雲ひとつない快晴となった1月2日、新年一般参賀のために開門前から並んでいた2万人もの人が、二重橋を渡り皇居前広場へと入場していく。10時10分、天皇皇后両陛下をはじめとする皇族方が宮殿のベランダにお出ましになると、例年をしのぐ大きな歓声が上がった。 「午前3回、午後2回の計5回で、12万7千人がお祝いに訪れました。平成に入って最多の入場者数です。譲位まで1年4カ月。その前に両陛下にお会いしたいと、国民が切望してのことでしょう」(皇室担当記者) 大盛況に終わった今年の新年一般参賀。しかし、宮内庁関係者は声を潜める。 「2回目のお出ましで、陛下のご様子に“異変”があったのです」 本来の手順では、皇族方がベランダにお並びになってからしばらくして「ただいまから、天皇陛下のお言葉がございます」というアナウンスがあり、陛下がお言葉を記された紙をジャケットの内ポケットから取り出される。 「しかし、このとき陛下はアナウンスの前に紙を取り出そうと、2度もポケットに手を入れようとされました。タイミングを失念されている陛下に気づかれた美智子さまが、さりげなくお伝えすると、陛下は手を戻されました」(前出・宮内庁関係者) 陛下は2年前、82歳を迎える誕生日にも《年齢というものを感じることも多くなり、行事の時に間違えることもありました》と述べられている。 「ご退位の日まで、象徴天皇としてのお務めを果たしていただきたい――。そうお思いの美智子さまは、大変心配なさっていることでしょう」(前出・宮内庁関係者) ‘18年は両陛下のご出席が最後となる行事も多数ある。宮内庁は戦没者慰霊や被災地訪問など、「平成の集大成」となるご公務を検討しているという。“最後の1年”は大忙しになりそうだ。さらに、ベテランの皇室ジャーナリストはこう語る。 「今年は、代替わりに向けた準備を1年がかりで進めていかなければなりません。なかでも御所からのお引っ越しは一大事業といえます」 両陛下は譲位後約1年半にわたり、東京都港区の高輪皇族邸で仮住まいされる予定だ。現在は皇太子ご夫妻がお住まいの赤坂御用地の東宮御所が、改修後に上皇・上皇后両陛下の正式なお住まいになるが、その工事が終わるまでは高輪皇族邸に住まわれる。 「両陛下が使われたものはほとんど捨てずに保管されており、その整理は大変な作業になります。‘93年に両陛下が現在の御所に引っ越された際には、旧赤坂御所から2トントラック約100台分の荷物が運び出されました。高輪皇族邸は、床面積でいうと御所の4分の1しかないので、何を持っていくのか、1つずつ整理しなければならないのです」(前出・皇室ジャーナリスト) 前出の宮内庁関係者はこう語る。 「陛下は、ご高齢であるご自身の限界を自覚されながらも、懸命に“最後のお務め”に臨まれるお気持ちです。美智子さまは”そんな陛下を全力でお支えせねば、そしてお引っ越しの準備も万全に――“という覚悟を、この新年に固められたのではないでしょうか」 天皇陛下につつがなくご退位の日を迎えていただき、安らかで健康な退位後の生活を送っていただくため……。過酷なお覚悟を胸に秘め、美智子さまは奮励の日々を歩まれる――。
2018年01月10日天皇皇后両陛下は、11月16日から18日の日程で、鹿児島県の屋久島、沖永良部島、与論島を訪問された。 天皇陛下の即位20年にあたる’09年に「できるだけ遠方の島を」とのご意向から沖永良部と与論の離島訪問が検討され始めたのだが、東日本大震災(’11年)、陛下の心臓パイパス手術(’12年)もあり、長い間、叶わなかったのだ。まさに“8年越しの悲願”ともいえるご訪問だった。 そして屋久島は、口永良部島民の避難先であった。両陛下の強いご希望で、島民と面会するために屋久島ご訪問も加えられた。 「結果として、3日で3つの離島、総移動距離が約3,300キロという“強行日程”になりました」(宮内庁関係者) 高齢で心臓手術を経験された陛下にとって、負担の大きすぎるスケジュールといえる。 「宮内庁は侍医長を中心に非常時の医療体制を確認し、地域の病院にも“準備”を要請していました。特に重篤の場合は、屋久島からは鹿児島へ、与論島からは沖縄本島に、飛行機やヘリコプターで緊急搬送する態勢を準備していたと聞いています」(同・宮内庁関係者) 訪問初日の11月16日。両陛下は午前9時40分に特別機で羽田空港を発たれ、2時間弱のフライトで鹿児島空港に。さらに小型機に乗り換えられて、屋久島までは35分。45年ぶりとなる屋久島ご滞在は、13時から15時の約2時間。まさに分刻みのスケジュールだった。 そして、両陛下が屋久島空港から姿を現されて、車へ向かわれているときだった。お迎えの島民が声を発した。 「アッ、危ない!」 お疲れでいらしたのか、陛下が通路の段差を踏み外されてよろめかれた。周囲の誰よりも早く美智子さまが両手を差しのべられ、抱きかかえるようにお支えに。まさに、全力で陛下をお守りされたのだ。 両陛下は島民たちを心配させないようにと考えられたのだろう。笑顔まで浮かべて、何事もなかったように屋久島町総合センターへと向かわれ、口永良部島民とご懇談された。予定時間を過ぎてもお話は尽きず、側近に4度促されてようやく、両陛下は席をお立ちになった。美智子さまは、島で牛を3頭飼っている山田ヨリ子さん(74)らに「お体をお大事に。ね、牛さんも」とユーモアたっぷりにお声がけされて、にこやかに会場を後にした。 だが、皇室ジャーナリストはこう語る。 「美智子さまは終始朗らかなご様子でしたが、実はご自身も万全のご体調ではなかったのです。陛下と同じく多忙な日々を過ごされ、11月9日の秋の園遊会では、ふだんよりご表情が晴れず、お疲れのご様子でした。そのような状態でありながら、今回のご訪問の前日、15日の夕方には都内の病院を訪れ、絵本を通じてご交流のある古くからのご友人をお見舞いされています。身近な方にも、遠方の国民にも、美智子さまはご多忙の時間を調整し、お心を寄せられていたのです」 天皇陛下とご一緒に国民と触れ合われ、陛下をお支えする責務を全うする。その覚悟を胸に、美智子さまは悲願の“離島の旅”に臨まれていたのだーー。
2017年11月22日トランプ米大統領が、11月に初来日する方向で調整が進んでいると、複数の政府関係者が明らかにした。天皇皇后両陛下との接見も調整中だという。ジャーナリストの歳川隆雄さんが言う。 「トランプ大統領が皇居を表敬訪問すれば、天皇皇后両陛下との写真や映像が世界中に配信されて、日米の強固な関係をアピールすることになるのは間違いありません」 政治部記者もこう語る。 「11月4~6日の来日で調整が続いています。2泊3日ですと国賓となる可能性もあり、その場合は、天皇の歓迎式典、会見、晩餐会がワンセットで組み込まれます」 “暴言王”トランプ氏の来日には反発も予想される。イギリスではメイ首相が「トランプ氏をエリザベス女王が歓迎する国賓として招待する」と表明したところ批判が殺到。英議会のオンライン請願サイトには、招待に反対する186万もの署名が寄せられた。 皇室担当記者は、そんなトランプ氏の来日に違和感を禁じ得ないと話す。 「自らのツイッターで北朝鮮と舌戦を繰り返しているトランプ大統領は、天皇陛下と美智子さまのイメージから、もっとも遠い存在に感じてしまうのです。トランプ氏が両陛下に対面して、どんな言動を取るのか懸念を抱きます」 トランプ大統領が訪日する前後、両陛下のスケジュールは繁忙を極めている。 10月27日に九州豪雨被災地を見舞われ、28~30日に福岡県で開催される「全国豊かな海づくり大会」へご出席。11月3日、文化の日には文化勲章の授与式があり、すぐあとには秋の園遊会、そして屋久島・沖永良部島・与論島へのご訪問も予定されている。 気がかりなのは、陛下のご体調だ。宮内庁は、外国要人との会見は1ヵ月前に連絡するルールを定めているが、これも両陛下に想定外のご負担をかけないよう配慮したもの。 09年、中国政府がこの“1ヵ月ルール”を無視して求めた天皇陛下と習近平国家副主席(当時)との会見を、鳩山政権が一度は宮内庁に拒否されながらも強引に実現したことがある。 「陛下の国際親善は、政府のやることとは次元を異にするもので、政治的な重要性、懸案、政治判断を超えたところでなされるべきだ」 当時の羽毛田信吾宮内庁長官はこう発言し、政府への憤りを隠さなかった。トランプ大統領の来日は1ヵ月以上先ではあるが、過密日程の中での会見は心配だ。 今回、日米首脳会談のメインテーマは、緊迫する「北朝鮮問題」のはずだが、 「来日に合わせてゴルフも計画されています。米ツアーで活躍する松山英樹プロや日本ゴルフツアー機構の青木功会長が、トランプ氏と一緒にプレーする案も浮上しています」(皇室ジャーナリスト) 天皇陛下のご学友、明石元紹さんは、そんな“接待コース”に両陛下との会見が含まれているのではないかと懸念する。 「過去には陛下との会見が訪日の条件だったケースもありました。両陛下は相手がトランプ氏であろうと、米大統領としてしっかり接遇されることでしょう。たとえ陛下のお気持ちに沿わないことがあっても、それを表に出すことはできないお立場なのです」 懸念される点の多いトランプ氏の初来日だが、前出の文化学園大学客員教授の渡辺みどりさんはこう語る。 「トランプ氏に対しても、天皇陛下と美智子さまは、国際平和の視座に立ってお話されるでしょう。外国の首脳が両陛下のお人柄に感銘を受け、日本が再評価されたことも過去にあったのです」 どのような相手を前にしても、平和を希求する両陛下の信念が揺らぐことはない――。
2017年09月21日両陛下は7月24日から28日まで、那須御用邸で静養された。皇太子さまご一家も8月には例年、須崎御用邸や那須御用邸で過ごされている。 皇族の方々が「夏休み」を過ごされる場所といえば、皇族の別荘ともいえる御用邸だ。葉山御用邸(神奈川県)、那須御用邸(栃木県)、須崎御用邸(静岡県)の3つの御用邸があるが、それぞれにどんな特色があるのだろうか。 両陛下が最も頻繁に訪れるのが葉山御用邸。3つの御用邸のうち最も皇居から近く、ご友人も多いからだという。 御用邸は海岸に面しており、両陛下が散策されることもある。6月のご静養の際には海岸にいた親子連れの海水浴客からサーフィンをしていた青年にまで、両陛下がお声がけされていた。 いっぽう、皇太子さまご一家が好まれているのは那須御用邸だという。登山好きの皇太子さまご一家は、御用邸に近い茶臼山や朝日岳に登られることも。 敷地内はたいへん自然豊かで、植物学者でいらっしゃった昭和天皇が『那須の植物』という本を執筆されたほど。’11年には「那須平成の森」として御用邸用地の約半分が一般に開放された。 静岡県下田市の須崎御用邸も、葉山と同じく海に面しているが、こちらはプライベートビーチ。愛子さまは昨年「バタフライ以外は全部泳げるようになりました」と出迎えた川勝平太静岡県知事に話していて、海水浴は楽しみにされているようだ。 ちなみに御用邸までの移動手段は、葉山へは自動車、那須へは新幹線、須崎にはE655系という列車が使われる。皇太子さまご一家がご乗車になるときには1車両が貸切りとなり、両陛下がご乗車の場合は全車両が貸切りの「お召し列車」となる。
2017年08月07日天皇陛下の退位を実現する特例法が6月9日、参院本会議で可決・成立した。これにより天皇陛下は退位後、上皇となりご公務から退くことになる。 そんななか京都市の門川大作市長(66)は12日、陛下が上皇となられた際のお住まいや退位に関連する宮中行事を京都へ誘致できるか検討開始すると発表。この発言について、twitter上では疑問の声が上がっている。 門川市長は12日の定例記者会見で、陛下が上皇となった際の京都ご滞在について「客観的に調査し、できるだけ早く国に要望したい」と述べた。京都市は13年5月に公表した「双京構想」でも皇族の方々に京都へお住まいいただくことを要望しており、特例法成立のタイミングでかねてからの計画を改めて発表した格好だ。 twitter上では「これはよろしいなぁ~京都でゆっくり過ごしていただければ」といった賛成意見もあるが、少数派。「陛下も息子家族や孫も近くにいる皇居にいたほうが良い」「京都の気候は東京に慣れた陛下にはキツい」といった懸念のほうが目立った。 また「住む場所まで意のままにならないなんて皇族も大変」と、天皇陛下のお気持ちをおもんぱかる意見も。ジャーナリストの江川紹子(58)も自身のtwitterで「天皇を引退した後は、ご自身がお好きな所にお好きなだけ滞在し、お好きなこと(だけ)をやっていただきたいと思うんだけど…」と苦言を呈した。 さらには天皇と上皇のお住まいが東京と京都に分かれることに対し、「第二次南北朝時代の始まりか?」「南北朝時代の再来なのでは」といったツイートも。さまざまな懸念がある京都市長の提案。果たして実現の可能性はあるのだろうか。
2017年06月15日3月2日、ベトナムの首都・ハノイのシェラトンホテル。同国を訪問中だった天皇皇后陛下が接見されたのは、グエン・ティ・スアンさん(92)をはじめとする「残留日本兵」のベトナム人妻とその家族たち16人だった。 太平洋戦争後もベトナムにとどまった約600人の元日本兵は、フランスからの独立をかけた第一次インドネシア戦争に参加。一時は「新ベトナム人」として歓迎されたものの、政情の変化によって’54年以降、次々に帰国を余儀なくされた。とり残され、苦難の歳月を乗り越えてきた残留日本兵の家族たち。歴史に埋もれてきた彼らをこの晴れの日に導いたのは、現地在住の1人の日本人女性だった。 25年前、日本語教師として単身ハノイにやって来た小松みゆきさん(69)である。ふだんはホンダのバイクで町を飛び回っている彼女だが、この日は白いブラウスにハイヒール。緊張した面持ちで、両陛下に16人を一人ひとり丁寧に紹介していた。 「彼らの存在は“隠し事”のようになっていたんです。帰国した元日本兵は黙っていたし、残った家族もしゃべらない。ずっと歴史のなかに封印されていたんですね」(小松さん) 家族たちを捜し出し、その封印をといたのは小松さんだった。彼女はベトナム在留邦人の最古参の1人であり、最年長の女性。現在、ベトナムの国際放送「VOV(ベトナムの声放送局)」の日本語課に所属し、シニアアドバイザーの肩書で活躍している。 「私はスアンさんのことを、1人の女性として尊敬しているんです。それは、自分の母親に対しても同じ。大変な苦労を黙々と耐えて生きてきた“先輩”たちのおかげで“後輩”の私は好きなことをやって、こんなところまで来られているんだから」(小松さん) 一面に広がる水田と、大通りを横切る水牛。’92年9月2日。ハノイにやって来た小松さんを迎えたのは、のどかな田園風景だった。一方、ドイモイ(刷新政策)が始まったベトナムでは、経済が開放され、成長の波に乗ろうと人びとは外国語を学び始め、日本語ブームもあった。気がつけば約15年もの間、小松さんはハノイで日本語教師を続けた。生徒は延べ数千人に及ぶ。 「そんななかに、いたんです。ソン君という40歳前後の男性でした。『日本人のお父さんと会ったとき、日本語で話をしたい』と。そのときは、どうして彼の父親が日本人なの?って、さっぱりわけがわからなかった」(小松さん) 好奇心に駆られて調べていくうちに、ベトナムの独立戦争に身を投じた元日本兵たちの存在を知ったのである。 「最初は、人助けというよりも、近代史に埋もれていた何かを発掘したような、そんな気持ちだったんです。いつかすごいノンフィクションが書けるかも、というような」(小松さん) 日本とベトナムの近代史を学び直すところからはじめ、数年後には残留日本兵の妻や家族、数十人の存在を知るまでになった。とはいえ、当時のベトナムでは、外国人が地方の個人宅を訪ねるだけでも事前申請が必要であり、長く日本と国交のなかった社会主義国での調査は難航を極めた。小松さんは、家族たちの記憶をもとに、帰国者の名簿をしらみつぶしに調べた。 「その日のことはよく覚えているよ。そりゃうれしかった」(スアンさん) 小松さんが、初めてスアンさんを訪ねたのは、10年以上前になる。元日本兵の子どもたちの情報を集めるなかで、「奥さんが健在の家もある」と教えられ、すぐに会いに来たのだ。スアンさんと、上等兵だった夫との出会いは、’45年の太平洋戦争が終わる4カ月前だという。スアンさんが働いていた軍人クラブに彼が買い物にやって来て、それからわずか数カ月後に結婚した。 「彼はとても優しい人で、けっして怒らなかった。夫婦げんかも一度もなかったよ」(スアンさん) ところが、’54年9月。夫は「出張に行く」と告げたきり、帰ってこなかったのである。暮らしは困窮し、食べるものもない貧しさのなか、スアンさんは女手一つで3人の子どもたちを育て上げた。当時の苦労を尋ねても、「もう時代が変わったから」とにっこりほほ笑むだけだ。 「スアンさんのすごいのはね、離ればなれになって60年以上にもなるのに、夫を愛しつづけていることなんです」(小松さん) どんなに生活が苦しくても、彼以外の男性は考えられないと再婚せず、いまでも愛用の枕には夫の軍服が巻いてある。 「それを夫だと思って、毎晩抱いて寝てるって。私、涙が出てくるんだけどね」(小松さん) ’04年、小松さんはスアンさんをはじめ3人の元日本兵の妻のレポートを、国立民族博物館友の会の『季刊民族学』に寄稿した。これがNHKのディレクターの目にとまり、BSドキュメンタリーになった。そしてこの番組が縁で、放送の翌年、スアンさんの夫が日本の妻や娘、孫たちに伴われ、会いにきたのである。 「本当にいいご家族でした。スアンさんたら、自分より10歳年下の奥さんのこと、『私より若いんだよ』なんて焼きもち焼いてかわいらしいんです。スアンさんの子どもたちは、60歳近い大人なのに、『お父さん、お父さん』ってズーッと触ってるの。『50年分触りたいんだ』って」(小松さん) 3月2日、シェラトンホテルで両陛下との接見を待つ家族たちは緊張でコチコチになっていた。家族たちを両陛下に紹介するのは、小松さんの役目だった。あの日を振り返るだけで、小松さんのテンションが上がる。 「もうね、両陛下は優しい、醸し出すものがすごいんですよね。スアンさんは年齢も年齢なのでいすに腰かけていた。ただでさえ小柄だから、皇后陛下がいくらかがんでも、やっぱりね、上からになっちゃう。そうしたら皇后陛下、しゃがみこまれたんですよ!」(小松さん) 予定されていた接見時間は15分だったが、両陛下が熱心に家族たちの話に耳を傾け、彼らも皆、涙ながらに語った結果、倍以上の34分が経過していた。 「ようやく無事に終わってホッとしたときですよ。天皇陛下が私のほうを見てくださって、『こちらは長いんですか?』って。んもう、すっごいびっくりした。私にもお声をかけてくださるの!?って。『ご苦労さまでしたね。これからも日本とベトナムのために頑張ってください』と、労をねぎらってくださったんです。ベトナムで頑張ってきたおかげで両陛下と会えるなんて。本当によかった……」(小松さん)
2017年05月14日きょう8日15時に、天皇陛下が生前退位に関する「お気持ち」をビデオメッセージで表明されることを受け、テレビ各局は特別番組を編成する。東京地区では、テレビ東京、TOKYO MXまで、地上波全局で放送されるという異例の体制となる。生前退位意向を最初にスクープしたNHKは、14時30分から16時30分まで2時間にわたって特別番組を編成。この時間帯、夏の高校野球はEテレで放送される。さらに、19時からの『ニュース7』は、30分拡大する。日本テレビは『情報ライブ ミヤネ屋』(毎週月~金曜13:55~15:50)を14時55分までに縮小し、その時間に『NNN報道特番』を放送。テレビ朝日は、『ワイド!スクランブル』第2部(毎週月~金曜12:30~13:45)を15時55分まで拡大する。TBSも日テレ同様、午後の情報番組『ゴゴスマ~GOGO!Smile!~』(毎週月~金曜13:55~15:51)を、14時50分までに縮小し、その時間に『報道特別番組』を編成。さらに、ゴールデンタイムでも『生放送・皇室特別番組陛下82歳「お気持ち」美智子さまと寄り添い共に開く未来への窓』(19:00~20:57)を編成し、当初放送予定だったバラエティ特番『マサカの世界衝撃事件』は休止となる。他局に比べて緊急報道特番を組むことが少ないテレビ東京でも、映画枠『午後のロードショー』を休止して、『報道特番 天皇陛下「お気持ち」表明』(13:50~15:55)を放送。フジテレビは、レギュラー放送の『直撃LIVE グッディ!』(毎週月~金曜13:45~15:50)内で伝える予定だ。また、独立局のTOKYO MXも『報道特別番組 天皇陛下"お気持ち"語る』(15:00~15:30)を放送。BSでは、BSフジが、フジテレビのインターネット配信ニュースチャンネル「ホウドウキョク」のスタジオから、特別番組(14:59~15:30)を放送する。
2016年08月08日12月5日はタイ国王様のお誕生日です。そして、父の日でもあります。プミポン国王陛下は今年の12月5日、87歳の御誕生日を迎えられました。タイの国民は、タイのこと、タイの国王様のことが大好きです。なので、この日は国王様への愛で満ち溢れます。これまでの国王陛下のご活動などの展示会や国王陛下とタイ国民をテーマにしたライト&サウンドショー、ステージパフォーマンスなど各種祝賀イベントが開催され、国民は黄色のお洋服を着たり、黄色のロウソクを飾ったり、それぞれの形でお祝いします。国王様のお生まれになったのが月曜日で、月曜の色というのが黄色なのです。お年寄りも若者もお金のある人もそうでない人も、みんな黄色でお祝いです。とっても一体感のある日なので、来年もしこの日にタイに来るときは黄色のお洋服を着て一緒に祝いましょう。もちろん私も黄色を着て、マンゴーも含め黄色に染まってみました。タイ国民のためにもどうか、長生きなさってください。おめでとうございます。
2014年12月07日