アイドルグループ・BEYOOOOONDSの一岡伶奈が、グループ及びハロー! プロジェクトを卒業することが1日に発表された。○■一岡伶奈、卒業を発表1999年2月25日生まれ、25歳の一岡伶奈は、2018年6月にハロプロ研修生から4人組のグループを結成。10月20日より「BEYOOOOONDS」、「CHICA#TETSU」として活動を開始。「CHICA#TETSU」ではリーダーを務め、“いっちゃん”の愛称で親しまれていた。11月末を最後にブログの更新が途絶え、12月より体調不良でステージへの出演キャンセルが続いていたことから、ファンからは心配の声が上がっていたが、このたび卒業が発表されることとなった。一岡は「ファンの皆さんや関係者の皆様にご迷惑をおかけして申し訳ありません」と謝罪し、「体調は良い時もあるのですが不安定で、現状での復帰は難しいと判断しこの度卒業を決めました」と卒業を決断した理由を述べ、メンバーに「私がお休みしている間、コンサートやラジオなど助けてくれたBEYOOOOONDSのメンバーにはとても感謝しています。ありがとう」と感謝を伝えた。そして、「ハロプロ研修生として活動を初めてから12年目に入り、BEYOOOOONDSは今年の8月でメジャーデビュー5周年を迎えます。小さい頃から自分でこれをやりたい! と思う事が少なかった私がオーディションを受けて、その時は合格出来なかったけど“ハロー!プロジェクトでアイドルとしてデビューしたい!”と、しっかり自分の意志で見つけた夢。ハロプロ研修生の期間で経験できた嬉しい事、悔しい事。BEYOOOOONDS、CHICA#TETSUのメンバーの一員として活動できた事など、言葉では書ききれないくらい沢山の思い出があります」と振り返り、ファンへ向けて「沢山のアイドルの方がいる今の時代で私をみつけて応援して下さったファンの皆さま。本当にありがとうございます。直接感謝の気持ちを伝えられずごめんなさい。活動をお休みしてからもブログに沢山のコメントをありがとうございます。ちゃんと読んでいました。これからも皆さんの心のどこかに私との思い出が残っていったらうれしいです」とメッセージ。BEYOOOOONDS、CHICA#TETSU、雨ノ森川海、SeasoningSという4つのグループについては「今までのハロー! プロジェクトには珍しい在り方のグループです。このグループには良さが沢山あります。きっとこれからも皆さんの想像を超えるパフォーマンスとやさしい世界を届けてくれると思います」と思いを述べ、「応援をよろしくお願いいたします。私も一緒に応援しています」と語った。最後に、メンバー、スタッフ、関係者、ファンへ向け「今までたくさんの愛を本当にありがとうございました」という言葉で締めくくっている。○■一岡伶奈コメント皆様、お久しぶりです。一岡伶奈です。昨年の12月から体調不良で活動をお休みしており、ファンの皆さんや関係者の皆様にご迷惑をおかけして申し訳ありません。体調は良い時もあるのですが不安定で、現状での復帰は難しいと判断しこの度卒業を決めました。私がお休みしている間、コンサートやラジオなど助けてくれたBEYOOOOONDSのメンバーにはとても感謝しています。ありがとう。ハロプロ研修生として活動を初めてから12年目に入り、BEYOOOOONDSは今年の8月でメジャーデビュー5周年を迎えます。小さい頃から自分でこれをやりたい! と思う事が少なかった私がオーディションを受けて、その時は合格出来なかったけど“ハロー!プロジェクトでアイドルとしてデビューしたい!”と、しっかり自分の意志で見つけた夢。ハロプロ研修生の期間で経験できた嬉しい事、悔しい事。BEYOOOOONDS、CHICA#TETSUのメンバーの一員として活動できた事など、言葉では書ききれないくらい沢山の思い出があります。沢山のアイドルの方がいる今の時代で私をみつけて応援して下さったファンの皆さま。本当にありがとうございます。直接感謝の気持ちを伝えられずごめんなさい。活動をお休みしてからもブログに沢山のコメントをありがとうございます。ちゃんと読んでいました。これからも皆さんの心のどこかに私との思い出が残っていったらうれしいです。BEYOOOOONDS、CHICA#TETSU、雨ノ森川海、SeasoningS、今までのハロー! プロジェクトには珍しい在り方のグループです。このグループには良さが沢山あります。きっとこれからも皆さんの想像を超えるパフォーマンスとやさしい世界を届けてくれると思います。これからもBEYOOOOONDS、CHICA#TETSU、雨ノ森川海、SeasoningSの応援をよろしくお願いいたします。私も一緒に応援しています。メンバーやスタッフの皆さん、お仕事でお世話になっている関係者の皆さん、そしていつも応援してくれたファンの皆さん今までたくさんの愛を本当にありがとうございました。BEYOOOOONDSCHICA#TETSU一岡伶奈○■事務所コメントいつもハロー! プロジェクト及びBEYOOOOONDSを応援していただきありがとうございます。BEYOOOOONDSの一岡伶奈ですが、BEYOOOOONDS及びハロー! プロジェクトを卒業することになりました。昨年の12月から体調不良のため活動を休止しておりますが、日によって好不調の波があり、活動をこれまで通り行えるかどうかの不安も強く、これ以上皆さんやメンバーに心配、迷惑をかけられないという本人からの申し出もあり、今後のことも含め話した結果、卒業という結論に至りました。活動再開をお待ちいただいていた皆様には、その思いに応えられなかったことをお詫び申し上げます。一岡伶奈が次の目標に向かい、進んでいくことを願ってやみません。今後も引き続き、一岡伶奈、そしてBEYOOOOONDSを応援していただきますよう、お願いいたします。
2024年03月01日こんにちは、伶奈です。大学院まで哲学を専攻してしまったわたしが、読者から日常の悩みや社会への疑問、憤りを募り、ぐるぐる考えたことを書き綴る連載の第8弾。一方通行ではなくみんなで協働的に考えられるようにしたいので、時に頷き、突っ込みながら読んでくださると嬉しいです。人間は考える葦であるだから大事なのは、意見を持つこととか表現することよりも、考えることや意見に至るプロセスだということになります。本当はみんな、あなたの主張よりも「あなたがなぜそう考えるのか?」を知りたいのだから。SNSの世界には、「はい論破〜」という幼稚な言葉や、意見の対立を極端に恐れた「それな〜」という安易な共感が並んでいます。夜中に覗くと、深い海に沈んだように滅入ってしまう。極端だなあ。相手を批判することや「なんでそう思うの?」と問うことは、個人攻撃でも優位に立つための手段でもないのに。もちろん、完璧な理由を持って意見を主張できるわけもないから、言葉が不十分でも仕方がないと思います。だからこそ考え、疑い、その不十分さに気が付いたなら、その意見に固執するのではなく、一回その意見から解放されて、新たな考えを見つければいいと思います。大事なのは、考えること。パスカルの『パンセ』から、この言葉を。「人間は一本の葦(あし)であり、自然のうちでもっとも弱いものにすぎない。 しかし、それは考える葦である」▶︎これまでの『REINAの哲学の部屋』・#007 「校則は厳しい必要ある?」自分で考える機会を奪う“中身のないルール”は、日本の未来をも奪う・#006 「ハラスメントはなぜ起こるの?」男の子でも女の子でも立場は関係なく、“誰でも加害者になる”可能性・#005 「愛と執着ってなにがちがうの?」この問いを哲学的に考えたら気づいた、現代人の恋愛に足りないこと・#004 「レディファーストって古くない?」でも、嬉しくない?“男性が女性を丁寧に扱う文化”を哲学的に考える・#003 「死ぬのが怖いんです」。ある高校生の普遍的な悩みに、28歳の彼女が出した答えとは▶︎オススメ記事・「アートか、わいせつか」の議論から離れ、“性表現の規制”をかいくぐって遊ぶフォトグラファー・「男なら筋肉をつけるべきなの?」21歳の写真家が“男性解放”をテーマに写真展を企画した理由All photos by Chihiro Lia OttsuText by Reina TashiroーBe inspired!
2018年07月04日こんにちは、伶奈です。大学院まで哲学を専攻しちゃったわたしが、読者から日常の悩みや社会への疑問、憤りを募り、ぐるぐる考えたことを書き綴る連載の第7弾。一方通行ではなくみんなで協働的に考えられるようにしたいので、時に頷き、突っ込みながら読んでくださると嬉しいです。自由とは、ルールの王様になること校則という城壁を前に中高生のわたしたちが選べる道は、二つ。従うか破るかしかありません。管理する側は、ルールを作ることで、従う者を褒め称え破る者を罰するという単純な基準を掌握することができるし、ルールを守る側は考えなくていいので楽チン。胸張って生きられるし。ルールを破る、一見自由に飛翔しているように見えるひとも、目の前でダメと言われたことを行えばいいだけなので、どちらにせよ、楽なのだ。みんなルールに圧倒され、縛られている。どちらに転んでも、ルールの奴隷だ。中学のわたしは、小ちゃい反抗なんかでは目の前にそびえ立つ絶対的なルールは落城しないと考えたのだ。自由は、そんなに簡単じゃない。ドイツの大哲学者カントは、人間の自律(=自由)は「自己立法」だと言います。誰かからあれこれ言われたことを無批判に行うのではなく、理性を行使し自ら立てた規則(ルール)に従うことこそ自由だと。ルールの奴隷になるのではなく、自らに課すルールをつくることだと。自由とは、ルールの王様になることなのだ。王様にも奴隷にもならず好きに生きればええやん、とも思いたいけど、やっぱりルールは必要。無法地帯では、ひとはひとと一緒にいられないから。他者と共存できないから。家族や友達関係や学校といった小さなコミュニティでも、大きな社会でも、ひとがひとといる限り、ルールは存在し続けます。「ひとを殺したいひと」「殺したくないひと」「殺されたくないひと」が共存するためには、まあ殺しちゃダメだろという決まりがないと、社会は成り立たない。決まりに従いながらも自由に生きるためには、「なんで殺しちゃいけないのか?」という理由を他者とともに考え、共有することが大事。奴隷制度を産み出してしまう原因は、ルールそのものにあるのではなく、押し付けがましさ思慮のなさ、そして、ルールの理由をそこで生きる他者と共有していないことにあるのではないでしょうか。「なんでスカートの長さを短くしちゃいけないの?」と勇気をもって先生に聞いたときに「校則だから」と言われたあの理不尽さを思い出します。先生も理由を知らない校則が学校に存在する状況は、ふつうに考えて、恐ろしい。学校も、生徒が納得できる校則を、生徒と一緒に作ればいいのにね。みんなで理由を考えながら。四月からの哲学対話の授業で、そんな授業もできたらいいなと、ふと考えました。▶︎オススメ記事・ある母親が“皆勤賞”を取った息子を授賞式に出席させなかった“優しい”理由・「メイクはマナー」という日本社会の“理不尽な常識”に反抗する日本人女性たち。All photos by Junko KobayashiText by Reina TashiroーBe inspired!
2018年03月15日こんにちは、伶奈です。大学院まで哲学を専攻しちゃったわたしが、読者から日常の悩みや社会への疑問、憤りを募り、ぐるぐる考えたことを書き綴る連載の第6弾。一方通行ではなくみんなで協働的に考えられるようにしたいので、時に頷き、突っ込みながら読んでくださると嬉しいです。最初に「ハラスメントはなぜ起こるのか?」ということを考えてみます。(今回は、パワハラやセクハラ、スメハラを含むハラスメント全般について考えたいと思います )ハラスメントが起こるのは、端的に「弱いから」でしょう。有無を言わせない様子から一見強そうに見える加害者は、「欲望を抑えられない」「人を支配してしまう」という「人間の弱さ」が露呈している、とても惨めな姿だと思います。本当は「人間関係にお前の幼稚さ持ち込まれても知らんがな」の一言に尽きるのだけど、怒りや欲望や暴力を剥き出しにする圧倒的幼稚さを前に、わたしたちは抵抗できず、被害者は常に弱い立場に置かれてしまうのです。理性、想像力、そしてコミュニケーション人間はみんな、他者を支配、吸収してしまおうとする弱さを持っています。けれど、人間を他の動物と隔てる「理性」という機能で、そのどうしようもなさを制御しています。この「弱さ」は、理性の欠如に起因すると同時に、他者と自分との線引きができなくなる「土足問題」でもあると思います。言い換えると、他者を他者だとわかる「想像力」の乏しさ。わたしだって、急に思い出すことがある。「そっか、あなたはわたしじゃないんだ」。わたしたちは、つい自分の見ている範囲を他者の基準にしがちだ。まじで、しがちなのだ。ハラスメントあるある文言、「え〜別にされても良いって顔してるよ〜」「NOと言わなかったからYESだろ」「なんでこれもできないんだよ」「やれって言っただろ」。おい、落ち着いてくれ。わたしの心や気持ちや意図、少しは想像してくれ。ところが、想像力には限界があります。表情を読み、相手の言わんとしていることを想像することは大事だけど、想像力を完全に働かせることはできないから。想像はあくまでわたしのなかに保存され、あなたの脳内とわたしの脳内が触れ合うことは一生ないのだから。だからこそ大事になるのは、「コミュニケーション」だと思うのです。ハラスメントは「言った、言わなかった」「嫌だった、嫌がっているなんてわからなかった」と、二者が永遠にすれ違いを繰り返す、圧倒的コミュニケーション不足の問題でもあるからです。もしかしたらわたしも、加害者になりうるかもしれないでも正直、わたしはとても怖い。無意識のハラスメントが。誰をどこでどう傷つけているかわからないということが。共感を求めたはずの被害者意識が肥大し「わたしの方が大変だった」というマウンティングを繰り広げそうになることが。そして人間が、実は理性や想像力やコミュニケーションをうまく使いこなせないということが。たとえ「死ね」と直接言わなくても、ディナーにしつこく誘わなくても、お尻を触らなくても、すべての言葉や行為が、それが発せられた瞬間、毒矢になる可能性をもつ。街で聞く誰かの「幸せだな」という声が、大切な人を亡くしたばかりの人の背中を刺すかもしれない、世界はそんな不安定な場所なのです。だから、もしかしたらわたしも、加害者になりうるかもしれない。なっているかもしれない。そう自覚し、隣りの人に想像力を持って接することができるかどうかで、世界は違って見えるのかもしれません。そして、誰かを傷つけていたと知ったときに、これまでの自分を捨て、変わる勇気を持てるかどうかが、このどうしようもないわたしたち人間を救う、唯一の道だと思います。みんなで血相を変えて絶対的な正しさや他者を攻撃する言葉を探すよりも、かっこいい理念やイデオロギーにしがみつくよりも、自分自身の弱さに気づき、人と人とのコミュニケーションのなかで、言葉を積み上げながら生きたいなと、わたしは思います。続きは一緒に考えてくれたら嬉しいです。意見や批判、感想をお待ちしています。Twitterハッシュタグ「#REINAの哲学の部屋」で。3月の連載のテーマ募集します!読み込んでいます…田代 伶奈Twitterベルリン生まれ東京育ち。上智大学哲学研究科博士前期課程修了。「社会に生きる哲学」を目指し、研究の傍ら「哲学対話」の実践に関わるように。現在自由大学で「未来を創るための哲学」を開講。Be inspired!ライター。
2018年02月26日こんにちは、伶奈です。大学院まで哲学を専攻しちゃったわたしが、読者から日常の悩みや社会への疑問、憤りを募り、ぐるぐる考えたことを書き綴る連載の第5弾。一方通行ではなくみんなで協働的に考えられるようにしたいので、時に頷き、突っ込みながら読んでくださると嬉しいです。「あなたがいないと生きられない」は、ダメだ友達に相談される「別れたいけど、でも…」のあとは必ずといっていいほど執着話。でも7年間も一緒にいた、でもいい人、でも好き、でも相手は変わると言った、etc…。人間、一筋縄ではいかぬ。複雑すぎる。「なるほどそっかー」と頷きながら、頭のなかでは別のことを考える。わたしたちは、一体なにに執着しているのだろうか。もしかして、相手に執着しているようで、実は自分に執着しているのではないか。7年もあなたと一緒にいたわたし、こんなあなただったけど一緒にいたわたし、わたしのために変わると言ったあなた。結局どこまでもわたし。わたしがわたしを縛っているだけで、その目にあなたは映っていない。めうさんが言うように、「今までかけてきた時間」の呪縛はとくに恐ろしいと思います。もはや自分でも相手でもなく、宙に浮いてしまった「関係性」を必死に捉えようとしている。でもこの関係性だって、実は相手に共有されていない自分だけのものかもしれない。相手の意志が配慮されている感じはしません。あと、孤独が辛いから執着してしまうということもよくある。でも、相手はわたしの孤独解消の手段なんかじゃない。人格だ、人格。これら執着に共通するのは、世界が自分のものになってしまっている、他者不在の自己愛だということ。「あなたがいないと生きられない」みたいな、他者を自己に還元してしまう、依存だ。自戒を込めて、他者と世界はお前のものじゃねえよ、と言いたくなる。そういう意味では、愛と執着をちゃんと分ける必要はある気がします。いや、もっと相手に執着したら?でもそのうえで(←これ大事)、執着なんてし合わないで「あなたの好きにして」も、なんか違う気がする。束縛しちゃだめ、所有欲は罪だ、みたいな恋愛観って一見正しいけれど欺瞞的だとも思います。前提に「人間ひとりで生きられる」的な、行き過ぎた個人主義が潜んでいる気がするから。18世紀に活躍したドイツの哲学者イマヌエル・カントは、「自律」と「他律」を分けて、「大人だったら自律して理性的に生きろ」と言います。カントの世界観では、関係性や他者よりも「自己」が先立っていて、自律した大人たちがそれぞれ理性的に結びついている。イメージは、きちんとした大人同士の恋愛。(カント研究者たち、雑な解釈で本当にすみません)でも、わたしたちは本当にそういう世界で生きているのでしょうか。そういう人間像を理想としているのでしょうか。わたしは、自律した個人が点在しているのではなく、網の目のなかにすでに人間は存在してしまっている、つまりネットワーク的な関係性を持ってしまっていると思います。そして、この世界や存在はすでに「ある」ものではなく、「つくっていく」動的なものだとも思います。人間関係は、乾いた砂のようにサラサラしたものではない。ここは、誰かがいるからこそ生きていける世界。だからといってベタベタだけでも自己愛に回収される執着ごっごでもない。孤独だし、孤独じゃないし。誰でもいいようで、誰でもよくないし。なんか言ってそうで、何も言ってない…?いや、そうなんだけど、その揺れ動きのなかで、どうしようもなさのなかで、ひとは生きているのだなあ、と思うのです。わたしの敬愛する20世紀ドイツの実存哲学者、カール・ヤスパースがこんなことを言っています。私自身であることは孤独だということである。私もまた自立者として独立して自分自身でないならば、私は全く他者のなかに自分を失う。このとき私自身がなくなると同時に、コミュニケーションが破棄される。私は、コミュニケーションへ入ることがなければ、自分になることができず、孤独でなければコミュニケーションに入る事ができない。どっちだよ、というツッコミはさておき、ヤスパースがいうコミュニケーションは、「おはよ」「ういーっす」ではなく、「心を本気で見せあおうぜ」みたいなヤバイやつで、「愛しながら戦い」と言い換えられたりもします。コミュニケーションが、戦いかよ。生半可な執着じゃない、キングオブ執着。ヤスパースは、人間は孤独とコミュニケーションの「両極性」のうちに存在する。ひとは、「他者へのコミュニケーション的態度と、自己の絶対的独立性という緊張関係のうちに存在するのである」と続けます。でも思うのは、いまこの世界で圧倒的に足りていないのは、コミュニケーションのほうではないでしょうか。だからもっと「相手」に執着したら?と思う。もっともっとコミュニケーションをとって相手を知ろうとしたり、応答し合ったり、感情を出し合ったり、愛を持って戦ったりすればいいのに。そしたら世界は、孤独でバラバラで壊れそうな人間がへばりついているところじゃなくて、同質さも異質さも共有して「あなたがいるから生きられる」空間になるのにな。All photos by Junko KobayashiText by Reina TashiroーBe inspired! この記事を読んでいる人はこの記事も読んでいます!#004 「レディファーストって古くない?」でも、嬉しくない?“男性が女性を丁寧に扱う文化”を哲学的に考える| “社会の普通”に馴染めない人のための『REINAの哲学の部屋』 こんにちは、伶奈です。大学院まで哲学を専攻しちゃったわたしが、読者から日常の悩みや社会への疑問、憤りを募り、ぐるぐる考えたことを書き綴る連載の第4弾。一方通行ではなくみん...
2018年01月17日こんにちは、伶奈です。大学院まで哲学を専攻しちゃったわたしが、読者から日常の悩みや社会への疑問、憤りを募り、ぐるぐる考えたことを書き綴る連載の第4弾。一方通行ではなくみんなで協働的に考えられるようにしたいので、時に頷き、突っ込みながら読んでくださると嬉しいです。レディファーストは嬉しいレディファーストに対し、「そもそもの起源が女性蔑視だからダメ」とか「女性が何も出来ないから男性がしてあげるという風潮が女性を見下す女性差別だ」と批判することができると思う。逆に「女性の優先権を認めるのは男性差別だ」と反論する人もいるでしょう。欧米ではこのような理由から、時代に合わないレディファーストが見直されているという話も聞きます。どれもわかる気がするんだけど、喉に何かがへばりついて飲み込めない。「素直にどう思いますか?」という問いかけなので、わたしの意見を書きます。わたしは、レディファーストされたら嬉しいし、好きな人が奢ってくれたらふつーに喜ぶ。けど、この喜びは「女性は奢られるべきだ」という信念や「相手が男性だから」という理由に基づくものではありません。いや、むしろもっと浅はかで、その相手に優しくされたらうれぴー! ジェントルマンってステキー!程度のものかもしれない。だって、レディファースト、誰も損してないじゃん、とか思っている。やばい、フェミニズムの波に乗り遅れている。なんとかイズムにとらわれずにもう少し考えてみます。「男性はこうすべき」「女性はこうすべき」という性別を根拠にした規範を、社会や他者が押し付けるのは間違っていると思います。間違っていると思う理由は、そうできない(したくない)人の自由を奪うから。そして、「女ー男」社会の終焉を迎えるべきこのご時世で「性別」を主張の根拠に持ち出すのは愚かだから。というか、「男だったら荷物を持てよ」とか「女だから払わなくていいよ」は、差別というか、根拠不十分なハラスメントって感じ。女性の解放を求めて戦った20世紀フランスの哲学者ボーヴォワールの言葉を紹介します。女性を優先し、責任を解放することで、結局相手の自由を奪うことになっているという指摘。どうでもいいときには男が女を立てて一等席を譲るべきなのはお決まりのこと。原始社会のように女に重い荷物を背負わせる代わりに、つらい仕事や心配事の一切を急いで女から取り除く。それは同時に、女を一切の責任から解放することである。こうして女は自分の立場の安易さにだまされ、心をそそられて、男が女を閉じ込めたがっている母や主婦の役割を受けいれるよう期待されるのだ。田代 伶奈ベルリン生まれ東京育ち。上智大学哲学研究科博士前期課程修了。「社会に生きる哲学」を目指し、研究の傍ら「哲学対話」の実践に関わるように。12月から自由大学で「未来を創るための哲学」を開講。Be inspired!ライター。Twitter: photos by @hello.itsnoemiText by Reina Tashiro ーBe inspired! この記事を読んでいる人はこの記事も読んでいます!#003 「死ぬのが怖いんです」。ある高校生の普遍的な悩みに、28歳の彼女が出した答えとは。| “社会の普通”に馴染めない人のための『REINAの哲学の部屋』 こんにちは、伶奈です。大学院まで哲学を専攻しちゃったわたしが、読者から日常の悩みや社会への疑問、憤りを募り、ぐるぐる考えたことを書き綴る連載の第3弾。一方通行ではなくみん...
2017年12月14日こんにちは、伶奈です。大学院まで哲学を専攻しちゃったわたしが、読者から日常の悩みや社会への疑問、憤りを募り、ぐるぐる考えたことを書き綴る連載の第3弾。一方通行ではなくみんなで協働的に考えられるようにしたいので、時に頷き、突っ込みながら読んでくださると嬉しいです。人間は自由だからこそなにものにでもなれるよ生まれながらにして死刑囚である人間は同時に、何にも規定されていない自由な存在でもあります。「人間は自由の刑に処されている」という有名な言葉を残した哲学者サルトルは、人間は自由だからこそなにものにでもなれるよ、と言ってくれます。優しい。人間は最初は何ものでもない。人間は後になってはじめて人間になるのであり、人間は自らが造ったところのものになるのである。人間の本質は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。人間は、自らそう考えるところのものであるのみならず、自ら望むところのものであり、実存して後に自ら考えるところのもの、実存への飛躍の後に自ら望むところのものであるにすぎない。「ところのもの」が多過ぎて頭が痛くなりそうですが、サルトルが言わんとしていることは、自分で自分の人生を自由にデザインして生きていくしかない、ということです。神みたいな超越的な存在から「あなたの人生はこうだ」みたいな本質を与えられていないからです。だから人間はとても孤独だし、自由と引き換えに全責任を背負わなければいけない。わたしのちっぽけな人生には「あなたはジェダイだ」「人類を救う宿命だ」なんていうシナリオはない。でも、だからこそ人間は、100年間の牢獄の中で、自分の人生を設計できるし、そこに意味や価値を創造していくことも、喜びを見出すこともできるのです。神の前でも、サクラダファミリアの前でも、生の脆さの前でも、わたしは「自分でつくったところのもの」でしかないからです。そして人間は、わたしとあなたと地球と宇宙がいつか消えてしまうというやばすぎる事実に無力さを感じる以上のことができます。わたしたちは、どうしようもない死への恐怖が頭を駆け巡った次の瞬間、お笑いを見ながら爆笑できる。恋をして胸がドキドキしたり、バーゲンでお気に入りのものがゲットできたり、美味しいご飯を食べたり。日常の小さなことに大きな大きな幸せを見つけ、人生の意味を噛みしめることができる。死への恐怖が消えることはないけれど、なにも哲学して賢者になったり悟りを開いたりしなくても、恐怖に人は勝つことができるのです。これが、生きているということの事実だし、人間の偉大さなのだと思います。最後に谷川俊太郎の『質問箱』という本を紹介します。死ぬのがいやだと言う6歳のさえちゃんへの答えです。詩人、すごいなあ。質問どうして、にんげんは死ぬの?さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。(追伸:これは娘が実際に母親である私に向かってした質問でした。正直、答に困りました〜)ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、「お母さんだって死ぬのはいやだよー」と言いながらさえちゃんをぎゅーっと抱きしめて一緒に泣きます。そのあとで一緒にお茶にします。あのね、お母さん、言葉で問われた質問に、いつも言葉で答える必要はないの。こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、ココロもカラダも使って答えなくちゃね。 今回のお悩みも一緒に考えてくれたら嬉しいです。意見や批判、感想をお待ちしています。Twitterハッシュタグ「#REINAの哲学の部屋」で。読み込んでいます…
2017年11月15日こんにちは、伶奈です。大学院まで哲学を専攻しちゃったわたしが、読者から日常の悩みや社会への疑問、憤りを募り、ぐるぐる考えたことを書き綴る連載の第2弾。一方通行ではなくみんなで協働的に考えられるようにしたいので、時に頷き、突っ込みながら読んでくださると嬉しいです。伶奈って誰?▶︎「当たり前」を疑わない人へ。「哲学」という“自由になる方法”を知った彼女が「答えも勝敗もない対話」が重要だと考える理由。前回の連載▶︎#001 「なんで複数の人と恋人関係になっちゃいけないの?」28歳の彼女が“社会の理不尽な恋愛ルール”に物申す。他者を手段としてだけでなく同時に目的として扱え「人と人の関係ではなく、モノとして見られているとさえ感じる」というKさんの気持ち、よくわかります。食に限った話ではなく、これもまた現代の病がもたらす恐怖感なのかもしれません。18世紀に活躍したドイツの哲学者イマヌエル・カントは、すごぶるカッコイイ言葉を残しています。人間および一般にすべての理性的存在者は、目的自体として存在し、誰かの意志の任意な使用のための手段としてのみ存在するのではなく、自己自身の対する行為においても、また他のすべての理性的存在者に対する行為においても、常に同時に目的として見られねばならない。2017年日本から突然1785年プロイセン王国。寿司からカントかよ。カント大先生の目眩がするような言葉を要約すると「自分や他人を単に手段として扱ってはならず、 常に同時に目的自体として扱わねばならない」ということ。人間を交換可能な「モノ」のようにだけ扱ってSNSや評価のための手段にしたり、「お前の寿司じゃなくても別にいいし」みたいな態度で蔑ろにしてはいけません。相手をきちんと人間と見なして尊敬しましょうというお話です。それが、生きるうえでなによりも大事だと。食が人と人との関係だとすれば、カウンターでお寿司を食べるときにわたしたちが享受しているのは、寿司そのものだけでなく、寿司を握るまさにその人。それに加え、質感や雰囲気などその人が醸し出す全てに一万円以上の対価を払っているのではないでしょうか。だから作り手に感謝しながら感謝しながら食を楽しんでほしいと願うのは当然。写真を撮り怖い顔で評価しながらお寿司を食べることは、食に生きる人への冒涜だから。ああ、でも「お金払ってんだからこっちの自由やん」って言う人もいそう。学費払ってるんだから授業休んでもええやん、給料払ってるんだからもっと働けや、と。最近よく聞くこういう論調に「ちょっと待ったー!」をして締めたいと思います。なぜだか人間って、人間関係の中で生きていることを忘れがちだと思う。人間は、代替可能なモノではないし、他者不在の自由なんてない。他者がいなかったらお寿司出てこないのに、ね。だから「僕が売っているのはそれじゃないっす!」「自分も人間っす!」「目的として扱ってくれ!」って呼びかける権利はどこまでもあると思うのです。 なのでKさんの「対価をもらう以上、そういった関係になってしまうことは仕方ないのでしょうか?」に対して言いたいのは、仕方なくないよ!ということ。あまりにもモノ化してくる人が現れたら、カウンター越しに「“食”ってなんでしょうね」って問いを投げかけ、ドヤ顔でカント大先生の話をしながらお客さんと一緒に考えてみてください(お洒落な寿司屋でそんな野暮ったいことしないかな(笑))。田代 伶奈ベルリン生まれ東京育ち。上智大学哲学研究科博士前期課程修了。「社会に生きる哲学」を目指し、研究の傍ら「哲学対話」の実践に関わるように。現在自由大学で「過去に向き合うための哲学」を開講中。Be inspired!ライター。Twitter: photos by @hello.itsnoemiText by Reina Tashiro ーBe inspired! この記事を読んでいる人はこの記事も読んでいます!#001 「なんで複数の人と恋人関係になっちゃいけないの?」28歳の彼女が“社会の理不尽な恋愛ルール”に物申す。| “社会の普通”に馴染めない人のための『REINAの哲学の部屋』 こんにちは、伶奈です。今日から連載を始めることになりました。月に一回読者から、最近悩んでいることや、社会に対して疑問に思っていることを募り、わたしなりに哲学的に考えたこと...
2017年10月31日こんにちは、伶奈です。今日から連載を始めることになりました。月に一回読者から、最近悩んでいることや、社会に対して疑問に思っていることを募り、わたしなりに哲学的に考えたことを書き綴ります。一方通行ではなくみんなで協働的に考えられるようにしたいので、時に頷き、時に突っ込みながら読んでくれると嬉しいです。伶奈だれ?っていう人は、是非セルフインタビュー記事をお読みください。▶︎「当たり前」を疑わない人へ。「哲学」という“自由になる方法”を知った彼女が「答えも勝敗もない対話」が重要だと考える理由。ひとを愛するってなんだろう話が逸れたので、ポリアモリーの話に戻しますね。恋愛はひとそれぞれなのでNさんが幸せなら問題ないのですが、個人的に疑問があります。「本当に一度に複数のひとを愛せるのか?」ということです。世界には様々な婚姻制度があります。だから、いっときの日本の社会制度なんてどうでもいい。「ポリアモリーは人間の本能に逆らっている」とか「一人の人を愛することだけが尊い」とかいった安直な観点から、モノガミー的な制度を擁護するつもりではなく、「愛するとはどういうことなのか?」という観点で、少し考えてみます。開放的で包括的なイメージがある愛ですが、恋愛は極めて排他的で独占的な性格をもっています。「あなたを愛する」ということは、その瞬間「他のあなたを愛さない」ことです。人間は、時間と空間に制約された有限的存在なので、「愛している」という経験は、「いまという時間」と「目の前にいる人」に必ず制限される。だから文字通り「同時に」複数を愛することはできないと、わたしは思います。寂しいとき、悲しいとき、嬉しいとき、心の内奥をだれかに打ち明けたくてたまらないとき、すでにどこかで誰かを選択しているのではないでしょうか。その人が、愛する人、なのではないでしょうか。明日それが変わるとしても。トルストイは「愛は惜しみなく与う」と語りましたが、大正期の小説家、有島武郎は『惜しみなく愛は奪う』という書物の中で「通常愛といえば、優しい、女性的な感情というセンチメンタリストを考えるが、本当の愛はそういうものであろうか」という問いを投げかけました。愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだはあ、かっこいい。有島からすれば、愛は、キラキラではない。苦しくて、つらい。愛は、わたしの命すら奪うもの。相手のすべてを奪って自己のものにしようとし、主体性や自由、地位や名誉を投げうってまで相手と生きんとする力でもあります。そんな深いエネルギー、複数に与えられるのかなあ。他の誰かを蹴落としてもこの人だけはなにがあっても守りたい。一人だけ救ってやるって神様に言われたら、まじお願いだからこいつにしてくれ! と言わざるをえない。極端だけど、セックスできるとか相手に尽くしたいとかではなく、この願望を基準に考えるとどうでしょうか。選べなかったら、誰のこともたいして愛していない気さえします。誰と生きたいのか? 死にたいのか? 誰を助けたいのか? 思考実験みたいでなんか申し訳ないけれど、究極の選択を迫られたときに「この人だ!」と決断できる、その絶対的な自信が愛の本質である気がしています。田代 伶奈ベルリン生まれ東京育ち。上智大学哲学研究科博士前期課程修了。「社会に生きる哲学」を目指し、研究の傍ら「哲学対話」の実践に関わるように。10月から自由大学で「過去に向き合うための哲学」を開講。Be inspired!ライター。哲学メディアnebulaを運営。Twitter: photos by Noemi MinamiText by Reina TashiroーBe inspired!
2017年09月05日