ASD当事者であり支援者。自身の特性をオープンに「生きやすく生きる」を支援――公認心理師・難波寿和さん【連載】すてきなミドルエイジを目指して
――そうだったんですね。他にも、学校生活で何か困ることはありましたか?
難波: 落ち着きもなく、忘れ物もひどかったです。ほとんど毎教科で何かしら忘れ物をしていました。授業では、先生の話を記憶しようとした瞬間に、もう次の話に移っているので、なんの話をしているのかが全然わからなくって。1年生の時点で遅れをとっていました。
友人関係も、いい関係を築きたいというイメージはありましたが、うまくいきませんでしたね。保護者会が僕の話題でもちきりになるぐらい、問題のある行動をしてしまっていて……。例えば、友人に暴言を吐いたりとか。
それでいじめられるようになりました。
僕もひどいことを言いたいわけじゃなかったんです。でも、そうしないと友達が自分のほうを向いてくれなかった。学校の先生は、「人の気持ちを考えなさい」と言いましたが、具体的にどうしたらいいかは教えてくれなかったので、どうすることもできませんでした。そのころは、全部人のせいにしていましたね。学校が悪い、先生が悪い、いじめる友達が悪いという考え方でした。
――そんなとき、幼少期の難波さんにとって安心できる存在だったお母さんは、どのような対応をされたのでしょうか。
難波: 母親は、「とにかく生きとりゃいい」「死ななかったらなんとかなるわ」みたいな考え方で(笑)。
具体的な対処法は教えてくれませんでしたが、小学校6年生ぐらいまで、僕が帰ると膝の上で30分ぐらい話を聞いてくれました。「こんなことした」「あんなことされた」と泣きながら話すと、「おう、いけんかったなあ」とただただ慰めて支えてくれたのを覚えています。
友達を模倣することでなんとか切り抜けてきた
難波:僕、小学校の卒業式のときに、「僕は生まれ変わるんだ」と決めたんですよ。小学生のときの記憶に全部蓋をして、もう何も言わない、何も感じないようにするんだ、と。その決意の通りに中学校では比較的おとなしく過ごし、一緒に遊べる他の小学校出身の友達もできました。その一方で、乱暴に振る舞う人をコミュニケーションのお手本にしてしまうなど、まだまだうまくいかないこともありました。授業は黙って座っていれば問題ないことに気づき、耳も慣れてきて、小学生のころよりは聞けるようになりましたね。塾にも通って、成績は中の下ぐらいまでには、なんとかもちなおして。
きちんと出席していたこともあって、推薦入試を受けることができ、全寮制の高校に進学しました。