担当者の説明にうなずきながら、沖縄返還にまつわる資料を真剣な表情でご覧になった天皇陛下と雅子さま。お二人が特別展「公文書でたどる沖縄の日本復帰」を鑑賞するために、国立公文書館に行かれたのは6月14日のことだった。雅子さまが同館を訪問されたことに、皇室担当記者は胸をなでおろしたという。「雅子さまの“腰のご不調”が大変心配だったからです。“腰の調子がよくない”という理由で、予定されていたご養蚕行事『初繭搔き』を取りやめられたのは6月8日のことでした。作業には腰をかがめる動作なども必要となりますので、それがご負担だったようです。雅子さまのご体調について、不良な体の部位が明確に公表されるのは大変珍しいことなのです」だが2日後の6月10日、宮内庁担当記者たちからの質問に、侍従次長はこのように答えるばかりだったという。「皇后陛下の腰のお痛みにつきましては、だいぶ落ち着かれたようです。ただ女性の体調に関わるお話ですので、どういった症状であるのかなどは、私のほうからお伺いすることは控えておりますので、詳しくはわかりません」ご不調の原因は明らかにされなかったのだ。さらに1週間後の16日になっても侍従次長は、「(皇后陛下の腰については)完全にお痛みがなくなったわけではないようです」と、コメントを……。前出の皇室担当記者が続ける。「実は4年前、’18年6月にも、当時皇太子妃だった雅子さまの“腰のお痛み”が公表されているのです。当時、東宮大夫は“車での移動をはじめ、立ったり座ったりする際にお痛みを伴う”と、説明していました。医師の診断は『腰椎ねんざ』。しかしこのときも原因は明らかにされず、東宮大夫は『お疲れもたまっていたと思うが、それが直結しているかはわからない』と、語っていました」“原因不明の腰の爆弾”を抱えられている雅子さま。腰や首の不調は、“皇后の職業病”とも言われているという。宮内庁関係者が解説する。「式典などで来賓席に一度座られたら、背筋を伸ばし身じろぎすることもできません。ずっと同じ姿勢を保つことは、腰や首にかなりご負担になっているはずです。また地方にお出かけになり、地元の人々とお話しになる際は、視線を相手に合わせるために、腰をかがめられています。皇后さまは東日本大震災の後に、避難所なども訪問されましたが、いつも床に膝をつけて、被災者と長時間にわたってお話しになっていました。さらに言えば、宮中祭祀も天皇陛下よりご負担が大きいといわれています。天皇陛下の正装は束帯、皇后さまは十二単をお召しになります。皇后さまの『おすべらかし』の御髪(おぐし)は首などに重圧がかかります。美智子さまも70代後半からは、お体への負担を考慮され、欠席されることも増えたのです」皇后になられて4年目、58歳の雅子さま。58歳というご年齢は“皇后の鬼門”なのかもしれない。「美智子さまが精神的なショックの積み重ねから、お倒れになったのが’93年10月、59歳のお誕生日のことでした。その後、しばらく声を出すことができない症状が続きました」(前出・皇室担当記者)■ストレスが腰痛を引き起こすケースも美智子さまが失声症を発症されたのは59歳だったが、58歳当時は被災地ご訪問などの過酷なスケジュールに疲弊し、またご自身への心ないバッシング記事に胸を痛めていらしたという。皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんはこう語る。「バッシング報道は、皇室改革を進めてこられた美智子さまへ、保守派の反発が向かったことが原因だったといわれています」美智子さまが58歳といえば、皇后になられて4〜5年目。雅子さまも同様だが、一心不乱に邁進された心身のお疲れが蓄積してきた時期ということなのか。精神科医の香山リカさんは次のように語る。「雅子さまが腰に違和感を覚えられていると伺い、心配しております。実は整形外科の医師から受けたレクチャーによれば、腰の痛みの70%は原因がわからないというのです。さらに、原因不明の方の多くが、心因性によるのではないかとも指摘していました」確かに厚生労働省のHPでも、《ストレスが腰痛を引き起こすメカニズム》について詳細に説明されている。香山さんは、こう続ける。「60歳の手前である58歳ごろは、自分の人生を振り返り、やり残したこと、やれなかったことなどを思い出し、精神的な苦痛が生じやすい年齢といわれているのです」美智子さまが危機を乗り越えられたのは、長女・黒田清子さんの尽力も大きかったという。「清子さんが中心になって、御所に音楽家を招いて、美智子さまがお好きな作曲家のシベリウスの曲の演奏会を開かれるなど、お心安らかに過ごせるお時間を作ったのです」(前出・渡邉さん)すると雅子さまが現在の危機を脱するためにもご家族のサポートが必要となるのだろうか。「『初繭搔き』を取りやめられてから、3日後の6月11日、雅子さまは紅葉山御養蚕所に赴かれたのです。お痛みをこらえてのお務めを心配されたのでしょう。天皇陛下と愛子さまも合流され、作業をご一家で行われました。詳細は明らかにされていませんが、雅子さまが声を出して笑われる場面もあったと伺っています」(前出・宮内庁関係者)腰痛に悩まれる雅子さまにとって、陛下と愛子さまとお過ごしになるひとときが、何よりの癒しになっているのだろう。
2022年06月23日6月5日、天皇陛下と雅子さまは滋賀県甲賀市で開催された「第72回全国植樹祭」にオンラインでご出席。昨年に続き、中継で式典会場のスクリーンに両陛下の様子が映し出された。今年は会場の参加者と同時に緑化への願いをこめてハンカチを振る演出があり、両陛下は、皇居・御所の玄関前に設けられたお席で黄色いハンカチをお振りになられた。ハンカチ一枚一枚には滋賀県の子どもたちが書いた、「滋賀県は特別な自然や生き物がたくさん」などのメッセージが。コロナ禍で予定されていた生徒全員の参加がかなわなかったため、県庁が植樹祭に関する一言をお願いしたのだという。さらに、両陛下は記念にスギなどの苗木をお植えになり、コウヤマキなどの種を蒔まかれた。式典後、滋賀県に運ばれて植えられる予定だ。また、3年ぶりに緑化啓発ポスターの展示をご覧になり、植樹祭の参加者たちともご懇談。コロナ禍で直接のご交流はできないが、地方ご公務のオンライン参加にも両陛下らしい工夫がなされているようだ。
2022年06月18日5月25日、天皇陛下と雅子さまは上野の東京国立博物館を訪問し、沖縄復帰50年記念特別展「琉球」を鑑賞された。お二人での展覧会へのお出かけは2年3カ月ぶり。雅子さまのご様子からは、胸のときめきが伝わってくるようだった。雅子さまは、琉球王国時代の「銅鐘 旧首里城正殿鐘」に興味を持たれ、鐘に刻まれた「船で万国の津梁、いわば架け橋となって貿易を行い、国に宝物が満ちている」といった内容の銘文を、熱心にのぞき込んで読まれていた。さらに、鐘についた傷をご覧になり「やはり戦争の傷ですか」とご質問。戦争の爪痕についても気にかけていらした。コロナ禍の自粛ムードもようやく薄れつつあり、今後は両陛下でのお出ましも増えてくるに違いない。
2022年06月04日5月19日、雅子さまは赤十字社の記章をお付けになった白地に紺のアクセントのあるスーツをお召しになり、日本赤十字社名誉総裁として全国赤十字大会に出席された。毎年開催されるこの大会はコロナ禍で2年連続中止されており、皇后としては2度目のお務め。「お若いのにすごくしっかりしていますね」「そのフレッシュな新鮮さをこれからも武器にして頑張ってください」愛子さまと同学年という埼玉県青少年赤十字卒業生奉仕団の加藤緩凪さん(21)に、優しくお声がけされた雅子さま。式典には、名誉副総裁である紀子さま、信子さま、久子さまがご列席。’19年8月のフローレンス・ナイチンゲール記章授与式以来、雅子さまと妃殿下方が皇居以外のご公務でおそろいになった。そんな、雅子さま&妃殿下のファッションチェック!【雅子さま】赤十字大会では定番の白と紺の装い。襟や袖口、ポケットのフラップに薄いオーガンジーを使い、トレンドの透け感も取り入れられて。【紀子さま】ペパーミントグリーンの丸首のセットアップは、前合わせの特徴あるデザインがポイント。ベージュのバッグと靴で優しい雰囲気を。【信子さま】涼しげな素材の淡いブルーのセットアップにお帽子も共布で統一し、爽やかな印象。黒いバッグと靴で全体を引き締めた装い。【久子さま】大輪の菊を思わせる地紋の穏やかなグレーのスーツ。お帽子のレースとリボンが抜け感を演出。バッグとパンプスの黒使いもお見事。’19年5月に雅子さまが皇后となって初めて出席されたときには、式典の所作についてしっかり練習して臨まれたと伝えられていたが、今回の式典は3年ぶりでも少し余裕がある印象。雅子さまが自らお贈りになる有功章授与では、1人目はいささか緊張されていたご様子だった。それでも、続く12人の受章者には落ち着いて授与されていた。お帰りになる際にはお見送りに出ていた実践活動の報告者、出演者などに、明るい表情でお声がけされ、積極的に懇談された雅子さま。この2年間コロナ禍でできなかった国民との直接の交流に、皇后としてのあるべき姿を示され、充実したご様子だった。
2022年05月28日壇上には、白と紺のバイカラーのスーツを身にまとった雅子さま。日本赤十字社の名誉総裁として、13人の受章者代表に有功章を手渡されるそのご表情は明るく、生き生きとされていたーー。5月19日、明治神宮会館で全国赤十字大会が開催された。コロナ禍で’20年、’21年は中止となっていたため、今回が3年ぶりの開催。雅子さまにとって、天皇陛下とご一緒ではない“単独公務”も2年9カ月ぶりだった。宮内庁関係者も、ほっとした様子を見せた。「雅子さまは昨年11月から年明けにかけて体調を崩されていましたが、今回のご様子を拝見する限りでは、体調もかなり安定してきたのだと思います。ただ、外出を伴うご公務こそ増えてきましたが、海外ご訪問はまだ先のことになりそうです」’20年の初夏には両陛下がイギリスを訪問される予定だったが、コロナ禍により延期に。今年、海外訪問が再開される見通しは立っていない。「雅子さまご自身も、語学力や外務省時代の経験を生かした国際親善に取り組みたいという思いが強いのではないでしょうか」(前出・宮内庁関係者)そんななか、5月13日に宮内庁がある計画を発表した。皇居・東御苑に、カフェを建設するというのだ。「大手休憩所」と仮称された施設は平屋を基本に一部2階建てで、床面積が3千平方メートルという大規模なもの。カフェのほか売店も併設され、屋上は眺望が楽しめるオープンテラスになる。皇居の歴史や皇室の活動を紹介するコーナーも設けられるという。完成は’25年(令和7年)度の予定だ。実は、皇室に代々受け継がれる美術品や宝物を管理・展示する三の丸尚蔵館も拡充される予定になっており、大手休憩所はその向かいに建設されるという。この計画に、皇室担当記者は驚きを隠さない。「皇居外苑の和田倉噴水公園にはスターバックスコーヒーがありますが、天皇ご一家のお住まいである皇居の中にカフェが設けられるのは初めてのことです。数年後のコロナ禍の収束を見据え、外国人観光客の来場を見込んでいるようですが、前例を守り、伝統を何より重視してきたこれまでの宮内庁の姿勢とは、まったく異なります。いったいどなたのお考えなのでしょうか……」■雅子さまが訴えていた「皇室の情報発信」元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司さんは「国内外を問わず、皇室への関心や理解を深めるきっかけになる、よい構想」と語る。「コロナ禍以前、東御苑の入園者数は増え続けていて、外国人観光客は4割を超えていました。三の丸尚蔵館には伊藤若冲の作品など、国宝や国宝級の品々がたくさんあるのですが、現在の建物では小さすぎました。外国人に対しても皇室や皇居、日本の文化財をアピールし、おもてなしするには、新しい施設が必要ということでしょう。もちろん、宮内庁が独断で行うことはなく、天皇陛下のご了承あっての話なのだと思います」一方、前出の宮内庁関係者は、雅子さまのお考えも反映されているのではないかと語る。「雅子さまは以前から、外国との相互理解を育む重要性を訴えていらっしゃいました。皇族数が減少し、海外訪問の機会も減っているなかで、新たな国際交流のあり方を模索されていたのです。’19年には224万人もの来園者数を記録した皇居・東御苑にカフェを設置して、日本人と外国人の交流の場を作る、そして皇室の役割や歴史について伝える場にするというアイデアは、雅子さまのお考えにも合致していると思います」雅子さまは’97年の誕生日会見で、世界の国々との関係について、次のように発言されていた。「世界の様々な問題や、また、将来にわたって人類にとっての問題となってくるような問題について、世界各国の人々が、手を携えて取り組んでいかなければならない時代にあると思いますので、そのためにも各国の人々との相互理解が進んでいくことが大切ではないかと思っております」そして、海外への情報発信の重要性についても言及されていた。「外国から日本に対して寄せられている関心も大変高いものがございますし、また、日本の皇室に対しても、関心が寄せられているというふうに感じる時もありますので、海外に向けても正しく情報が発信されて伝達されていくということも大切なのではないかというふうに感じます」ただ、雅子さまは’03年12月に体調を崩され、翌年には医師から適応障害と診断される。長い療養生活のなかでは、国際親善に携わる機会も限られていた。「皇后となられた’19年、米大統領だったトランプ氏とメラニア夫人や、フランスのマクロン大統領夫妻と、通訳なしで会話されるお姿は、国内外から絶賛されました。ようやく体調が上向いてきたなかでコロナ禍という新たな壁に直面された雅子さまですが、斬新なアイデアによる皇室改革で、再び国際親善を盛り上げたいとお考えになったのでしょう」(前出・宮内庁関係者)昨年9月に、天皇ご一家は赤坂御用地から皇居にお引っ越しされたばかり。その皇居に建てられる史上初の巨大カフェが、令和の“開かれた皇室”のシンボルとなるーー。
2022年05月26日グローバルボーイズグループ・JO1が25日、都内で「JO1 2ND ALBUM『KIZUNA』リリース記念イベント」を開催。河野純喜が、作詞を担当した『KIZUNA』収録曲「Touch!」に込めた思いを語った。2019年12月にオーディション番組『PRODUCE 101 JAPAN』で“国民プロデューサー”と呼ばれる視聴者の投票で選ばれた11人(豆原一成、川尻蓮、川西拓実、大平祥生、鶴房汐恩、白岩瑠姫、佐藤景瑚、木全翔也、河野純喜、金城碧海、與那城奨)で結成されたJO1。河野は「自分の名前がクレジットに乗るのが信じられないというか、すごいうれしかったですね。『Touch!』のインスト聴いてすごい好きだなと思って、書きたいなと。聴いた瞬間、ライブで盛り上がる曲だなと思って、絶対ライブでやります!」と喜びをあらわ。「今はタッチできないけど、いつかJAM(JO1のファン)の皆さんとタッチできたらいいなという思いも込めて作りました」と説明した。メンバーも、河野の歌詞を「素晴らしい」と称賛。河野が「出来上がって、碧海と翔也が『純喜くんが書きました?』って」と、金城と木全が気づいたことを明かすと、木全は「気づきました! 純喜くんらしさが出ていて」と話していた。イベントでは、『KIZUNA』がオリコンデイリーアルバムランキング1位を獲得したことが発表され、メンバーは歓喜。さらに、初となるアリーナツアー「2022 JO1 1ST ARENA LIVE TOUR ‘KIZUNA’」が今年9月に開催されることがメンバーにもサプライズで発表され、感極まって涙するメンバーの姿も見られた。(C)LAPONE ENTERTAINMENT
2022年05月25日「河野(かわの)の日記を、亡くなって10年近くも読めずにいたのは、いくら夫婦とはいえ、他人の心をのぞき見るようなことはできないと思っていたからです。それから率直に言えば、見るのが怖いという思いもありました」こう話すのは、日本を代表する歌人で細胞生物学研究の第一人者でもある永田和宏さん(75)。「河野」と呼ぶのは10年8月12日に乳がんで亡くなった最愛の妻・河野裕子さん(享年64)のことだ。裕子さんは20代前半から歌人として頭角を現し、23歳で角川短歌賞を最年少受賞するなど活躍。夫妻は09年に宮中歌会始詠進歌選者をそろって務めて「初の夫婦同時の選者」となるなど上皇陛下、美智子さまをはじめ、皇族方との親交もつづけてきた。とはいえ夫妻の歌に特筆すべきは高尚で難解な作風でなく、日常のなにげない描写や心情を詠んだ「とっつきやすさ」にこそある。《このひとはだんだん子供のやうになるパンツ一枚で西瓜食ひゐる》(河野裕子)《いい夫婦であつたかどうかはわからねどおもろい夫婦ではあつたのだらう》(永田和宏)そんな「歌壇のおしどり夫婦」が死別したとき、夫は愛妻の遺品のなかに、ふたりが交わした300通の手紙とともに、10冊以上に及ぶ彼女の日記帳を見つけた。それを没後10年近く「読めずにいた」永田さんだったが、いまから3年前の19年のこと、意を決して手を伸ばしたのだという。「先立った河野は、本当に僕が夫でよかったのか?ほかにふさわしい選択はなかったのか?そんな疑問が頭をもたげたんです」すると日記には、裕子さんの胸の内が赤裸々につづられていた。《永田さんのお隣りにすわっていて、私たちはお互いに意識しあっていた。一緒にいるということは、何物にもかえがたい……》(67年10月16日)裕子さんにはこのころを詠んだと思われる次の一首もある。《陽にすかし葉脈くらきを見つめをり二人のひとを愛してしまへり》(『森のやうに獣のやうに』より)これらの日記や歌は、知り合った当初から、「ふたりの人を愛している」と打ち明けられた日までの記録である。「河野がこんなにいちずに思い詰めていたんだということ、人は愛にここまでいちずになれるんだということに、本当に驚きました……」■大学時代に出会ったふたり。裕子さんは《一目で好きになった》と書き残した永田さんは66年に京都大学理学部に合格し、京大短歌会に所属。翌年に裕子さんと運命的に出会う。46年生まれで1歳年上、京都女子大学2年だった裕子さんとの初対面は、学生たちの短歌同人誌『幻想派』創刊の顔合わせでのこと。「白いブラウスの彼女はいかにも繊細そうでいて、ちょっとしたことにもよく笑った。無防備な天真らんまんさと、不思議なキャラクターを感じました」お互い意識してはいるものの、「一目ぼれ」とはいえない初対面。それが「思慕の情」へと急進していくのは、その3カ月後の10月、2度目に会ってからとなる。「京大近くの喫茶店に先輩に連れられて行くと、河野も偶然、先輩と一緒に現れたんです」10月14日の裕子さんの日記には、心躍るさまが描かれている。《永田さん、一目で好きになったほんの一瞬の間でもやはりこころは傾いてしまう彼はふかくて寂しくて厳しい人のようだ》弱冠21歳の胸に、永田さんが、にわかに入り込んだ瞬間だった。一方、恋愛経験は「皆無に等しかった」永田さんの胸中も……。「僕が話しだせば必ず相づちを打って反応してくれる。自分の思いを重ね、質問したりするので話が途切れず、すぐに時間が過ぎていく。そんなことで月に一度会う間隔が、週に二、三度となるのにそう時間はかかりませんでした」こんなふうに《お互いに意識しあっていた》(10月16日の日記)のに1月5日には《あなたを傷つけてしまった》と、ひと悶着あったことを裕子さんは記している。この間に永田さんの“恋敵”の存在が明かされたのだ。正確に言えば、永田さんを好きになる以前から好きな男性がいたことが。「何度も会っているうちに、心に思い決めている男性がいるらしいことに、薄々感づいてはいた」と永田さんが顚末を振り返る。「私と頻繁に会うようになる2カ月ほど前、河野が短歌誌『コスモス』の全国大会で知り合ったのが、その『N』という青年でした」裕子さんのその時分の日記には、N青年に関する記述も見られた。《愛情について語った時、明らかに私は彼のひたひたとした愛情を感じた……》「全国大会の後、数カ月は文通が続いていたようです」と話す永田さんこそ、N青年との恋路に「割って入った」格好なのだが。約2カ月後、裕子さんの思いは振り子のように揺れ動いていた。《今、Nさんを失ったら、歌を創るはりもゆめもなくなってしまう……今、永田さんを失ってしまったら到底しゃんとしてはいられない》(12月21日)そしてとうとう《言ってはならぬことを言ってしまった……ふたりの人を愛していると》(1月7日)という衝撃の告白に至るのだ。こうして裕子さんに思いの丈をぶつけられた永田さんは、会って話し、息遣いを交わし、そのうえ手紙も重ねて意志を示した。《どちらかを選べというのは残酷だと思いますけれどどちらかでは困るのですぼくでないと困るのです》(1月31日 永田)2月3日、京都府立植物園。プラタナスの木の下で、ふたりは生まれて初めてキスをした。■裕子さんは亡くなる2日前まで歌を詠んだ。子どもたちには、「お父さんを頼みましたよ」72年5月、裕子さんは第一歌集『森のやうに獣のやうに』を出版。同月14日に永田さんと結婚した。73年に長男・淳さん(48)を、75年に長女・紅さん(46)を出産。永田さんは76年、勤務していた森永乳業を辞め、京大結核胸部疾患研究所の研究員になったが「無給で、生活のために塾の講師をしていました」と回顧する。「毎晩、帰宅は夜中の1時過ぎ。それから食事をとりコーヒーを入れ、作歌は深夜の作業だった」かたや裕子さんはこの時期を。《子育てでへとへとになっているけれども、負けちゃいられないと同じように櫓炬燵にへばりついて歌をつくっていた》(『シリーズ牧水賞の歌人たち 河野裕子』より)歌人同士「競い合うライバル心があった」と永田さんは懐かしむ。「夜中に炬燵を囲んでふたりで歌を作っていると、2階から子どもの泣き声がしてくる。どっちが面倒を見に行くかで、よくけんかになりました。醤油瓶が飛んだりして、壁にビャッと飛び散ってね」ユニークで忙しない作歌と育児の日々も、裕子さんが愛情を注ぐ優先順位は一にも二にも夫だった。《私は自分に自信がなくて、生きていくのがしんどくてしんどくてしようがないときに永田に会いました……そう。(永田に)すべての愛情をかけようと思いましたね》(『私の会った人びと』より)こんな一首を残している。《しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ》(『紅』より)子育てを詠んだ一首として定評があるが、長男・淳さんは「ご飯を食べさせ、日干しした布団に寝かせたい相手とは、父のことだったと思います」として続ける。「母は『子どもはしっかり食べさせれば放っておいても育つ。私は、子どもより永田和宏を大事にしてやってきました』と公言していた。《良妻であること何で悪かろか日向の赤まま扱きて歩む》(『紅』より)という一首には『良妻でいるのは素晴らしいことじゃないか』という母の主張が込められていたんです」淳さんは01年に歌集出版社の「青磁社」を立ち上げ今日に至る、三男一女の父である。長女・紅さんは01年に母と同じ現代歌人協会賞を受賞(親子で初)した一方、父と同じ細胞生物学を研究し、現在は京大特任助教だ。8歳の長女の母である彼女が、母在りし日の永田家を語る。「決して教育ママではなく、自分の興味、楽しみに兄と私を巻き込む母でした。父はそんな母に“褒められて育った”感じですね。父が出すアイデアに『それって面白い!』とすぐ呼応する。話し好きで、父が向かうところトイレまでついて行き、外から話しかけている……そんな母でした」大人になって両親の晩酌に参入すると、それはにぎやかだった。「夜遅くまでそれぞれ選歌したり、詠んだりで、夜中にリビングに集まってきて酒盛りが始まる。ワイン片手に話す父を私たちが囲み、父が酔ったころに母も飲み始めて」“歌壇のサザエさん一家”といわれるほど筒抜けで仲むつまじい家族。だがそこから、裕子さんひとり、病魔に引っぱられてしまう。《左脇の大きなしこりは何ならむ二つ三つあり卵大なり》(『日付のある歌』より)00年9月、彼女に下った診断は乳がん、リンパ節に転移あり。「河野は左乳房3分の2の切除術を受けた後、放射線療法に入りました。幸い経過はよく、その時点で再発の恐れはないという。僕らは日常に戻りつつありました」こう話す永田さんだが、もっともストレスを感じていたのは裕子さんだったと気づかされる。「術後の左側の痺れやこわばり、痛みがありました。それを誰もわかってくれないという不満。その矛先が僕に向けられたんです。どれくらいいたわってくれるか、わがままを聞いて耐えてくれるか、僕を試しているようでした……」裕子さんは永田さんの言葉尻をとらえて、責めてきたという。「がんがわかったとき僕は『俺にも半分責任がある』と言いました。夫として気づくべきだったと。しかしその言葉が独り歩きして、僕への非難になりました。『あんたのせいでこうなった』と」しかし、どんなに体がいうことをきかなくても、夫の食事だけは欠かさず作ってくれている妻に、永田さんは慈しみがまさるのだ。そして裕子さんは、そのころの出来事をこんなふうに詠んだ。《あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて》(『葦舟』より)「この一首で、僕は、それまでの河野の激情も、罵言も、すべて許せると思いました」歌を通じてわかり合い、より結びつきを強くした夫婦にも、永別のときは迫りくる。08年7月に再発・転移がわかると、裕子さんは次第に弱っていった。しかしそこから2年あまり、亡くなる2日前まで詠み続けた。《長生きして欲しいと誰彼数へつつつひにはあなたひとりを数ふ》(『蝉声』より)永田さんが声を湿らせる。「この一首は僕が口述筆記しました。河野の『あなたにだけは長く生きてほしい』という最後の願いが、僕のお守りとなりました」長男と長女は、こう伝えられた。「お父さんを頼みましたよ。お父さんはさびしい人なのだから、ひとりにしてはいけませんよ……」 そして次の歌が辞世の一首に。《手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が》(『蝉声』より)10年8月12日、裕子さんは64年の生涯に幕を下ろしたーー。(取材・文:鈴木利宗)【後編】75歳、人生の繁忙期歌人・永田和宏「天の妻はきっと褒めてくれる」へ続く
2022年05月22日「日本赤十字社の名誉総裁をお務めの雅子さまにとって、全国赤十字大会への出席は非常に重みのあるご公務です。コロナ禍により2年連続で中止となっていた赤十字大会ですが、ようやく3年ぶりに開催されます」(皇室担当記者)5月19日、全国の赤十字会員やボランティアの代表を集め、功績のあった個人や団体を表彰する全国赤十字大会が開催される。雅子さまは5月9日には、天皇陛下とご一緒に日本赤十字社の社長と副社長と御所で面会し、説明を受けられた。皇室と赤十字社のつながりは深い。歴史学者で静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんはこう語る。「歴代皇后は赤十字社の活動に積極的に関わってきました。明治天皇の后(きさき)であった昭憲皇太后は、国際赤十字に基金を下賜され、今日でも昭憲皇太后基金として世界のさまざまな地域で赤十字の活動に役立てられています。昭和天皇の后であった香淳皇后も、戦時中に各皇族妃とともに戦傷病者の慰問活動などを熱心に行いました。平成の時代には美智子さま、そして令和の時代には雅子さまが、その役割を引き継いでいるのです」この2年あまり、コロナ禍のため大会が中止となっただけでなく、外出を伴う公務も制限されていたが、その間も雅子さまは医療従事者に心を寄せられてきた。’20年11月、両陛下は全国4つの赤十字病院をオンラインでご視察。雅子さまは「皆様が力を尽くされていることに敬意を表します」と、コロナ禍と闘う医療関係者にねぎらいの言葉をかけられた。昨年12月の誕生日のご感想でも、国内外で新型コロナの治療法の研究などが進んでいることに触れ、《一歩ずつではあっても、我が国、そして世界の人々が着実にこの試練を乗り越えていくことができるよう願っています》とメッセージを記されていた。「雅子さまは日本赤十字社の名誉総裁として、とくに医療従事者をサポートしたいという思いは強かったのではないでしょうか。それだけでなく、雅子さまは並々ならぬ思いがあるようです。それは、女性皇族の団結を示したいという思いです」そう語るのは宮内庁関係者。今回の全国赤十字大会には、名誉副総裁をお務めの紀子さま、寬仁親王妃信子さま、高円宮妃久子さまもご出席の予定となっている。「雅子さまは今年5月で皇后となられて4年目に入りましたが、皇室の現状に危機感を抱かれているようです。コロナ禍で、国民とのふれあいの機会はほとんどなくなりました。皇居での一般参賀も、’20年の1月以来開かれていません。平成から令和への御代替わりという重要な時期に国民との接点が激減したことは大きな痛手でした。雅子さまは、妃殿下が勢ぞろいする全国赤十字大会をきっかけとして、女性皇族の力で現状を打破しようと呼びかけられているのではないでしょうか」(前出・宮内庁関係者)■妃殿下方が一丸となり皇室の一体感を示す前出の小田部さんも「雅子さま自身も、お務めへの意気込みやご覚悟が高まっておられるのではないか」と語る。「会場に臨席されることは、長引くコロナ禍のなかで従事されてきた医療関係者などへの励みにもなるでしょう。そして、雅子さまのみならず、紀子さま、信子さま、久子さまが一丸となってご公務を担われるのは、皇室の一体感や安定感を国民に示すことになります」実は、妃殿下方は5月に入ってから、活動の幅を広げられている。久子さまは5月12日、女性の生活向上を目指すボランティア組織「国際ソロプチミスト東京―東」の設立50周年式典に出席された。紀子さまも同日、秋篠宮さまとご一緒に、地域の現場で献身的な医療活動に取り組む医師を顕彰する「日本医師会赤ひげ大賞」の表彰式に出席されている。さらに信子さまは5月9日、香川県の直島を訪れ「瀬戸内国際芸術祭」の作品を鑑賞された。これまで最小限に抑えられていた地方ご訪問も、再開する方向に舵が切られたのだ。「平成の初めの数年、上皇陛下と美智子さまはなるべく早く全都道府県を回ろうと、5泊6日で4県を巡るといった過密日程の地方ご訪問を何度もなさいました。そうやって“国民とともにある皇室”を目指されたのです。しかし、天皇陛下と雅子さまの場合は即位関連儀式を終えた矢先にコロナ禍となってしまいました。そうした苦境を乗り越えるためにも、オンラインの活用だけでなく感染対策のもと地方への訪問を増やしていくことも不可欠です。雅子さまは妃殿下方にも、ご公務への出席、そして国民と触れ合う機会を増やしていくことを呼びかけられているのではないでしょうか。これまで、控えめな印象もあった雅子さまですが、令和の皇室を団結させるべくリーダーシップを示されるご覚悟なのです」(前出・宮内庁関係者)雅子さまのリーダーシップのもと女性皇族が輝くことで、令和の皇室はさらに国民に支持されていくだろう。
2022年05月17日天皇陛下に続いて車から降りた雅子さまは、マスク越しではあったが、カメラに向かってほほ笑まれたーー。4月13日、天皇皇后両陛下は科学技術の進歩に大きく貢献した研究者に贈られる「日本国際賞」の授賞式に出席された。コロナ禍により’20年と’21年の授賞式が延期となっていたため、3年分がまとめて表彰された今回の授賞式。天皇陛下はお言葉のなかで、コロナ禍における科学の力への期待を示された。「現在、わが国を含め世界中の人々が、新型コロナウイルス感染症の影響により、さまざまな困難に直面しています。そのような状況の中で、科学技術が果たす役割は、さらに重要になってくるものと思われます。さまざまな分野の叡智を結集し、世界の人々が互いに力を合わせることにより、この困難な状況を乗り越え、希望に満ちた未来を築いていくことを願っています」陛下と雅子さまは式典のあと、受賞者との懇談にも出席されたという。お二人そろって外出を伴う公務に臨まれるのは、昨年8月の戦没者追悼式以来、8カ月ぶり。「事前の発表では天皇陛下お一人が出席されるはずでした。しかし雅子さまは1週間以上前から意識的に体調を整えられ、当日は式典に続き、外国人受賞者たちとの懇談まで完遂されたのです。今回、雅子さまにとって“勝負色”であるブルーのお召し物を選ばれたことからも、再始動への強い意気込みが伝わってきました。両陛下は、ご自身の活動が感染を広げたり、感染対策が周囲の負担になったりしないよう、外出をお控えになってきました。オンラインで式典に出席されたり、地方の福祉施設と交流されたりと、外出せずに“国民に寄り添う”務めを果たそうと工夫されてきました。今後は、引き続きオンラインを活用しつつも、式典会場などに足を運ばれることも増えるでしょう」(皇室担当記者)ただ、この数カ月にわたって雅子さまを苦しめたのはコロナ禍だけではなかった。体調が優れない日々が続いていたのだ。■大きなプレッシャーを克服されて昨年の秋から、雅子さまは体調不良に見舞われていた。誕生日写真の撮影を2度キャンセルされたり、2日に分けて行われた愛子さまの成年祝賀行事の1日目を欠席されたりした。年始の講書始の儀も、体調が整わず欠席されている。「愛子さまの成年行事や記者会見のために、雅子さまは数カ月前からご準備を続けていました。国民から大きな注目が集まり、愛子さまの人生を左右するだけに、雅子さまも大きなプレッシャーをお感じになっていたのではないでしょうか」(宮内庁関係者)しかし、昨年12月の成年祝賀行事で愛子さまが披露されたティアラ姿に続いて、3月の記者会見にも絶賛の声が集まった。「雅子さまにとっては、これまでの母としての努力がすべて報われたようなお気持ちだったでしょう。愛子さまの記者会見での立派なお姿によって、雅子さまは自信を取り戻されたのではないでしょうか。それゆえ、本格的に公務を再開するという大きな一歩を踏み出すことができたのだと思います」(前出・宮内庁関係者) 愛子さまは会見で、両陛下への尊敬の念を、率直に話されていた。「両親と話をしておりますと、豊富な知識や経験に驚かされることが多々ございまして、また、両親の物事に対する考え方や、人との接し方などからは学ぶことが多くございます」両陛下こそが、愛子さまにとって一番のお手本になっているのだ。両陛下からのどんなお支えや言葉があったのかとの質問には「何か問題に直面した時は、その問題に真剣に向き合ってくれまして、私の意見や考え、気持ちを尊重しつつ、的確なアドバイスをくれたように思います。そして、両親からもらった大きな愛情や励ましが、そのような時に私の支えとなっておりました」とお答えになった。会見が行われた大広間の隣の部屋では、雅子さまが待機なさっていたという。愛子さまの言葉をお聞きになった雅子さまは“私が愛子を導く”という思いを抱かれたのではないだろうかーー。精神科医の香山リカさんは、愛子さまの成長が雅子さまにも好影響を及ぼしていると語る。「成年皇族となられた愛子さまにとって、雅子さまは母親というだけでなく、先輩女性としてのお手本にもなります。今回の日本国際賞に関しても、どんな方が受賞したのか、懇談の場ではどのような話をしたのかなど、御所に帰られたあと愛子さまにお話しになったことでしょう。愛子さまにとっては、近い将来ご公務に出席される際の参考にもなりますし、大学卒業後の進路を考えるうえでも、世界的な研究者である受賞者の方々について知ることは有意義だったでしょう。たとえご一緒に公務に行かれなくとも、こうしたコミュニケーションによって、雅子さまは愛子さまと二人三脚で公務に取り組んでいるように感じられるのではないでしょうか」雅子さまは今月28日にも、陛下とご一緒にアジア・太平洋水サミットにオンラインで出席されることが発表されている。“母の自信”を取り戻された雅子さまのご活躍は続く。
2022年04月22日4月13日、天皇陛下と雅子さまは東京都千代田区の帝国ホテルで開催された日本国際賞の授賞式に出席された。両陛下がおそろいでお出かけになるのは昨年8月の全国戦没者追悼式以来、約8カ月ぶり。この日、ブルーのロングドレスに、和のテイストを感じさせる前合わせのジャケットをお召しになった雅子さま。日本国際賞は、科学の分野で貢献した研究者に贈られる賞で、このお務めは上皇ご夫妻から引き継がれている。今年は新型コロナウイルスワクチンの実用化に尽力したカタリン・カリコー博士らに贈られ、式典後、雅子さまは陛下とともに受賞者らとの懇談に臨まれた。
2022年04月22日手編み教室を展開する、自由が丘トリコ・ダァールサロンは、ニット作家 細野雅子が展開する個展「35周年Anniversary 細野雅子展 アートの手編み美術館」を4月11日(月)~19日(火)まで開催いたします。特許取得の三角形や円などのモチーフを、パズル的に組み合わせたオンリーワンのフォルムが特徴。確かな技術、選び抜かれた天然素材、自然から色をいただいた草木染の色、着心地、軽さを兼ね備えたこだわりの一着に仕上げています。ウエアや帽子・バッグなど150点余り、贅沢で凛とした一点ものをご覧ください。35年の軌跡を振り返り、編み物の可能性を未来につなげる作品展です。カーディガン エスカルゴ+トライアングル■手編みで社会進出、経済自立する編み物人口は底辺には多くいますが、年々減少しています。手編みはなかなか仕事としてなりえない分野です。好きなことで仕事ができれば最高ですが、それには作り手側の意識改革と技術向上は欠かせません。手づくり品をネット販売する数も上昇している中、売れるものづくりが必須となります。数年前から、プロを育てるマイスタークラスと、小さい時から編み物に親しんでもらう、小学生編み物クラスを開講し、人材の育成をしています。今回の作品展で、編み物人口の格上げと、手編みの地位向上、さらには経済自立につながれば、未来が見えてくると期待しています。■開催概要タイトル: 35周年Anniversary 細野雅子展 アートの手編み美術館会期 : 4月11日(月)~19日(火)10:00am~5:00pm ※最終日は3:00pm会場 : 新宿京王プラザホテル本館3階ロビーギャラリーTEL 03-3344-0111 運営 : 株式会社トリコ・ダァール<公式サイト>URL : Instagram: tricots_dart■会社概要会社名: 株式会社トリコ・ダァール所在地: 〒192-0045 東京都八王子市大和田町3-6-20 トリコ・ダァールアトリエ連絡先: E-Mail info@tricots-dart.com URL : 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2022年03月22日2月23日、62歳の誕生日を迎えられた天皇陛下は宮殿で催された祝賀の儀に臨まれた。ネイビーのロングドレス姿の雅子さまと並んで、お祝いの挨拶を受けられる陛下。多くの人が集う一般参賀や、飲食を伴う会は3年連続で中止となったが、昨年とは違い、誕生日の儀式に雅子さまとお二人で出席されたことで華やかな印象が残った。誕生日の会見で、陛下は雅子さまについて「私の日々の活動を支えてくれる大切な存在であるとともに、公私にわたり良き相談相手になってくれています」と語られたほか、「雅子は」「雅子と共に」「私たち」と繰り返し述べられ、お二人で歩むことを大切にしているお気持ちを表された。雅子さまの昨年末からのお疲れについては「感染症の感染拡大による活動への制約などから、体調を整えにくくなっている面はあります」とご説明。ご夫婦の絆を感じさせる会見となった。誕生日会見で語られたご夫婦の絆ーー陛下のお言葉と写真で振り返ります。■「雅子と共に、『平和の礎』を訪れ、二人そろって、沖縄戦で亡くなった全ての方々への思いを新たにいたしました」’97年、本土復帰50年にあたり沖縄への思いも述べられた。■「私は、雅子と共に、引き続き被災地に心を寄せていくつもりです」’17年、津波の被害が甚大だった宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区で供花された。■「新型コロナウイルス感染症の影響により、国民の皆さんと広く直接触れ合うことが難しくなっていることを、私も雅子も残念に思っています」オンラインで日本各地を訪問され、多くの人とご交流。そのメリットもお感じになっている。■「愛子と3人でいると、私たちの団欒は、笑いの絶えない楽しいものになっています」20歳になられた愛子さまと楽しそうに語らいを。お誕生日写真で、優しい笑顔で見つめ合われる両陛下。そんな写真からもお二人の心の絆が感じられる。
2022年03月05日12月9日に58歳の誕生日をお迎えになられた雅子さま。この日、公開された写真では、宮城県のこけしや宮崎県の神楽面など、今年の地方ご公務でオンライン訪問された各県の伝統工芸品について天皇陛下とお話しになっていた。同日、ご感想を文書で発表した雅子さまは冒頭にこう綴られたーー。「今月初めには娘の愛子が成年を迎え、多くの方々から温かい祝福を頂きましたことに心から御礼を申し上げます」「愛子が生まれてからの20年間は長かったようにも、あっという間だったようにも感じられますが、様々な思い出が思い起こされて感慨深く思います」その20年を振り返ると、雅子さまは愛子さまが2歳のお誕生日をお迎えになった直後に体調を崩し、長期ご療養に入られている。さらに、愛子さまが小学校への登校不安を覚えると通学の付き添いを続けられるなど、苦しい時期も過ごされた。それだけに、12月5日、美しいドレス姿をお見せの愛子さまに、胸にこみ上げるものがおありだっただろう。最近の雅子さまにはお疲れがあり、愛子さまの成年祝賀行事の一部を休まれたが、9日の誕生日には明るい笑顔を見せられていた。
2021年12月18日《今月初めには娘の愛子が成年を迎え、多くの方々から温かい祝福を頂きましたことに心から御礼を申し上げます》12月9日に58歳の誕生日を迎えられた雅子さま。ご感想のなかでは、ご成年を迎えた愛子さまのご成長についても感慨深げに綴られていた。愛子さまの誕生日の前日となる11月30日、政府は皇位継承問題に関する有識者会議を4カ月ぶりに再開させた。年内にも報告書を取りまとめて政府に提出するというが、軸となるのは女性皇族が結婚後も皇室にとどまれるようにすることと、旧宮家の男系男子を皇室の養子にできるようにすることだという。一方で、女性天皇や女系天皇に関する議論は先送りとなった。近現代の皇室に詳しい静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんは「これでは皇位継承者の確保につながらない」と警鐘を鳴らす。「結局、皇位継承者の確保については、悠仁親王のお妃が男子のお子さまを産むことが、唯一の希望という状況は変わりません。悠仁さまの次の代に男子が期待できない場合、旧宮家の男子の皇位継承が取り沙汰されることになります。しかし戦後の象徴天皇制は、皇室と国民の相互の信頼と結びつきによって成り立ってきました。愛子さまよりずっと血縁の遠い旧宮家の男子にそれが期待できるでしょうか。象徴天皇制の根幹が揺らぐ事態です」さらに、愛子さまの人生設計がたてづらくなるという点にも、小田部さんは懸念を表明する。「眞子さんの結婚は国民の賛否を呼びました。愛子さまにも少なからず影響があるでしょう。しかも皇室に残られるとなると、結婚のハードルはさらに高くなります。そのうえ天皇になる可能性が閉ざされているのに、一市民になることも難しいとなれば、眞子さんが感じていた以上の“不自由感”や、将来への閉塞感を抱き続けることになりかねません」実は、雅子さまは誕生日の直前、体調不良に見舞われていた。「12月1日の愛子さまご成年の祝賀行事を、雅子さまは欠席されています。また、誕生日写真の撮影も、2回にわたって延期されていたのです」(皇室担当記者)そんな体調不良のなか、長文のご感想をしたためられた雅子さまだが《働く女性の自殺が約3割増加し、小中高生の自殺も過去最多となり、昨年の自殺者数は11年ぶりに増加に転じたとも報じられています》と、自殺者数の増加について詳しく述べられている。そして、コロナ禍で《人と人とが触れ合うことが難しく、孤独を感じやすい今だからこその問題》とし、次のように切実なメッセージを記されている。《人が自らの命を絶つといった悲しく痛ましい出来事ができる限り起こらないよう、周りの人に相談したり、身近な支援窓口に足を運ぶことが容易にできるよう、これまで以上に皆でお互いを気遣い、支え合っていける社会となっていくことを願っています》この言葉について宮内庁関係者は、雅子さまのご胸中をおもんぱかる。「愛子さまも、学校に行けない時期が何度かあり、つらい思いをされてきました。眞子さんは皇族としての不自由さを感じていたといいますが、愛子さまもご自身のお立場に戸惑い、悩まれてきました。立派に成長されたといっても、皇位継承問題などで今後も困難が待ち受けていることに変わりはありません。雅子さまも、このままでは“愛子さまの未来が閉ざされてしまう”という思いも抱かれていることでしょう。愛子さまが“天皇の娘”であることに苦しまず、自信を持って生きられるように――。雅子さまは母親として、皇后として、愛子さまの心を守るという決意を込められたのかもしれません」華やかな祝賀行事の陰で雅子さまが母として抱えられる苦悩に、国民も目をそらしてはならないだろう。
2021年12月14日寒い季節に恋しくなるのが、温泉宿。来年1月下旬に再開される予定のGo To トラベルを使って、雅子さまも休まれた格式高い宿で優雅な時間を過ごしてみては?題して、「雅子さまが癒された憧れの温泉宿9軒」。至極のおもてなしがそこにありますーー。■佐賀県・嬉野温泉「和多屋別荘」心ゆくまで四季を愛で移りゆく季節を感じられる日本庭園や、伝統的な数寄屋造りの和室、黒川紀章氏設計のタワー棟など、嬉野川が中央を流れる2万坪の広大な敷地にアートな空間が広がる。雅子さまは最上階のロイヤルスイートにお泊りになった。(’20年1月に改装済み)昭和天皇がお泊りになった格天井総檜造りの特別貴賓室「洗心」は、雅子さまもご覧になられたそう。日本料理の食事処「利休」では、うれしの茶と日本酒の口福のペアリングが楽しめる。住所:佐賀県嬉野市嬉野町下宿乙738電話:0954-42-0210料金:1泊2食付き1人2万900円〜。■石川県・和倉温泉「加賀屋」地下の花崗岩に含まれる水晶をくぐり抜けた透明なナトリウム・カルシウム塩化物泉が、開湯以来1200年湧き続ける和倉温泉で、創業100年余となる老舗旅館。工芸品やお土産店が並ぶ「錦大路」やスパなど館内施設も充実している。最上階の迎賓室「天游」は伝統工芸や美術の粋を集めた調度も魅力。また、お食事では冬のカニや寒ブリなど、海鮮が豊富なのも能登の魅力のひとつ。住所:石川県七尾市和倉町ヨ部80電話:0767-62-1111料金:1泊2食付き1人5万5,000円〜。■鳥取県・三朝温泉「依山楼岩崎」日本一のラジウム温泉として知られる三朝温泉の老舗旅館。両陛下は愛子さまがお生まれになった翌年のご宿泊だったが、創業から101年の間には昭和天皇・香淳皇后、上皇ご夫妻、そして佳子さまも宿泊されている。総面積134.33平方メートルの露天風呂付き貴賓室「桜川」は1人1泊7万7,000円〜。境港からの新鮮な魚、ズワイガニや鳥取黒毛和牛などの特産品も。住所:鳥取県東伯郡三朝町三朝365-1電話:0858-43-0111料金:1泊2食付き1人1万8,700円〜。■山口県・はぎ温泉「萩城三の丸 北門屋敷」世界遺産の萩の城下町にある旅館。ご宿泊当日はひどい雨の日で、貴賓室の庭園ではカエルが鳴いており、雅子さまは「(自分たちが)会話を始めると鳴きやみ、会話が止まるとまた一斉に鳴きだす」と驚かれていたという。両陛下宿泊時のお品書きには、テナガエビ、オコゼ、アマダイなど、海の幸に恵まれている山口県の食材がふんだんに盛り込まれ、窯元で焼いた専用の器も用意された。住所:山口県萩市堀内210電話:0838-22-7521料金:1泊2食付き1人2万2,000円〜。■長野県・斑尾高原温泉「斑尾高原ホテル」夏は避暑地、冬はスキー場としてにぎわう斑尾高原で天然温泉を楽しめるホテル。’01年、両陛下が訪問された際には作家の田中康夫氏が知事としてホテルで面会した。両陛下はゲレンデの見える部屋で過ごされた。敷地内に湧く温泉は刺激が少ない高アルカリ性。肌がすべすべする感触で女性におすすめ。お食事では、地元・信州の新鮮な食材とともに、近くの新潟県の郷土料理や魚介類も取り入れている。住所:長野県飯山市斑尾高原11492-321電話:0269-64-3311料金:1泊2食付き1人1万1,300円〜。■岐阜県・長良川温泉「岐阜グランドホテル」「にっぽんの温泉100選」に選ばれた長良川温泉を味わえるワンランク上のリゾートホテル。川側の部屋からはハイキングも楽しめる金華山や鵜飼で知られる清流・長良川といった大自然を、街側の部屋からは岐阜市街を一望できる。木のぬくもりが感じられる、ロイヤルスイートの応接室。美濃・飛騨の風味豊かな「ヘルシー美濃薬膳」は体にも優しい。住所:岐阜県岐阜市長良648電話:058-233-1111料金:1泊2食付き1人1万6,940円〜。■秋田県・大湯温泉「ホテル鹿角」開湯800年の歴史を誇る大湯温泉を堪能できるホテル。十和田八幡平国立公園や奥入瀬渓流、世界遺産の白神山地の中心に位置し、観光にも便利。比内地鶏のきりたんぽ鍋など、秋田の郷土料理も自慢のひとつ。約130平方メートルの贅沢な空間でくつろげるロイヤルスイートは夫婦・カップル限定プランも。住所:秋田県鹿角市十和田大湯字中谷地5-1電話:0186-30-4111料金:1泊2食付き1人1万6,500円〜。■愛媛県・道後温泉「ふなや」日本三古湯のひとつ、道後温泉で江戸時代から続く創業390年以上の旅館。両陛下は’99年のしまなみ海道全線開通の際にご宿泊。皇室の方々のみならず、正岡子規、夏目漱石、種田山頭火など多くの文人たちにも愛されてきた。京都数寄屋大工の匠が手がけたリビングのロイヤルスイートは1泊7万7,000円〜。住所:愛媛県松山市道後湯之町1-33電話:089-947-0278料金:1泊2食付き1人2万3,100円〜。■福島県・奥飯坂穴原温泉「吉川屋」両陛下は’95年、’98年にご宿泊。「’95年はさわやかな新妻という印象でしたが、2度目のときは皇太子妃殿下らしいオーラを強く感じました」とおかみさんは語る。東日本大震災後、上皇ご夫妻が風評被害に苦しむ地元の農家たちと吉川屋で交流されたことも話題となった。貴賓室、露天風呂から眺める片倉山と摺上川の大渓谷は美しい。冬季は雪景色が広がる。会席では、黒毛和牛をはじめ、福島県と東北各地の四季折々の特産品を使った日本料理が並ぶ。住所:福島県福島市飯坂町湯野字新湯6電話:024-542-2226料金:1泊2食付き1人2万円〜。※お出かけの際は、最新の新型コロナウイルス感染状況をご確認ください。また、現地では自治体などの指示に従い感染防止対策を行うようお願いいたします。各宿の料金は、2人利用時の金額です。
2021年12月11日12月9日、58歳の誕生日を迎えられた雅子さま。93年、外務省を退職され天皇陛下と結婚された雅子さまには、国際親善を期待する声も多かった。その期待を一身に背負われて臨まれたのが、94年・95年と2回に分けて行われた中東7カ国へのご訪問だった。結婚後初めての海外ご公務での、色鮮やかなドレス姿を振り返るーー。【94年サウジアラビア・ヤマーマ宮殿】裾にフリルを重ねた、エレガントなサファイアブルーのドレス。肩を膨らませたスリーブが特徴的。中東の風習に考慮し、首回りを詰め、袖も長くされ、肌の露出を抑えられている。【94年カタール・ハマド宮殿】ルビーレッドのシルクのドレス。胸元から腰、袖に鮮やかな金糸とベビーパールで立体的に入れられた刺繍が華やか。バッグと靴は金と銀で統一、ゴージャスさを演出されていた。【94年カタール・ラヤーン宮殿】雅子さまの誕生石でもある、ターコイズの色合いのドレス。胸元と袖口に、天から差し込む光のようなビジューが入れられている。【95年クウェート・バヤーン宮殿】和服の裏地に使われる、紅絹(もみ)色のドレス。白いショールを羽織られ、日の丸をイメージしたコーディネートに。【95年アラブ首長国連邦・ムシュリフ宮迎賓館】女性らしいベビーピンクのドレスでアラブ首長国連邦皇太子とご歓談。裾へ滝のように流れる左腰の大きなリボンが美しい。アシンメトリーは雅子さまのドレスの定番デザイン。【95年ヨルダン・ナドワ宮殿】イスラム圏の女性の衣装・アバヤを感じさせるような、上質なシルクの布を右肩から裾にかけて用いられている。左上半身には花をあしらったレース素材でとてもエレガントな一面をお見せに。皇后となられてからも、天皇陛下の即位を祝う「饗宴の儀」では186カ国の賓客をもてなされた雅子さま。令和初の海外ご訪問は、イギリスで予定されているが、新型コロナウイルスの影響で延期となっている。再び、“皇室外交”の場での華やかなお姿を拝見したい。
2021年12月09日10月3日、引っ越されたばかりの御所の大広間の一角に式典用のお席を作り、リモートで「全国豊かな海づくり大会」に参加された天皇皇后両陛下。雅子さまのブルーのスーツは陛下のネクタイとおそろいの海の色。港町、宮城県石巻市で開催の式典を意識されてと思われたが、テーブルの上に飾られた宮城のゆるキャラ「むすび丸」の色にも合わせる心配りもお見せだった。式典後、両陛下は石巻市の「みやぎ東日本大震災津波伝承館」をオンラインで視察され、被災者とご懇談。雅子さまは東日本大震災ののち、自ら営む水産加工会社に保育園を併設した同世代の女性に「いい取り組みをなさっていますね」と優しく話しかけられた。本来なら、震災から10年を迎えた被災地にお出かけになりたかったと思われるが、両陛下は画面越しであっても心を込めて被災者の話をお聴きになっていた。
2021年10月18日「最低保障は税金でやる」9月18日、自民党総裁選の公開討論会でこう述べたのは河野太郎行政改革担当大臣(58)。総裁選に立候補する河野氏は、年金制度改革の必要性を訴え、消費税を財源とした最低保障年金制度の創設を唱える。これに対して、対立候補となる岸田文雄前政調会長(64)、高市早苗前総務相(60)、野田聖子幹事長代行(61)は否定的な考えを示す。制度の導入が消費税の増税につながるためだ。「もし河野さんが提唱する『最低保障年金』を導入するなら、消費税を現状より6%は上げる必要があります」こう話すのは“年金博士”として知られる社会保険労務士の北村庄吾さん。「現在の年金制度では、国民年金は保険料を払った期間に応じて受給額が決まります。20~60歳になるまでの40年間保険料を支払えば、満額の月6万5千75円を受け取れるのです」しかし、少子高齢化に突き進む日本で、年金の受給額は将来的に大きく減る見通しとなっている。また、低年金・無年金となる高齢者が増えることで、生活保護受給者の増加も懸念されている。「その対策として河野氏が提案するのが最低保障年金です。現行の制度と異なり、保険料を支払った期間にかかわらず全加入者が一定額を受給できるのが、最低保障年金の基本的な考え方。河野氏の場合はこの財源を税金で、と考えているため、保険料を納める必要はなくなります」しかし、その分を消費税で賄わなければならない。現在、国民年金の給付総額は約23兆円で、そのうち約半分が国民年金の保険料収入で賄われている。「消費税を上げると1%で2兆~2.5兆円の税収増となります。保険料収入の分を消費税で賄おうとすると、6%程度の消費税アップが必要です。最低保障年金の場合、現在無年金・低年金の人にも払うことになりますから、増税はそれ以上になる可能性もあります」現在の消費税は10%。そこから6%の増税となれば、消費税は“16%”となる。「当然、増税には大きな反発が起こるでしょう。しかも何十年と真面目に年金保険料を納付し続けている人にしてみれば『いままで積み立ててきた分はどうなるの?』という不満も出てきます」もとよりコロナ不況で国内経済は滞り、消費も鈍っている。「そのうえ増税となれば、さらに買い控えの傾向は進みます。コロナ後の経済回復など到底見込めなくなるでしょう」■ほか3人なら厚生年金も激減の可能性「岸田さんや高市さん、野田さんが総裁になっても、明るい未来は期待できません」そう指摘するのは、経済評論家の平野和之さん。「岸田さん、高市さんは厚生年金の加入者を増やすという案を示していますが、ほかに目新しいアイデアは見当たりません。この3者は現行の年金政策を粛々と継続する見込み。すると将来的に、われわれが受け取る年金額は月額“9万円以上”も下がる可能性があります」平野さんが注目するのが、厚生労働省が5年に1度公表している財政検証だ。この資料内では、現役世代の男子の平均手取り収入に対し、モデル世帯となる夫婦の年金受給額がどれくらいの割合になるのかを示す“所得代替率”の将来予想が行われている。「最新の’19年の財政検証では、夫が賞与を含んで月の平均収入42.8万円で40年間就業し、妻が専業主婦だった夫婦がモデル世帯となっています。’19年度の所得代替率は“61.7%”です。この時点における現役世代の男子の平均手取り収入は、月35.7万円なので、モデル世帯がひと月にもらえる年金額は“約22万円”となっています」厚労省は、経済成長の進み具合などによって、年金受給額の6つのシナリオを想定している。「経済成長が進まない最悪のシナリオでは、約30年後の’52年度に所得代替率は36~38%に激減すると予測しています。その場合、’19年のモデル世帯にあてはめると、ひと月あたりの年金受給額が“約12万8千円”に減ってしまうのです。現状から“9万円以上”の減額になります」しかも平野さんは「これが最悪のケースではない」と、さらに恐ろしい予測を立てる。「国のいう“最悪”の見立ては、コロナ禍より前に試算されたもの。いまのコロナ不況が追い打ちをかける可能性があるのです。実際に、外食、観光中小企業などは相当追い詰められています。年金保険料の未払いが増え、年金財政の悪化は加速するでしょう」さらに、平野さんは年金の財源の一部はGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)によって資産運用されているが、リスクを計算していないため、不測の事態が起これば大幅に目減りする可能性もあると考える。「経済の低迷が続けば、最悪のシナリオを下方修正せざるをえません。所得代替率がさらに10%ほど下がっても不思議ではないんです」総裁決定後、新総理の選出は、10月4日に行われる。しかし、誰が総理になっても年金を待ち構える未来は地獄のようだ。
2021年09月28日自民党の総裁選に立候補している河野太郎規制改革担当大臣(58)。候補者のなかでもっとも優勢と報じられることもある河野大臣だが、しかし国民の間では日に日に不信感が高まっているようだ。例えば他の候補者らとともに、9月17日放送の『news zero』(日本テレビ系)に生出演したときのこと。「様々な分野の質問にAかBか、考えが近い方の札をあげて答える」というコーナーがあった。その際、社会保障にちなんでAは「国民の負担を増やしても給付などの水準を維持すべき」、そしてBが「給付などの水準を下げて国民の負担を抑えるべき」との2択が。しかし河野大臣は「こういう質問は僕、やめた方がいいと正直、思います。あんまり意味がない質問じゃないかな」といい、答えなかった。河野大臣がこのように“回答拒否”をした場面は他にもある。22日の『産経新聞』によると日本ウイグル協会など国内13の民族団体などで構成する『インド太平洋人権問題連絡協議会』が総裁選の候補者にアンケートを実施したものの、河野大臣の事務所のみ「回答しない」と連絡してきたという。さらに河野大臣は“身内”にも回答拒否をしていたようだ。同日、自民党・青山繁晴議員(69)は自身の公式サイトで『日本の尊厳と国益を護る会』が総裁選候補者に質問書を送ったところ、河野大臣のみ「回答はありませんでした」と報告。さらに河野陣営から、こう返答があったと明かしている。「貴議員連盟からいただきましたご照会につきまして、ご活動は理解いたしている心算ですが、文書にて回答申し上げる用意がございませんので、しっかりご趣旨を承ったことでご報告に代えたく存じます」■回答拒否、そしてTwitterでもブロックで拒否その後、青山議員は自身のブログで「河野さんから〆切までに回答が来なくて、野田さんの立候補表明に合わせて〆切を延ばし、その野田候補からは素早く回答が来て、しかし河野候補からは、延長した〆切にも何の回答も、連絡もありませんでした。この間、護る会は何度も、河野候補に連絡しているのです」とも綴り、連絡が取れなかったことを強調していた。そもそも河野大臣は外務大臣だった’18年12月、会見で「次の質問どうぞ」と何度も繰り返し、記者の質問への回答を拒否。そのことが波紋を呼んだため、ブログで釈明したことも記憶に新しい。またTwitterで河野大臣はブロック機能を多用し、アカウントを次々と拒否している。「大臣がブロックすると情報が広く共有されないのでは」などの理由から問題視されているが、今月18日には”誹謗中傷を受ける”との理由で「私は堂々とブロックします」と『ニコニコ生放送』で宣言。むしろ強気ともとれる姿勢を見せていた。そんな河野大臣の“拒否グセ”に対して、不信感を募らせる人たちも。ネットでは疑問視する声がこう上がっている。《回答しないあなたも無責任。都合が悪いとブロックする姿勢が無責任。国民を向かない姿勢も無責任》《記者からイヤな質問を受けると頑なに回答拒否を繰り返すのを見てると「イヤな質問するヤツはブロック」としか思えんけどね》《即答が良いとは限らない。ただ、河野太郎氏は回答拒否が多い印象です。最高レベルの決断が出来るのか?》《河野太郎には政治家として国民に対する誠意が全く感じられない》菅義偉首相(72)も官房長官時代、会見で「コメントは控えたい」と連呼するなど“拒否グセ”が指摘されていた。当時は“鉄壁”と高く評価されることもあったが、9月13日時点の内閣支持率は30%(NHK世論調査)。“河野首相”が誕生しても同じ轍を踏まなければいいがーー。
2021年09月23日自民党総裁選に出馬を表明している河野太郎行政改革大臣(58)。ネット人気の高い河野氏だが、消費税についての発言が波紋を呼んでいる。16日、各新聞社の取材に対し河野大臣は、年金制度改革の必要性を説き「年金に最低保障は必要だ」とコメント。そして「年金の最低保障部分は保険料ではなく、税でやるしかない」と話し、「応分に能力のある人に負担してもらうことを考えると、消費税がいい」と語ったという。河野大臣はかねてから「年金の財源は消費税に」と主張してきた。’12年1月、自身の公式サイトで「基礎年金を満額、必ず支払うためには、保険料の徴収をやめ、税で基礎年金を支払う必要がある」とつづり、さらにこう続けている。「消費税を基礎年金の財源とする方式であれば、買い物をするたびに必ず消費税を支払うので、未納や免除は生じないので、全ての日本人が65歳になれば満額の基礎年金を受け取ることができるようになる。高齢者の生活保護も廃止できる。消費税ならば消費金額に応じて年金財源を負担することになり、現在の収入の多寡にかかわらず一律金額の保険料を徴収する方法よりも公平。消費税方式の基礎年金ならば年金保険料徴収業務が不必要になり、現在、年間約650億円かかっているコストが不要になる。消費税方式ならば年金受給者も消費税を負担するため、世代間格差の是正にもつながる。専業主婦も消費税を負担するため、三号被保険者問題も解決する」■「保険料で賄うべきものでは?」の声…他候補も疑問視’12年11月には「国税分の消費税を全額基礎年金の財源に充て、基礎年金の保険料を廃止すれば、月収30万円までの者は得をすることになる」と公式サイトに記し、そのロジックをこう明かしている。「所得を全て消費すると仮定しても、15,000円の年金保険料の支払いが必要なくなるわけだから、消費税率の5%の引き上げによる支払い増額が15,000円以下になる月収30万円までの者は、得をして、さらに基礎年金制度そのものが安定する」今回の総裁選においても17日に他候補らと出演した『ワールドビジネスサテライト』(テレビ東京系)で、「将来的には消費税を上げなくてはならない?」という質問に対して、他候補が否定するなか、「将来的がどれくらいのタイムスパンなのかわからない」と回答を保留していた。しかし、河野大臣には逆風が吹いている。『朝日新聞デジタル』によると9月18日に行われた自民党総裁選の討論会で、岸田文雄前政調会長(64)は、河野氏の改革案に対して、かつて旧民主党政権の掲げた“月7万円の最低保障年金案”を例に挙げ、「確か消費税を8%上げなきゃいけない。実際は不可能だと言ってきた。何%上がるのか」と疑問視したという。さらに河野大臣の経済政策に不安を覚える人たちは、こうツイートしている。《今でさえ払った分年金として戻ってこないと言われてるのにさらに消費税として取る気か》《河野太郎の経済政策はいよいよダメですね。岸田、高市とは比較にならない。社会保障に消費税を充てるなんて今どき財務省でも中々言わないですよ。弱者救済の為に逆進性のある消費税を使う時点でおかしいと気付くべき》《年金は保険制度なので、基本は保険料で賄うべきものでは?》《消費税で年金制度を立て直して将来世代に負担をかけないようにするみたいな事言ってたみたいだが、増税で景気後退してインフレしない状態継続の方が、圧倒的に将来に負担をかけるんだが、その辺何考えてんだろ?》《年金の為に消費税上げるとか勘弁してくれぃ!》いっぽう年金は「制度として無理がある」と言われることも。そのため《どうしてもやるなら、掛けてきた額を国民に精算してから新しい年金制度にしてね》《もう年金いらないから今までの分返して》との声も上がっている。河野大臣は疑問や不安に対して、どのように応えるだろう?
2021年09月19日9月1日、河野太郎行政改革相(58)の“パワハラ発言”が「文春オンライン」によって報じられた。記事によると、河野大臣から問題の発言が飛び出したのは8月24日に行われた「エネルギー基本計画」の策定を行うオンライン会議の場。河野大臣は、資源エネルギー庁が提示した素案の“2030年に総発電量のうち再生可能エネルギーの比率を36~38%程度にする”という記述について、36~38%が“上限”ではないとして、「程度」を「以上」に変更するよう求めた。しかし、“以上”という表記を誤ったメッセージ性を持ちかねないと考えた同庁の職員は、河野大臣の要求を固辞。すると河野大臣は、幹部職員に対し「日本語わかる奴出せよ、じゃあ!」などと声を張り上げて激しく叱責。その後も、官僚の発言に対し「はい、次」「はい、ダメ」などと13回にわたって言葉を遮り、時には怒鳴る場面もあったという。職員への威圧的な発言が報じられた河野大臣だが、実は“パワハラ撲滅”の旗振り役だ。防衛大臣時代には、自衛隊のパワーハラスメントの処分の厳罰化を決定。さらに、内閣府のHPによると’20年9月の内閣府特命担当大臣就任記者会見で《この霞が関のブラックな状況を、何とかホワイト化するということを優先順位高くやっていかなければいけないと思っております》と発言し、霞が関のホワイト化にも意気込んでいた。「内閣人事室が’19年に行った調査で、30歳未満の若手男性官僚の7人に1人が、数年内に辞めたいと考えていることが判明しました。また、2020年度国家公務員試験の総合職の申込者が前年度から3.3%減少したこともあり、河野大臣は官僚の働き方について危機感を募らせているんです」(全国紙記者)各メディアによると、昨年10月、河野大臣は国家公務員の「在庁時間」の調査を要請。今年1月には、調査により明らかになった公務員のサービス残業の横行を受け、中央官庁に対して残業時間に見合った超過勤務手当を支払うよう指示したという。自らが霞が関の“ホワイト化”を先導する立場でありながら、矛盾するかのような“パワハラ発言”が報じられた河野大臣。それだけにネットでは落胆の声を寄せる人が相次いだ。《つい最近 自衛隊のパワハラを厳罰化したところなのに…》《「他人がパワハラするのは許さん。自分がするのはOK」という思考回路かな。》《ホワイトな職場を目指してる河野さんにパワハラ疑惑出てます》《霞が関のブラック労働環境を是正するとヒーローぶりながら恫喝行為で疲弊させてるのはこいつ》昨年10月に行われたFNNのインタビューに対し、「今の霞が関の働き方を見える化することが必要だ」と語っていた河野大臣。今回の報道で、残業時間には表れない霞が関の働き方も“見える化”したようだ。
2021年09月02日天皇ご一家の夏の恒例行事だったのが、那須高原や伊豆・須崎でのご静養。そこで注目を集める雅子さまのファッションには、実は年々変化が。ファッションライターの味澤彩子さんにお話を伺いました――。■夏のご静養スタイルを振り返り【’93年】那須塩原駅ご成婚されて間もなくの那須ご静養でのお姿。シーンを選ばないシックなジャケットスタイルに、大きめ襟のブラウスでフレッシュなアクセントをつけて。【’97年】伊豆急下田駅近年は寒色系のスタイルが多いが、’97年は珍しいピンクのジャケットスタイルも。定番の白ボトムスも、華やかな印象の強い光沢感のあるタイトスカートで。【’03年】那須町共同利用模範牧場スマートなシャツスタイルでありながら、リラックス感のあるオーバーサイズを選び、バレエシューズを合わせることで動きやすさと品格のあるスタイルを両立。【’12年】伊豆急下田駅毎年、ご静養時に白ボトムスを素敵に着こなされている雅子さま。白パンツはトレンドに応じて変化が見られ、’12年はセンタープレスのややフレアなシルエットを。【’19年】那須塩原駅最近多く見られる水色×白のスタイル。爽やかで夏らしい配色には、モノトーンのバイカラーのバッグと靴でメリハリを。お召し物がシンプルなぶん、ジュエリーは華やかに。■長くご愛用の名品ブランドバッグ【’02年】Salvatore Ferragamo’90年代から愛用されているバイカラーのバッグは、バイカラーのパンプスと合わせることが多い。【’10年】FENDI繊細な刺しゅうがエレガントなバケット。ハンサムなジャケットに合わせ、甘辛ミックススタイルに。【’13年】DIOR艶やかなパテント素材が目を引くバッグは、皇族とゆかりの深いディオールのマリスパール。■ファッションライター・味澤彩子さんがポイント解説新婚当初、’90年代の雅子さまは、ご静養に向かう道中ながら表情にもどこか緊張が感じられ、リラックスというよりは、特別感のある華やかなファッションが印象的でした。しかし、愛子さまのご誕生と共に、エレガントなだけでなく動きやすさも両立したスタイルに。愛子さまが成長されるにしたがって、リラックス感のあるナチュラルな素材、ハンサムで凜としたジャケットスタイルが多く見られるようになりました。洗練されたシンプルなコーディネートを、さらっと着こなすお姿には皇后としての風格が感じられます。ご公務とは違い、素顔の雅子さまらしさが垣間見えるご静養時のファッション。コロナ禍の今は困難ですが、また駅頭で交流される日が待たれます。
2021年08月12日7月4日、元東宮大夫で宮内庁御用掛も務めた野村一成氏がなくなった。81歳だった。外務省出身で、雅子さまの父・小和田恒氏の部下だったこともある野村氏は、’06年4月に東宮大夫に就任。’11年7月まで6年にわたり、皇太子ご一家の側近トップの職を務めた。この時期は雅子さまが適応障害で療養されており、公務に出席できない日々が続いていた。’06年8月には雅子さまのご静養のためのオランダ訪問を実現させるなど、雅子さまにとって野村氏はもっとも苦しい時期を支えた“恩人”といってもいい存在だ。実は、野村氏が東宮侍従を務めていた時期に、五輪への“皇室利用”が問題になったことがあった。東京が’16年の夏季五輪に立候補した際には、当時の石原慎太郎都知事が、皇太子だった天皇陛下を「招致の『旗頭』に」と協力を要請したのだ。石原氏は天皇陛下と雅子さまに五輪招致組織の名誉総裁を要請する考えもあったという。しかし宮内庁の野村一成東宮大夫(当時)は「招致活動の段階から関わることは難しい」「招致活動には政治的な要素が強いこともあるし、すでに決まった式典に出席されるのとは違う話だ」と、この要請を拒否した。すると石原氏は猛反発し「宮内庁ごときが決めることじゃない。国家の問題なんだから。木っ端役人が、こんな大事な問題、宮内庁の見解で決めるんじゃない」と激しく批判するという騒動になった。最側近である東宮大夫として矢面に立ち、天皇陛下と雅子さまを守った野村氏。両陛下は侍従を通じて弔意を伝えたという。
2021年07月15日東京オリンピックの開催まで1カ月を切った6月28日、上野で開催された日本芸術院賞の授賞式に出席された雅子さま。地紋のある素材でジャケットの裾をアシンメトリーにした新しいスーツは、前を着物の合わせのようにした和を感じるデザインだった。授賞式はコロナ禍の影響で昨年は中止されたため2年ぶりの開催となり、歌舞伎役者の松本幸四郎さんや日本画家の千住博さんら芸術の分野で業績のあった受賞者11人が出席。式後に行われた恩賜賞受賞者4人との懇談では、天皇陛下と雅子さまは作品についての説明を熱心にお聞きになっていた。お帰りの際、日本芸術院会館前に集まった人々からの歓声は自粛されたが、雅子さまは優しい笑顔をお見せになり、不安な日々を過ごす国民を励ますように手を振られていた。
2021年07月12日新型コロナウイルスワクチン接種推進を担当する河野太郎大臣(58)が7月6日、当初の予定よりワクチン供給量が約6割減っていたと明かした。ネットではその言動を疑問視する声が上がっている。朝日新聞によると河野大臣は、6日の記者会見で新型コロナウイルスのモデルナ社製ワクチンについて「日本への6月末までの供給量が当初計画の4,000万回分から1,370万回分へ約6割減っていた」と発言。その理由を“世界的需要が非常に厳しいため”とし、計画を変更した時期について「正確には覚えていないが、ゴールデンウイーク前くらいじゃないか」と答えたという。河野大臣は発表が6日になった経緯について「メーカーとの合意の上で発表することになっている」と発表。また今後の接種計画について「“9月末までに5,000万回分”との計画に影響はない」とも話したというが、しかし約2ヵ月もの間、計画を変更したことが国民に知らされていなかったのは事実。また6日といえば、東京都の都議選が終わったタイミングでもある。さらに河野大臣は先月27日、Twitterで海外に向けて、ここ数ヶ月のワクチン接種状況をデータで発信。日本とアメリカやイギリス、ドイツといった国々を比較し《悪くないでしょ?》と英語で投稿したが、《オリンピックのホスト国としては十分じゃないのでは》《もっと早くに始めるべきでした》といぶかしむリプライが海外からいくつも送られていた。そのためネットでは「なぜ黙ってた?」と疑問視する声が、こう上がっている。《これはひどい しかも供給大幅下振れはGW頃判明 なぜ2か月も黙っていた》《河野太郎さん好きだから、なんか訳でもあるのかとか想像したいけどだめだわ、、、。GW前て》《えっ?そんなに早くわかったの。。》《GW頃に分かってたなら何故黙ってるんだ?そんな状況で河野太郎さんは、海外垢で日本のワクチン接種率自慢してたのか》《大変なことをなぜだか都議選後にしれっと表明する安心安全なニッポン》
2021年07月07日ご公務にはフォーマルな装いで臨まれる皇族方が、なかなかお見せにならない私服姿。今回は雅子さまと紀子さまの、若かりしころのファッションをプレイバック――。ジョルジュ・レッシュのスーツで海外にお出かけになる、ご婚約以前の雅子さま。ポケットチーフとストライプのインナーは紺と白で色を統一されている、上品なスタイルだ。一方、ご婚約時代の紀子さまは、白、赤、紺のトリコロールの色使いや金ボタンを使った深いVネックのカーディガンで当時のお嬢様スタイルを取り入れている。皇室の装いにも詳しいファッション評論家の石原裕子さんは、「空港での雅子さまはいかにも外務省で働く女性という感じで、多くの女性の憧れとなったお姿です。独身時代からとても品のある装いをされています。紀子さまのコーディネートは、偶然にも全てトリコロールカラーのお洋服になっています。学生時代の流行も偲ばれます」雅子さまと紀子さまのファッションは、プリンセスたちのお手本になっていることだろう――。
2021年06月17日6月9日は、天皇陛下と雅子さまのご成婚記念日。28年前、93年の6月9日に行われた祝賀パレードでは、雅子さまの美しいドレス姿と笑顔に、日本中が大いに沸き立った。パレードでは、沿道に手を振られながら時折言葉を交わされていた両陛下。はにかみながら会話をされるお二人の姿にも、国民は大きく心を動かされた。18年にご成婚25周年を迎えられた際には、夫婦円満のために心がけてこられたこととして天皇陛下はこう述べられていた。「相手を思いやり、相手の立場に立って物事を考えること、そして、お互いによく話し合い、また、大変な時にも、『笑い』を生活の中で忘れないように、ということだと思います」その姿勢は、新婚時代から変わらない。今こそ両陛下がご結婚された93年の、初々しいお姿を振り返りたい。【93年6月9日祝賀パレード】出発直前まで降り続いていた雨がぴたりとやみ、日差しが差し込むなか両陛下は沿道に集まった19万人の歓声にお応えに。途中、雅子さまが目をうるませられ、白い手袋で目頭をそっとおさえられる場面も……。【93年6月15日饗宴の儀】3日間にわたり、計6回行われたご成婚を祝う宮中饗宴の儀。1日目の夜は芦田淳デザインのロイヤルブルーのイブニングドレスをお召しに。【93年7月8日東京サミット宮中晩さん会】ご成婚の翌月、お二人で初の皇室外交の場へ。晩さん会で雅子さまは、クリントン米大統領とエリツィン・ロシア大統領の間の席で、少しも気後れすることなくご歓談になっていた。【93年11月1日】愛知県の特別老人ホームをご訪問。雅子さまは、寝たきりのお年寄りの手にご自分の手を重ね、「お大事になさってくださいね」と優しく声をかけられていた。【93年12月20日鴨場でご接待】埼玉県越谷市の宮内庁埼玉鴨場に各国の駐日大使夫妻らを招き、伝統の鴨猟を紹介する皇室の伝統行事にご参加。じつは、天皇陛下が雅子さまにプロポーズされたのは千葉県の宮内庁鴨場。同じシチュエーションでのご公務で、プロポーズ時のことも思い出されたかもしれない。【93年12月23日一般参賀】上皇陛下の誕生日に、初めて一般参賀に参加された雅子さま。お召し物に選ばれたのは、イエローのロングドレスだった。新たな皇太子妃を一目見ようと多くの人々が集まり、天皇誕生日の一般参賀の参賀者数は、平成最多を更新した。仲睦まじいお二人のご様子は、理想のご夫婦として今もなお国民の手本となっている――。
2021年06月09日「天皇陛下と雅子さまは、6月9日に28回目の結婚記念日を迎えられます。コロナ禍以前は、皇室ご一家が集まってお祝いの食事会が開かれていましたが、今年は昨年と同じく愛子さまと家族3人で過ごされることでしょう」(宮内庁関係者)6月1日には上皇ご夫妻をはじめとする65歳以上の皇族方が新型コロナウイルスのワクチンを接種された。皇族方も国民と同じ基準で進めており、両陛下はまだ接種されていない。「5月30日に島根県で開催された全国植樹祭も、両陛下はリモートで出席されています。ご公務での外出も最小限にとどめ、コロナ禍にあえぐ国民生活を何よりも心配されています」(皇室担当記者)そんな中、菅政権のもとで皇室の未来を左右する議論が進められている。安定的な皇位継承策についての有識者会議が3月から開催されているのだが、その第3回会合で耳を疑うような発言が飛び出した。歴史学者の今谷明氏が、男系男子での皇位継承維持のために、次のような提言を行ったのだ。「悠仁様の後どうなるか。側室制を前提として、なおかつ非常に継承が難しかったことをどうやって維持していくか。ここに書いたように、近代医学の粋を尽くして男子出生を目指すというような医学的なことは当然おやりになったほうがいいと私には個人的に思う。しかし、これはあまり公には出せないことだが、個人的には側室制の代償として近代医学の技術を入れた皇位継承があるべきだというふうに考える」男子出生のために用いる「近代医学の粋」とは、いったい何なのか。本誌は発言の真意を聞こうと試みたが、今谷氏からは「取材はお受けできない」との返答だった。本誌が20年にわたって不妊治療に携わる生殖医療の専門医に話を聞くと「技術的には、着床前診断で受精卵の染色体を調べ、男子の受精卵を子宮に移植すればほぼ100%男子を産むことができる」という。だが、技術的に可能だからやっていいというわけではない。この医師は「男女の選別は倫理的に大きな問題があり、日本産科婦人科学会は性別の検査を目的とした着床前診断は行わないとの見解を出している」とも語る。■「人権侵害といってもいい」性別による“命の選別”につながりかねない「近代医学の粋を尽くして男子出生を」の提言――。“男子を産まねばならない”というプレッシャーは、まさに皇太子妃時代の雅子さまを苦しめた最たるものだった。ご成婚後、両陛下は会見で何度も“お子さまの予定”について質問を受けた。外務省での経験を生かした国際親善を目指していた雅子さまだったが、周囲から求められたのは“お世継ぎ”を産むことだったのだ。雅子さまは、陛下とともに不妊治療に取り組まれた。流産を乗り越え、37歳でご懐妊。待望の第1子となる愛子さまがお生まれになった。しかし、愛子さまのご誕生後も男子出生を求める声はやまなかった。そして’03年12月、雅子さまは体調を崩して入院。長期ご療養となり、適応障害と診断された。精神科医で立教大学教授の香山リカさんは「雅子さまが適応障害になられた大きな原因は、“お世継ぎ”についてのこと」と語る。「夫婦が子供を持つことについて部外者が勝手に話したり介入したりするのは、一般の家庭ではありえないことで、人権侵害といってもいいでしょう。男子ばかりを求める意見に対して愛子さまは、ご自身が男の子に生まれていればと悩まれるかもしれません。両陛下は愛子さまがそういった自責の念を抱かないように『生まれてきてありがとう』という気持ちをしっかりお伝えになって育ててこられたのです」ご自身が“なんとしても男子出生を”という声に苦しめられたからこそ、悠仁さまと結婚する“未来の皇太子妃”に同じ苦しみを味わわせるわけにはいかない――。雅子さまは、そうお考えになっていることだろう。皇族に迎える女性を一人の人間として尊重するという、当たり前の考え方が抜け落ちているのではないか――。皇位継承問題を話し合うならば、まず雅子さまが苦しまれた過去をしっかり見つめ直すべきだろう。
2021年06月08日5月25日、皇居の紅葉山御養蚕所で蚕に餌を与えるご給桑を行われた雅子さま。ご養蚕は今年で2年目。この日、皇居に向かわれるときの雅子さまは、半蔵門にいた人々の歓声に応え晴れやかな笑顔をされていた。しかし、ご給桑の作業中には幾分緊張されたご様子と感じられた。やはり、明治時代から歴代の皇后が担われてきた行事なだけに、お気遣いもあったのだろう。「桑の葉を全部食べちゃうんですか?」と、5~6センチに育った蚕に枝つきの桑の葉をお与えになる雅子さま。例年なら4種類の蚕をお育てになるが、コロナ禍ということもあり、昨年に続き、今年も日本古来種の小石丸1種類のみを飼育し、規模を縮小して行っている。
2021年06月04日淡いみどりの装いで4月23日、天皇陛下と令和初開催の「みどりの式典」に出席された雅子さま。このご公務は上皇ご夫妻から引き継がれたもの。昨年は新型コロナウイルスの影響で中止になったが、今年は出席者を極力少なくして開催されることになり、両陛下は初めての参加となった。雅子さまが選ばれたのは、2年前の6月、令和初の地方ご公務となった愛知県での全国植樹祭でもお召しになったスーツ。緑化推進の場に合わせられた色がよくお似合いだった。「女性自身」2021年5月11日・18日合併号 掲載
2021年05月08日