」や「古民家」がとても意味あるもののようで、羨ましく見えることがある。 わたしは…大切な場所を見逃している…!? わたしももっと歴史に親しみたい。先に有名な史跡を巡る「聖地巡礼」することで勝手に思い入れを作れば、大きな歴史の中に身を任せられるのでは…!わたし織田信長で有名な滋賀県安土へと赴いた。 信長といえば、数多くのドラマや映画、ゲームでもひっぱりだこのキーパーソン。とはいえ織田信長に別段思い入れのない人生を歩んできたわたしのイメージといえば、 ・なんかすごく豪快な感じ・順調に天下取りに行ってたのに部下に殺されてしまう・カッカッカと笑う これくらいのもの。最後のなんて何の根拠もない。安土といえば「織田信長の場所!」とは思ったものの、実際どうやってそこで過ごしてきたかは存知あげない。「安土城」もてっきり実在すると思っていた。 しかし今の名は「安土城址」。そう、既に城の姿はなく彼が居城を構えた栄華はとっくに過去のものになっていた。 彼が安土に拠点を移したのは、彼の人生のだいぶ後半43歳の出来事だ。そもそも戦国時代とは各地に「戦国武将」と呼ばれる武将がいて、国を乱立させ天下統一を目指し陣地を取りあう、名の通り戦だらけの時代。 尾張の国(今の愛知県)の武将の家に生まれた信長、なんとびっくり2歳にして城主となり24歳で弟を暗殺している。時代とはいえあまりに重すぎる身の上。身内でさえ信用できないほど周りは敵ばかりだ。子どものころは度重なる奇行で「大うつけ(大ばか者)」なんて呼ばれていたらしいが、それも暗殺されないためにバカを演じていたという説もあるらしい。18歳で父親の死により家を継いでからメキメキ頭角を現した信長、尾張だけでなく美濃(岐阜県)、伊勢(三重県)、近江(滋賀県)を支配するまでに至る。琵琶湖というものを戦略的にも通運的にも大事にした信長は、湖の傍らに安土城を建て、3人の家臣たちに他に3つの城を建てさせた。今、琵琶湖はひとつの湖だがかつては大中の湖に囲まれもっとドでかかったらしい。 その中でも安土城はたいそう豪華絢爛だったそうだ。天守閣の柱は朱塗りで、内部は黒漆塗り、瓦には金箔。 ポルトガル人の宣教師による「こんな壮大な建築見たことない」との言葉が残されている。 しかし住み始めてたった3年で信長は本能寺の変にて命を落とし、また城も追うようにして焼失。そして400年経ち、今は山のような姿でわたしを出迎えてくれた。 (マジで登山) (城から見える景色) 直接今姿かたちを見ることはできなくても、長い歴史の中で、人々が生きてきた痕跡は各地にある。大きな城だけじゃない。 大津にある国宝の「三井寺」にもまた、信長が本陣を置いたこともあったという。そこで生きていた彼らの足跡は、それはまるで家の柱の傷のようにわたしたちの生活のなかに溶け込んでいる。どこかへ行くときに。家の近所に。気に留めなければ見過ごしてしまう、誰かの痕跡をちょっと覗いてみると楽しい発見が増えるかもしれない。
2017年02月22日一連の出家騒動の渦中に、『幸福の科学』が作った“霊言DVD”が話題を呼んでいる。その内容は、大川隆法総裁(60)が清水富美加(22)の所属事務所社長の守護霊を呼び出すという衝撃的なもの。本誌が独自のルートで入手した、その“仰天の中身”とは――。画面に映し出されるのは5人の男性たち。向かって右手に大川総裁と、左手に事務所社長の守護霊を降ろす“チャネラー”と呼ばれる役。2人の奥にインタビュアー役の3人が座っている。 全員で合掌し、チャネラーに事務所社長の守護霊を降霊させる。すると、先ほどまで大人しかったチャネラー男性の態度が一変。急に柄の悪い座り方になり、インタビュアーに悪態をつく。 「お前さぁ、(事務所に)どんだけ被害あるか知ってんの?クライアントからクレームの嵐だよ」 こうして呼び出された社長の守護霊は、序盤から“トンデモ発言”を連発。社長の守護霊は、なんと自分の前世が“吉原の女衒”だったと語り出す。 「(遊郭から逃げようとした女性は)当時は刀があったからバッサリ。病気にかかっても医者にはみせない。使い物にならないから」 ヒートアップした守護霊は、現在の騒動で抱えている怒りをどんどんぶちまけていく――。 「女ならスタジオでフラッシュ浴びて、雑誌に載るのが夢なんだから。それで死んでも自己責任。水着くらい当たり前だろ!それで仕事が嫌って言うなら干してやる」また、清水側は「人肉を食べる役をやらされるのが苦痛だった」と主張しているが、驚くべきことにこのDVDでは社長が人肉を食べるという“設定”なのだ。 守護霊が「肉が好き」だと言うやいなや、――人肉ステーキ?「レアがうまい。血が滴ってるほうが」――男性か女性どちら?「うまいのは女でしょ」 最後に大川総裁が、こう締めくくった。 「1人社長、独裁者。これから神仏の罰が落ちますから、覚悟してください」 闇には光を当てる必要がある、とみんなで合掌し、99分間におよぶDVDは終了。事務所社長本人がこの“霊言DVD”を見たら、一体何を思うのだろうか――。
2017年02月22日《この本も、またすぐ差し止められちゃうかもしれないんですけど、私の持ってる真実、消されたくないので改めて千眼美子として生きていく宣言。「全部。言っちゃうね。」明日、17日、発売》 Twitterにそうつづったのは、清水富美加(22)。幸福の科学への出家騒動から5日、告白本『全部、言っちゃうね。』を出版したのだ。その内容も過激だ。 《役づくりのために飛んでいる虫だって食べた》《悩みの種だった好きな人も忘れましたし、たばこもやめました》《水着の仕事って言ったって、おかずですよね》《「本当に社長のことを殺したい」って思ったりします(笑)なんて言っちゃったり》 さらには自殺未遂を繰り返してきたことも告白。 《16歳の誕生日の日、死のうとして、ガムテープを口と鼻に貼ったんです》《高校2年生の夏頃だったと思う(中略)「自分には何にもできない。もう死のう」ってなってしまって、暴れてカッターで部屋をぐちゃぐちゃにして、腕を切りつけて》 所属事務所は《代理人間で協議を続けているこのタイミングで清水富美加の書籍が出版されたことについては、誠に不可解であると言わざるを得ません》としながらもこう続ける。 《書籍には事実と異なる部分も多々含まれておりますが、弊社といたしましては、契約解除の問題に無関係な部分についての過熱報道が続くことは望んでおりませんので、問題の早期解決のため、書籍の内容についてのコメントは控えさせて頂きます》 教団側はこれまで所属事務所が“奴隷契約”で清水を苦しめてきたと糾弾。ファンからも批判が上がっていた。だがあまりのスピード出版に《早すぎる》《あざといね》など教団側の動きを計画的と指摘する声も浮上している。 著書の元になった清水へのインタビューは、医師立ち合いのもとで11日から複数回にわたって行われたという。幸福の科学の広報はスピード出版についてこう語る。 「幸福の科学ではこうしたスピード出版はめずらしいことではありません。過去には守護霊インタビューの翌日に発売した前例もあります」 初版部数や印税契約については明らかにしなかったが、AMAZONではベストセラー1位を獲得した。 「書籍の発売までには製作期間だけでなく印刷所や取次会社のスケジュール調整なども必要で、通常は最短でも1カ月かかるもの。これほど短期間での出版は、幸福の科学が誇る膨大な会員数と全国ネットワークがなせる業でしょう」(出版関係者) “力ある大人”の世界から逃げようとしたという清水。だが今回の事務所告発本発売は売り切れ店が続出するなど、さらなる巨額ビジネスの様相を呈してきている。
2017年02月22日幸福の科学への出家騒動から5日、2月17日に告白本『全部、言っちゃうね。』を出版した清水富美加(22)。力ある大人の世界”から逃げようとしていたという清水だが、さらなる巨額ビジネスの様相を呈してきている。 さらに、彼女を取り巻く「出家とお金」問題はこれだけではない。 著書で清水も《映画もぶっちぎって、PRもしないとなると、最低でも数億円は違約金の中に含まれてくるんじゃないかって報道でも言ってましたけど、レプロに要求されるお金はおそらく私に来ると思います》とつづっているが、巨額の違約金が発生する可能性があるのだ。その額は“最大10億円”とも言われている。 「彼女は4本の映画に出演予定で、うち3本は公開する方向で話が進みそうです。『泥棒役者』は降板が決定しましたが、これも撮り直し費用の負担で収まりそうだと聞いています。CMは違約金が発生するでしょう。1本は更新時期が迫っていたため、それほど問題は発生しないかもしれません。ただもう1本は残り期間のギャラを日割りで返還し、穴埋めにかかる費用も負担しなくてはなりません。ただ事務所が謝罪を続けたこともあり最悪の結果は避けられそう。合計1千万円程度に収まるのではないでしょうか」(芸能関係者) また今回の出家騒動で波紋を呼んだのが、清水の収入だ。幸福の科学サイドは「1カ月休みなく働いても月給5万円だった」と主張していたが、清水本人は著書の中で《2016年にようやく、月25万円いただけるようになりました。その年から、年収1千万円は確かにいただいていました》と明かしている。 しかし、事務所事情に詳しい別の芸能関係者は彼女の年収についてこう指摘する。 「清水さんは当初共同生活を送っていましたが、これはアパートではなくタワーマンション。家賃も月40万円はくだらないでしょう。セキュリティは万全ですし、寮母さんもいるため食費もタダ。エステ代や洋服など日常生活にかかる費用もすべて事務所が負担していました。そして実際には月25万円より多い額をもらっていたと聞いています。事務所は巨額のボーナスも支払っていたといいますし、年収にして1千500万円はあったようです」
2017年02月22日息子と2人で暮らすようになりまして、早いものでもう3年。そろそろ息子の未来のことばかりじゃなく、自分の将来のことも少し考えなきゃと思いはじめてはいるのですけど、こと恋愛に関してはちょっと億劫、臆病になっているのも事実なのです(笑)。 どうしてあんなに情熱的に生きることが出来たのかなぁ、と過去を振り返るたび、苦笑しています。自分が書いた昔の恋愛小説とか読みますと、きゃー、恥ずかしすぎる!『サヨナライツカ』なんか読み直すと、顔が真っ赤になります。気障なセリフとか性描写とか、どんな顔で私メは執筆していたのでしょうね。人生に酔ってたのかなぁ。 あ、いえ、別に急に老けたわけじゃないですし、もてないわけでもないとは思うのですけど(笑)。その、どうしても、恋愛に二の足を踏むわけです。年齢はそんなに関係ないとは思いますが、しかし、再び愛に向かって走る力が湧かないんですよね。いやだなぁ、こういう話をするのでさえこそばゆい。 でも、恋って力が必要なものです。不倫をして家族を捨てて愛に走る人がいいとは言いませんけど、しかし、そういうことをしたい衝動に駆られる人がいることは理解出来ます。いまだって、子供が気にするからあからさまにフランスマダムたちとは仲良くできないです。ま、少なくとも息子の前ではね。 でも、息子ももう中2ですから、ある意味、大人になりました。本人も初恋を経験中です。そろそろ私メもちょっとくらい恋心を復活させてもいいのかな、と思い始めたわけです。何もこんなところで宣言をすることでもないのですけど……。 やはり今後のために。長く生きていくのに一人じゃ寂しいですしね。息子が巣立った後、不意に一人になるわけでしょ?その年からの恋愛って、ちょっとハードル高いですものね?年上の女性とかいいかもしれないですね。何もかも悟りきった人とか、手も握ることのない交際なんて、ステキじゃないでしょうか?あれ?奥様、何を笑ってらっしゃるんですか?お相手は瀬戸内寂聴先生じゃありませんよ。 さて、今日は簡単で美味しいフランス料理を一緒に作りましょう。ノルマンディ風ポークステーキです。 材料2人分:豚のフィレ肉300g、りんご1と1/2個、生クリーム100g、バター20g、オリーブオイル少々、シードル100cc、片栗粉小さじ1/2、塩・こしょう適量。シードルはりんご酒です。日本のメーカーからも出ていますので、どこでも買えます。 2~3㎝程度、厚めにカットした豚フィレ肉をフライパンにバターを溶かし、少しオリーブオイルも加え、中火でじっくりと焼きます(火を入れすぎると硬くなるので注意です)。両面に塩・こしょうしながら、5?6分くらいでしょうか。こんがり美味しい焼き色がつくようにひっくり返し炒めたら、お皿に取り出しておきます。続いて、そのフライパンをそのまま使いまして、皮をむき6等分したりんごを10分ほど炒め、こんがり火が通ったらやはり取り出し、お肉の横に。さて、ボウルに生クリームを入れ、片栗粉とお塩をひとつまみ、泡だて器でかき混ぜます。固まってきたら、先のフライパンに入れ混ぜます。弱火です。そしてここで、シードルの登場です。どばどばっと入れて、さらに混ぜます。数分で濃厚なシードルクリームソースが出来上がりますよ。お皿にお肉とりんごを並べ、上からこのシードルソースをかけたら、はい、完成!!! これは美味しい幸せの味です。ノルマンディ地方の寒い場所で食べるとっても心あたたまるお母さんの味です。フランスのマモンたちの定番料理、ぜひ、日本のママさんたちも真似してみてください。一家の幸せはキッチンからです!! ボナペティ!
2017年02月21日カート・コバーンと娘のフランシス・ビーン・コバーン写真: Rex Features/AFLO 2月20日はニルヴァーナの故カート・コバーンの誕生日。一人娘のフランシス・ビーン・コバーンが、亡き父へ宛てた手書きのメッセージをSNSに投稿した。 「今日は50回目の誕生日になるはずだったね。あなたは愛され、恋しがられている。私に命の贈り物をありがとう。永遠にあなたの娘、フランシス・ビーン・コバーン」 カート・コバーンは1967年2月20日にワシントン州アバディーンで生まれた。1987年にニルヴァーナを結成、91年に先行シングル「Smells Like Teen Spirit」とアルバム「Nevermind」のヒットでオルタナティヴ・ロックの一大ムーブメントを巻き起こした。メジャーシーンを牽引していく立場となり、全世界の若者から熱狂的な支持を集める一方で、カートのドラッグとアルコールへの依存が加速。1994年の4月5日に27歳で命を絶った。 死の1カ月前、カートはドラッグとアルコールの過剰摂取で病院へ運ばれ、リハビリ施設に入所。退院のわずか数日後に頭をショットガンで打ち抜いた。発見されたとき、彼の手首には施設のリストバンドが巻かれたままだった。 その当時、フランシスはわずか2歳。遺書には、妻であるコートニー・ラヴに「フランシスを頼む。俺がいなくなれば、あの子の人生はずっとよくなる」とあった。
2017年02月21日〈私が死にたいと言い始めたのは7年くらい前、ちょうど芸能生活を始めて、水着のお仕事をするようになった15歳の頃でした〉17日に千眼美子名義で出版した『全部、言っちゃうね。本名・清水富美加、今日、出家しまする。』(幸福の科学出版)で、清水富美加(22)は衝撃の事実を明かした。水着の仕事に嫌気がさした彼女は〈16歳の誕生日の日、死のうとして、ガムテープを口と鼻に貼った〉(同書より、以下引用部分同)。 しかも自殺未遂は一度だけではない。 〈(高2の夏頃)「自分はなんにもできない。もう死のう」ってなってしまって、暴れてカッターで部屋をぐちゃぐちゃにして、腕を切りつけて〉 仕事関係者にとっても、ファンにとっても、あまりに唐突だった清水の出家。だが、〈幸福の科学の信仰は物心ついた時から〉だった。高校1年時に両親は離婚。自殺未遂があったのはこのころだ。離婚後は父と暮らしていたという。 「お父さんはIT系の会社を経営していました。あまり儲かっている様子はありませんでしたが、自宅に2m近い大きさの祭壇がありました。100万円のお布施をしないと得られないものだそうです」(清水の父の知人) 信仰心の強い父のほかに、清水に大きな影響を与えた男性がいる。相談相手だった幸福の科学のA氏だ。出家したいという思いを最初に打ち明けたのが彼だった。するとA氏は出家とはどういうものか清水に説明した。 〈それを聞いて、決意が固まりました。「それでもいいです。出家させてください。清水富美加として得たものはすべて、ここに捨てていきます。これからは、神のために生きたいです」〉 清水はA氏のすすめに従い、仕事を病欠する。その後の経緯はすでに報じられたとおりだ。このA氏とは何者か。幸福の科学の現役信者はこう語る。 「大川隆法総裁のご長男が代表を務める芸能事務所の、幹部だと聞いています。30代後半のイケメンで、既婚者。大川総裁の元秘書で、幸福の科学の芸能部門の責任者です」 幸福の科学広報局は、「Aさんは(清水の)知り合いの信者ですが、氏名は公表しておりません」との回答だった。夢を膨らませる清水をよそに。所属事務所のレプロエンタテインメントは、このタイミングでの出版は不可解、と不快感を示している。(週刊FLASH 2017年3月7日号)
2017年02月21日韓国の6人組人気男性アイドルグループ・U-KISSのメインボーカル、フンが“HOON(from U-KISS)”として2月15日にシングル『雪桜』をリリースし、ファン待望のソロデビューを果たした。U-KISSではこれまでにスヒョン、ケビンが日本でソロデビューをしており、フンはソロ企画第3弾。’11年3月にU-KISSに加入する前は、ソロ歌手として活動した経験を持っているフン。2月21日発売の『女性自身』では最新撮り下ろしを掲載中! K☆STAR LOVERSでは本誌に載せきれなかったインタビューをお届けします。 ――『雪桜』で改めてソロデビューをしましたが、ソロが決まったときの心境は? めっちゃ不安でした。U-KISSに加入する前にソロ歌手で活動したときは、色んなことがあって、大失敗だったんです。だから、もう一度ソロ活動をするのはすごく不安で、怖かったですね。でも、メンバーや周囲の人がたくさん応援してくれて、チャレンジしてみることにしました。 ――先にソロデビューしたスヒョンさんとケビンさんを見ながら、いつかは自分も……!とは思っていましたか? 思ってはいました(笑)。でも、3人目が僕だとは思っていなくて、きっと次はキソプさんやイライさんじゃないかなと想像していました。以前、ある番組の夢を発表するコーナーで、「ソロやりたいです」と書いたことがあるので、夢が叶ったということになりますね。ファンの皆さんがその時の画像を送ってくれて、少し恥ずかしいです(照)。 ――ソロに向けてメンバーから何かメッセージはありましたか? 日本で先にデビューしたスヒョンさんとケビンさんにアドバイスを求めたら、「フンはU-KISSに入る前にもソロやってたじゃん!」と逆にプレッシャーをかけられました(笑)。でも、僕が真剣に聞いたら、「ひとりでステージの上に立つときは、うまくトークをすることが大事だよ」と教えてくれました。U-KISSでいるときは、僕がいっぱい話しても次にほかのメンバーがトークを繋いでくれるけど、ソロでは僕だけで会場の空気を繋いでいかないといけない。U-KISSを見に来てくれるファンの方は、歌だけでなくトークも楽しみにしてくれているからMCが大切なんだとアドバイスしてくれました。 ――今回のソロシングルで表現したいことはなんですか? 僕には、切ないバラードを歌うイメージがあると思いますし、それが魅力だと思うので、ファンの皆さんに僕の一番の魅力を見せたいと思ってソロシングルを用意しました。写真のなかの表情や曲の内容、メロディーにもすごく気を遣ったので、たくさん聴いてほしいです。 ――『雪桜』のように、フンさん自身を漢字で表現するなら? まずは「強い」が合うと思います。これまで活動してきた自分を振り返ると、どんなことがあっても諦めないで、例えできなくてもチャレンジする性格なので。あとは、僕はファンの皆さんを「守る」という意味を込めて! ――’11年3月にU-KISSへ加入。大きなターニングポイントになったと思いますが、加入することになったきっかけは? ソロ歌手を辞めた後、俳優を目指して色々なオーディションを受けていた時、ドラマ『IRIS-アイリス-』にエキストラとして出ることになりました。その撮影現場で、今の事務所の社長と出会って「これからオーディションを受けてみないか?」と声をかけられたんです。当時は、歌手をきっぱり辞めて演技に専念しようと思っていたので、“俳優としてのオーディションかな”と思っていました。撮影が終わってすぐに社長と事務所に行ったら、練習室にU-KISSのメンバー全員がいて、“あれ、なんかおかしいぞ……これは俳優じゃないな”と(笑)。社長に「メンバーの前で一曲歌ってみて」と言われて、ソロ歌手のときにリリースした曲を披露しました。メンバーは僕が歌手だったのを知らなかったみたいで、「お、歌うまいじゃん」といった表情をしていましたね。でも、僕は踊ったことがないし、歌手も一度挫折して、深く傷ついていたので「やりたくないです」と断ったのですが、熱心に説得されて加入を決意しました。 ――オーディションでメンバーとはじめて会ったときの第一印象は? あんまりよくなかったですね(笑)。U-KISSが有名になってきた時期だったので、目の前にメンバーがいるのがすごく不思議でした。皆は“あいつ誰?”という感じで。ちょ~っと怖かったですね(笑)。今は、6年間一緒に活動してきて、みんな愉快で、優しい最高の仲間だと思います。 ――いざ、U-KISSのメンバーになってみて苦労したことは? やっぱりダンスです。加入して3カ月間くらいはずっとダンスの練習をしていました。当時は7人組だったので、6人の後ろに隠れるポジションで踊っていました。そのうち僕のパートが増えていくと前に立つ時間も増えていって(苦笑)。ダンスができない自分を見るのは嫌でしたが、それをバネに練習を重ねたら少しずつ踊れるようになりました。今はひとりでダンスを披露することもできるし、すごく楽になって幸せな気持ちです。 ――フンさんが加入して以降、どんどんU-KISSのダンスが激しくなっていった印象があったので、ダンスが苦手だとは思いませんでした。 自分自身では“自分のダンスがすごく変だな”、“何か違うな”と思っていましたよ(笑)。メンバーの皆が本当に全員でダンスを教えてくれて、僕が1回でも間違ったら、全員が指摘して教えてくれました。加入した僕をすごく気にしてくれて優しく接してくれたから、こうして踊れるようになったと思います。 ――’14年に末っ子のジュンさんが加入しました。途中から合流した仲間としてジュンさんをどう見ていますか? ジュンさんはすごいです。メンバーと打ち解けるのも早かったですね。僕は、途中から加入してすごくつらかったんです。ファンの皆さんに認められるのにも長い時間がかかりました。だから、ジュンさんが加入した頃は、2人でいるときにわざと厳しく接するようにしました。わざと、ジュンさんが傷つくくらいアドバイスをしたり。なぜかと言うと、同じ“加入メンバー”の僕から怒られることがジュンさんにとって一番切なくて、悲しいことだろうと思ったから。最初にそのつらさを知っていると、色々な困難があっても、折れない心を持ってくれるんじゃないかなって考えたんです。ジュンさんには負けないで活動してほしくて、わざと厳しく当たりました。今では、僕の気持ちを受けとめて頑張ってくれるジュンさんを認めているし、お互いに冗談を言える仲です(笑)。 ――ジュンさんには具体的にどんなアドバイスをしたのですか? ジュンさんは、最年長のスヒョンさんと8歳くらい年の差があって、すごく若いので、礼儀やマナーのことをよく教えました。あとはファンの皆さんは優しいから、ジュンさんを熱く歓迎してくれて、応援してくれるだろうけど、それを感じても調子に乗ってはいけないよ、と。まだデビューしたばかりだから謙虚な姿勢を忘れずに、努力してほしいとよく言いましたね。そのとおり、ジュンさんはステージの上でも礼儀正しいですし、マナーがいいとファンの皆さんに認めてもらっています。 ――フンさんはドラマ『キレイな男』、『我が家のはちみつの壺』や、ミュージカル『宮』などで演技を披露されていますが、フンさんにとって俳優業とは? 僕がやりたかった、叶えたかった夢ですね。最初、歌手でスタートして、俳優を目指して、そしてまたU-KISSで歌手になりました。U-KISSになってから改めて演技をしてみたら、やっぱり諦めたくない夢だな、と感じました。これからも機会があれば絶対に続けていきたいと思っています。歌手もずっとやりたいけど、年をとったら踊れなくなるでしょう?だから、その時は歌だけやりながら、演技をいっぱいしたいと思います(笑)。 ――実際、ドラマの撮影現場で学んだことはありますか? 演技が歌手活動にもいい影響を与えてくれます。僕が歌いながら一番大切にしているのは、歌詞の世界観を完璧に表現する表現力。演技ってメロディーがないから自分が持っている表現力で演じなければいけませんし、僕じゃない他の人の人生を経験することになります。その経験を歌にも込めたら、以前よりも表現しやすくなりました。 ――今度はグループについてお聞きします。U-KISSで母親的存在であるフンさんから見ていちばん手がかかるメンバーは? スヒョンさんです。韓国でスヒョンさんと3年くらい一緒に暮らしたことがあるんですけど、手がいっぱいかかりました(笑)。僕は一人暮らしをしていたのですが、スヒョンさんと一緒にいるのが楽しくて、「泊まっていきなよ」とスヒョンさんを家に泊めたのがきっかけで、徐々にその回数が増えていったんです。それで、ほとんど毎日スヒョンさんが家にいるようになりました。僕はスヒョンさんに「一緒に住もう」とは言ってないんですけど……(笑)。なんか自然にそのまま3年間暮らしました(笑)。スヒョンさんは掃除が苦手で、すぐ散らかしちゃう。あと疲れているとメークを落とさないで寝ちゃうんですよ。理解はするけど、肌に悪いから直してほしいですね。メークしたまま寝るのにスヒョンさんはU-KISSのなかでいちばん肌がきれいなんですよ。なぜだろう?(笑) ――ソロになったからこそ感じるグループの良さは? まだ日本語力が足りないので、MC中に突然、頭から言いたいことが飛んじゃう時があるんです。ファンの皆さんは僕の話を待っているのに、言葉を思い出せなくて……。そんなときメンバーがいると助けてくれるけど、ソロだと1人でやりきらないといけない。そんなときに寂しくなるし、メンバーが恋しくなります。連絡は毎日していて、メンバーからのメッセージがエネルギーになります。 ――メンバーがいない今だから伝えたい言葉は? 本当にそうかは分からないけど、僕を心から信頼してくれているのを感じるんです。僕が今回のプロモーションのために日本に行く前から、何も言っていなくてもメンバーが「そろそろフンのソロ活動が始まるから応援しよう!」と盛り上げてくれて、すごく幸せでした。いつか僕も、メンバーが何かをするときは役に立ちたいです。 ――では、最後に読者へメッセージをお願いします。 K☆STAR LOVERSの読者の皆さん、U-KISSとしてではなく、HOONとしてシングルを出すことになりました。めっちゃ緊張しますけど、僕自身の魅力をちゃんと伝えたいので全力で頑張っていきたいと思います。応援してください! 【インフォメーション】HOON(from U-KISS)ソロデビューシングル『雪桜』発売中!公式サイト:
2017年02月21日昨年12月30日、約2年間の軍服務を終え、早くもアジア8都市をめぐるコンサートツアーをスタートさせたJYJのキム・ジェジュン(31)。2月7日から3日間にわたって開催された横浜公演後に、兵役中から復帰ステージへかけた思いを聞かせてくれました。女性自身だけに語ったジェジュンの言葉を全文掲載します! ――アジアツアーの日本公演が始まりました。横浜アリーナ公演の感想を聞かせてください。 本当に久しぶりの日本でのライブでしたから、みんなに会えてとてもうれしかったし、楽しかったです。「戻ってきたぞ!」という感じでした。でも、正直、まだ変な感覚というか。軍隊から戻っても、まだこの生活に慣れてないんですね(笑)。 ――客席から、たくさん「おかえり!」って掛け声がありましたね。 ですねえ。大勢の人が「おかえり!」と言ってくださったときは、「ただいま!」って気持ちでした。 ――自分が戻ってくる場所はやっぱりここだと、いう気持ちになりましたか? はい、そうです。日本は僕の第二の母国でもありますから、早くみなさんのもとに戻りたいと願い続けていました。兵役中は、それがかなわなくて辛く感じることも少なくなかったので、みんなの顔を見たとき、「やっとこの場所に来られた!」と心から感謝しました。 ――MCのとき、「めちゃめちゃ緊張する!」と言ってましたね。 めっちゃ緊張しましたよ(笑)。最後まで緊張していたと思います。 ――心がまだ軍人だからですか? そうそう(笑)。まだ、軍人精神が残っているので。でも、仕事をやるほど慣れてきましたね。 ――除隊して1ヶ月にたちました。その間は、どのように過ごしていましたか? 12月30日に除隊して、翌日から仕事だったんです。いきなり生活が変わった戸惑いもありましたが、自分自身、必死に頑張ったと思いますし、自分のなかで、そういう忙しさを早く感じたいという思いもありました。オーストラリアでの雑誌のグラビアの撮影も楽しかったですし、これからは、自由にいろいろなことがやれるんだなという期待がふくらみました。たくさん素敵な写真を撮っていただいたので期待してください。 ――軍での生活を通して、自分自身、どのようなところが成長したと思いますか? いろいろな人と出会って、いろんな話を聞きました。これまで、自分のことは自分がいちばん理解していると思っていましたが、じつはそうでない部分もあって。さまざまな世界観を持つ人から直接話を聞いて、学ぶことって、とても勉強になるなあと思いました。幹部には僕より年上の人もいましたが、仲間はほとんどが年下で。若者たちが思っていることや考えていることを知ることができたのもよかったですね。若いときだからこそのいいやる気ってあるじゃないですか。彼らを見ていると、若いときにはあった純粋さや向上心が、今の自分には足りないと反省することもできました。軍隊でそれを取り戻したような気分です。 ――見た目も、内面も、変わらないような努力をしていたんですね。 年を取らないように努力しました(笑)。もちろん、内面の深い部分で成長したところはあると思います。でも、これから再活動する僕には、若いときの純粋さを戻して、ひたむきに頑張る姿をお見せすることを優先させたほうがいいのかな、と。 ――また、軍では、本をたくさん読んでいたそうですね。おもに、どんな内容の本をおもに読んでいたんですか? 自分自身をより一層高めて、成長させるような本です。1年9ヶ月のあいだに140冊は読みました。 ――ライブではひとりで19曲歌いました。久しぶりに歌うと何か違いましたか? 僕の曲って、全般的にキーが高いので、正直、大変なんです。バラードからポップス、R&B、そしてロックまでジャンルの幅も広いので、曲によって声の使い方が違います。喉への負担も大きい。そのうえ、トークコーナーでしゃべらなきゃいけないじゃないですか。トークが短いとみんな寂しがるし、僕もできる限りたくさん話したいし。じつは、3時間のライブのなかで一番喉が痛いのは、歌うときよりも話すときなんですよ。僕のコンサートは、ライブとファンミーティングの両方の楽しさを味わってほしいので、歌をしっかりと聴かせるのはもちろん、みなさんとの交流の時間も大切にしたいんです。 ――「ジェジュンさんだぞ!」とか、「しもしも」とか、日本の人気芸人さんのギャグも見せてくれましたね。 日本の友達が「やるとウケるよ」って教えてくれたんです。やっぱり、反応が良かったですね。 ――ライブの最後に『守ってあげる』をファンと合唱しました。心のキャッチボールはできましたか? 僕自身、歌っていてとても楽しいし、ファンのみなさんの歌を聴くのも好きですね。韓国語では「音がおいしい」と言うのかなあ。ステージで聴いていると、言葉にできないくらい気持ちいいんです。みんなが気持ちを込めて歌ってくれているというのもあるし、歌詞の意味がとてもいい。じつはこの歌、昔、15分くらいで歌詞を書きあげたんですよ。素直な気持ちを込めて書いたので、早く書けたのだと思いますが、歌う人、聴く人、互いの力になる歌です。今回の公演では、入隊前に歌ったときと全く違う気持ちで歌いましたし、みなさんの歌を聴いていました。 ――これから、しばらくソロで活動されていくことになると思いますが、アーティストとして、どのような姿を見せていきたいですか? 4月にはツアーが終わって、そのあとは、俳優としての姿も見せなきゃいけないと思っています。今、複数の作品のお話をいただいていて、いろいろ考えているところです。もちろん、アーティストとしても日本で活動ができるように頑張っていますが、なかなか難しいですね。――以前、コメディーも演ってみたいとお話されていたと思いますが、チャレンジしてみたいジャンルやキャラクターはありますか? 今まで演じてきたキャラクターは、重い感じのものが多かったので少しコメディーっぽいものもやってみたいですね。爽やかで、明るくて、優しいキャラクターとか。 ――1月26日に(日本の年齢で)31歳になりました。どんな30代にしたいですか? 今は自由の身ですから、何もかも、すべてできそうな気分なんです。いい作品にも出たいですし、また、時間があれば、新しいアルバムを作りたい。このツアーで歌っている楽曲も、軍隊にいる間に出したものじゃないですか。ライブでもみんなが「日本語のアルバムを出して」って言っていたので、ぜひ、かなえたいですね。 ――ライブでは、裸にジャケットを羽織って見事な胸筋を見せていましたが。 見事じゃないですよ(笑)。除隊してからまったく鍛えていなくて、軍隊時代に比べて、体重が14キロ減りました。今はほぼ2年前と変わらず、ただ痩せているだけで。軍人のときは、体重が80キロ近くまであって、その90%くらいは筋肉だったんですよ。鍛えていないので、筋肉が減って痩せてしまいました。 ――デビューして13年。これからの意気込みをお願いします。 とにかく、新人のような気持ちでこれからの30代も走っていきたいです!
2017年02月21日2月13日、東京・目黒区の碑文谷会館の葬儀会場には、悲しみに暮れるタモリ(71)の姿があった。トレードマークであるサングラスの奥に光るものをたたえながら、じっと無言で祭壇の前に立ち尽くす。その視線の先には、「タモリカップ」のロゴ入りの帽子をかぶった男性の笑顔の遺影が。金井尚史さん(享年56)。数多の人気番組に出演してきたタモリがもっとも信頼を寄せていたテレビマンが、この金井さんだった。 「タモリさんとは90年代にラジオ番組『タモリの週刊ダイナマイク』で仕事をしたのが親しくなったきっかけだったと聞いています」(芸能関係者) タモリと金井さんは、瞬く間に意気投合。2人の親密ぶりを、ニッポン放送関係者が明かす。 「金井さんは、相手の懐に入るのが早くてうまい。タモリさんと番組を始めたときもそう。タモリさんがヨットが好きだと聞くと、あっという間に1級船舶免許を取って周囲を驚かせた。以降、公私に渡って親しい付き合いを続けていました。毎年お正月はタモリさん宅で過ごしていましたし、『笑っていいとも!』が終わった直後のタモリ夫妻のヨーロッパ旅行にも、彼は同行していました」 タモリの夢の実現に一役買ったのも、金井さんだった。前出の芸能関係者は語る。 「タモリさんは昔から『ヨットレース=お金持ちのスポーツというイメージをなんとか払拭したい』と話してました。参加費を下げて、誰でも気軽に楽しめる、そんなヨットレースをやりたいというのがタモリさんの夢でした。ですが、いくら著名なタモリさんでも、ヨットレースを主催するのは難しいだろう、というのが大方の関係者の意見でした」 これまで、いくつもの難しい番組企画を成立させてきた金井さんは、その高い交渉能力、プロデューサーとしての手腕を、タモリのためにいかんなく発揮した。参加費を抑えるために、たくさんの企業に協賛を求めて回った。 「そうして09年、『日本一楽しいヨットレース』を謳い文句にスタートしたのが『タモリカップ』です。大会プロデューサーとして毎年開催を続けながら規模を拡大させて、昨年には237艇が参加する日本一のヨットレースにしたんです」(ヨット関係者) タモリカップをここまで大きく育ててきた2人。その絆はいつしか揺るぎないものとなっていた。しかしタモリにとってかけがえのない存在である金井さんに、病魔が襲い掛かる。15年5月、検診を受けた金井さんの体にがんが発見されたのだ。金井さんの友人が語る。 「肝臓がんでした。精密検査の結果から、医師は『余命3年』と告げたそうです。金井は人一倍明るい性格なので『まいったよ~』と笑顔で僕らには話してましたけど……」 医師からの余命宣告に、本人以上にショックを受けたのがタモリだった。 「彼の病状を聞いたタモリさんは、ひどく驚いていたようです。そして金井に向かって突然、『おれ、引退するから。ヨットで世界一周しよう』と言ったんです」(金井さんの友人) 複数のレギュラー番組を抱え、芸能界で不動の地位を築いたタモリ。だが、それらすべてを投げ捨ててまで、タモリは金井さんに生きるための希望を与えたかったのだ。しかし、金井さんの病状は予想以上に早く悪化していった。 1月末、家族以外面会謝絶だったがタモリだけは面会を認められた。やがて金井さんは意識を失う。ベッドサイドから見守っていたタモリはこんな提案を。タモリはジャズ好きなことで有名だが、金井さんもサックスが趣味だった。好きな音楽を聞いたらもしかして――。 「音は聞こえているかもしれない。耳元で音楽を流してあげたらいいんじゃないかな」 しかし今月9日、午前2時4分。タモリの願いもかなわず、金井さんはついに帰らぬ人となった。冒頭で紹介した葬儀会場でのこと。身じろぎもせずに金井さんの遺影を見つめ続けたタモリは、出棺直前、真っ先に棺に歩み寄った。 「タモリさんがとくに弔辞を述べることはありませんでした。でもこのとき、棺の中には2人が育てたタモリカップのパンフレットも収められていました。そのパンフレットに目を落としながら、タモリさんは故人の顔の横にそっと花を置いたんです」(前出・芸能関係者)
2017年02月21日2月17日、告白本『全部、言っちゃうね。』を出版した清水富美加(22)。幸福の科学への出家騒動から5日、初版部数や印税契約については明らかにしなかったが、AMAZONではベストセラー1位を獲得。“力ある大人”の世界から逃げようとしたという清水だが、今告発本は売り切れ店が続出するなど、さらなる巨額ビジネスの様相を呈してきている。 そして出家騒動に伴い浮上してきたのが、清水の両親の話だ。両親はともに幸福の科学信者だが、5年前に離婚。清水はネット関連会社を営む父に引き取られたという。だがその後、父は自己破産。5千万円ともいわれる父の借金を幸福の科学が肩代わりしたのではないかと伝えられたが、教団はこれを強く否定している。 その真相は――。 清水が離婚後に父親と住みはめた東京郊外にある実家は古い木造一軒家。記者は現場を訪れたが、人の気配はなかった。近隣住民はこう語る。 「5年ほど前に引っ越してきましたが、近所付き合いはありませんでした。娘さんがたまに顔を見せに来ていたのを覚えていますね」 父親が経営していた会社は、確かに破産していた。そして娘の告白本出版と同じ2月17日、東京地裁で債権者に向けた財産状況報告集会が行われていたのだ。 こうした報告会は、大きな待合室で流れ作業のように行われるのが通常だという。だがこの日、清水の父親の集会だけがわざわざ個室で開かれた。娘の騒動の余波をかなり警戒していたようで、現場では訪れた債権者からこんな怒号が飛ぶ一幕も。 「おいっ!どこに委任状が必要なんて書いてあるんだよ。いつもは普通に入れるだろう。失礼だろうが!」 どうやら父の借金トラブルは今も続いていたようだ。 結局、報告会はものの数分で終了。債権者たちがエレベーターに乗り込もうとしたそのとき、足早に移動する60代と思しき男性が。ガッチリとした体格でベージュのチェック柄のスーツ姿の彼こそ、清水の父親だった。父は弁護士と職員4人に囲まれながら職員専用ドアへ。そして記者が質問する隙も与えず、中へと入っていった。 出家騒動の陰で次々と浮上するお金の問題。その波から清水はまだ逃れられそうもない。
2017年02月21日「田中さんが、娘さんと一緒に歩いている姿をよく見かけます。どんなにお仕事が忙しくても娘さんの送り迎えを欠かさない育児熱心なパパで、近所では有名ですよ」(近所に住む主婦) 2月中旬の、この季節には珍しく春めいた日。都内のとある一軒家から、高級外車が出てきた。運転しているのはフジテレビアナウンサーの田中大貴(36)。助手席には、昨年4月から都内の名門私立小学校に通う長女の姿が。 「学校へ行く前、たまに娘さんを連れて早朝ドライブを楽しんでいるみたいです」 早朝ドライブから自宅に戻り、今度は長女と手をつないで家から出て来た田中。そして長女を小学校へ送り届けた後、そのまま仕事へ。 近所では“イクメン”として評判だというが、いまだかつて彼の私生活はほとんど報じられたことがない。 「田中アナに、小学生の子供がいたんですか!彼はプライベートなことを一切しゃべらないので知りませんでした」(スポーツ紙記者) 田中といえば、ニュース番組『ユアタイム』で活躍中。『とくダネ!』時代から主婦を中心に人気のイケメンアナだ。 「もともと彼は慶応野球部で、ホームラン王を獲ったこともあるスポーツマンです。慶応の先輩である巨人の高橋由伸監督(41)とは特に仲が良く、その関係で選手たちとの飲み会にも参加するほど。そんな人柄が愛され、彼ならばとインタビューに応じる大物野球選手たちも多いのだとか」(芸能リポーターの城下尊之氏) 彼がキャスターを務める『ユアタイム』は、放送終了が午前1時を回ることも。 「深夜に帰宅された翌朝も、早くから娘さんとジョギングされていました。睡眠時間を削ってでも、娘さんとの時間を大切にされているのでしょう」(前出・近所の主婦) 09年、彼は1歳年上の一般女性(37)と結婚している。 「奥さんは、かつて読者モデルをしていたこともあり、とっても綺麗な女性。結婚前から料理教室に通い、多忙な夫に尽くしているそうです」(前出・城下リポーター) 絵に描いたような幸せな家庭があるにもかかわらず、なぜ彼は妻子の存在を“ひた隠し”ているのか。 「じつは、田中さんよりも奥さんのほうが公表したがらないんだそうです。というのも、女性だけでなく、男性アナウンサーもいまや人気商売。『自分がしゃしゃり出て、夫の人気を落としてはいけない』という思いが、奥さんにはあるのではないでしょうか。結婚後、奥さんがスタジオ見学にいらしたことがありました。笑顔でスタッフに挨拶し、一歩下がったところが印象的でしたね」(テレビ局関係者) 糟糠妻に支えられ、公私ともに順風満帆な田中。彼の“知られざる素顔”は、幸せで満ち溢れていた――。
2017年02月21日「ピース綾部祐二が単身渡米しハリウッド俳優を目指す」 どこから突っ込んでいいのかわからない見出しに多くの人が戸惑い、「馬鹿じゃねーの?」と思ったことでしょう。ピースの作家じゃないほう、綾部祐二さん(39)が渡米宣言してから数カ月。状況は思わしくないようで、「大統領選などの影響でビザが下りない」と愚痴をこぼし「話題作りだ」と批判を浴びています。 このニュースを聞いたとき「この人、俳優だっけ?」と思った人は多いことでしょう。実際彼のプロフィールとしては“熟女好き芸人”“元祖イケメン芸人”というイメージの後、やっと“俳優”にたどり着けるくらいです。 芸人から俳優まで幅広く活躍する人として、藤井隆さん(44)やココリコの田中直樹さん(45)などがいらっしゃいます。ただ彼らと比べると、綾部さんは芸人感が強い。だからこそ彼の単身渡米、それも俳優としてのチャレンジには“日本一有名な文学賞をとった相方への焦り”しか感じないのかもしれません。 しかし私たちは彼の無謀なチャレンジを笑い、馬鹿にする資格はありません。なぜなら綾部さんが感じる焦りや不安は多くの男性が経験するもので、その決断は諦めてしまうものだからです。 かの有名な作家、村上春樹さんは「30歳成人説」を唱えています。30歳成人説とは「人生で本当にやりたいことは簡単に見つからない。だから20代はいろいろ経験し、30歳以降に人生の進路を決めればいい」というものです。 そうして30歳からやりたいことを見つけられたとして、次にぶつかるのが40歳前後で訪れる「ミッドライフ・クライシス」という“中年の危機”です。簡単にいうと、老いを前にして人生の後悔や迷いが生まれるということ。このころ、キャリアや男としての能力に自信をなくす男性が実は多いようです。 綾部さんは現在、39歳です。芸人としてブレークしたのが2010年で、30歳くらいでやりたいことを発見。そして今、まさに中年危機の真っただなかというわけです。そんな世代にさしかかり多くの人が諦めてしまうなか、彼はアメリカ行きを決断し飛び立とうとしている。無謀とはいえ、私たちは本当にこれを「馬鹿」と笑ってしまってもいいのでしょうか? ちなみに世界的経済誌「Forbes」によると、世界的企業トップのもっとも一般的な起業年齢は30代後半~40歳ごろだといいます。HONDAの本田宗一郎氏の起業は39歳。KFCのカーネル・サンダースさんの飲食業進出は40歳など、中年危機から一念発起して成功した人も少なくないのです。30歳成人説を唱えた村上春樹氏だって30代後半からヨーロッパを転々とする生活スタイルに変え、大ヒット小説『ノルウェイの森』を発表しています。 綾部さんがアメリカで成功するかはわかりません。「英語くらい勉強して行けよ」と思うものの、焦る気持ちと向き合うためまず飛び立つという決断には大きくエールを送りたいものです。ただし「ハリウッド熟女もゲットします!」くらいの笑いは欲しかったけど……。 新生・綾部祐二のレッドカーペット姿が見られるのか、今から楽しみでなりません。
2017年02月21日第113飯「タルティフレット」■材料じゃがいも中4個(400g)玉ねぎ小1個(250g)ベーコン100g(塊から7~8mmの棒状に切ったもの)バター10g白ワイン大さじ1塩胡椒ピザ用ミックスチーズ150g※サヴォワ地方の郷土料理タルティフィレットは、実際にはロブロションチーズを使用します。 ■作り方①じゃがいもを5mmの半月に切り、柔らかくなるまで水から茹でる。 ②スライスした玉ねぎをしんなりするまでバターで炒める。 ③②に切ったベーコンを加え炒め、白ワインを入れて塩、胡椒をする。 ④グラタン皿にじゃがいもの半量、玉ねぎとベーコンの半量とチーズの半量を重ね、残りも同じように重ねる。 ⑤200度のオーブンで20~30分こんがりと焦げ目が付くまで焼く。
2017年02月21日歌舞伎俳優の市川海老蔵(39)が20日、自身のブログを更新し、妻で乳がん闘病中のフリーアナウンサー・小林麻央(34)を含む家族4人で外食に出かけることを明かし、喜びを綴った。 『すごく嬉しい』というタイトルで投稿された記事では、「ブランコで遊んで腹減ったから飯カネどこいこかな、、みんなで話してます」と公園で遊んでいる写真をアップ。 つづけて「そして、今日はなんと、なんと!4人なの」とグレーのコートを羽織り、子供たちと歩いている麻央の写真を公開し、「なみだ」と感激を表した。 同日、麻央もブログを更新しており、「私にも女子な心が眠っていたようです笑」とイヤリングをつけて微笑んでいる自撮りをアップしていた。 ブログの読者からは「家族でお出かけ、最高ですね」「私も嬉しくなりました」「幸せのおすそ分けありがとう!」と応援するコメントが寄せられている。
2017年02月20日「’01年に発覚した薬物事件では、全校生徒約560人中79人が大麻などに手を染めていたことがわかり、翌年の入学志願者は激減しました。それから再発防止のためにわれわれ教師ががんばってきましたが、生徒の数は減少を続け、赤字は1億円を超えるまでに。そして理事会は、この4月に『70人以上』の入学者がいなければ’19年度いっぱいで“廃校”にすることを決定しました。2月10日現在で志願者は62人。もう後がない……」 困り果てた表情で話すのは、北海道・北星学園余市高等学校の安河内敏校長(51)。北星余市と言えば、TBSドラマ『ヤンキー母校に帰る』(’03年)の舞台となった高校。竹野内豊が演じた主人公のモデルは「ヤンキー先生」こと義家弘介氏(45)、現在の文部科学副大臣である。 北星余市は’65年に開校、’88年より全国の高校中退者を受け入れる転・編入制度を実施して注目された“名門”だが、まさか存続の危機とは―。本誌はさっそく、10代の少年少女の心理に詳しい精神科医で立教大学教授の香山リカさん(56)と現地に飛んだ。 校舎で香山さんの到着を「いまかいまか」と待っていた安河内校長が、北星余市への思いをアピールする。 「かつては生徒会長までボンタン(太い学生ズボン)をはいていたぐらいですから、完全に“ヤンキーの高校”というイメージが強かったと思います。しかし最近は、アスペルガー症候群やADHD、学習障害などさまざまな発達障害のある生徒を受け入れています。ひきこもりや不登校、いじめられた経験などで心に傷を負っている子もいる。別の高校を中退していたりして年齢もバラバラ……。そんな多様な生徒たちが同じ教室で過ごすことになります」 香山さんが「それほど多様な生徒を受け入れるには、専門の心理カウンセラーなどが必要では?」と質問すると、「お願いしていません。外部からカウンセラーなどを呼ぶと、任せっきりになってしまうので、全18人の教員がチームとして、責任を持って生徒たちをケアしています」 同校に赴任して12年になる本間涼子先生(36)が話す。 「ここの生徒は、私たち教師に“タメ口”で話していいことになっています。私のニックネームはだいたい“ホンマちゃん”ですね。それでいて、卒業して大学生や社会人になってから会いにくると、『本間先生、お元気ですか?』などと、しおらしく敬語になっていたりする。なんか距離を置かれているみたいで、逆にこっちが寂しくもあり、順調に成長しているなとうれしくもあり……」 北星余市は約6割が道外出身者で、全校生徒の8割近くが寮で下宿生活を送っている。教室で、下宿先で見守る大人たち―。しかし、生徒たちは、北星余市での生活で何か変わったのだろうか。香山さんが生徒たちに話を聞いた。 「ここに来るまでは、大人って“きたない”と思っていた。でも、やっさん(校長)、トオル(田中亨教頭)、平野(平野純生先生、来年度より校長)とかといるうちに、だんだん信用できるようになった」(3年生の渡邊佳緒里さん・19) 「前の高校で友達関係や部活でうまくいかず、ひきこもっていたけど、親にも迷惑かけたので、このままじゃダメだと。ここを選んだのは、『一人でやっていける』ところを親に見せたいと思ったから。最初は不安もありましたが、いまは楽しいですね。下宿では、ときどき寮母さんが私の悩みを聞いてくれるし」(2年生の熊崎千紗さん・17) 最初は表情が硬かった生徒たちも、香山さんと話すうち、笑顔も見られるようになり、香山さんとスマホ撮影したり、アドレス交換したりしていた。先生たちが“タメ口”を許すのも、生徒と同じ目線だよという大人の意思を示すためなのかもしれない。 香山さんが、帰路の車内でこう話す。 「校長先生が言う『自分たちだけで責任を持って管理する』というシステムは、昨今の学校が外部からカウンセラーを呼び寄せたりする流れとは真逆のもの。先生にものすごく負担がかかるのが心配です。でもたぶん、子どもを育てるって、こういう非効率的なことかもしれない。先生や下宿のお母さんの“おせっかい”があって、何十人の子どもがようやく、自立できるようになる。利便性が重視され、システム化されてしまった時代に、北星余市の存在意義は必ずあると思う」 果たして4月、北星余市は、70人以上の新入生を無事に迎えることができているのだろうか―。
2017年02月20日’13年の動物愛護管理法の改正で、飼い主がペットを最後まで責任をもって飼う「終生飼養」が義務づけられた。現在、60~70代のおよそ3割がペットを飼っている。このうち犬の場合、飼い犬の約4分の1が10歳以上の「高齢犬」という内閣府のデータもある。 つまり高齢者夫婦が老犬、老猫を世話する、いわゆる「老・老・老介護」が新たな社会問題となりつつあるのだ。当然、飼い主の急な入院や認知症などが原因で、行き場をなくすペットも増加。東京都動物愛護相談センターでは、保護される犬や猫の4割が飼い主の死亡や入院が原因だという。 今後、こうしたケースは増え続けるだろうが、飼い主に「もしも」のことがあって、誰かに世話を託したり、老犬ホームに預けるとき、スムーズな引き継ぎを実現させたいのであれば、ペットのプロフィールや生活スタイルを記したものがあれば望ましい。 延命措置や葬儀、相続などについて、自分の希望を書き留めておく「終活ノート」は人々の間で徐々に浸透しつつある。そこで、老犬を預かる施設「老犬本舗」(板橋区)代表の川口美恵さんのアドバイスをもとに、ペットのための「終活ノート」の書き方を紹介。 まず、これがペットに対する自身の考えだということを明確にするため、ノートの上段に「私が、高齢になって介護施設に入ったり、急な入院などで、ペットを誰かに預けたり施設に託すときには、このノートを参考にしてください」と明記する。そして、順に次の項目を書いて行く。 【プロフィール】名前、年齢、性別、種類、ベスト体重など。 【ヒストリー】血統書、写真、首輪など飼育備品の保管場所。 【医療情報】避妊、去勢手術、予防接種、既往症、アレルギー、今かかっている病気。ペット保険の有無。 【ライフ】食事、散歩、好き嫌いなど。 【遺す言葉】飼い主の私に万が一のことがあったとき。 そして最後に、必ず書いた年月日と署名を。さらに、自分が先に亡くなった場合の世話や“相続”についても記しておけば万全だ。 「実際、ウチを訪れるときにペットの基本情報をメモ書きにして、渡してくれる飼い主さんが増えています。たとえば、ほかの犬が苦手な子もいます。その情報があれば、ウチのような施設で預かったとき、なるべく散歩を1匹だけですることも検討できます。アレルギーの原因がわかっていれば、その食べ物は避けられます。特に重要なのが、既往症などの病歴です。犬も猫もそうですが、人間同様、高齢になると、次々に病気をするものですから。これらの記述があったおかげで、お預かりしたあとのケアプランを、うちの担当医とスムーズに立てることができました」(川口さん)
2017年02月20日「読むと心が軽くなる」「蛭子さんなのに、またいい話してる」「安定の競艇オチ」……とネット上で話題を呼び、たちまち4刷というヒットとなった単行本『蛭子能収のゆるゆる人生相談』(光文社・630円+税)。その好調な売れ行きに、「え、あの本が?信じられない……」と驚く蛭子能収(69)が、本誌読者からの相談に答える! 【Q】「飲料メーカーの営業マンです。お得意先の酒屋さんから、突然、担当者を代えてくれと……。トラブルもなく良好な関係を続けていたのに……。モヤモヤした気分が消えません」(ドナルド 花札さん・32・会社員・京都府) 【A】「うまくいかなかった理由は、わからないままでいい」(蛭子能収) 働いていれば、理不尽なことはいっぱいあります。それをいちいち落ち込んでいたら大変。たぶんアナタは何かやらかしたんでしょう。反省も必要ですが、悩みすぎないほうがいいですよ。次から頑張ればいいだけです。 オレは、松本人志さんの『ワイドナショー』に出演したことがあります。松本さんは『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』を楽しみにしてくれたり、番組で人生相談の本を取り上げてくれたりと、どこかオレに期待して、声をかけてくれたんだと思います。でも、その後、まったくお呼びがかかりません。たぶん、オレが競艇やパチンコの話しかしなかったからでしょう。収録後、松本さんも「ギャンブルのことだけやな~」と笑っていましたから。 確かに、日曜の朝の番組でギャンブルのことばかりはまずかったかなと反省しましたが、何かを直そうとか、それ以上追究して考えたりはしません。正しい答えなんて、ずっと探し求めてもだいたいわからないまま。知らないほうがいいことだってありますしね。
2017年02月20日「今週の勝負」は、本誌編集者・めた坊(41歳独身。食いしん坊生活が続き、身長170センチで体重はかろうじて0.1トンを切るメタボ体形に成長)が10万円からスタートした元手に、毎週株にチャレンジ。毎週の収支を掲載し、儲けを積み立てて、めた坊が厳選した相当額のグルメ便を読者にプレゼントする企画だ。 今週も頑張って、目標額の5,000円を目指す! 東京五輪に向けて、都内の土地やマンションの価格が上昇しているというニュースをよく見るようになった。一軒家やマンションは購入するには何千万円も必要だけれど、不動産関連の株なら買えるかも!? ということで早速、ネットで検索したものの、名前を聞いたことがある有名企業の株は10万円では手が届かない……。さらに調べて見つけたのがマンション開発などを手がける「明和地所」。「クリオマンションシリーズ」というブランドで事業を展開しているそう。 株価は730円前後で100株から購入できる。株価は昨年11月から100円も値上がりしているので、この流れに乗りたいという願いを込めて、733円で100株、7万3,300円分を購入。しばらく様子を見ていたんだけど、あまり値動きはなくて……。729円になったところで、泣く泣く売却、400円のマイナスにとどめて終了した。 なかなかプラスで終われないことが続き、積立額が増えていかない……。来週も相場が上り調子であることを祈りつつ新しい銘柄を探して、なんとしてもプラスを確保したい! 【今週の収支報告】買:73,300円/売:72,900円/収支:-400円/積:3,700円 【めた坊チェック】その後、株価をチェックしてみると720円を割り込むほどに下落。729円で売却したので、傷口は広がらずに済んだのがせめてもの救いだった。
2017年02月20日「日本では、ほとんどの賞味期限が実際の期限より2割以上短く設定されています。そのため、まだ十分食べられるにもかかわらず、たくさんの食品が捨てられているんです。食品ロス問題に積極的に取り組む京都市の試算によると、1世帯4人の家庭の場合、年間6万円相当の食品が廃棄されているそうです」 そう語るのは、栄養学の博士で食品ロス問題の専門家でもある井出留美さん。そもそも「賞味期限」、そして「消費期限」の定義とは? 「賞味期限とは、おいしく食べられる期限のこと。この期限をすぎたからといって、急に品質が下がって食べられなくなるわけではありません。これに対し、日持ちのしないお弁当やお総菜などに表示されている『消費期限』は、食べても安全な期限を意味します。表示の日にちを過ぎると急激に品質が悪くなるので、必ず期限内に食べましょう」 企業は安全のため、通常の保存状態で日持ちする日数に「安全係数」という数字を掛けて算出した賞味期限を表示している。その値の設定は企業の判断に任せているが、消費者庁が推奨する目安は0.8以上1未満だ。安全係数が0.8の場合、井出さんが冒頭で触れたように、賞味期限は2割ほど早まる計算になる。たとえば、18カ月日持ちするものでも、14カ月に設定され、賞味期限は4カ月も前倒しになるのだ。 「安全係数はあくまで目安。それを基に決められた賞味期限も1つの目安であり、絶対的な期限ではありません。表示されている保管方法を守れば、賞味期限を過ぎた食品でも、おいしく食べられる場合があります」 そこで井出さんに、どの家庭にもある食品の“リアル賞味期限”を教えてもらった。 【卵】表示してある賞味期限+約1カ月半(冬季) 「日本では、卵の賞味期限は夏場に生で食べることを前提に、1年を通して排卵日から2週間と設定されています。しかし本当は、冬場なら気温10度以下で保存すれば、排卵から57日間は生で食べられます。夏なら排卵から16日、春と秋は25日までOKです。ただし、これは冷蔵販売されている卵の場合」 【納豆】表示してある賞味期限+2~3日 「ある発酵食品メーカーの社員の話では、賞味期限の切れたころが熟成して、いちばんおいしくなるそうです。安全係数で短くなっていることを考えれば、賞味期限後、2~3日はおいしく食べられるといえます」 【レトルトカレー】表示してある賞味期限+約3カ月 「カレーやパスタソースなどのレトルト食品の賞味期限は、製造日から1?3年。もっとも短い1年のものだとしても、賞味期限が切れてから約3カ月は持ちます」 【缶詰】表示してある賞味期限+約9カ月 「塩分が高く味の濃いものや、砂糖のシロップ漬けのものなどは、賞味期限を12年過ぎても食べられるという実験結果もあります」 【はちみつ】表示してある賞味期限+約6カ月 「はちみつは糖度が高くて水分が少ない、腐りにくい食品です。賞味期限を過ぎても、常温保存で6カ月は食べられます。ただ、農家で直接販売されているような密封処理がされていないものは、開封前に品質劣化することも」【梅干し】表示してある賞味期限+約2年 「塩分の高い梅干しも日持ちする食品。塩だけで漬けられた『白干し梅干し』は、表示の賞味期限が切れても約2年は食べられます。ただし、減塩されているものはそこまで日持ちしないので、賞味期限を守って食べましょう」【茶葉】表示してある賞味期限+約1年半~2年半 「市販の茶葉の賞味期限は製造日から約6カ月ですが、茶葉販売店の人から『本来2~3年は飲める』と聞きました」 食品を無駄にしなければ、同時に家計の負担も減る。昔のように五感を使い、食品も家計も無駄を減らそう!
2017年02月20日どちらかといえば地味なイメージの佐賀県のキャッチフレーズは「佐賀を探そう」……(苦笑)。県民ですら「どこを探してもなかばい!」となかなか思い出してもらえない佐賀県の代表的な名物といえば有田町で焼かれる磁器“有田焼”。その歴史は400年にも及び、日本でもっとも古い磁器といわれる。そして日本国内はもとより、後に海外にマイセンなどの名窯を生む礎となる。 伝統的な有田焼といえば、透明感のある白磁に藍色の染付、赤、黄、緑などの色絵を施したものが多いが、昨年発表された「2016/」では斬新な形や色使いにあふれる!「日本にとどまらず、世界中の人の日常に寄り添う新スタンダード」がコンセプト。有田焼窯元・商社16社と、世界で活躍する16組のデザイナーにより、約2年半の開発期間を経て生み出された“新しい有田焼”の未来が楽しみ!! そんな有田焼同様、佐賀県民が愛するアイスが「ブラックモンブラン」。アルプス山脈の最高峰モンブランを目の前に「この真っ白い山にチョコレートをかけて食べたらさぞおいしいだろう」との思いをその名に込められたアイス。佐賀県のみならず、九州のソウルアイスとして50年近く愛され中!「あまり知られとらんだけで、佐賀にはがばいよかとこがい~っぱいあると!」。
2017年02月20日その霊能力のために、楽屋では霊視を求める先輩芸人たちが行列をつくることもあるという、よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属の“霊がよく見える”ピン芸人・シークエンスはやとも(25)。『ポップな心霊論』は、彼が人生で見てきた霊たちや霊現象などを紹介していくコラム連載! 【フレンチブルドッグの幽霊犬、飼ってます】 去年の春に、両親と住んでいた自宅が火事にあいまして。そこで、愛犬を亡くしてしまいました。フレンチブルドッグで、名前はラガー。7歳半でした。 火事で住む家がなくなって、1週間ほど車で寝泊まりして転々としていたのですが、新たに部屋を見つけて、親子3人で腰を落ち着けて新生活を始めたころ。ある日突然、新居にラガーの姿が現れました。幽霊になりながらも、僕たち家族のことを捜し出したのかもしれません。 それ以来、今でも一緒に暮らしています。“幽霊の犬”を飼っているってことになりますね。親父も霊が見えるので、僕と親父で「ラガー、ただいま〜」って話しかけたりして。母は見えないので、ふ〜んいるのね、って顔してますが。 いてくれるのはうれしいんですが、触れることができないので、ちょっと切なくもあります。 動物霊についてよく聞かれますが、俺の印象では、そんなに多くはありません。たとえば、家畜として飼われていた牛、豚、鶏などの霊は見たことがないですし、猫の霊もあまり見ません。これはたぶん、自分が死ぬときにこの世に思い入れがないからなんじゃないかなって思っています。 動物の中でも人間への忠誠心の強い犬は、死んでからも飼い主を心配してしまうため、霊になることがあるのかもしれませんね。
2017年02月20日話題のスポットやニューオープンのお店を、本誌編集者・めた坊(41歳独身。食いしん坊生活が続き、身長170センチで体重はかろうじて0.1トンを切るメタボ体形に成長)が覆面取材。“勝手に対決”させるこの企画。今回は、今冬ニューオープンの「スイーツ」対決だ! ■東京・表参道「ブボバルセロナ」 最初に向かったのは、表参道にオープンしたスペイン発のデザイナーズパティスリー「ブボバルセロナ」。バターの代わりにスペイン産の新鮮なオリーブオイルを使用しているのが特徴で、店内は、テークアウト、イートインスペースがある。 今回、テークアウトしたのは人気ナンバーワンケーキの「シャビーナ」(800円)。パティシエの世界大会で世界一のチョコレートケーキを受賞した逸品だ。つやつやに輝くチョコの表面にフォークを入れると軟らかいチョコムース、そして底にはシナモンが効いたさっくりとした生地が現れる。チョコの濃厚さにうっとり。 そして日本限定の「サハラ」(692円)はキャラメルバナナとゆずムースという組み合わせで、甘さの中の酸味がとても爽やか!食べて癒され幸せな気分になれるヒーリングスイーツ。めた坊、大プッシュのケーキ。広い店内には、マカロン(5個入り、1,620円)やスペイン本国で人気ナンバーワンのシリーズの「チョコフルーツ」(2,592円)などもあるので、吟味してお気に入りを見つけてほしい! ■東京・原宿「エニウェアドア」 次は裏原宿にある「エニウェアドア」へ。こちらではコーンショットと呼ばれる容器ごと食べられるハイブリッドスイーツがある。チョコクランチやホワイトチョコ、カカオと、約13種からコーンショットが選べ、次に中へ入れるドリンクを選択する、という流れ。ドリンクは、エスプレッソ、抹茶ラテやココアまで、苦さ甘さを自分好みにカスタマイズできる。 めた坊は、スタンダードなチョコクランチのコーンショットに、ビターなエスプレッソを入れてもらった(677円)。コーンショットをかじってはエスプレッソを飲み、かじっては飲み、と、まさにユニークな新感覚を体験。コーンショットの底にはチョコレートがたっぷりつまっていて大満足だった! 【めた坊ジャッジ】「サハラ」の感動とチョコとエスプレッソの新感覚は甲乙つけがたし!今回は両者引き分けだ!
2017年02月20日2月8日放送の『モシモノふたり』(フジテレビ系)で、お笑い芸人の横澤夏子(26)とオリエンタルラジオの藤森慎吾(33)が1泊2日の同棲生活を行った。その際の”あるやりとり”が論争となっている。 プライベートでも恋愛相談をする仲だという2人。横澤は藤森が同居相手だということが分かると安堵の表情で、「えー!嬉しいよー」とご機嫌な様子。また横澤が朝食を用意すると、藤森もご満悦。部屋にはダブルベッドが1つ、自然となんだか良い雰囲気に――。 しかし藤森が着替えないままベッドに横になると、横澤の表情が一変。「えっ!その服、パジャマですか?」と彼女が問い詰め始めたのだ。 藤森は「いや、パジャマではないけど……。寝るときはちゃんとあるよ、着るやつが」とおどおど。さらに横澤が「これ外行ってたやつですか?」と突っ込むと、「出た、(こういうこと言う人)いる!(笑)」と嫌な顔に。それでも「外の服を、外の菌を、私はこれ(外着)で絶対に座らない」と激怒する横澤に、藤森は困惑していた。 このVTRを見たりゅうちぇる(21)は「僕でも、どんなに疲れていても(ベッドには服を脱いで)全裸でいく」と横澤の意見に同調。全裸で寝るという意見に「えー!!!」という驚きの声もあがり、スタジオでも賛否が分かれるかたちになった。 交際相手と同棲して1年の20代女性はこう語る。 「ベッドに入るときはお風呂に入ってパジャマに着替えてからじゃないと汚い、と育てられてきました。だから、彼氏が酔っぱらって帰ってきてそのままベッドに横になると叫んでしまいます。折衷案で、『お風呂はいいからとりあえず部屋着に着替える』をルールにしました。それでも本当は嫌なんですけどね……」 いっぽう別の20代女性はこう語る。 「潔癖すぎません?汚れたら洗えばいいだけ。逆に全裸で寝られるほうが嫌ですね(笑)」 “外着のままベッド”は汚い?汚くない?いずれにせよ、同棲前にすり合わせが必要かも。
2017年02月20日連続テレビ小説『べっぴんさん』の第20週は、昭和37年6月。すみれ(芳根京子)の娘・さくら(井頭愛海)と、君枝(土村芳)の息子・健太郎は高校3年生に。それぞれ東京の美術大学と京都大学を目指して勉強に励んでいた。もう一人の幼なじみ・龍一(森永悠希)は、一足先に大学生となり、学生運動に参加しながら自分の将来を模索していた。 「ノンポリのお嬢ちゃんおぼっちゃんしかおらへんのや。俺が一人で反体制を叫んでも誰もついてけえへんし。ほんま、つまらんとこに入ってしもたなあ」と愚痴をこぼす龍一。「反体生」と書かれたヘルメットをかぶってキアリスに現れたかと思えば、ギターを持ち出し弾き語りすることも。「♪オレの人生~この先~不安を言葉にできない恐怖~♪」。龍一の歌に驚く中西(森優作)たちに、あきれ顔の良子(百田夏菜子)。 一方、この先の人生に不安を感じているのは若者だけではなく、すみれの家で長年働いてきた女中の喜代(宮田圭子)も同じだった。棚に飾られたすみれたちの家族写真をみながら、「さくらお嬢様がこの家をお出になったら、私はどないしたら……」とつぶやく喜代。すみれの父・五十八(生瀬勝久)やはな(菅野美穂)はゆりとすみれと会社を残し、それは未来につながる。「私は何を残してきたんやろ」と表情を曇らせる。 そんなある日、すみれとさくらは、忠一郎(曽我廼家文童)と喜代が、「二人で旅に出よう」と話しこむのを耳にする。「旦那様のおそばにおって、幸せやった。なんの後悔もない。そやけど、旦那様が亡くなってしもて、なんや考えるようになってしもてな」と忠一郎。残りの人生をどう生きようかと悩んでいるとき、新聞の「ヨットで太平洋横断」の記事を見て勇気がわいたのだと喜代に話して聞かせるのだった。「考えさせください」と喜代。 そのころ、龍一は「世界中を旅したい」という夢をあきらめきれず、一度は父親の勝二(田中要次)に激怒されたものの、再度自分の思いを訴える。世界を見て自分が何をやりたいのか探したい言う龍一は、自分は良子を見て育ち、自分のやりたいこと、やるべき人生を見つけた良子がかっこいいと思っていると語るのだった。「俺は、型紙切ってる時のお母ちゃんが一番好きや。俺もそんな風に生きたいんや!」と龍一。 一方、たまたまその場に居合わせた忠一郎。「ええやないですか!人生は一度きりや、長いようであっという間や!」と拍手を送ると、すみれたちに喜代と一緒に旅に出ると告げる。「龍一くんのようにやりたいことを見つける旅やあらしません。自分を見つめ、自分を見つける旅です」と忠一郎。すみれは、二人が決めたことならどんなことでも受け入れると賛同する。 すみれ、明美(谷村美月)、良子、君枝は、15歳の時から「キアリス」のために働き続けてくれている武(中島広稀)の将来を心配し、縁談相手をみつけようと奔走する。しかし、武の心の中にはいまだに明美への思いがくすぶっていた。武は酔った勢いでその気持ちを後輩の中西に漏らしてしまう。またたく間にその思いは周囲の知るところとなる。 「踏み出さな!」。すみれ、良子、君枝は、明美への思いをきちんと告げるべきだと武の背中を押す。明美と2人きりにさせられた武は、意を決して明美に告白。「わし、今でも、明美さんを幸せにしたいと思うちょります」。しかし、明美は、表情も変えず、「今晩、ヨーソローに来て」と一言告げる。その晩、ジャズ喫茶『ヨーソロー』に先回りしてやってきたすみれたちは、マスターの二郎(林遣都)に頼み、樽の後ろに隠れて2人の様子を見守ることに。 カウンターに並んで座った明美と武。「今朝のこと、急にすんません」と謝る武に明美は「うちはな、結婚しないって決めてるんや」と話を切り出す。物心がついたときには父を亡くし、戦争で家は焼け、さらに唯一の家族だった母も亡くした明美は、「もう亡くしたくないんや、家族を」と打ち明ける。そして、「タケちゃんは、ほんまにタケちゃんを必要としてくれる幸せにすべきや。それは、うちやない。ちゃんと見つけな」と告げるのだった。 明美の思いを知った武は、すみれたちの仲介で縁談を進めることを決意する。ところがお見合いの当日、明美がすみれたちと同席したいと言いだし、すみれたちを驚かせる。お見合いはヨーソローで行われ、武のお見合い相手のたみ子には、紹介者の小山(夙川アトム)と悦子(滝裕可里)が付き添う。なかなか会話が弾まず、ぎこちない雰囲気が続いていると、明美がふいに、自分は付き添い人ではないが、武の人ととなりを伝わなければいけないと思って来たと言い、おもむろに手帳を取り出すし、読み上げる。 「真面目である、誠実である、努力家である、思いやりがある、穏やかである、楽天家である、前向きである、みんなから好かれている、みんなから応援されている、きっといい父親になる、きっといい夫になる、幸せな人生を送るに違いない。以上、友人代表、小野明美。そう言葉を絞めると、席を立ち、店を出て行った。 そのころ、良子の息子・健太郎も将来について悩んでいた。祖母の琴子(いしのようこ)を中心に、一人息子として家から通える関西の大学を受験して欲しいと願う家族に、本当は東京の大学に行きたいと考えている健太郎は自分の思いを告げられないでいたのだ。 そうして昭和37年秋。さくらと健太郎は、大学受験の願書提出の時期を迎える。第一志望は東京大学だということを言い出せずにいた健太郎だったが、さくらやすみれたちの後押しで、ついに自分の本当の思いを打ち明ける。突然の健太郎の告白にショックを受ける琴子たちだったが、君枝が健太郎を応援してやってほしいと琴子に頼む。「私、こんなにハッキリ自分の希望を言う健太郎を初めて見ました」と君枝。健太郎は琴子に愛され、大事に育っててもらったことを一生忘れないと礼を言う。「頑張りなさい!」。涙ながらに応援する琴子。 翌日、「ヨーソロー」で、さくらを待つ健太郎。やってきたさくらに東大に行きたいと家族に言えたと報告する。笑顔で喜ぶさくらを見た健太郎は、突然「さくらが好きや」と告白。長年の思いを語り始める。驚くさくらだったが、「ありがとう。うれしいわ。私も健ちゃんのことを好きよ」と言い、その好きがどういう好きかはわからない。ただし、とても大事な人だと気持ちを伝えるのだった。 その晩、すみれの家では、居間ですみれと喜代が古い洋服を整理しながら、昔を懐かしむ2人。帰宅したさくらも、お手製のお手玉を手に取り、喜代の言葉に耳を傾ける。「その中の小豆、いよいよ食糧がなくなったときのために取っておこうと言うて、すみれ奥様がこうしてお手玉に。あのころは、大変な時代でした」と喜代。すみれは、自分の人生を振り返ると、いつも喜代がいてくれたと感謝の気持ちを告げる。「私にとって喜代さんはかけがえのない人です。忘れんとってね」。 そして翌年、さくらと健太郎の受験結果が発表される。「2人とも、合格よ!」。東京にいるさくらと健太郎から連絡を受け、安堵するすみれたち。店の外に出て「バンザイ!」と叫ぶ紀夫を見て微笑む。そして、すみれ、良子、君枝は、それぞれの将来に向かって旅立っていく子どもたちに手作りの服を贈ることに。君枝は健太郎のためにブレザーを、良子は龍一にジーパンを、すみれは刺繍が散りばめられたワンピースを作り始める。女学校時代のように一つの机を囲んで楽しそうに作業するすみれたち。 そうして迎えた大送別会。ジャズ喫茶「ヨーソロー」に、キアリスの関係者と家族が集まる。二郎のバンドの演奏で盛り上がるなか、談笑する人たちの中には、息子の伸太郎を連れた五月(久保田紗友)の姿もあった。喜代に向かって「伸太郎、おばあちゃんやで」と声をかける五月に、驚きながらもうれしそうに微笑む喜代。婚約者のたみ子を連れて参加した武が、来年結婚することを報告すると会は最高潮を迎える。 長年、すみれの家族を支えてきた喜代や忠一郎、大学に進学するさくら、健太郎、世界中を巡る旅に出る龍一がそれぞれの思いを伝える。忠一郎と喜代は、若い人たちにひと言だけと、「そのときを精一杯生きてください」と挨拶。続いて龍一郎は「世界をまわって、なんかをつかんできます。可能性を信じてくれた両親に心から感謝しています」と言い、良子から手渡されたジーパンを見て、「すごいなあ」と改めて母のすごさを思い知る。 君枝の作ったジャケットを着た健太郎は、「お父さん、お母さん、お体に気をつけて。おばあちゃん、いつまでも長生きしてください」と挨拶。さくらは、すみれの作った刺繍入りのワンピースを前に、「お母さんはすごいね。その手で誰かを幸せにすることができるんだもん」と目を輝かせる。そして、育ててもらった感謝の意を伝えると、こう宣言するのだった。「私は、もらった人が心から喜んでくれるような、想いを伝えられるような、そういうべっぴんを作る人になりたい」と。しっかりと抱き合うすみれとさくら。ゆりは涙をぬぐいながら嬉しそうに2人を見つめる。 春になって、紀夫と2人きりの朝食をとるさくら。紀夫に「さみしいか?」と訊かれ、「ちっとも」と微笑むと、「僕もちっともや」と笑うのだった。 『べっぴんさん』の第21週は、昭和44年4月。株式会社「キアリス」は、創業20周年を記念してパーティーを開いていた。社員数は大きく増え、専門知識を持った若い社員も働くように。会社の成長に深い感慨を得るすみれ、明美、良子、君枝。秋になり、「キアリス」の新入社員採用面接が実施される。その候補者の中に娘のさくらや君枝の息子・健太郎の姿を見つけ驚くすみれたちは……。
2017年02月19日タレントのベッキー(32)が2月18日放送の『おかべろ』(関西テレビ)に自身のヘアメーク担当と共に出演。昨年世間を賑わせた、ロックバンド『ゲスの極み乙女。』のボーカル・川谷絵音(28)との不倫騒動後の休業生活や、テレビ復帰後の心境の変化、また今後の恋愛について赤裸々に語った。 番組MCのナインティナインの岡村隆史(46)とは「レベッカ」・「オカムー」と呼び合うほど仲が良く、プライベートでも食事を共にしたことがあるという二人。岡村自身も2010年に体調不良で5ヵ月間の休養を経験したことから、ベッキーの休業中には「元気?(こういう時は)旅に出な」などのショートメールを定期的に送り励ましていたという。 そんな岡村をはじめとした多くの友人からの言葉に励まされながらも、休業中の4ヵ月間はほとんど家から出られなかったというベッキー。最初のうちはワイドショーが連日自身の話題一色だったこともあり、テレビを全く見れなかったそうだが、芸能界の先輩から「それは反省になっていない、ちゃんと全部(報道を)見て受け止めなさい」と助言をもらい、胸を痛めながらもワイドショーを見るようにしたという。 また休業したことで時間ができ、今まで取り組んでこなかったことにチャレンジしようと思ったベッキー。料理の勉強や、新たにクラリネットの練習を始めたことを告白。スタジオでクラリネットの腕前を披露するシーンがあった。 その後話題は“復帰後のベッキー”へ。同番組に出演していた10年来ベッキーを担当しているメークさんから、「(復帰の前と後で)メークが変わりました」との情報が。以前は、マスカラ・アイラインに一切「黒」は使わないなど、“ベッキーメーク”と呼ばれるほど自身のメイクへのこだわりが強かったベッキーが、復帰後は「(メークは)何でもいいです。(むしろ)色んな自分が見てみたい」と話すようになったことを明かした。 これについてベッキーは、「(以前は)町の定食屋さんのようにいつも変わらないベッキーでいようとしていたが、今は柔軟性のある自分でいたい」と告白。復帰後の“第二章のベッキー”は(タレントとして)違う生き方をしたい、と今後の自身のタレント活動にかける思いを熱く語った。 番組終盤、話題は“ベッキーの今後の恋愛”へ。ここでベッキーが「以前に(上戸)彩が、オカムーと私をくっつけようと3人のグループLINEを作った」と衝撃告白。「(他の人にも、彼氏として)岡村さんどう?ってよく言われます。でも無いんだろうな?」と岡村に詰め寄り、岡村自身も「それはわからんで~」と照れ笑いを浮かべていた。
2017年02月19日東京都東部に位置する小岩の街中を、大男が運転する自転車が疾走していた。乗っているのは、田子ノ浦部屋に“通勤”する新横綱・稀勢の里(30)だ。電動自転車で裏道を上手に走り抜ける軽快な運転ぶり。すれ違う人も、あまりのスピードに稀勢の里だとまったく気づかない様子だった。 「横綱が部屋に来てから3年、もうずっと自転車通勤ですよ。車より自転車のほうが運動になるし、渋滞を避けた裏道を通れて、早いからでしょう。なにより横綱は、倹約家ですから(笑)。車を持っていたらお金がかかりますからね」(相撲関係者) 19年ぶりに日本出身の横綱になった稀勢の里。1月27日に明治神宮で行われた奉納土俵入りには、貴乃花(現親方)に次ぐ1万8千人と史上2番目の人出を記録した。3月12日からの大阪春場所の前売り券は、発売日の今月5日に15分で即完売と、稀勢の里フィーバーが続いている。 そんな大人気もどこ吹く風で、本人は昇進前と変わらず堅実な日常をキープ。本誌は横綱らしからぬ、その質素な生活ぶりをキャッチした。自転車通勤を目撃したこの日、横綱は稽古を終えた夕方、付き人と一緒に賃貸マンションに帰宅した。買い物もせず手ぶらだったので、夕食はありあわせの食材で付き人の手料理を食べたようだ。この日は自炊だったが、外食のときも庶民派らしい。部屋の近所にある寿司店には、たまに来店するという。 「来ても、かっぱ巻きをパクパク食べてあとは茶碗蒸しを頼むぐらい。上寿司をガンガン食うという感じではないですね」(店の関係者) こうした質素な生活の背景には、亡き師匠の“教え”があった――。相撲評論家の大見信昭さんはこう語る。 「先代師匠の故鳴門親方は、“おしん横綱”と言われた隆の里。糖尿病を乗り越え、苦労して横綱になった人でした。健康を損ねて、自分のような苦労を弟子にさせまいと徹底していました。稀勢の里も、十両に上がった際に『これからは自由にお金を使えるけど、好きなものばかり食べてはいけない。パセリとか千切りキャベツとか、人が残すようなものをしっかり食べなさい。』と言われたとか。バランスのとれた食事をしろという親心でしょう」 恩師の教えを胸に、庶民派の稀勢の里は大阪場所で史上8人目の新横綱優勝に挑む。
2017年02月19日「来年は“50歳目前”と見られるでしょ。だから、今年が実質的な40代最後の年。負荷をかけないと、と真摯に思っています。そこで、ジャンルが違う3本の舞台に出ようと決めました。これをやり遂げられないようじゃ50代には行けないぞ、と緊張感を持って。30代で『オットーと呼ばれる日本人』という厳しい舞台に臨むとき、クリアしないと充実した40代はないという覚悟で背伸びして自分を鼓舞したように」 そう話すのは、1月に48歳になった吉田栄作。目標を定め計画的に邁進するのが、若いころからの彼の流儀だ。そんな吉田の今年最初の舞台、音楽劇『私はだれでしょう』(3月5〜26日、東京・紀伊国屋サザンシアター TAKASHIMAYAにて)は、敗戦後の日本のラジオ界を生きた人たちの物語。吉田は、占領下の放送を監視する民間情報教育局のラジオ担当官、日系二世のフランク馬場を演じる。 「フランクが遠い存在に思えないんですよ。同じ神奈川県出身で、彼は僕も何年か暮らしたカリフォルニア育ちで日本名も持っている。そんな縁で思い入れが深まり、物語の奥に隠されているテーマが心を揺さぶりました」 ’95年、芸能活動を一時休止して渡米する前に、憧れのシンガー・ソングライターの浜田省吾は『真夏の路上』という楽曲を書き下ろした。 「帰国して30代になると、あえて物事を複雑に考えて、ちゃんと実現できるよう努力しました。でね、35歳のときに浜田さんから『もう少しでラクに仕事ができるようになるね』って言われたの。ご自身の体験から出た言葉なんだろうな。そんなときが僕にも来るんだと心に留めていたら、40歳、朝ドラ『だんだん』のころにラクになってきた。その流れでここまで来られたんだけど、このまま50代に行きたくなくて」 最後に吉田は、音楽劇『私はだれでしょう』の見どころをこう語る。 「平和な今の日本で、この平和が本物なのかを深く考えてみる視点も持たないとダメだと思う。演出家の栗山民也さんの狙いは、観客に“自分とは……日本人とは誰なのか?”を考えてもらうことなのでしょう」
2017年02月19日「乳がんが見つかって、もう7年目に入りました。それでも3カ月に1回は乳腺外科、そして半年に1回は婦人科と再建手術の経過観察のために整形外科に通っています。薬代や検査代で、どんどん1万円が消えていく……。がんは、本当に長く付き合う病気だから“保険に入っててよかった!”と思えます」 そう語るのは、乳がんサバイバーであり、『右胸にありがとうそしてさようなら』の著者もある、生稲晃子さん(48)。’11年3月に左胸に腫瘍が見つかり、5月に乳房温存手術を受けた。8月に1カ月をかけて放射線治療するも、翌’12年に右胸に再発、再再発を繰り返して右乳房を全摘出、再建手術を受けた。’15年11月、5度にわたる手術など、壮絶な闘病経験を本誌に告白した。 今回彼女は、乳がん治療での、自身の保険との付き合い方について語ってくれた。 「がんどころか、自分は病気にもならないと思って、若いときはもちろん、結婚しても保険のことは考えませんでした。ただ、長女が生まれたとき“自分たちに何かがあっても、子どもに迷惑をかけたくない”と思って、医療保険に入ったんです」 通常の医療保険に、がん特約を付加した。月々の支払いは“高いなあ”と思っていたものの、5年後に乳がんがわかったとき“安心”を与えてくれたという。 「最初の1〜2年は入院・手術が続いたので医療費も領収書が分厚い束になるくらい高額になってしまって……。でも、入院費用、手術費用、放射線治療費など、すべて保障されたので、すごく助かりました。私は周囲にがんであることを隠していたので、個室を利用したのですが、公的保険が適用されない高額の差額ベッド代もカバーしてもらいました」 再発したために行った“日帰りの外来手術”は保障の対象外だろう……と勝手に思い込んでいたという生稲さん。 「保険会社の担当者から、『それも対象内だから支払います』と言ってもらいました。保障の内容でわからないことがあったら、しっかりと担当者に聞いてみることもとても大切なことだ、と今は言えますね」 もちろん、保険に加入しているだけで安心してはダメ。日々進化しているがん医療に対応していかなくてはならないという。 「保険会社の担当者が『見直しをしましょう』というのを先延ばしにして、失敗してしまいました。乳がんの場合、抗がん剤治療やホルモン剤治療などがありますが、私の保険は抗がん剤には適用されるものの、現在、私が受けているホルモン剤治療は適応外です。毎日1錠“これが何百円もするんだ”と思いながら、大切に飲んでいます。もうちょっと、保険の勉強しておけばよかった……」 がん保険は、入って終わりではない。今の自分や家族にとって、何が必要かを考えながら見直すことが大事なのだ。
2017年02月19日