2023年3月7日 06:00
天童よしみ 目撃した90歳実母への献身介護…ヘルパーなしで地方巡業にも同伴
番組には、毎回、母が付いてきてくれました。最後の十週目では、直前に私が足を骨折してしまったので、楽屋に入るまでおんぶしてくれたんです》(『婦人画報』’00年8月号)
’72年に芸能活動を始めるとき、筆子さんは夫を大阪に残し、天童に付いて上京した。「娘を守る人は私しかいないので、どこまでも付いていきます!」という覚悟だったが、ブレークまでの道のりは平坦ではなかった。なかなかヒットに恵まれず、失意のうちに大阪に戻ることになったのだ。
筆子さんは、売れなかった時代についてこのように振り返っている。
《八尾に戻ってからは私がマネージャー。女2人なので侮られ、出演料を踏み倒そうとする人もいました。キャバレーのトイレで張り込み、ショーの興行主を捕まえて払わせたこともありました。
(中略)芳美(※天童)に歌をやめると言われ、『あんたはこんなとこでは終わらん』と言い返しました。娘の歌は誰よりもうまい、いつかは世が認めると信じていましたから》(『天才の育て方』〈朝日新聞出版〉より)
母の一念が天に通じたのか、’85年に天童は運命の曲『道頓堀人情』に出合い、快進撃がスタートすることに。
「続いて『珍島物語』も大ヒット、全国から引っ張りだこになった天童さんですが、コンサート会場の舞台袖には、いつも一脚の椅子が置かれていました。