ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。
わが家はワタシと長男の趣味で大河ドラマを欠かさず見ているのですが、その中では当たり前のように現代とは全く違った文化・習慣が見られますよね。
小5の長男がふと疑問を持ったのは、一人の男性を挟んで睨み合う二人の女性。
一夫多妻制だった昔の日本。
時代劇には他にも妻とは別の女性の元を訪れる男性や、ひとりの権力者男性の子どもが複数の女性から生まれることで跡目争いが起こる様子も描かれています。
これまでの連載でも、男性に比べ歴史上の女性たちは決定権が無く人生の選択肢も少なく、なんとも不自由を強いられてきたような印象を受けている方が多いのではないでしょうか?
実際、戦国時代や江戸時代を舞台とするドラマでは、女性や子どもは立場が低く人質や貢物のような扱いとして描かることもあります。
さらには日本女性の理想とされるイメージはほんの数十年前までは『大和撫子』。
男性の半歩後ろを歩き、どんな扱いを受けても慎ましく従順で貞節を守る姿ですが…。
でも…それってホント!?
なんだかワタシの知ってる女性史とは違うんだよなぁ〜!とモヤモヤ…
そこでやっぱりあの方たちをお呼びしま…
あ〜もう察して出てきてくれるようになりましたね!
史料を紐解けば、歴史の中から“女性たちの姿”が見えてくるはず…
二人の天皇に愛された額田王
恋多き女の坂上郎女
ということで、まずは古代まで遡ってみましょう〜!!
出典:万葉集 ~夫がいても元夫と愛の歌を交わす額田王~
ーー男女の恋愛が平等&自由じゃない?
最高権力者の男性二人に愛されて、結果的に
どっちも手に入れちゃう額田王ってシンプルに…カッコよくない?
そして
恋多き女として有名な坂上郎女の、自分からどんどん男性にアプローチしていく自己肯定感の高さ、憧れません?
古代には「歌垣」と呼ばれるイベントがあり、既婚者にも大っぴらに声を掛けても許されるという出会いの場だったようです。
(今だったら許されない! 感覚かもしれませんが、実は昭和初期まで地方の集落のいわゆる「お祭り」は、これに近い風習だったところもあるんですよね…余談)
平安時代の女性は受け身だった?
次に、女性が公の場から姿を消し男性が複数の妻の家を訪れる形の『通い婚』になった平安時代はどうだったのでしょうか?
いかにも女性=待つ、受け身な感じがしますよね。
和泉式部の場合はお相手が高貴な方ばかりだったり、「恋ふ」というワードを使うのは男性が主流になっていた時代に女性ながらガンガン使っていたこともあり、平安女性のイメージを覆す派手さはありますね。
基本は受け身であることが推奨された時代なので周りからの評判も人によってさまざまなようですが、宮廷に勤める女房たちにとって、
恋は教養のようなものでした。なぜならこの時代、どんなに字が書けても容姿が良くても、和歌のセンスが無ければ評価されません。
投げかけられた歌にその場で情緒ある返歌を詠む機転、引用された古い漢詩を理解して自分の想いを掛けた言葉を入れて返す知識と語彙力、そして限られた文字数の中で切ない恋心を伝えられる感性…。
これらは数をこなさなければ身に付きません。
つまり和歌が上手い=モテる女性(男性ももちろん)という相関関係があるのは当然のようです。
戦国時代も…思いのほか女性は強かった
さて、冒頭であったように時代劇ではいろんな武将に嫁に出されたり人質にされたりとモノのように描かれがちな戦国時代のリアルは…?
日本史の中では貴重な海外とのやりとりが盛んだった期間ということで、せっかくなので客観的な外国人の感想をお伝えしましょう。
・処女の純潔をなんら重んじない。それを欠いても栄誉も結婚も失いはしない
・各々が自分のわけ前を所有し時には妻が夫に高利で貸し付ける
・しばしば妻の方から夫を離別する
出典:ルイス・フロイス著『日本覚書』
ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスもびっくり!!
西洋に比べ、日本人女性の性への奔放さや離婚がなんの恥にもならないこと、男女が財産を別々に管理したり女性にも男性と同等の教養があって当たり前であることなどを驚きと共に伝えています。(もちろん平安時代も中世も、高貴な女性は親の権力争いや献上品のような扱いで利用されていたのでこれには当てはまりません。物語や日記に残る女性は相応の身分であることが多いので、不憫なイメージの方が強く残ってしまうのかもしれないですよね。)