いまの時代にマッチする「レッジョ・エミリア・アプローチ」の教育
人間は周囲のさまざまな他者とかかわり、影響を受けたり与えたりしながら学んでいくもの――。そういう考え方から出発しているのが、レッジョ・エミリアの中核的な考え方である社会構成主義なのです。
大人が決めた分野に縛られず、子どもは広く学ぼうとする
その他にも、レッジョ・エミリアには他の新教育と異なる点があります。多数の他の新教育は、さまざまな教具を用意しておき、「この教具を使えばこういう学びが深まる」というようなメソッド方式をとっています。
でき上がっている教具などの学びの条件を用意し、環境から引き離し、学びは直線的に獲得されるとの観念のうえに実践があります。学びは、教科・発達分野というかたちの分類をされ、理解されています。
しかし、人間の学びというものは、そんな教科・発達分野に縛られないもっと広い興味からはじまり、もっといろいろな可能性を秘めたもののはずです。それがレッジョ・エミリアの考え方なのです。
レッジョ・エミリアの実践は子どもの興味・関心からはじまり、ゆっくりとジグザグに、ときには後退などしながらも学んでいくという考え方を大事にするアプローチ方式で行われます。それだけに、少しわかりにくいということころもあるのですが……(苦笑)。
子どもには、大人が考える教科のような分野に縛られることなく、あらゆることを学びたいという欲求があります。それは、本能的に持っている欲求です。たとえば、いまなら『パプリカ』という子どもに人気の曲を聴けば、子どもたちは自然に歌ってダンスをはじめます。子どもたちはなにも意識的にアートを学ぼうとしているわけではありませんが、大人の目には、先の教科のように、それがアートという分野を学んでいるように映るということに過ぎないのです。子どもたちは、ごく自然な欲求として歌って踊っているだけのこと。だったら、そうできる環境を用意していくというのが、わたしたちの考え方です。
指示や目標を与えないからこそ、社会で活躍できるようになる
わたしたちは、一般の学校のように「あれをしなさい」「これは駄目」というふうな指示は極力しません。もしかしたら、わたしたちの学校で育った子どもたちが一般の学校に行くことがあれば、ちょっと変わった子どものように見られてしまうかもしれません。
でも、実社会に出たときのことを考えてみてください。誰かから指示をされたり目標を与えられたりしなければ行動できない人間が社会で活躍できるでしょうか?
いま、世界を牽引しているGoogleのような企業の場合、基本的にはなにをつくるといった目標はありません。