【前編】『ふたりの人を愛し…』歌人・永田和宏語る故・河野裕子さんとの青春から続く「愛する人を失った悲しみとは、伴侶や恋人の前で輝いていた自分がいなくなってしまった悲しみなのではないかと思う。河野を失ったとき、僕も僕自身が失われたに等しい思いでした」そう語ったのは、永田和宏さん(75)。日本を代表する歌人で、細胞生物学研究の第一人者だ。「河野」と呼ぶのは10年8月12日に乳がんで亡くなった最愛の妻・河野裕子さん(かわの・享年64)のことだ。裕子さんは20代前半から歌人として頭角を現し、23歳で角川短歌賞を最年少受賞するなど活躍。夫妻は09年に宮中歌会始詠進歌選者をそろって務めて「初の夫婦同時の選者」となるなど上皇陛下、美智子さまをはじめ、皇族方との親交もつづけてきた。晩年の裕子さんは、そんな永田さんの「その後」を案じていた。《私が先に死んだら、あの人、どうするかなあって。多分、お酒を飲みすぎて泥酔してお風呂で溺死するでしょうね》(『私の会った人びと』より)いっそ自分も天に昇ってしまえば。そう思わなかったのかと問うと、永田さんは即座に答えた。「否応なくありましたね、河野が『すごいわね』『よかったわね』と言ってくれることが、僕の生きる張り合いになっていた。もうそれを受け止めてくれる人がいないというのは、半分自分がいなくなったんですから……」だが幸い、永田さんには仕事があった。11年に夫婦の40年の相聞歌と、裕子さんのエッセイを編集した『たとへば君 四十年の恋歌』(文藝春秋)を出版。12年には闘病記『歌に私は泣くだらう ー妻・河野裕子 闘病の十年ー』(新潮社)も。「河野の生前の言葉と、歌を残す作業でした。日々それに忙殺されたことが救いだった」このとき手紙とともに遺品から見つけていたのが、10冊以上にもなる裕子さんの日記帳だったのだ。『いくら夫婦とはいえ、他人の心をのぞき見るようなことはできない』と、永田さんは裕子さんが亡くなってから10年近く日記を読めずにいた。しかし、いまから3年前の19年のこと、意を決して手を伸ばしたのだという。「先立った河野は、本当に僕が夫でよかったのか?ほかにふさわしい選択はなかったのか?そんな疑問が頭をもたげたんです」すると日記には、裕子さんの胸の内が赤裸々につづられていた。当時、裕子さんの心には永田さんとN青年という二人の男性がいたという。そのあいだで悩む裕子さんが純粋すぎる恋の煩悶をぶつけてきた、68年1月の一日を、永田さんが回想する。「あの日、河野はことさら思い詰めているようでした。喫茶店で長い沈黙にいたたまれず、外の路地に出て河野に告げられたんです」裕子さんは「どうしたらいいの」を繰り返し、泣きながら永田さんの胸をたたき、くずおれた。そこで彼がかけた言葉を、裕子さんは日記に克明に刻んでいた。《あのひとは限りなく優しかった分別をもっていた〈好き嫌いはどうしようもないモノなんやしそんなに苦しむな……さあ自分の足でちゃんと立って〉そう言いながらむき出しになった脚にスカートをかぶせてくれた》そしてこの記述のあとに、後に代表作のひとつとなる一首(『森のやうに獣のやうに』所収)の原型がつづられていたのである。《たとへば君ガサッと落葉すくふやうにわたしを攫って行つては呉れぬか》裕子さんの最も有名な歌がこの出来事に起因していたことを初めて知った永田さんは、驚いた。「私のことを『離れられない存在』として強く意識してくれた夜だったんだと、感慨深い思いでした」この日以来、会う頻度が増していき、裕子さんの熱情は一気に、永田さんへと傾注していった。《あなたが居なくなってしまったら到底ひとりではたっていられそうにもありません》(1月7日 裕子)いざ日記の封を解いてみれば、まっすぐに愛そうとしていた裕子さんの、けなげな表情ばかりが浮かんできて……。永田さんは、裕子さん亡き後、こんな一首を詠んでいた。《わたくしは死んではいけないわたくしが死ぬときあなたがほんたうに死ぬ》(『たとへば君』より)「死者がまだこの世で生きる方法があるのだとすれば、それは生者の記憶のなかにしかない。つまり河野を最も知る者として、僕は長く生きなければならない。それが、彼女を生かしておく唯一の方法だと気づいたんです」その境地が、日記をめくる作業へとつながったのである。「そこから河野と対話するように、精読しながら書き進めました」新著『あの胸が岬のように遠かった 河野裕子との青春』(新潮社)は、裕子さんとの「青春の逸話」の結実だ。コロナ禍で、自宅に単身住まう時間が増えたことも、結果的に功を奏したといえる。裕子さんが遺した日記、言葉と向き合う時間を存分に持つことができたのだから。「いまは、なんだか誇らしい気持ちもあります。一切の妥協なく、相手にすべてぶつけて返歌を待つ。河野だからできたことだし、相手が僕だからこそできたこと。『俺でよかったのか』という疑問で始めた旅でしたが、いまは『俺でなけりゃ、もたなかったな』と」■年間20万首を見て、自らも歌を作り続け、料理もする。妻はきっと褒めてくれる「河野が心配していたのは、食事のことです。でも、まったく料理なんてしなかった僕が、いまは、だしを取って味噌汁つくりますし、おひたしも作っているんです」相変わらず多忙な日々を過ごすなかで、永田さんは昨今、自身の“成長”を実感するのだという。「やっぱり一皮むけたと思います。脱皮したというかね。それを河野に見ていてほしい、認めてほしいと思うんですよね」人生100年時代、健康寿命を追求する向きは増すなかで永田さんはもとより「日々是好日」なのだ。「いまも年間20万首ほどは選歌をしているし、日ごろから、朝4時くらいまで仕事しているからね」すこし顎を上げるように言った。歌を作り始めて軌道に乗れば、発想が発想をどんどん呼ぶという。「先日は、締切りと出張が重なってどうしようもなく、東京行きの『のぞみ』の2時間15分のなかで30首あまり作りました。『時速15首』と自分では言っているんです」前出の新著を原作とするNHKドラマ(柄本佑、藤野涼子主演)も放送日が6月6日に決まった。75歳にして人生の繁忙期を過ごす夫を、天国の妻はどんな思いで見ているのだろうか……。「フルに働いているもんな。褒められるしかないだろうね……『あなた、よくやっているわね』と」今宵もワイングラスを片手に、永田さんと裕子さんの語らいが、詠まれることだろう。《呑まうかと言へば応ふる人がゐて二人だけとふ時間があつた》愛妻に捧げた挽歌である。(取材・文:鈴木利宗)
2022年05月22日映画『滑走路』が、2020年11月20日(金)に全国で公開される。“非正規歌人”による魂の叫び - 滑走路原作となるのは、32歳で命を絶った“非正規歌人”萩原慎一郎の歌集「歌集 滑走路」でデビュー作にして遺作。彼は非正規の契約で働いていた自らの経験を基に短歌を発表し続けた歌人だ。「歌集 滑走路」に描かれる、生きる希望、そして苦悩は、多くの人々の胸に突き刺さり、多くの共感を集めた。映画『滑走路』では、原作となる歌集をモチーフにし、オリジナルストーリーとして繊細で濃密な人間の闇と美しさを描いていく。さまざまな人生が交差する群像を豪華キャストで描く物語は、将来への不安を抱える切り絵作家、非正規雇用問題に向き合う官僚、中学校でいじめにあう学級委員長、と3つの物語が重なり合いつつ進んでいく。翠(みどり) - 水川あさみ切り絵作家。30代後半にさしかかり将来への不安を抱える。若手官僚・鷹野 - 浅香航大非正規雇用問題に向き合う。官僚という仕事につき、膨大な仕事量、責任感などに圧倒されつつ苦悩する。学級委員長 - 寄川歌太中学二年。幼馴染をかばったことでいじめの標的にされる。大切なものを守ること、貫くことで自分が辛い状況に陥っていく。陽子 - 坂井真紀学級委員長の母。シングルマザーとして育てる。拓己 - 水橋研二翠の夫。高校の美術教師として働く。雨宮 - 吉村界人鷹野の同期。少し高飛車で表面的には強いサラリーマンだが本音をなかなか言えない繊細なところもある。明智役 - 染谷将太鷹野が死の原因を探る青年の元同僚。天野 - 木下渓学級委員長のクラスメート。包み込む様な優しい強さを持つ。裕翔 - 池田優斗学級委員長の幼馴染。親友を裏切りたくないが、かといって自分がいじめられてしまう怖さも持つ。脚本・桑村さや香×西谷弘監督『滑走路』の脚本を務めるのは、劇場アニメ『ジョゼと虎と魚たち』の公開を控える桑村さや香。また監督は、『マチネの終わりに』『シン・ゴジラ』といった数々の話題作品で、名助監督として活躍してきた大庭功睦が担当する。大庭監督は、オリジナルストーリーの着想源について「考案した企画の端緒となったのは、webに数多く書かれていた、原作読者の方々の書評でした。萩原さんの歌を、まるで自分自身の事が歌われたかのように感受した読者の方々が、自らを投影しつつ気持ちのこもったレビューを多数書かれているのを目にし、その深い交流に感銘を受け、“この読者の方々を登場人物に据えた群像として、ストーリーを紡げないか”と考えたのです」とコメント。さらに鑑賞者の期待を裏切らない作品を残したいと思いの丈を述べている。主題歌に、Sano ibukiの新曲「紙飛行機」なお本作の主題歌を務めるのは、アニメーション映画『ぼくらの 7 日間戦争』でも主題歌を務めたいシンガー・ソングライターのSano ibuk。以前より原作歌集を愛読していたという彼が、映画の製作途中から映像を何度も見返し、作品の世界観に寄添う新曲「紙飛行機」を書き下ろした。映画とのコラボレーションに関してSanoは「表面的な希望ではなくその奥にある絶望や妬み、悲しみを包み込む優しさのようなものを感じるこの作品に出会えたことで、僕自身救われたような気持ちになりました」とコメントを残している。『滑走路』ストーリー厚生労働省で働く若手官僚の鷹野。彼は激務の中で仕事への理想も失い無力な自分に思い悩んでいた。ある日、陳情に来たNPO団体から非正規雇用が原因で命を絶ったとされる人々のリストを持ち込まれ追及を受ける。そのリストの中から自分と同じ25歳で自死した青年に関心を抱き、その死の理由を調べ始める。■作品詳細映画『滑走路』公開日:2020年11月20日(金)原作:「歌集 滑走路」(角川文化振興財団/KADOKAWA刊)監督:大庭功睦脚本:桑村さや香出演:水川あさみ、浅香航大、寄川歌太、木下渓、池田優斗、吉村界人、染谷将太、水橋研二、坂井真紀主題歌:Sano ibuki「紙飛行機」(EMI Records / UNIVERSAL MUSIC)
2020年07月16日子どもを授かる喜びは男女同じですが、つわりや陣痛のすさまじさは実際に体験してみなければわからない感覚ですよね。女性歌人がみずみずしい感性と冷静な目線でとらえた妊娠と出産にまつわる短歌と、男性歌人が出産シーンをとらえた歌を紹介します。■健診、つわり、生殖医療にまつわる妊娠のうた「白鯨の棲みかとなりしわが胎の超音波画像(エコー)に黒く水が映れり」澤村斉美(『短歌往来』2015年10月号)健診のときに胎内を映す超音波機器のモニターをみている場面。作者にとって、まだ対面していないわが子は、人間というよりも白い鯨のようにロマンティックな生き物です。白鯨が黒い水に息づく様子を美しく詠いあげています。次に紹介する早川志織の作品は、妊娠を新しい詠いかたでチャレンジしています。「生殖医療の善悪をいう新聞はいつでも新聞の匂いしていて」早川志織(『クルミの中』)医学の進歩により、生殖医療を受けることで子どもを授かる女性は多くいます。一方で、子は自然に授かるものという考え方があります。どちらが正解だと白黒をつけられる問題ではありません。生殖医療にまつわる話題は誤解や論争をまねきやすいもの。ナイーブな問題をそのままうたうのではなく、嗅覚に訴えかけることによって迫力のある1首になりました。「医術だから、目をつむり針を受け入れる人工授精は十秒で終わる」早川志織(『クルミの中』)具体的な医療現場の臨場感を詠みこんでいます。時間にすると、たった10秒間のことですが、忘れられない体験であり、なまなましい感覚がつたわってきます。「みごもれば感官一途に尖りゆき柑橘の強き酸(さん)を欲せり」小島ゆかり(『水陽炎』)つわりのうた。妊娠すると味覚が変わったり、においに敏感になったりすることも。すっぱいものが欲しくなるのは感官器官がとがるから、という見立てに共感しました。■命の誕生をドラマチックにあらわす出産のうた「子を負える埴輪(はにわ)のおんなあたたかしかくおろかにていのち生みつぐ」山田あき(『山河無限』)スケールの大きさが魅力。母から受けついだ遺伝子を子に伝えていくさまを、「はにわ」にたとえるところに作者のゆたかな感性があらわれています。「海原にうしほ満つべし現身を揺り上げていま吾子生まれたり」小島ゆかり(『水陽炎』)女性のバイオリズムは月と海にたとえられます。月の引力と潮の満ち干きは深いかかわりがあります。満ちてきた潮がからだを揺りあげるように新しい生命が誕生した。宇宙と一体化するような出産の名歌といえるでしょう。「巻尺をもちて計れるその体、声だして指の数は数へる」大松達知(『ゆりかごのうた』)男性は冷静です。出産の余韻がさめない妻の横で、夫はわが子の体を観察していました。さりげないシーンですが、はっきりと男女の考え方のちがいがわかりますよね。「生まれたる日の体重の四ケタをアマゾンの暗証番号にせり」大松達知(『ゆりかごのうた』)うれしいという言葉を使っていませんが、出生時の体重をネットショッピングの暗証番号にするところに作者のよろこびがうかがえます。妊娠や出産をうたう作品はきれいなものだけではありません。作者の顔が見えるようなリアリティのあるうたや、現代の問題点を鋭く指摘する名歌も多いのです。人が人を産みだす過程は、それだけドラマチックで起伏に富んでいるのですね。
2016年05月28日前回 は、子育てまっさかりの女性歌人がうたった子育て短歌をご紹介しました。今回は、パパになった男性歌人にうよる子育て短歌です。赤ちゃんが産まれる前からお腹の中で育てている女性にとって、つわりに苦しみ、陣痛に耐えて、ようやく対面したわが子は自分の分身のような存在。ところが男親にとっては、わが子の誕生はうれしい反面、戸惑うことも多いようです。現代歌壇で活躍中の男性歌人たちは、父親になることや育児、子育てをどのように考えているのでしょうか?父になる違和感?「陰暦の八月みたいにずれている 二十五歳の父であること」 吉川宏志『夜光』吉川氏は父親になった不思議さを、太陰太陽暦にたとえました。陰暦とは、日本では明治5年まで使われていた暦(旧暦)です。月の満ち欠けを基準に「月」を決め、太陽の動きをもとにして「年」を数えます。よって毎月1日はかならず新月になり、15日頃が満月になります。そのため現在の暦よりも1ヶ月ほど遅れます。だから、陰暦の8月を新暦に直すと秋になってしまいます。慣れ親しんでいる暦なら、真夏の8月に鈴虫が鳴き、すすきが生えているのは、なかなか理解しがたい感覚ですよね。「乳足らぬ 夜に鮎太が泣きはじむ 歯のない歯茎を我は見ており」 同上まだ、歯の生えていない新生児の口のなかはまっくら闇。そこにピンクの歯茎があるのは、なまなましく見えるものです。泣き出した息子をながめながら、作者は「歯がない歯茎」を発見した自分自身を客観視している、そんな歌です。ママよりもパパは、わが子を客観的に観察しているのかもしれませんね。しかし、歌集はクールな作品ばかりではありません。「頭(ず)の中で石の割れたる感じして 子の頬を撲つ飯食わぬ子を」同上「遊びたい 寝るのは嫌と子は泣けり こんなにわれは眠りたいのに」 同『海雨』子育てを歌にして詠むことで、人間くさい本心が見え隠れして、作品世界に奥行きが広がっています。父と母とで異なる、子が育つ楽しさと戸惑い「子が乳を飲まなくなりし寂しさと いうを聞けどもついにわからず」 松村正直『やさしい鮫』「子とふたり ならんで用を足すときの 何だろうこのかなしみのごときは」同上子が育つ楽しさと戸惑いにも、男女で温度差があるようです。しかし、卒乳の寂しさも、子と2人並んで用を足すときの哀しみに似た感覚も、ある意味では同じ気持ちだと言えるでしょう。赤ちゃんが、すこしずつ小さな人間に成長していく過程は、かすかな鈍痛をともなうものかもしれません。「出勤の前のひととき 仰向けの二十一本の子の歯を磨く」 同『午前3時を過ぎて』だからこそ、毎日が新しい感情の連続で、父も母も子の時間もまぶしく輝いているのではないでしょうか。お父さんも頑張っています!働きざかりの男性が、育児や子育てを頑張る姿は増えてきました。「聞けよ 父は何でもなんでも出来るのだ 母乳をくれてやる以外なら」 本多稜『こどもたんか』「はっきりと言える言葉はまずママでその次がイヤっ他はまだなし」 同上「抱き上げてむすめの涙乾くまで夕べの町をあるいていたり」 同上本多稜の作品『こどもたんか』は父親の立場で、全編を子育ての作品だけで構成した歌集です。これは、1,000年をこえる短歌史上初の挑戦です。本多氏は『こどもたんか』の「あとがき」に、子育ての楽しさをこのように語っています。「子育ては、発見の毎日。人生の復習でもある。子供の目を通して見る世界はなんと輝きに満ちていることか。その輝きを、ちいさな欠片でもいいから形のあるものにとどめておきたい」父親歌人としてのこうした作品が増えて、男性の育児参加が、もっと当たり前のことになってほしいですよね。パパは、授乳のほかは、何だってできるのですから!(有朋さやか<フォークラス>)
2016年03月22日子育て中の女性と短歌は、とても相性がよいのです。5・7・5・7・7文字の31音で完結する短歌には、短いながらにさまざま感情や情景が込められています。今回は、育児や家事をしながら言葉をつむぐ現役ママさん歌人たちが詠んだ、子育てをテーマにした短歌を紹介します。短歌のなかにはまさに「子育てあるある」がたくさん詰まっていました。子育てはネタの宝庫!?はじめに紹介する、春野りりんは、水彩で描くイラストのような作風が持ち味。昨年出版した歌集『ここからが空』(本阿弥書店)は、わが子の成長をよろこぶ、素朴で心温まる1冊です。そこに載っている短歌を数首、ご紹介します。「幼稚園 受験願書にひろびろと 長所欄あり 花の種をまく」 春野りりん(『ここからが空』)「手をあげて こたへる児あり 診察に ほかの患者のよばれるたびに」同上「母親はムスカ大佐、父親はオバマと登録されたるケータイ」同上病院でほかの患者が呼ばれても手をあげて返事をしてしまう…そんな愛らしい時期はひとときしかありません。作者がそうした、かけがえのない蜜の期間を大切にしていることが、短歌から見て取れます。「現在」にしかない、時間のきらめきが魅力的です。特別じゃなくていい。日常こそが、かけがえない日々中井守恵は、仙台在住。2014年に角川短歌賞次席に選ばれ、50首連作「あかるい春」で、息子と過ごす日常風景を詠い、注目されました。「震災を 思い起こせば その刹那 「きらきら星」を子は歌いだす」中井守恵(『短歌人』2016年1月号)「蟻を追う 息子のうなじを眺めれば しののめ色になりゆくこころ」同(『短歌』2014年11月号)「たいせつにたたむ靴下 草原に恐竜二頭が描かれていて」同上蟻を追いかけたり、靴下を畳んだりという何気ない生活を通して、赤ちゃんから子どもに少しずつ変わっていくわが子をいとおしく見つめる母親の姿が印象に残る歌ではないでしょうか。子育てはキレイごとだけじゃない、母の葛藤を詠んだ短歌次に紹介する森尻理恵は、地球物理学の研究者。子育てと研究を両立する日々を詠った歌集は読みごたえがあります。キレイごとだけにとどまらず、ワーキングマザーの葛藤をありのままに表現しています。「何もかも ママのせいだと子は泣きぬ 例えば庭が暮れゆくことも」森尻理恵(『グリーンフラッシュ』)「黒で絵を描く子は心が病んでいるとテレビは言えり さあて困った」同上「子をなして ハンディー負うは女ゆえ 君が決めよと同業の夫」同上「抱き方の下手なるわれによりすがり 泣く子に不思議な温かさあり」同上小さくても子どもは1人の人間。それゆえ、人が人を育てる過程には、ときに修羅場をさけて通れないこともあるでしょう。しかし、たとえ抱き方が下手であってもやはり、子どもは「ママが大好き」なのです。焦りや不安などの気持ちを素直に認めて短歌にしている面に、とくに共感しました。歌集は育児書や育児体験記のような実用書ではありません。しかし、ママさん歌人たちの作品には、ハウツー本でも得られないようなリアリティーがあり、他人にはおいそれと語れないような育児への不安や本音、そしてわが子への思いが込められていました。「「赤ちゃん」と かつて赤ちゃんだった子が 寄って行くなり 桃咲く道を」川本千栄(『樹雨降る』)ここに描かれている赤ちゃんも、やがて子どもになり、その後大人へと成長していきます。一瞬ごとに変化していくわが子の姿に、歌人たちは今日も、ことばをつむぎます。(有朋さやか<フォークラス>)
2016年03月15日5・7・5・7・7の31文字で表現する、世界でいちばん短いポエム。それが、短歌です。短歌のルールは、自分の思いを31音で表現するということだけ。その決まりごとさえ守れば、何を詠むのかは自由です。よく、「短歌って、花鳥風月を入れるんでしょ?」ときかれます。おそらく国語の教科書に載っていた『万葉集』や『百人一首』の小むずかしいイメージが抜けないせいでしょうが、そんなことはありません。家族や恋愛、仕事や時事問題など、短歌はジャンルを問わないのです。短編小説をよむように、絵本を開くように、簡単に楽しめる短歌の世界。多くの短歌のなかから、21世紀を生きる女性歌人たちの相聞歌(恋愛の歌)を紹介しましょう。■ドラマチックな展開を予想させる博物館での逢瀬「触つてはいけないものばかりなのに博物館で会はうだなんて」山木礼子(『短歌研究』2013年9月号)博物館に展示されている作品には、「お手を触れないでください」と書かれています。遠い昔に使用していた道具や、泥のなかから発掘され、研究対象として保管されている貴重な品々…。うっかりさわるとこわしてしまうこともあります。そんな、「触つてはいけないものばかり」の展示室での逢瀬は、これからどのように発展していくかわからない恋愛模様を、ドラマチックに表現しています。山木礼子は、この歌をふくめた連作30首「目覚めればあしたは」で、第56回短歌研究新人賞を受賞しました。当時25歳でした。■一途に相手を思いつづける歌次に紹介する田中雅子は、決してふりむいてくれない人を思いつづける、静かな作風です。「許される程度に君を思う夜壁はぶあつく距離を知らせる」田中雅子(『青いコスモス』青磁社)「人づての便りを拾い集めれば嗚呼君が今この世に生きている」同(『令月』砂子屋書房)「ほんとうはかなしいロシアの民謡(うた)なんだ トロイカを君は教えくれにき」同頭では理解していても、心は一途に「君」をもとめてしまう。せつなさと、やりきれなさが伝わってきます。田中雅子は、苦しい心情をさりげない言葉に託します。さらっとした言葉選びをすることにより、美しく哀しい情景が強く胸に迫ってくるのです。■熱い気持ちと冷静さを表現最後は、情熱的でありながら、ガラスのような繊細さと、鋭さを持ちあわせている谷村はるかの作品を紹介します。「薄い鏡貼りつめられたきみの内部小さな言葉ほど反射する」谷村はるか(『ドームの骨の隙間の空に』青磁社)「土砂降りに打たせておいた そばで傘さしかける資格などないから」同「少年と少女みたいに回り道少年と少女ほど時間はないのに」同大人になれば、人と人との間合いの取り方にたけてきます。言葉を変えると、駆けひきが上手になるということでもあります。ところが、恋をすると、そんな自分自身が逆にもどかしくなることも。思いをよせる人と素直に向きあうことは、大人になるにつれて、むずかしくなるものかもしれません。歌集『ドームの骨の隙間の空に』は、つきつめて人を思う気持ちと、そんな自分自身を冷静にみつめるまなざしが交差する秀作だといえるでしょう。これからはじまる恋。おそらく実らない恋。素直になれない恋。恋愛には、さまざまなバリエーションがあります。人を思う気持ちが言葉に変わる瞬間に飛びかう火花。その美しさに息をのむのは、いつの時代にも共通している感覚なのかもしれませんね。
2016年01月07日今年を漢字四文字で回顧する住友生命保険相互会社は9日、本年の10月1日~11月3日にかけて募集していた、「2010年の世相を反映した『創作四字熟語』50編」の結果を公表した。『この1年間に起こった出来事を漢字四文字で振り返ろう』という企画から誕生したこのイベントも、今回で21回目を迎え、全国から7,528作品の応募があった。審査員は歌人の俵 万智さん。応募作のジャンル分布を見ると、高齢者の戸籍・不在問題や猛暑など社会系が32.6%。首相交代や事業仕分けなど政治系が24.3%。チリの落盤事故や尖閣諸島問題など国際情勢が13.5%となった。全人見塔に三見立体優秀作品は全10編で、東京都のスカイツリーにちなんだ「全人見塔(前人未到)」。たばこの値上げについての「愛煙棄縁(合縁奇縁)」。スマートフォンなどに関した「一指操電(一子相伝)」。3D映像に対する「三見立体(三位一体)」などが選ばれた。また審査員の俵 万智さんは、応募を総括して下記のようなコメントを発した。四つの文字が並んでいるだけなのに、ぱっと意味が伝わり、思わずにやっとさせられる。表意文字としての漢字、面目躍如のこの企画。今年もまた、簡潔にして意味深な創作四字熟語が多数寄せられた。
2010年12月11日