稽古から気付かされるのは、鈴木が、鄭による脚本上の登場人物たちの感情の流れ、それに伴い発せられるセリフに対し、絶対的ともいえる信頼を置いているということ。ひとつの言葉が“導火線”となり、相手を刺激し、またそれが次に…という感情の流れに寄り添い、アクションの動きさえもつけていく。
鈴木曰くこのシーンの登場人物は「次の一手がどうにもならない=どう生きていけばわからずにいる者たち」。戦争、喪失、貧しさ、また始まった戦争(=朝鮮戦争)に翻弄され、生きることもままならず、やるせない思いが怒りと悲しみに火をつけ、混乱を呼び起こし――激しく爆発する。新たな地へ踏み出そうとする者(=康雄)と、変わってしまったことを受け入れられず、しがみつこうとする者(=直也、あかね)、そのぶつかり合いにさらに翻弄される者(=満喜)。四角関係の極みだが、それぞれの感情が痛いほどに突き刺さってくる。
セリフは全編九州弁で、稽古場での鈴木の演出の指示にも九州弁が混じるが、東京でもなく、かといって遠い異国の話でもなく、60年以上前、復興への歩みのさなかのこの国の地方の片隅のコミュニティをしっかりと心に焼きつける。「せからしか(=やかましい!黙れ!の意)」