連載記事:新米ママ歴14年 紫原明子の家族日記
過渡期を生きる子どもたちに親が尋ねるべき質問【新米ママ歴14年 紫原明子の家族日記 第40話】
「今の若者は~」も「昔は良かった」もついでに「異常気象」も、全部信用しないことにしている。なぜならそこには少なからずエゴの臭いを感じるからだ。
今を生きている人が「自分の生きている時代こそ特別だと思いたい」というエゴ。ボジョレーヌーボーが出る度に毎年冠される「◯◯年に1度の出来」と同じあれ。だいたい長い人類の歴史の中で1日、1分、1秒たりとも同じ時間が繰り返されたことなんてなかろうに。
ここ数年の平均より何日か多く日照りが続くことくらい、氷河期に比べれば全然異常ではない。生きている限り昨日とは違う明日がやってきて、昨日まではなかった悩みや葛藤が生まれる。そんなの当たり前。
だからこそ、至るところで耳にする「現在は過渡期」という表現も、そんな葛藤に理由をつけようとするだけの適当な修飾語くらいに思い、あまり信用していなかった。
けれども最近、もっと小さな世界の、小さな時間の流れの中では、「過渡期」はあるのだと思うようになった。標準的とされる社会の認識が、ガラッと変わる時というのは確かにある。今起きている一つの転換は、生き方や価値観が多様であることを受け入れるまでの過渡期だ。
いやそれだって、人間の価値観が日々アップデートされていくのなんて今に限った話でなく、当たり前のことだと思っていたけれど、インターネットが登場して、ネットで情報を得る人、新聞で情報を得る人、テレビで情報を得る人など、情報収集のチャンネルがこれだけ多様化している社会では、同じ地域で、同じ言語を話す人々の考え方や生き方だって、より細かく、無限に枝分かれしていく。
それはやっぱりどうしたって間違いない。それに伴って起きる良いことと悪いことに、多くの人たちが初めて直面する、という意味では、やっぱり今は過渡期だ。
「置かれた場所で咲きなさい」というめちゃくちゃ売れているらしい本があるが、それは実際には前時代的で、情報強者でさえあれば、置かれた場所で咲けなくても、全く別の場所を探して、そこで花咲けるというのが今の時代だ。
「みにくいアヒルの子」みたいに、ちょっとしたミスで置かれる場所が間違ってることだってある。
今いる場所だけが世界じゃない、ということを以前より簡単に知ることができるようになったのは今の時代の良いところ。