エッセイスト。1982年福岡県生。13歳と11歳の子を持つシングルマザー。個人ブログ『手の中で膨らむ』が話題となり執筆活動を本格化。著書に『家族無計画』(朝日出版社)『りこんのこども』(マガジンハウス)、Webでは『世界は一人の女を受け止められる』(SOLO)をはじめとしDress Project、AM、HRナビ、ポリタス等に連載、寄稿多数。Twitter ID:@akitect
19歳で子どもを産み、“新米ママ歴14年”の紫原明子さんの家族日記。ママも14年経てばベテラン? いいえ、子育は予測不可能。思いもよらない出来事が日々起こります。
息子モーの通う中学の卒業式前日。私とママ友は、仕事の昼休みのわずかな時間を使って、明日の卒業式に着る服を探しに町へ繰り出していた。 「ついに卒業ね。いやー絶対泣いちゃうわあ」と、ママ友が感慨深げに言う。ところが、前日になって慌てて服を探し出すくらいなので私にはあまり実感がなく、「そうかな~」と言うと、ママ友が言う。「だって、幼稚園から一緒だった子たちとついにお別れになるんだよ、悲しいよ!」なるほど、言われてみればそうだな、と思う。 確かに、近所の幼稚園から近所の公立小学校、公中学校へと通ったモーには、最長12年もの間、同じクラスで過ごした友人たちが何人もいる。うちにもよく遊びに来ていたし、町で会えば「ちわっす」とニコニコしながら挨拶してくれる。 気づけばみんな身長180センチ近くになっていて、社会では大人扱いされてもおかしくない。でも、100センチのころから知っている私から見れば、みんないつまでも可愛い子どものままだ。もはや、親戚の子どもみたいな感覚である。ここまで成長を見てきた近所の子たちがバラバラになって、それぞれの新天地に巣立っていくと思うと、確かにちょっと寂しい。……とはいえ、中学を卒業したってモーとの毎日の生活は変わらないし、お別れじゃないわけだし……。 「ところで明日の卒業式、何時に集合か知ってる?」 「そういえば知らない」 情報に疎い母二人。学校から子に配られたプリントが、子から親に届くラインに断絶があるのも最後まで平常運行で、やっぱりいまひとつ実感がわかない。 同じ日の夕方、モーの担任の先生からスマホに着信があった。まさか、最後の最後に何かやらかしたのでは、と冷や冷やしながら電話に出ると、「直前になって申し訳ないんですけど、モーさんは3月生まれでしょ? モーさんが生まれたときの様子や名前の由来、小さい頃どんなお子さんだったかをお伺いしたくて」と担任の先生。 この担任の先生は毎月、お誕生月の子どもの親に簡単なヒアリングをして、こんな風に生まれてきましたよ、という小さな物語を、学級便りに載せてくださるのだ。 先生のこういう心遣いや、さすが国語の先生とお話をするたびに唸らされる美しい言葉遣い、そして同じ女性として、ついうっとり見惚れてしまうほどエレガントな所作。息子共々、全幅の信頼を置いている先生だった。 「そうですねえ、息子は生まれたその日、うまくおっぱいが飲めなくて、お腹をすかせて夜通し泣き続けて……」 「まぁ!そうでしたか。それは大変でしたねえ」 ……そうでした、すっかり忘れていたけど大変でした。一晩中抱っこして、病室で揺れ続けて。ようやく生まれてきたわが子の涙ひとつ止めることもできないなんて、私は親失格なんじゃないかと一緒になって泣きたい気持ちになったなあ。 「幼稚園の運動会のかけっこでは、一人だけスキップしちゃって……」 「あらまぁ、昔から大物ですねえ」 ……そうだ、スキップしちゃったなあ。小さかったなあ、あのとき。それがこんなに大きくなっちゃって……でも中身は全然変わらないよなあ。 先生の、包み込むように優しい相槌に促されるまま昔話を続けていると、さっきまであんなにクールな気持ちでいたのに、不思議とどんどん胸に熱いものがこみ上げてくる。うっ、これはまずいぞ、落ち着け、落ち着くんだ私、ここはデパートの婦人服売り場だ(まだ服を探していたのである)、ここで取り乱してはいけない、と必死で動揺を沈めようとするものの、やっぱりついに、そのときはきた。 「幼稚園の学芸会のとき、自己紹介のマイクを向けられて……あの子、“ウンコです”って言ったんです。ははは、ウンコってね。昔から本当にお調子者で、体だけは大きくなっても、今と全然変わらないんですよね……ウンコって……ウンコ……ううっっ」。 デパートの婦人服売り場でウンコを連呼しながら咽び泣く女。先生は電話口でエレガントに笑い声をあげている。 「本当にっ……先生には何から何までお世話になりましたっ……息子の良さをわかっていただいて……見守ってくださって……、ちゃんとお礼をお伝えできて本当によかった……」と、鼻をすすりながら言う私に先生が優しく語りかける。 「彼はね、あの人柄で、これからどこにいっても友達が寄ってきます。何にも偏見のない彼の物の見方は、お母さんの家庭教育の賜物ですよ」。 ここで労いの言葉なんてさらなる反則技です先生。涙をポロポロ流しながら、ああ、息子は明日卒業するんだなあ、と思ったのだった。 そうして迎えた卒業式当日。受け付けを済ませた保護者には、式次第とともに、一通の封筒が配られた。封筒には息子の文字で「母へ」と書いてある。 「いやーここで親への手紙!? これもう絶対泣いちゃうじゃん、泣かせにかかってるじゃん! ずるい! 卑怯!」 保護者席に隣り合って座ったママ友が言う。確かにこれは確実に泣かせにかかっている。しかしこちとら昨日からすでに涙腺が緩んでいるのである。この際とことん無抵抗主義。 煮るなり焼くなりどこからでもかかってきなさい。ハンカチを手に覚悟を決めて、いざ厳かに開封の儀。……ところが、そこに書かれた息子からの手紙に、私は目を疑ったのだった。以下、全文である。 母へ/ははへ/ハハへ/motherへ いかがお過ごしでしょうか。僕は元気です。 本日3月17日を以って中学校を卒業します。 思えばさまざまなことがありました。東京都知事の汚職発覚、某人気タレントの不倫騒動や某有名女優の宗教団体への出家。そしてヒラリー・クリントン大統領候補の敗戦。とても波乱万丈な中学校生活でしたが、とても楽しくもありました。この3年間で僕はたくさんのことを学びました。ついに卒業と思うととても感慨深い気持ちになります。3年間、僕を支えてくれたのは誰あろう母でした。毎日、ありがとうございます。とても感謝しています。 そして最後に、また3年間よろしくお願いいたします(_ _) たてよみ(嘘) 息子より お前は年末の週刊誌か何かかと。そして最後の謎のYouTubeトップへの導線は何なんだよと。 卒業式は、爆笑のうちに幕を閉じた。 イラスト:片岡泉
2017年03月21日先日、塾帰りの娘、夢見を駅で待っていたとき、見知らぬ外国人男性に「ハロー。私、ナニ人だと思う?」と声をかけられた。 私はすぐさま、これは怪しい、と思い、聞こえていないふりをしていると、男は間髪入れずに「……チューリップ」と頼んでもいないヒントを、謎にささやくような声で出してくる。息を吐きながらそっと発せられた「……チューリップ」の語感につい、吹き出しながら「オランダ?」と返事を返してしまった。 なんたる失態。気を良くした自称オランダ人の男は、「外国人と試したことある?」などと卑猥な語句を連発して、自らの”寝技”の技術力を力説。「外国人は上手ね!レッツトライ!」と猛烈に性を押し売ってくる。 逃げるようにその場を離れて何とか夢見と合流、家までの道すがら、自称オランダ人にしつこくされて大変だった、という話を(ある程度はオブラートに包んだ上で)すると、ふむふむと真面目な顔で聞いていた夢見がおもむろに言った。 「それなら、フランス人がうまいらしいよ」 思わず母は卒倒した。好きなアニメの影響で、世界史や世界情勢に私よりはるかに精通している夢見。中世ヨーロッパの歴史や植民地時代のアメリカに詳しいことは知っていたけれど、まさか現代人の夜のテクニックにまつわる知識まで身につけていたとは……夢見、あなどれない。 夢見は見事に偏愛の人間だ。嫌いなこと、気が乗らないことはテコでもやらないが、好きなこと、一度はまったことは、決して飽きることなく延々と追いかけ続ける。そのせいで、さきほどのように余計な知識を仕入れることもまれにあるものの、それでも日々、消えずにいつまでも燃やし続けられる情熱をもっているというのは、正直うらやましい。 最近は、学校の国語の授業で物語を書いている夢見。内容はやっぱりタイムスリップ・歴史もので、日本の子どもがジャンヌダルクとなって百年戦争を戦うのだという。文字数の制限はないが、目安は原稿用紙5~6枚という課題で、夢見の物語はすでに20枚を超えている。学校だけでは書き終わらないというので、ここ数日は家に持ち帰ってきてもいる。お年玉で買った参考文献と原稿用紙を、昭和の文豪のようにテーブルいっぱいに広げて、日夜、黙々と作業している。 完成稿に目を通す先生の労力を思うと少し申し訳ないけれど、文字数オーバーによってたとえ国語の成績が下がろうと、これはもう、満足するまで書くしかないし、それでいい、と私は思っている。何しろ夢見にはそれが超楽しいことなのだ。 作る過程、調べる過程を楽しめる力というのは、生きていく上で巨大な原動力になり得るものだと思う。私たちは平均的に80年くらい生きるとされていて、その間、大なり小なり、何かしら生活に張りがないと生きていけない。退屈は何より業が深い。芸能人の不倫スクープに、テレビ越しにマジギレするくらいしかやることがない日常はつらい。 やっぱり、ある程度は高めの意識で、自分で都度、目標やハードルを設定したり、それに向かってアクションを起こせたりした方がいい。目標をクリアできたときには達成感が得られるし、あわよくば他人から褒められたり、ご褒美がもらえる可能性もある。 でも、そこばかり目指しすぎるのはちょっと危ない。何しろ、人様は忙しい。 自分の努力に見合うだけのリアクションを返してくれない可能性がある。もし思うように他人や社会の評価を得られなかったとき、努力がただ苦しいだけのものであれば、また新たな努力をしようとは思えなくなってしまうかもしれない。だからこそ、過程が重要なのだ。設定した目標に向けて手を動かす、目標までのその過程すら自分にとってのご褒美にできれば、それ以上最強なことなんてない。 指定された文字数に収めるとか、相手の読みやすさを考えるとか、そういうのは、もし夢見がプロになりたいとか、それで稼ぎたいと思うようになったときに取り組めばいい。簡単には仕上がらないものに、面倒くさいと思わずに取り組めること、良い評価を得ようとか、打算抜きで考えずに手を動かせることの方が、きっと今ははるかに重要だ。簡単には成し得ないものに手を伸ばす、過程を楽しめることこそ生きる力なのだ。 ……そう、あの自称オランダ人だって、自分の高尚なテクニックを誇らしげに語っていたその表情は紛れもなく生きる力に満ちていた。成功(そして性交)へ挑むその過程すらご褒美に感じていた可能性もあり、そう考えるとこれについては何か無性にしゃくではある。 イラスト:片岡泉
2017年03月14日子どものころ、お風呂に入るのが嫌で嫌で仕方なかった。髪の毛を洗うのもめんどくさいし、湯船にじっと浸かるのも退屈の極み。それにうちは田舎の古い一軒家なので、冬場のお風呂は特に悲惨だ。真っ裸で外にいるのと同じくらい極寒なのだ。冷え切った体に熱いお湯をザバッとかけると、皮膚に刺すような刺激が走る。 ひ~っとなりながら、そのままでいるとやっぱり寒いので湯船に入る。「寒い!」から、「熱い!」へ、急激な温度差に体が慣れるまで、しばし息を止めて、耐える。リラックスからは程遠い、拷問のようなひととき。 大人になって知ったことによると、このお風呂の寒暖の差でなんと年間1万人以上死んでいるらしい。私のお風呂嫌いの理由の一つは、無意識に命の危機を感じていたからかもしれない。 お風呂に入るとか、朝は顔を洗うとか、食後に歯を磨くとか。前日に次の日の持ち物を揃えておくとか、脱いだ靴下を放置しないとか、愛情深い両親のもと、小さいころから真人間の営みをそれなりに教えられてきたものの、残念ながら私には、それらが全然身につかなかった。 身につくっていうのはきっと習慣付くってことで、別にそうしなくてもいいのについどうしてもやってしまう、というような状態になることをさすんだろうと思う。 そして幼少期に、親から毎日うるさく言われていることは自ずと身についていくだろう、大人になって家を出て、一人で暮らすことになっても、きちんとできるようになるだろう、と、一派的には思われている。だから世の親はしつけに励むわけだが、現実には私、母に粘り勝ちして、子ども時代の最後まで、真人間たる生活習慣を身に付けなかったのだ。 実家を出た後はすぐに結婚をして二人暮らしとなったのだが、真人間たる生活習慣が身についていなかったので当然、生活はままならなかった。脱いだ靴下を自分で洗濯物に持っていかなければ誰も持っていってくれない、というのはこういう状態か。食べた食器を洗わなければいつまでも汚れたまま、というのはこういう状態か。といちいち気づいて、痛い目をみて、“うわ、めんどくさ”と思いながらしぶしぶやるようになった。 化粧をするようになると自ずと化粧を落とす必要がでてきて、顔もしぶしぶ洗っている。会う人に口が臭いと思われたくないからしぶしぶ歯も磨く。未だに全部、しぶしぶでやっている。 しかし、こうなってくると逆に、必要に迫られさえすれば、しぶしぶとはいえ、やれるんだ、という妙な悟りも開けてきた。片付けが苦手でも、部屋に誰かを連れ込みたい、という欲望が生まれればしぶしぶ片付けるようになる。不潔だとモテないと分かれば、しぶしぶお風呂にだって入るようになるのだ。 仮に今子どもに戻ったとしても、親や先生に囲まれながら生活習慣を守って生きていけるかと言われたら、やっぱりとてもじゃないけど無理だと思う。やってくれる人がいれば甘えるし、身綺麗であることが他人からの評価軸にならないうちは、身綺麗にしようとも思わないと思う。そんなもんだ。 親は子を、生活力のある大人に育てなければならないと思うから、あれこれ口うるさく注意したり、教育を施そうとしたりする。そういう意味で、家って、子どもにとっての鍛錬の場だ。 でも、それと同時に、いざとなったら逃げ込める、絶対的に安心できる場。家って、子どもにとっても、親にとっても、そうあるのがいいと私は思う。親と子は、教える側と教えられる側、育てる側と育てられる側であるけれども、同時に一つの基地に共に暮らす同居人でもあるのだ。共に心地よく暮らしたい。 あれこれ備えさせたい気持ちと、共に心地よく暮らしたいという気持ち。その両立は難しい。きちんと生活させようと思うと一日中お小言だらけになってしまう。だから、大きな声では言えないけど、半分くらいはもう諦めている。必要に迫られたらきっとしぶしぶやるだろう、と。 親である私が提供する心地よい暮らしに乗っかって、心地よい思いをすればいいだろう、と。だけどそんな心地よい暮らしの記憶を、大人になってからの「しぶしぶ」の原動力に変えてくれよ、と。……そんな風に思いながら、何度言っても床に落ちている脱ぎ捨てられた靴下を、今日も洗濯カゴに運ぶのである。 イラスト:片岡泉
2017年03月07日先日、息子モーの高校受験がなんとか終わった。 思い返せば、中高一貫私立校出身の私は、“女子校”とか“カトリックの学校”への漠然とした憧れがあって、そこで繰り広げられるであろう少女漫画的な生活に夢を見て、小学4年のときに、受験をしたいと自分から親に申し出た。だから、息子の場合もそんな風に、時期が来れば、そのときの自分にとって自然な形の、憧れの進学先が見えてくるのだろうとばかり思っていたのだ。 ところが、中学3年の夏休みが終わるまで待っても、志望校はまるで決まらなかった。私は当然焦る。本人も焦っているのかもしれないが、なかなかのポーカーフェイスなので全然焦っていないようにも見える。そんな態度に、こちらが余計に焦る。 先生や先輩ママ友達に相談すると「男の子はそんなもんよ、だから親が動かないと」と皆口々に言う。「でも、自分で決めないと結局はやる気スイッチが入らないんじゃ?」と尋ねると、衝撃の答えが返ってきた。 「最近はね、入らないまま大人になる子も多いよ」 そ、そうなのか……! これはまずい、ということで結局は私が先導して、いくつか学校を見に行くことになった。行く先々で「おお、いいね、ここに行きたい」とそれなりに意欲を見せるモー。けれども、「絶対にここに行きたい!」という偏愛ではなく、むしろ博愛。どこも可もなく不可もないといった様子なのである。みんな違って、みんないい、なんて言ってる場合か。 「学校説明会に行って、先生や生徒のカラーを見れば自ずと、合いそう、合わなそうが見えてきます」とも言われていたが、たとえばダンスミュージックもボカロもJpopも全部いける口、純文学もラノベも人文書も漫画もアニメも、全部いける口であるモー。「俺、どこに行ってもそれなりに馴染むと思うんだよね」と言い、その点、確かに私も納得せざるを得なかった。彼は確かに、あらゆる個性に偏見がない、寛容な人間なのだ。 とはいえいつまでも決められない訳にもいかない。都内には公立、私立と無数の高校があり、最後には、その中からたった一つの進学先を選ばなくてはならない。話し合いの末、最終的には、学校説明会に参加した数校の中で、最も部活の種類が多く、生徒数が多い学校を第一志望とした。一番の理由は、これから先、彼が何らかの偏愛を見せたときにも受け皿がありそうだったから。二番目の理由は、校舎がかっこよかったからだ。 受験直前ともなると、私のような手抜き親でも、受験した学校全て不合格になって途方にくれる夢、学校説明会で私が派手な失態をやらかして絶望する夢など、不穏な夢を見たりして、それなりに不安になったりもした。 モーは相変わらずひょうひょうとしているように見えたが、受験が近づくにつれ“第二志望の学校に行ってもこういう楽しみがある……”などと精神的なセーフティネットを用意し始めたので、発破をかけたり、なだめたり、ほったらかしたりした。受験前日、さすがに顔が緊張していたモーに「君ならできる。そしてできなくても君だ」というと「それ全部のパターン言っただけじゃん」と的確に返してきたので、よし、まだ余裕があるな、と確認。 そんなこんなで迎えた試験当日。最近の学校はハイテクで、試験を受けたその日にネットで合否が発表されることになっていた。仕事から早々に帰って、モーとパソコンの前でそのときを待つ。定刻。リロードとともに現れたリンクをクリックすると、画面には「合格おめでとうございます」の赤い文字。 「……おおおっ!!!」と同時に声をあげた。 そもそも学力相応と思われる学校を選んでいたので合格してもらわなければ困るところだったのだが、それでもやっぱり、手を取り合って喜び合った。長きに渡る戦い(と言えるほど奮闘したかと言われると微妙なところだけれども)が、ひとまず、幕を閉じた。 受験のタイミングに合わせて、なりたい自分、進みたい未来が見え、自動的にやる気スイッチが押されるというスムーズな展開が望ましいけれど、現実にはそうそう都合よくいくとも限らない。実際、中学受験は自分で決めた私も、大学受験については最後の最後で、進学したその先にある自分の姿が描けず、受験を辞めているのである。 モーは、小さな田舎町で育った私とは違い、東京の真ん中で、小さいときからたくさんの大人に触れて育ってきた。早くに生き方の多様性を知っているからこそ、ギリギリまで一つを選べなかったのかもしれないとも思う。でも、だからってそれが、必ずしも悪いこととは思わない。 こうしたい!これをやりたい!と、早くに一つを選び、やる気スイッチでブーストをかけ成果を上げるやり方もあれば、のらりくらり長い時間をかけた結果、気づけばこれだけは飽きずに続けている、ということが、掘り出されるように見えてきたりもする。そうやって出てきたものを、大切に育てていくやり方だってあるのだ。そしてその場合に、元となるものが大きければ大きいほど、骨太なものが掘り出されるんじゃないかとも思う。 いずれにしても、これからモーは色々な局面で「どう生きたいのか?」という難問と向き合っていくことになるんだろう。悩まなくていい、とは言わない。「自分はダメだ……いや、天才かも」の行き来を何度となく繰り返し、大いに悩んで欲しいものである。
2017年02月28日娘の夢見は、小学校低学年ごろまで、とてもおとなしい子どもだった。 学校から帰ってくると、いつも絵を描いたり、テレビを見たりして過ごす。こちらが聞いても、学校のことを私に話すことはほとんどなかった。当時私は、専業主婦を卒業し、勤めに出始めたばかりだったので、私が家を空けることが、彼女の心に影を落としているのかも、とそのことで不安になることもよくあった。 そんな彼女に変化の兆しが現れたのは、小学校中学年ごろのことだ。“漫画”と“歴史”という大好きな二つの世界を知った彼女は、その良さを人と分かち合いたくてたまらなくなったようで、毎日少しずつ言葉数が増えていき、いつしかしゃべりだすと止まらない程になった。同時期から、学校での出来事も、聞けば少しずつ教えてくれるようになった。 けれども、そこには一つ問題もあった。夢見は、本人がいないところで誰かの話をすることに、ものすごく罪悪感を抱くようなのだ。「今日、友達がこんなこと言ったんだよ」と、出来事だけは教えてくれるようになったものの、その内容がどんなに悪口でなかったとしても、決してその出来事の発端となった友達の名前を出さない。その秘匿性たるや徹底していて「誰が言ったの?」と聞くと、少し考えて「……A君」とアルファベットを使う程だったのだ。 誰かを決して悪く言わないどころか、誰かの噂話もしない。夢見の公正さはわが子ながら尊敬に価するとすら思ったけれど、一方で、やっぱり少し心配でもあった。彼女がもし誰かの態度に疑問を持ったり、理不尽な目に遭ったりしても、このままでは客観的な判断を仰いだり、正当に怒ったりする前に、ただ飲み込んでしまうんだろうな、と思ったのだ。 だからと言って、「言いなさい」「話しなさい」と強要したところで話すようなタイプならとっくに話しているわけで、夢見にはきっと、自分で繰り返しやってみて、この調子なら大丈夫そうだ、と安心することが何より必要なのだろうと思った。夢見が話の中で友達の名前を出したくないのは、話しを聞いた私が、彼女の友達に勝手なイメージを持つのが嫌だからなのだろう。 夢見は多分、会話の質が自分一人では決まらないものだということを察していて、それは真実だ。一人の人が、どんなに悪口にならないように話しても、それを聞いたもう一人が「ええっ!」などと過剰反応を見せ、会話の対象を非難してしまえば、その時点でその会話は悪口になってしまうし、会話をした二人は、悪口を交わした二人になってしまう。 私にも、小さいころに少しだけ身に覚えがある。友達が悪ふざけの延長で起こした面白い出来事を親に話すと、こちらの想定以上に深刻に受け止められ“そ、そうじゃないんだ!”と面倒になってしまったこと。夢見はきっとそういうのが嫌なのだろうし、こちらとしては、そうならないよ、と彼女が安心できるまで、態度で示し続けるしかないだろうと思った。 「A君って誰よ」とか「どうしてそんなことになったの?」とか根掘り葉掘り聞かない。そういうことを続けて、結局、1、2年かかったけれど、今ではちゃんと名前を出して話してくれるようになった。 生まれてからずっと一緒に住んでいるのだから、夢見はもう少し早い段階で私の思慮深さを信用してくれても良かったのではと思わなくもないけれど、物事を判断する能力というのは部分的に、段階的に育っていくのだろうから、まあ仕方がない。それに、もしかしたら親と子の関係にも、当人たちが気づかないだけで、第一印象を残す契機となるタイミングがあるのかもしれない。夢見が小さいころ、家庭の中は何かと問題が多く、揉めていたので、いつもより感情的になっていた私が、長いこと彼女の中の私のイメージとして残っていたかもしれない。……だとしたら少し申し訳ない。 いずれにしても、子どもの、新しい自分への柔軟性にはかなわないな、と常々思う。大人になってしまうと、経験から多少の学びを得ることがあっても、本質がドラスティックに変わるということはほとんどない。そしてもし仮にあったとしても、そのきっかけに、宗教とか、悪い男とか、怪しいセミナーとか、何か強引な力が働いていたりして、不自然さを伴う場合が多い。 考えてみるとそんなことは当然の話で、長く生きるというのは、長く自分であり続けるということ。自分である時間を積み重ねた分だけ、急激に変わるのは難しいのだ。けれども、子どもというのは本当に柔軟だ。あっという間に学び、どんどん変わる。そのしなやかな感性を羨ましく思うと同時に、彼らの信頼に足る大人でなくてはならないな、と思う。 イラスト:片岡泉
2017年02月14日言葉の喋れない赤ちゃんの気持ちを「眠いよねえ」「お腹すいたよねえ」というように代弁して語りかけるあやし方。前回も書いた通り、理屈や効果が分かっても、私にはなかなかうまくやれなかった。それは、単にテクニックが身につかなかったというだけではなくて、何だかちょっとおこがましいこと、罪深いことのような気がしたのだ。 たとえば息子が泣いたとき、別れた夫や実家の母が、息子をあやしながらよく「おっぱいくれよ~って言ってるよ」なんて冗談めかして言うことがあった。 これは別に何ら邪気のない一言なのだが、当時の私にはこの「くれよ~」が妙にひっかかった。だって、もしかしたらこの子は「くれよ~」なんて言うようなわんぱく気質は持ち合わせていないかもしれない。「……わ、悪いけど母さん、お、おっぱいもらえないかな……」って言うような、控えめな性格の可能性もあるのだ。 にも関わらず「おっぱいくれよ~」というような語りかけが常態化してしまえば、本来もっている気質は無視され、ともすれば“こういう口調で話す男児になっていかなければならない”というような、刷り込みとなって、息子の未来を制限してしまうのではないか。 大人が無自覚に自分の思う赤ちゃん語を子どもに喋らせる行為は、まだ何の手垢もついていない、無色透明で清らかな存在を、自分たちに“見える”ようにするためだけに、大人の勝手で着色するような行為じゃないかと感じたのだ。 そりゃ赤ちゃんだっていずれは成長して、個として生きていかなきゃならない。世の中のことを知って、その上で自分が何者であるかを決めなきゃならない。自分に色をつけること、人格を持つことからは逃れられない。 そう分かってはいても、できればその色付けはごく自然な形で、赤ちゃん自身の気付きに先行して進んでいってほしい。世の中の評価に一度も晒されていない、私のお腹から出てきたばかりの赤ちゃん。その存在を、親はただ肯定はしても、定義してはいけないような気がしたのだ。 あの時の思いは、本質的には今でも変わらずもっている。自分が何者か、何者でありたいかは、子ども達が、自分を取り巻く環境と照らし合わせて決めていけばいいと思う。とはいえ、だからって赤ちゃん語の語りかけに抵抗していた当時の私は、まあちょっと青臭かったような気もしないでもない。 生まれたばかりの赤ちゃんにとって、その日は確かに全人生の1分の1、全てだが、2日生きれば2分の1、3日生きれば3分の1というように、分母の値が増えるにつれて、親と蜜月の時間の中で負荷されたものの重みはどんどん薄まっていく。意思表示できるようになるまでの数ヶ月間赤ちゃん語で喋りかけたところで、その先の人生ははるかに長いのだ。 2人の子ども達が、それぞれ全然性格の違う子に育っているのを見るにつけ、親が作為的に子に及ぼすことのできる影響って、きっとそんなに大きくないのだろうと思うし、人が「自分はこうありたい」と願う意志の強さって、私たちが思っているよりずっと大きいのだろう。 数日前、高校受験をいよいよ目前に控えた息子モーが「覚えた!」と突然、大声をあげた。母さん聞いていてくれよ、というので英単語かと耳を傾けると、前置きもなく、呪文のような言葉を唱え出すモー。 「クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット……よしっ!」 「は?」 全部意味不明だが、特に最後の“……よしっ!”の意味を計りかねて言葉を失っていると、「バンコクの正式名称だよ」と、やれやれと言わんばかりの顔で言うモー。それだけでは飽き足らず、「ピカソの本名も言えるよ? パブロ・ディエーゴ・ホセ……」と再び呪文を唱えて随分誇らしげな様子。受験目前の限られた時間と脳の空き容量とを、なぜバンコクとピカソに費やそうと思ったんだ。なぜそれで“……よしっ!”なんだ。 本人の意志、気付きを尊重したい。……が、今そこに気づく必要ある?ということばかりを得意げに拾い上げてくる、それが子どもである。
2017年02月07日考えてみると、19歳で人の親になる、という年齢的な未熟さを差し引いても、私はあまり、年下や赤ん坊を可愛がれないタイプだった。だからって、赤ん坊や子どもが嫌いだったわけじゃない。いかんせん自己愛が強すぎたがゆえに、自分より年下で、自分を評価する立場にない人間の存在が、そもそも視界に入ってこなかったのだ。 だから、いざ産んでみて、困った。何しろ可愛がり方がぜんっぜんわからないのだ。赤ん坊は確かに可愛い。手のひらに収まるほどのサイズ感も、初めてこの世界にやってきてキョトンとしてるのも、手のひらをぎゅっと結んでいるのも、眠っているとき、たまにビクッと震えるのだって、とても可愛かった。この子を守っていかなければ、という親としての責任も感じた。けれども、抱く、抱いて揺れる、乳を与える、おむつを替えるといった、必要なケア以外の可愛がり方、必要ではないけどあると良い接し方というものが、全然わからなかったのだ。 そんなんだから、出産後すぐに病院にやってきた実家の母が息子をあやす姿を見て、衝撃を受けた。母は「あら~もう眠いねぇ、眠い眠い~」とか「おなかすいたね~」とか、意思表示などできるはずのない赤ん坊と、しょっぱなから対話しているのだ。 「え、なんで分かるの?」と思わず聞くと、「だって眠そうにしとるやんね~」などと釈然としないことを言う。そうか、経験値の高い人には分かるものなのか、と思わされたが、そうこうしているうちに母、今度は「うぅ」とか「あぅ」とか、赤ん坊があげた声にならない声に対して「へ~そうね~、うん、うん」とあたかも対話が成立している風に、返事を返す。 これを見て、私はようやく理解した。母が、経験によって培った観察眼で、赤ん坊の気持ちを察している部分もそりゃあるにはあるのだろうが、一方で、当然ながら全部わかっちゃいないのだ。 目の前で繰り広げられているのは、私の知っている対話ではなく、ただひたすら受容の表現。「おなかすいた」「眠い」「オムツが不快」。言えないけれど、言いたいこともあるでしょう、わかってあげますよ、受け止めてあげますよ、そんな、受容の表現だったのだ。 今思えば、赤ん坊の気持ちを一方的に言語化し、成立しない対話を続けることにはもう一つ別の意味もあった。新生児というのは、赤黒かったり、黄色がかっていたり、目の焦点も定まらないし、体もしわしわ。赤ちゃん、と聞いて一般的にイメージされる、ちぎりパンみたいな赤ちゃんとはまた全然違って、強いて言えば宇宙人みたいな様相を呈している。そんな、不思議な生命体の声なき声を、一方的に人間語にし続けることで、その小さな体の中にも確実に、人格や人の意思といったもの、その小さな種が存在するのだと、そういう自覚を、親の中に培ってくれるように思う。 ……なるほど、こういう風にやるのか、と母の様子を見て学んだものの、その瞬間からすぐに母と同じことができるようには残念ながらならず、この手の声かけはなかなか上達しなかった。 というのも親になるまでの私は、大人から褒められたい、認められたいというモチベーションだけで生きていたのだ。人様からのフィードバッグが全て。私の行いに対して返ってきた年長者からのリアクションを見て、達成感を得たり、次のトライにつなげる糧にしたり。評価を与えられ、受容され続けて生きてきた。ところが、親になるということは、私がそれをやる側になるということ。いきなり天と地がひっくり返ってしまったのだ。 どうしようどうしようと、新しい環境に日々まごついている間に、気がつけば子ども達はすっかり対話が可能な年齢となってしまい、今に至っているように思う。親戚や友人の赤ちゃんを前に「へ~そうなの、うん、うん」といった一方的な声かけをスムーズに繰り出せるようになったのはごく最近のことで、ああ、生まれたばかりのわが子らにもこんな風に接してあげられていたらなあ、と思うこともあるものの、でももしかしたら、当時あんなに風格を見せつけた母だって、私や妹が生まれたばかりのころは、やっぱり私と同じように、まごついていたのかもしれない、とも思う。子が育つのと同じように、親だって親として成長するのだ。 イラスト:片岡泉
2017年01月31日わが家では、車の中のDJ権を誰が握るかの争奪戦が、かなり頻繁に勃発する。うちの車のスピーカーは決して特別良いものでもないが、何しろスマホと繋げるので、好きな音楽を流すことができる。狭い閉鎖空間、大都会東京を駆け抜ける車の中でお気に入りの曲をかけるのは、かなり気分が良いのだ。 DJ明子、DJモー(長男)、DJ夢見(長女)。それぞれにはそれぞれの得意とする分野があり、モーはEDM(エレクトリック・ダンス・ミュージックの略だそう。パリピの音楽である)、夢見はアニソンとボカロ、そして明子はチャゲアスと玉置浩二を専門としている。 あるとき、夜の首都高速に乗った私たちの車の音楽の権利を握っていたのはモーであった。後部座席から、例によってゴリゴリのダンスミュージックを流し、ドンドコドンドコ、曲がマックスに盛り上がるのと同時にモーが言う。 「さあ、母さん。カーチェイスを始めよう」 始めんわアホ、と。そんな感じの毎日を過ごしている。 ……この連載、基本的には育児にまつわる話を書くということで始まったものの、気がつくと結構子どもたちが育っていた。まだまだ指導するべきことはあるものの、子どもたちとの現在の関係は、育てる者と育てられる者というよりは、どちらかといえばシェアハウスの住人同士のような、並列の関係になりつつある。(シェアハウスに住んだことはないけれど)。 だから、最近彼らとの日常を通して得る気付きもまた、子育ての気づきというよりは、人間関係の中で生じる気づきに近いことが多い。 だけど、この連載を始めるきっかけを作ってくれた、ウーマンエキサイトの編集者、石上さんは現在2歳の子を持つママで、せっかく声をかけてくれたのだから、できれば彼女が今知りたいことや、彼女が今直面している子育ての救いとなるようなことを、ほんのわずかでも書けたらいいなと思う。 そこで、最近はずっと子どもたちが小さかった頃のことをあれこれ思い出そうと、写真を見返したり、子どもたちに聞いてみたりなどしているのだが、これがどうして、自分でもびっくりするほど当時のことが思い出せない。トイストーリーのおもちゃは処分するとき心が痛んだなあとか、断片的な記憶はあるものの、当時私がどういうことに悩んでいて、そこからどういう気づきを得ていたかという肝心なことが、なぜだか全然思い出せないのだ。一体どうしてこんなにもすっかり忘れてしまったんだろうなあと考えていると、ふと思わぬ可能性が頭をよぎった。……もしかしたら、思い出したくないのかも、と。 不思議なことに、そういう風に思い至った瞬間、急に一つ、思い出したことがあった。 18歳で妊娠し、19歳で出産した私は、「やっぱり若いお母さんだからね」と世間に白い目で見られたくなかった。出産が誤った選択だったと思われたくなかった。 そのためにも、ちゃんと子育てしなきゃいけないと、何となくいつも、大きなプレッシャーを感じていた。ちゃんと、という漠とした言葉がまた非常に厄介で、何を持って「ちゃんと」と言えるのか全く明確じゃない。 だからせめてもの気持ちで“私は常識的な人間です”と、必要以上に社会に示そうとしていたのだが、そのせいで、本当ならもう少し余裕をもっていたっていいところで、子どもたちの言動を、過剰に制していたこともあったような気がする。 これらのことを思い出した途端、当時、日常的に抱えていた緊張感や孤独、強がりたい気持ちが急激に蘇って、うっ、と胸が苦しくなった。記憶の奥に眠っていたもの、蓋をしておきたかったものは、どうもこれだったのだ。 今では、周囲に年下のママも沢山いるし、私が年相応に老けたことによって、子どもの一人や二人いても好奇の目で見られたりもしなくなった。ましてやそれなりに子どもたちが育って、それぞれちょっと変わったところはあるけど、他人に挨拶ができたり、思いやりをもって接したりできることを、彼ら自身が示してくれるようになった。そうやって子どもたちが個人として社会との関わり合いを深めていくことで、親である私は徐々に、勝手に背負いこんだ妙な重圧から解放されていった。 だから、すっかり忘れてしまっていたけれど、電車やバスの中で、泣いている赤ん坊を一生懸命あやすお母さんに、つい、大丈夫ですよ、と声をかけたくなるのは、やっぱりそこに無意識に、かつての自分を投影してしまっていたからだったのだろう。 私は若くして母になったことを負い目に感じていたけれど、そうでなかったとしても、親になることに真摯に向き合う上では、きっと誰もが、嫌が応にも、自分の弱さ、未熟さを突きつけられることがあるだろう。自分が親になるのにふさわしい人間か、世の中の善悪、正誤を子どもに提示できるだけの人間か。自分が自分を疑うほど、社会もまた同じような目で自分を見つめているような気持ちになる。 結局、子どもを産んだ当時から今に至るまで、私の精神的なあり様は何も変わっていような気がするけど、それでもなんとか15年間は、親でい続けることができた。そんな今、昔の私にかけてあげたい言葉は、こうだ。 “大丈夫。社会はあなたが思うほど、あなたが親としてふさわしい人間かどうかを見定めようとはしていない。” たとえ自分が自分を信じられなくても、社会の方は、案外、そんなに冷たくない。たくさんの見知らぬ人が、子どもを大切に思ってくれる。未熟な親に、暖かく手を貸してくれる。冷たいように見えるとすれば、社会にいる多くの人は、その思いを伝える方法を持っていないだけなのだ。(WEラブ赤ちゃんステッカーもそのために発案したものだ。) 自分が信じられなくても、本当は暖かい社会を信じて、頼って、やっていけばいい。 “あなたの子どもはそうやって、不器用なあなたと、優しい社会に守られながら、気の利いたことが言える程度にはちゃんと育つよ、だから、大丈夫” 緊張感でいっぱいだった昔の私に、今、そんな風に伝えてあげられたらな、と思うのだ。 イラスト:片岡泉
2017年01月24日モーも夢見も、完全に母乳で育った。といっても、別に熱心な母乳信仰を持っていたわけでもない。母乳で育った子の方がIQが高くなるとかいう謎言説を信じていたわけでもない。ただ単に、その方が楽だったからだ。 おぎゃーっと泣いたら、ベロンと服をめくって、おっぱいを咥えさせればそれでいい。母乳は赤ちゃんのファストフードである。 ところが、ミルクだと決してそうはいかない。湯冷ましを作ったり、粉を溶かしたり、哺乳瓶を消毒したりと、かなりの手間がかかる。私のものぐさ加減というのは天井知らずであったので、そのうち自分の服をベロンとやるのすら億劫になって、出産後1、2ヶ月は、上半身ほぼ裸、おっぱい丸出しのアマゾネススタイルで過ごしていた。思えばそういうだらしない生活が離婚を招いた一因かもしれないが、楽でいることには抗えなかったので仕方がない。 授乳で楽を極める上で、裸族であることともう一つ、避けて通れないのが、添い乳である。添い乳というのは、赤ちゃんを布団に寝かせたまま、かつ母親も寝たままの姿勢で授乳することであって、赤ちゃんの首が据わるまではなかなか難しいのだけれども、ある程度しっかりしてくると、夜中の授乳にこれ以上楽なことはない。 そうやって楽を極め、二人の子どもに合計で約5年間、授乳し続けた結果、私のおっぱいは、伸びた。乳首も、伸びた。幼き日のモーは「パパ」「ママ」という単語の次に「でんち」という言葉を覚えたのだが(なぜなら子どものおもちゃには大抵単三か単四の電池が必須だから)、あるとき私の乳首をまじまじと見つめながら、おもむろに「でんち」と言った。言われてみれば確かに似ていた。 あれから10年以上経ち、さすがに乳首はやや短縮されたものの、伸びたおっぱいは伸びたままである。むしろ、母乳が生成されていた当時は長いなりにもハリがあった分だけまだよかった。完全に生産を停止した母乳工場は、今や悲壮感を漂わせる廃墟と化してしまったのだ。散々楽をしたツケを、日々ひしひしと感じている。 もし今後、私がまかり間違ってTEDでスピーチなんかをすることにでもなれば、キラキラした目で「しかし、私はこの伸びたおっぱいを、二人の子を立派に育てた証として誇りに思います」とでも言うだろうけれど、現実には離婚をし、独身に戻り、もしかすると今後、私のおっぱいは授乳とは別の用途で、再び活用されるべきときが訪れるかもしれないのである。 そんなとき、まあおっぱいの一つや二つ、もともと持ち弾の少ない私のせめてものウェポンとなってもらわねば困るのである。危機感に駆られた私は、あるときついに、東京でも有名なとある病院の、乳房外来の門を叩いた。 「おっぱいが長いんです」 診察室に入るやいなや胸もあらわに相談すると、男性のドクターは、手にした定規で私の鎖骨の中心から右の乳首まで、そして同様に鎖骨の中心から左の乳首までの長さをそれぞれ測り、おもむろに言った。 「平均より、5センチ長いです」 「ご、5センチ……?!」 わかっていたことではあったが、数値化されたインパクトは絶大で、私は絶句した。 「大きいし、重いし、これじゃ肩も凝るでしょ」 ドクターは私の乳房を抱えながら、さも気の毒と言わんばかりの顔で私に言うと、おっぱいを吊り上げ、かつ、小さくし、ついでに乳輪も一回り小さくするという手術を勧めてくれた。(……え、乳輪?)乳輪については全く気にも留めていなかったのでそのとき初めて乳輪が大きいという事実に直面したが、ドクター曰く、おっぱいが吊りあがり、小さくなると、乳輪の大きさが気になるようになるので、ということであった。 言われた一通りの手術を受ければ、私のおっぱいは再び夢と希望と美しさを取り戻し、ひまわりのように上を向くことがあるのだろう。手術は日帰り、傷はしばらくは残るが次第に薄くなる、といった説明を一通り聞いた後で、私は万を持して核心に迫った。 「それで、費用はおいくらです?」 そこでドクターの提示したその額、なんと120万円。私、その日2度目の絶句。 検討します、といって病院を後にしたものの、当然ながらそんな費用はどこにもなく、結果、今日に至るまで私のおっぱいは手付かず、平均より5センチ長いままである。 起き上がるのも、服を着るも怠り、おっぱいの力に頼りきった育児で楽をした結果、時を巻き戻す費用は120万円。TEDでスピーチしなくたって、私はこの長いおっぱいを誇りに思いながら生きて行こうと思うのであった。 ……長いウェポン、ライフルだと思えばかっこいいし。 イラスト:ハイジ
2017年01月17日最近ハマって通っている、タイ古式マッサージの店がある。 ご存じの人も多いかと思うけれど、タイ古式マッサージというのは普通の指圧やオイルマッサージより、かなりアクロバティックな施術をしてくれる。行きつけの店では、元気なタイ人のおばちゃんが、うつ伏せになった私の背中に四つ這いで乗っかって、肘や膝で凝っているところをグリグリやってくれたり、必要に応じて踏みつけたり、力一杯叩いたり、ひっぱったり、ねじったりする。文字だけ見ると手荒な暴行を加えられているようだが、マッサージ+ストレッチという感じで、かなり体が楽になるのだ。 行きつけの店で私を担当してくれる人は、「アキコさんいらっしゃい♪」と私を下の名前で呼ぶ。どうやらこの店ではどのおばちゃんもそんな調子で朗らか。先日は隣の部屋から「ハイハイ、ゆみちゃんお待たせ~」という別のおばちゃんの陽気な声が聞こえてきた。 ゆみちゃんもまた相当な常連かと思いきや、直後に「タイ古式マッサージは初めて?」という会話が続き、えっ、そうなの?と私は内心、仰天した。タイに行ったことがないのでそれがお国柄なのかどうなのかわからないけれど、少なくともこの店にいるタイ人のおばちゃん達は、みなものすごく気さくで、おまけにちょっとびっくりするくらい優しい。 「今日はどこがつらい?」 「足がパンパンで……」 「ああ~つらいねえ。いっぱい歩いたねえ。」 初めにつらいところを聞かれるのは、どこのマッサージ屋でも見られるお決まりの会話である。だが、この店のおばちゃんは「足がつらいんですね」じゃなくて「つらいねえ」と、さも自分の体もつらさを感じているように言って、その上で、いっぱい歩いたねえ、と労ってくれる。なんだかちょっと、お母さんみたいだ。 実はこの有り余る優しさに触れ、当初は少し戸惑った。心の中で小さく、警戒のアラートが鳴った。ただにこやかに迎え入れられるおもてなしなら、お客さまは神様の国ニッポンで散々味わってきたはずなのに、それとは全然違う種類の優しさである。何が違うって、とにかく距離がぐっと近いのだ。 「私たち、さっき会ったばかりですよね……?」と尋ねたくなるほど寄り添ってくれる。会話の中で、絶対に突き放されないのだ。 あるとき、施述中にふと、私がシングルマザーであることや、長男が14歳であることを打ち明けると、おばちゃんはこんな風に言った。 「そっかあ。じゃあ大人になるまであと6年、頑張ろうねえ」 「頑張ってね」でもない、「頑張らなきゃね」でもない、「頑張ろうねえ」は、じんわりと、凝り固まった心に沁みた。 私が小さかったころ、母が泣いているのを一度だけ見たことがある。後々、なぜ泣いていたのかを尋ねると、私の虫歯で受診した歯医者さんから「子どもの虫歯はお母さんの責任です」と厳しく叱責され、気落ちしていたのだという。 当時は、そんなことで泣かなくても、と思ったけれど、自分も親となった今なら当時の母の気持ちが少し分かる。 子どもに怪我をさせてしまった。子どもに忘れ物をさせてしまった。子どもを“りこんのこども”にしてしまった。私もまた、あのときの母と同じように失敗した、と感じて、ことあるごとに落ち込んだり、反省したりすることがよくある。 子育て中の親はいつだって、子どもをまっとうに育てなきゃいけないという責任を大なり小なり感じている。そして責任とは、負っている人とそうでない人の間に、明確な境界を作る。だから、親は何かと孤独を感じやすい。 親子を取り巻く社会の人だって案外暖かい。本当は応援したいという気持ちを多くの人が持ってくれている。だけど、望むように助けられないかもしれないから、叶わないのに手を貸す期待を追わせるのは無責任だから、多くの人は「頑張ろうね」じゃなく「頑張ってね」と、境界の外側から励ましてくれる。 安易に責任を負わないために、その方が誠実だと思って、距離を置く。いざというときの保険みたいなものだ。……だけどそんな保険、本当に必要なんだろうか。 その場、そのとき、誰かの気持ちに寄り添いたいと思ったことを、その後いつまでも全うしなければ、誰かに無責任だと咎められるようなことなんてあるだろうか。 「頑張ろうねえ」、といくらタイ古式マサージのおばちゃんが言ってくれたって、明日から私と一緒に子育てしてくれるわけでも、私の代わりに生活費を稼いできてくれるわけでもない。そんなことはじめから明白だ。でも、そもそも望んでもいない。何をしてくれるわけでなくとも、ただ境界の内側に、思いがけず一歩踏み込んできてくれる、近くから声をかけてくれる、それだけで十分なのだ。今が終わればもう会うこともないかもしれない私に、頑張ろうねえ、と近くから声をかけてくれる誰かのいる世界に生きている。その事実が、明日も生きていかねばならないこの社会を、少しは信頼してみようかな、と思わせてくれるのだ。
2017年01月10日夫と妻、二人家族の友人に、おたくは毎年どんなクリスマスを過ごすんですかと尋ねると「カニを食いながら映画を観る」という思いがけない答えが返ってきた。映画は、一般にクリスマス映画には分類されていないけれど実はクリスマスにまつわる映画、という線で毎年チョイスするそう。 なんだかすごくいいなぁと思った。鶏肉を焼くとか、ケーキを食べるとか、竹内まりやを流すとか。これさえやっておけば合格、というような、世に溢れるクリスマスからは大きく道を外れていても、独特であればあるほど、それが成立する関係性の背後には、二人だけの、重厚な時間の蓄積がある。 「うちのクリスマス、毎年決まってシシャモを食べるんだよ」とか、子どもたちが大人になったとき小話の一つにでもなるようなクリスマスの慣習を私も作りたい。友人夫婦の過ごし方にそこはかとないロマンを感じながら、やっぱり今年も鶏肉を焼き、チョコレートケーキをこしらえ、マッシュポテトを練った。コテコテである。 世の中にはクリエイティブな人とそうでない人がいるが、こうして例年、コテコテから抜け出せない私は圧倒的に後者である。クリエイティブな人たちというのは先にあげた友人のように、他の人には見えない文脈に気づいて、具現化したり、実行したりして、価値を与えることができる。型にはまらないやり方を選ぶ。 そういう意味で、親の私が言うのもなんだが娘・夢見はかなりクリエイティブな方なのである。先日、クラスの友人たちが集まるクリスマス会に参加することになった夢見。集まった子ども同士で交換するプレゼントを持っていく必要があるというので、「どこに買いにいく?」と尋ねると、迷いのない表情で「手ぬぐい屋」と答えた。「手ぬぐい屋……?」念のため再度聞き返すと、「そう」と。 確かに夢見は昔から和柄や和小物が大好きなのであって、ついでに自分のプレゼントも買ってもらう魂胆らしい。うちでは一昨年、届いたプレゼントの包装から“サンタクロース=Amazon説”が持ち上がり、疑われたことに怒ったのか、以降サンタさんはやって来ず、プレゼントは親が買い与えることとなったのだ。 ……自分のプレゼントにはまあ好きなものを選べば良いけども、同級生にあげるプレゼントの方はせめて、サンリオショップとか、イオンの文房具屋とか、最大公約数を選ぶべきでは。そんな苦言が喉元まで出かかって、でもぐっとこらえる。「まんだらけ」とは言わないだけ、彼女なりに相手のことを考えているのだ。夢見の希望通り、手ぬぐい屋に向かった。 店に入った瞬間、夢見はぱっと顔を輝かせた。興奮気味にあれこれ手に取りながら、「どの柄もよくて決められな~い!」と悲鳴をあげる。 そこで私は、とりあえず近くにあった鳥の柄が描かれているものを指して「これなんかどう?」と尋ねる。すると「だめだよ、百舌は秋の鳥でしょ」と一蹴。……最近では夢見の方が教養がある。もう何も言うまいと黙って見守っていると、「うわーかわいい!これどうかな?!」とついに声をあげた夢見。自信満々に掲げて見せてきたのは、まさかの鳥獣戯画柄であった。 「あ、あのね夢見、プレゼント交換って言ったらみんな、光るペンとか、匂いのするローラー消しゴムとか買ってくるんじゃないの? あなたの趣味は決して悪くない。悪くないんだけど、プレゼントに鳥獣戯画で、本当にいいの?」 個性は尊重したいと思う一方で、夢見からのプレゼントを開けた瞬間の友人の顔と、それの顔を見せつけられる夢見の心境を思うと、つい余計な口を挟んでしまう。その後も、竹柄や唐草模様など、なぜあえてそれを、というセレクトを繰り返す夢見。「私には一般的な感覚が分からない」と渋い顔で言いながらじっくり小一時間、狭い店内を吟味した結果、最終的には紅白梅の鮮やかな一枚に決まった。お正月使いと普段使い両方が可能である。 「手ぬぐいほど汎用性の高いプレゼントってないと思うの」と夢見は自信満々だ。 封を開けた瞬間に鳥獣戯画、ドーン!とかでない分少しは喜んでもらえるだろうと思う一方、手ぬぐいという品そのものが夢見の同世代女子にどんなインパクトを与えるのか。親心にやきもきしながら迎えたクリスマス会当日、事態は思わぬ展開を迎えたのである。 夢見の選んだ手ぬぐいは偶然にも、特に夢見と仲の良い友人Aちゃんの手に渡った。ところがなんとAちゃんが、それと全く同じ手ぬぐいをすでに自宅に持っていることが判明。それならと、夢見に回ってきたプレゼントとAちゃんのプレゼントを交換し……結果として手ぬぐいは、夢見に返ってきたのである。 予想していたどんな展開とも違う結末ではあったけれど、それでも、少なくとも私と夢見にとっては、最高のハッピーエンドだったと言って間違いない。だって、平成のこの時代に、夢見のほかにももう一人、クラスに手ぬぐいを常用する子どもがいることがわかって、しかもその子はほかでもない、夢見の親友なのである。これを奇跡と呼ばずして何と呼ぶというのか。 腐女子で、歴史オタクで、和柄好き。普段なかなか同世代の子たちと分かり合えない夢見だが、どこにあるのか分からない“普通”を漠然と迎合することなく、いつだって自分の感性に正直でいると、ふいにこんな幸せなサプライズな幸せが訪れたりするのだ。 型にはまらないからこそ出会える人がいて、型にはまらないからこそ味わえる体験がある。夢見を見習って、私ももうちょっと堂々とはみ出していこうという気持ちを新たにした、そんなクリスマスなのであった。 イラスト ハイジ
2016年12月27日本当なら、人生の1分1秒でも長く自分の部屋にこもって、好きなアニメや漫画と、その二次創作ばかり見ていたい娘・夢見。そんな彼女が渋々とは言え、学校のあとの塾に通い続けているのには訳がある。国語の授業で使うテキストで、学校では決して読めない、面白い評論や随筆が読めるからなのだ。 今日はこんな話だった、と塾帰りに毎回報告してくる夢見が、あるとき特別に興奮気味に、もうおかしくてたまらないといった様子で教えてくれたのが「あたたかい手」というエッセイ。詩人である工藤直子さんの幼少期の、父と母とおならにまつわる話だ。 あるとき、食べ過ぎによりお腹をこわしてしまった幼き日の工藤さん。その様子を見て慌てふためく父母は、消化を促そうと、朦朧(もうろう)とする娘の腕を抱きかかえ、歩かせてみたり、運動をさせてみたり、あの手この手で奮闘。 そんな中、幼き工藤さんは、父の鼻から鼻毛が1本出ているのを発見するほど冷静で、序盤からまるでコントみたいなのだが、オチだって決してはずさない。「出るものが出ればなんとかなるだろう」と考える父は、何度目かのトイレでぷーっとおならの音がしたのを聞いて安心するも、すかさず母から「それはあなたのおならじゃないですか」とツッコミを受けるのだ。 塾の教室が爆笑に包まれたというその話を、娘に言われるままに読んで、やっぱり私もお腹を抱えてゲラゲラ笑った。それをきっかけに、この話が収録されている工藤さんのエッセイ集『とうちゃんと』を知り、すぐにAmazonで買って読んでみた。するとこどの話も本当に素晴らしくて、ときに笑い、ときに涙しながら、あっという間に夢中で読んでしまった。 おならの話は群を抜いて面白いけれど、もう一つはっとさせられたのが「個人落語」と名付けられた話。父親の右手人差し指には縦に一本、爪の真ん中を通るように大きな傷跡があったという。幼い工藤さんは、父がそのケガを負ったときの子ども時代の話をとても気に入っていて、何度も繰り返しせがんだのだという。 似たような経験が、私にもある。今となっては60代も後半に差し掛かったわが父。そんな父がまだ幼かったある日、ふと空を飛ぶヘリコプターを指差してこう言ったのだという。「屁ヘリコプターだ!」……すると、たまたまそれが、今は亡き私の祖父、つまりは父の父の耳に入り、運悪く怒りをかう。帰宅するなりバッチーンッと祖父に頬を張られた父少年は、その衝撃で11ートルくらい吹っ飛ばされたとか……。 あらためて文字にするとなかなか鮮烈なエピソードだが、子どもだった私にとっては何度聞いても爆笑モノで、渋る父にねだっては、繰り返しこのときの話をしてもらった。だって、自分にとっては立派な大人以外の何物でもない父に、実は私の知らないまぬけな子ども時代がちゃんとあって、おまけに私の中では、温和で、寡黙な印象しかない祖父が、元気に猛り狂ってビンタしているのだ。 そんなことがあったのかという驚きと、在りし日の父少年への親しみと、そして子ども心にもほんの少しのもの哀しさと。父の話を聞くたび、私の中にはたくさんの感情が湧き上がった。 あらためて思えばあのとき、まだたった数年しか生きていない幼い私は、初めて“今、この瞬間”から少しだけ距離を置くことを学んだのだ。自分と、その周囲を、今いる場所から一歩下がって俯瞰(ふかん)してみる。するとそこには、祖父から父、父から私へ、途切れることなく続いてきた、血の通った、長い、長い時間が存在していたのだ。 「ねえ、あの話しして?」 考えてみれば、母になった私はあまり子ども達に昔の話をしたことがない。だから、子ども達にこんな風にせがまれたりしたこともそうそうない。……話さなきゃな、と思う。私がまだお母さんになる前の話。今のモーや夢見と同じくらい不器用だった、子ども時代の話。大人になって、ようやく笑い話にできるようになったけれど、それでもやっぱり、ほんの少しほろ苦い昔の話。何しろそれは、どんな素敵な絵本だってかなわない、私と子ども達だけの、特別な物語。彼らの“今”を形作る、特別な物語なのだ。 イラスト ハイジ 参考書籍 『とうちゃんと』 (工藤直子/筑摩書房)
2016年12月20日もう散々議論し尽くされているテーマだと思うけれども、柿ピーの柿とピーについて、私の認識で言えば、「ピー」、すなわちピーナッツは、柿の種の美味しさをより色濃く印象付けるための、あえての我慢アイテムという認識だった。 ”人生楽ありゃ苦もあるさ”の楽を知らしめるためにどうしても必要なスパイスとしての苦。あるいは、世の中の光を際立たせるためのあえての影、それがピーである、と。 苦労を避けて通ってはいけない、努力なしでは成功は得られない。義務教育でそんな風に教わってきたから、柿ピーを前にしてもやっぱり、柿とピーのバランスを考え、柿、柿、柿、ピー、柿、柿、柿、ピー、くらいのペース配分を戒めのように自分に課してきた。それが正しい大人としての自分の務めであると言わんばかりに。 けれども34年間生きてみて、いろいろなことがあった。福岡の片田舎から東京に出てきて、さまざまな人たちと触れ合ううちに、あれ、思ってたのと違うかも、ということに気づき始めた。 私のように、子どものころの先生の教えを律儀に守って、目の前の苦を享受している人間は、ともすればふとしたとき、生きることに疲れたりする。疲れ切って動けなくなったり、逆に感覚を麻痺させて死んだ目で動き回ることもある。一方で、感じることを止めない人達というのは、できる限り無駄な苦を回避するし、そのために考えながら生きているのだ。そういう人達は、考えているわりにあまり疲れているようには見えない。 目の前に差し出された苦をありがたがって受け取るだけが賢い大人のやることではないのかもしれない。あの山のてっぺんまで登るようにと言われて、最短距離だからとただ闇雲にまっすぐ進む。目の前に立ちはだかる巨木や岩を馬鹿正直によじ登って突き進むのは思考停止だ。本当は、それらを器用に避けながら、無理のないルートを切り開くことこそ賢さにほかならない。 そんな世の中の真実についに気付いてしまった私の目の前に、満を持して現れた至高のおつまみ、それが「柿の種・ピーナッツ抜き」であった。 ……インターネットで見つけた時、「こ、これは……!」と雷に打たれたような衝撃が走った。 今まで、なんで無用の修行をしていたんだ私は、と。 そもそも、たかが酒のおつまみ。思考力を身につけた大人なんだから、ピーははじめから回避すればよかったのだ。柿、柿、柿、柿。堂々とそれを繰り返してよかったのだ。にもかかわらず、苦々しいピーを回避しないことに、さも大義があるかのように自分を偽ってきた。愚かだった。 後ろ向きな姿勢で食べてきた無数のピー達への追悼の念とともに、ついにわが家に、6パック入りの大箱で届いた「柿の種・ピーナッツ抜き」。黄身だけで作る卵ご飯と同じくらい、ある意味でこれは大人にだけ許された究極の贅沢とも言えるかもしれない。子ども達にはまだ早すぎるのではないか。筋力を十分につける前に近道を教えるようなものではないのか。そんなことを思いちょっと悩ましくも感じた。ところが、学校から帰ってくるなり「柿の種・ピーナッツ抜き」を見た息子が、悲鳴をあげて言った。 「ピーナッツ抜き!? そんな柿ピーに存在価値なんてない!!」 えっ……私は仰天した。単に無駄な苦であるピーの価値をそんなに高く見積もっていたなんてまさか息子はドM?! 柿ピーをめぐる、わが家の思想的対立の火ぶたが切って落とされた、かに思えたが、よくよく話を聞くと、考えれば当然のことがわかった。 息子は、ピーナッツが好きだったのだ。 私の体から分裂してこの世に登場し、私の調理したもの、私の買い与えたものを食べて成長した息子が、まさかピーナツ好きになろうとは。 血が繋がっていたって、一緒に暮らしていたって、親と子は別人なのである。 イラスト ハイジ
2016年12月13日「ママってさあ、よく突然独り言を言うでしょ。それにしょっちゅう鼻をすする。ネットで調べたんだけど、それってチックっていう病気らしいよ?」 ある日突然こんなことを最近娘に言われて、ドキっとした。 確かに私は独り言が多い。そこには20年以上前から自覚がある。ふと過去の恥ずかしい失敗を思い出したり、目先に締め切りの迫った原稿が1行も書けていなかったりするとつい、「あああっ」と声をあげて、現実から気をそらそうとしてしまうのだ。 もっとライトに、「うん」とか「あっ」とかも言うけど、もっとエモーショナルに「もうだめだ~!」と言ったりもする。でもそれだとあまりに破滅的で救いがないので、最近では「いや、でも大丈夫!」とか、「でも、頑張ろう!」とか、過去の恥ずかしい場に居合わせた他人のような気持ちで、自分に励ましの声をかけるようにしている。自己救済措置。……と本人は一件落着、みたいな気持ちでいても、そばで聞いている子どもの気には当然触るだろう。黙って台所に立っていた母親が、急に一人で喋り出すのだから、子どもたちは気の毒だな、と思う。 しかし、それはチックなのだろうか。ただ単に独り言のうるさい人とは違うのだろうか。鼻をすする、についても、単なる慢性鼻炎のせいではないのか……と思っていたものの、娘に言われた翌日、私はついに気付いてしまったのだ。「はあああもうだめだ、仕事終わらない……いや、まだ頑張ろう!」という思考の延長で、言うならば気持ちを切り替えるリフレッシュのために、確かに私、すうううっと、大げさに息を吸い込んでいたのだ。 娘のみならず息子に至っては「俺はドアの外のヒールの足音と鼻をすする音で、母さんかそうじゃないかを見分けられる」とまで言うくらいだから、きっと私は無意識でも、その必要もなく何度も鼻をすすっている。 そうか、これか。これだったのかと。チックなのかどうなのかはさておきギョッとした。何しろ自分がほぼ無自覚にやってきたこと、たとえ気付いたとしても生理現象の一つだと扱ってきたことに、実は全然別の意味があったかもしれないのだ。自分のちょっとしたストレスを逃そうと、無意識の私が暗躍していたかもしれない。自分の知らない自分と、思いがけず出会ってしまったような気持ちになった。 しかし、そんなことよりもっと怖いのは、そんな私の無自覚な私に気付き、その違和感を指摘したのが娘の夢見だったということだ。おそらく彼女はあるときふと何かでチックを知って、「ママのあれはもしや」と疑問を持ったのだろう。そしてさらに深く調べ、うん、やっぱりそうだ、と思い至ったんだろう。 わが家の最年少・夢見がついに、うちの「当たり前」が、本当によそでも「当たり前」なのか、家庭と社会を照会できる能力を身につけてしまったということなのだ。 思えば、前の夫と離婚してからの3年ほど、家庭の中というのは、社会から隔絶され、私が唯一、完全に気を抜いていられる場所として機能してきた。パンツ一丁で歩いても大丈夫。ソファに足を放り投げて転がったって大丈夫。昨夜の洗い物が翌日もシンクの中に溜まっていたって大丈夫。ロビンのウンコがあちこちに転がっていたって踏まなきゃ大丈夫。……まあ色々なことが大丈夫だった。だって、結局はいつか自分で処理するわけだし、子ども達だって生まれながらにこの家で生活しているわけだから、今さら何の疑問を持つこともなかろう、とある意味たかをくくっていた。 ところが今後はそうはいかないのだ。実は私が一般的には片付けの苦手な部類の人間であることも、実は標準よりやや衛生観念に欠けていることも、実はいまひとついろいろな面でだらしない部分があることも。今後は玉ねぎの皮を剥くように、次々と暴かれ、家族だからこその鋭さでグサッ、ズサッと指摘されていくのだろう。 ……怖い。怖すぎる。 年齢を重ねるほどに、自らの欠陥こそ個性と開き直って、楽に生きていけるようになるのだろう。漠然とそんな風に楽観視していた。今抱えている若干の後ろめたさも、そのうち私の中のわずかな正しさが根負けして、そんなにだらしないならもういいよ、と影を潜めていくんだろうと。しかし敵は私の中だけにあらず。少なくとも子ども達が独り立ちするまでのもう数年間は、せめてもう少し真人間に擬態する努力を積むべきか……。決断を迫られている。 イラスト:ハイジ
2016年12月06日10年前、息子がまだ幼稚園児だったころ。とあるママ友が無邪気な笑顔でこんなことを言った。 「うちの息子ね、家で育てているオジギソウに、モーくんの名前をつけて可愛がってるのよ」 某幼児用教材の付録にオジギソウの種がついてくるそうで、土に植え、立派に発芽し、お辞儀をするようになった知人宅のオジギソウに、なぜか息子の名前がつけられたというのだ。 一体、なぜ……。条件反射で吹き出しつつ、内心さまざまな思いが渦巻いた。 仮にもし、育てているその草がオジギソウじゃなくて、クローバーとか、ミントとか、ローズマリーとかだったらまた別の話になっていたのだろうけれど、よりによってオジギソウである。 ちょっとつつくと、お辞儀をするように葉を閉じることからその名がついた、あのオジギソウ。万年平社員さながら律儀にお辞儀をする、モーの名のついたオジギソウを、息子の友人は一体どんな気持ちで可愛がっているというのか。決して覗いてはいけない深淵を覗いてしまったような、なんとも言えない複雑な気持ちになったものだ。 しかし、へこへこお辞儀するかはさておき、確かに息子は幼いころから三枚目キャラではあった。仮に草に例えたときにも、決してクローバーや、ミントや、ローズマリーというような、カフェっぽい名前にはならなそうな、そんな子どもだった。 3回経験した幼稚園の運動会。駆けっこで、息子は決まってスキップをした。自己紹介のマイクが回ってきたときには大きな声ではっきりと「ウンコです」と言った。さすがに小学生にもなるとウンコで笑いを取ろうとすることはなくなったものの、代わりに少々知恵をつけて、真面目にやったほうがもっとウケる、ということに気付いた様子。 ある年の学芸会、「どうしても……どうしても彼にしかできない役があるんです!」と担任の先生に熱っぽく語られ楽しみに会場に行くと、息子の担当はなんと“効果音”だった。といっても、楽器やCDを鳴らすわけではない。嘘みたいな本当の話で、彼にしかできない役とは、他の子の歌の合間に「チャッ!チャッ!チャッ!」と、効果音を発声することだったのだ。 最初から最後まで大真面目にやったことにより、会場はどっと沸いた。終演後のモーは、「オレ、人に笑われるの大好き!」と満足げに語ってくれた。その言い方だとちょっとドキッとさせられるけれど、おそらくモーは「オレ、人を笑わせるの大好き」と言いたかったんだろう。 スポーツが得意というわけでもなく、かといって秀才かというとそっちでもなく。恵まれた都会育ちでありながら、未だに浮いた話のない息子。しかし、14歳になった今も、昔からの性格は全く変わらず、日々いかに人を笑わせるか、ということに全力を注いでいる。会話の間合いを見て、ここぞというところでぬかりなく一発芸をかましてくる。最近では、人を笑わせるための独自のロジックすら形成されているようだ。 万年平社員だって中島みゆきに言わせれば地上の星。私や夢見のみならず、息子はきっと、周りにいる沢山の人を地上から明るく照らしている。あこがれの対象として人々の頭上から眩く輝かなくたって、オジギソウに重ねられたって、私はそんな息子を、とても自慢に思うのである。 * * * ところで、私自身小さなころからオジギソウがとても好きで、未だに山や公園でそれらしい葉っぱを見つけると、つい指でつついて、オジギソウかどうかを確かめてしまう。(でもこれがなかなか見つからないのだ)。 触った瞬間に動いてくれると、なんとなく草と意思疎通ができているような気がしてワクワクする。 先日読んだニュースによると、植物には知性や感情があると考える科学者が急増しているのだという。まことしやかに囁かれている、観葉植物に優しい言葉をかけ続けるとよく育つ、というあの言説を実験された方はぜひその後の経過を教えてほしい。あわせて、最近ツイッターで見かけた、“水にエッチな言葉をかけ続けると水素水になる”、というツイートに、深く唸らされたことをここにご報告します。……完全に余談ですが。 イラスト:ハイジ
2016年11月29日2回目の今日は、この連載の登場人物について、もう少し詳しく説明しようと思う。 まず、この日記には息子が登場する。息子は小さい頃から一部で“モーくん”と呼ばれていたので、ここでもモーと呼ぶことにしようと思う。実際、本人にそう呼びかけたところで「俺そんなあだ名で呼ばれたことないけど」と混乱すると思うのだが、この名前は私が大昔に書いていたブログの記事に由来している。 今や中学3年となり、立派にオッサンへのフォルムチェジを果たした息子だが、まだ2、3歳の、オムツを履いていたころ。ウンチ後にお尻を拭くときに、“牛さんみたいに四つん這いになって”というのを、わが家では“モー、して”と言っていたのだ。(いらぬ説明かもしれないけれど念のために、牛がモーと鳴くからだ)。 寝返りができるようになるのを皮切りに、オムツ替えって途端に格闘技になるが、歩き出すとなおさら大変で、じっとしている一瞬の隙に、手際よく済まさねばならない。そうじゃないと、下半身丸出しのまま伸びやかに走り出してしまうからだ。息子もご多分にもれず、一度“モー”をしても、数秒と待たずに四つ這いのまま走り出してしまう暴れ牛だったので、その様子を当時のブログにおもしろおかしく書いた。それがきっかけとなり、彼はネット上の一部の読者の方々に、モーくんと呼ばれるようになったのだった。……アメリカだったら訴訟されかねない。 で、同じブログの中で娘の方はというと、夢見、と呼ばれていた。 これは、まだ娘がお腹の中にいる頃、長男モーが決めた名前だ。「生まれてくる赤ちゃんはどんな名前がいいと思う?」と、当時3歳だった彼に何気なく聞くと「いい夢をたくさん見られるように、夢見がいい」とモー。 3歳ってそんなこと言ったかな、と今となってはちょっと驚くのだけど、確かにあのとき彼はそう言って、当時妊婦で、センチメンタル過剰だった私は、そんな兄の優しさにちょっと泣いて、それを早速ブログに書いて、それで娘は“夢見”になったのだ。 たまに勘違いされることもあるのだが、夢見は本名ではない。なぜ本名にならなかったかというと、父親が22歳、母親が18歳という年齢で勢いで結婚。その後も色々と無計画に生きてきた親から、さらに夢ばかり見る子供が生まれてきては命に危険があるのではないかという懸念が、名付けのときにどうしても払拭できなかったためだ。だが幸いにもここはインターネットの世界なので、何を気にすることもなく堂々と“夢見”と呼んでいきたい。 それから、わが家にはもう一人、というかもう一匹、ロビンという犬がいる。ロビンは、私とモーには文字通り尻尾を振ってすり寄ってくる愛くるしい犬だが、夢見については少し様子が違う。 「ママとモーくんが帰ってきたときには飛び着いて行くのに、私が帰ってきたときには、ちらっと目を向けるだけで一歩も動こうともしない」と、よく夢見が不満をもらしている。どうやらロビンは夢見を完全に自分より下位の存在、犬か何かであると考えているようだ。 ということで、この家族日記は、モーと、夢見と、夢見がちな娘にシビアな現実を見せつける犬のロビンと、そして私綾瀬はるか、じゃなかった紫原明子の4人の生活を綴っていくものである。 最後に、タイトルと文末のイラストについても少し説明をしたい。まず、タイトルの方のイラストを描いてくれたのは、中学3年生の天才イラストレーター、らく君だ。実は彼、息子の幼稚園時代の友人なのだが、最近になってすごい才能の持ち主だということがわかり、この連載のタイトル画像をお願いした。インスタグラムで毎日1枚更新されるイラストからは、日々溢れんばかりの才能を見せつけてくれているので気になる人はぜひフォローしてみてください。 らく君Instagram: rakufutty また、毎回内容に添って描き下ろされる文末のイラストは、30歳のイラストレーター、ハイジによるもので、何を隠そうハイジは私の妹、且つ現在4ヶ月の赤ちゃんを絶賛子育て中の母でもある。子育ての合間にiPadでイラストを描いてくれるのだが、この原稿を描いている段階で、当初隔週だった更新予定が毎週に変更になったことを未だ伝えていないので、これを読んだらあの子どんな顔するだろう、ワクワクが止まらない! イラスト:ハイジ
2016年11月22日現在小学5年生、11歳の娘は、かつて私にこんな風に言った。 「ママ、言っとくけど私、腐ってないから。ただ漫画の世界が好きなだけで、腐ってはいない。腐女子とオタクはまた違うから」 ところがその数ヶ月後、娘の主張にはわずかな変化の兆しが。 「正直ちょっと腐りかけてる……。ヒロインにがっかりさせられる度に、そんなことなら主人公はヒロインじゃなくてこっちのキャラとくっつけばいいじゃん、なんて考えちゃうし、それがたまたま男同士だったりする。……でも、まだかろうじて腐ってない、腐りかけだけど腐りきってない!」 聞いてもいないのにこういうことを言ってくるということは、もうだいぶ方向性が固まってきたな、と感じていると、ついに先日、観念した様子で娘が言った。 「ママ、もう認める。私、腐った。腐ってる。腐女子になった。カップリングを想像せずにはいられない!」 念のために説明しておくと、ここで言うカップリングとは文字通りカップルになる二人という意味で、加えて説明すると腐女子とは、カップルが男性同士である可能性も排除せず、またときにはそちらの方を重視しながら、縦横無尽に想像力を働かせて物語を読み進める読者だ。 ……そうか。ついにそのときが来たかと、深く感じ入るものがあった。 11年前、初めて産院で娘と対面したあの時には、まさかこうなろうとは思いもしなかった。家庭の事情で計画出産となり、本来の予定日より2週間ほど早く生まれることとなった娘。 “え、いきなり何? まだお腹のなかにいたいよ~”と、言わんばかりの眠そうな顔をしてこの世に出てきた赤ちゃんが、今やこうして立派に、自立した腐女子としての一歩を歩みだしている。 先日、美味しそうなサンドイッチがずらりと並んだ、雑誌のサンドイッチ特集を見ているとふと、これは何かに似ているぞ、と思った。そしてすぐに、そうだ、『からすのパンやさん』だ、と思い至った。 『からすのパンやさん』は、子ども達がまだ小さかったころに大好きだった絵本で、連日、子ども達にせまがれ繰り返し読んでいた。ハイライトは何と言っても、美味しそうなパンの絵が何十種類も勢ぞろいする場面。 「どれが食べたい?」 「うーん、これ!」 「はい、どーぞ」 「あーむ」 って感じで、絵本からパンをつまんで子どもの口元に持っていくと、子供は絶対に口を開けて、あーむ、と見えないパンを頬張るのだ。 長男のときも、長女のときも、同じことをした。と同時に私もまた子供のころ、実の母にそんな風に、かすみのパンを食べさせてもらっていた。 不思議なことに大人になった今でも、あーむ、と食べたその瞬間、わずかに、パンの味を感じられるような気がする。 思えばそんな風に古き良き絵本と、見えないパンとで育まれた想像力が、少なくとも娘の中ではしかと芽を出し、今や漫画の登場人物から、自由なカップルを延々と妄想させる、熱いエネルギーの源となっている。 母親になってから14年あまり。子育てはこれからも延々と続くのだろうけれど、一方で、日々自分の世界を広げていく子ども達を前に、過去に埋めたタイムカプセルを思いがけず掘り返して、あ、そういえばこんなものが入っていたな、なんて改めて思い起こす。そういうことが、このところ増えてきたように感じられるのだ。 * * * 遅ればせながらみなさん初めまして。 今日からここ、ウーマンエキサイトにて、わが家の生活を綴る連載を始めることとなりました。紫原明子と申します。 簡単に自己紹介をすると私は、エッセイを書くのと、週2回くらいIT企業で働くのを生業としている34歳シングルマザーで、腐女子を自覚した娘の上にはもう一人、19歳のときに産んだ、現在中学3年生の長男がいます。ここに加えて4年前に六本木からやってきたもともとは毛並みのいい犬1匹とで、築50年の古アパートに暮らしています。 本連載を始めるにあたりタイトルを思案していたころ、娘から「“私の娘がこんなに腐女子になるわけがない”はどう?もしくは“とある腐女子の……”」とさまざまな提案を受けたもののそれらは全て却下し、編集の石上さんと相談した上で「新米ママ歴14年、紫原明子の家族日記」という現在のタイトルに決まりました。1週間に1度の更新です。これから、どうぞよろしくお願いいたします。 イラスト:ハイジ
2016年11月15日