最近はバラエティ番組でも活躍する、ヒップホップユニット・Creepy NutsのDJ松永さん。ここでは松永さんの純度が発揮される、音楽について伺いました。音楽を「好き」っていうことががんばるうえでの動機として一番強いと思うんです。――‘19年、DMC(世界最大のDJ大会)で優勝されました。そもそもグループ活動と並行して、出場しようと思ったワケは?DJ松永:DJの技でスクラッチってあるじゃないですか。みんな当然やるのかと思いきや、実はあれは特殊技能で、なかなかできる人がいないんです。俺はDJをやるために高校2年で学校を中退したんですけど、当時、地元の新潟ではまだDJとかヒップホップカルチャーに理解のある人が少なくて。俺のことを半笑いで見ている友達に、DJって何なのかを瞬間的にわからせるためには、やっぱりスクラッチじゃないと難しいなって思ったんですよね。そのスクラッチの技を競い合う最高峰の大会がDMCだと知ったので、それを志すしかないだろうと。――何度か挑戦したうえでの世界一でしたが、呪縛から解放されるなど気持ちに変化はありましたか。DJ松永:世界一になるまでは、自分が勝ちきれない呪いみたいなのにかかっていたので、ずっとしんどくて。片や相方のR-指定は、MCバトルの日本一を3連覇しているから、そこと自分を比べて疲弊している部分も大きかったんです。MCバトルだと国内大会までしかないから、日本一っていうのが最高峰。それを3連覇だから、これ以上ない成績を残しているわけですよ。自分はDJがうまいことをアイデンティティにしていたので、うまいと腹をくくっていたら落ち込んだり、Rと比べたりすることもなかったと思うんですけど、自分に自信を持ちきれない部分もあって。でも身の丈以上のプライドとか、自分を大きく見積もるクセがあるから、最低でも日本一とか物理的な結果がないと、自意識に殺されてしまう。そのしんどさに24時間さいなまれていたので、それが解けたのはデカいですね。めちゃめちゃラクになりました。――R-指定さんと自分を比べることもなくなりましたか?DJ松永:そうですね。幸か不幸か相方がめちゃめちゃ優秀なやつなので、相方と比べて落ち込むことも多かったんですけど、自分は自分の持ち場でがんばって、Rが仕事で成果を上げることに対しても、100%すばらしいっていう感情だけで生きられるようになりました。世界一を獲らないと、そうならないっていうのも、なかなか厄介だなって思いますけど(笑)。――そんな優秀な相方さんと音楽を作ることに対しては?DJ松永:好きなアーティストはいろいろいますけど、結局、あいつが上げてくるデモが一番楽しみな新譜だったりするので。そう思えるやつと組めているのは、めちゃめちゃ幸せだなって思いますね。俺らは友達の延長で組んだグループで、二人とも楽しく音楽をやろう、みたいな気持ちが大きいんです。楽しむための音楽なのに、途中で義務感とかビジネスになったら、切ないじゃないですか。ちゃんとやっている瞬間が楽しい。そこが一番大事っていうのは、俺とあいつの中で共通しています。――グループを組んだ時から、変わらずずっと楽しいんですね。DJ松永:とくに俺らがやっているみたいな芸事に関しては「楽しい」「好き」みたいなものが、がんばるうえでの動機として一番強いと実感したんです。名声とか何かを得よう、みたいなのは、返りが少なすぎる。バーンと売れても下がることがあるから、不安定なんですよね。だから成果みたいなものを自分のがんばる動機にすると、落ちた時に辞めちゃうと思います。でも、やっている瞬間が最高だったら、落ちたところで「音楽やれているから楽しくない?」みたいな心持ちでいられるし、またがんばれる。そして、がんばったら楽しくなってまた上がれるから。結局、「好き」っていう動機が一番強いって、やればやるほど思います。ミニアルバム『かつて天才だった俺たちへ』が発売中。表題曲のMVは1100万回再生以上。毎週火曜深夜に放送されている『Creepy Nutsのオールナイトニッポン0』(ニッポン放送)も人気。バラエティ番組では『イグナッツ!!』(テレビ朝日系)にレギュラー出演中。ゲスト出演も多数なので、HPをチェック。ディージェイまつなが1990年8月23日生まれ、新潟県出身。中学2年生の時にヒップホップと出合う。2013年、ラッパーのR-指定さんとCreepy Nutsの活動を開始。‘17年、メジャーデビュー。おもな楽曲は「よふかしのうた」「かつて天才だった俺たちへ」など。‘19年、「DMC WORLD DJ CHAMPIONSHIPS 2019」で優勝。世界一のDJとなる。ジャケット¥45,000パンツ¥29,000(共にタクタク/スタジオ ファブワーク TEL:03・6438・9575)シャツ¥10,000(スリック/ブライト TEL:03・5843・0411)シューズ¥23,000(トス/HEMT PR TEL:03・6721・0882)ソックスはスタイリスト私物※『anan』2021年2月24日号より。写真・野呂知功(TRIVAL)スタイリスト・鹿野巧真ヘア&メイク・藤井陽子インタビュー、文・保手濱奈美(by anan編集部)
2021年02月20日ヒップホップユニット・Creepy NutsのDJ松永さん。最近はソロでバラエティ番組に出演すること多数。その憎めない、というより愛すべきキャラの魅力を深掘り!「え、俺っすか」みたいな気持ちで毎回新鮮にビックリしています。Creepy Nutsが初めてananに登場したのは‘19年夏。セックス特集号の音楽コーナーだったが、その後DJ松永さんは、世界一のDJを決める大会でチャンピオンとなるなど、あれよあれよと大注目の存在に。最近は、バラエティ番組での活躍が目覚ましい。いい意味で空気を読まない瞬発力あるトークが持ち味だけれど、言葉の端々ににじみ出るひたむきさと人柄の良さ。売れっ子の自覚のないプライベートの話など、じっくりと。――この頃ますますご活躍ですね。年末年始の特番にもたくさん出演されていました。DJ松永:本当にありがたいことですよね。『CD(カウントダウン)TV』で年越しの瞬間を任されたのは、だいぶビックリしましたけど。俺らでいいの?攻めすぎでしょって。あと『さんタク』もビックリしました。共演がさんまさんとジャニーズと俺らって。ああいうところに出るなんて、思ってもみなかったですからね。ヒップホップの活動の延長線上には、本来ないじゃないですか。不思議な気持ちでした。――anan的には、昨年末に放送された『「任意同行」願えますか?』のドッキリ企画が気になりましたが…。テレビや雑誌の事前アンケートと偽って用意されていた3媒体のうち、ananだけやたらと未回答が多かったという。DJ松永:あははははは!いやあれ、おかしいと思ったんですよ。雑誌のアンケートって聞いたことがなかったから。ananは何回か出させてもらっていますけど、事前アンケートとかしたことないし、変だなって思ったんです。――そうだったんですね。現在松永さんの衣装を担当されているスタイリストさんとの出会いもananの撮影だったと思いますし、勝手ながらご縁を感じていたので。DJ松永:そうですよね。あの撮影(昨年夏頃)以前は白いTシャツしか着ないっていう謎の決意を決め込んでいたんですけど、白いTシャツは全部捨てました(笑)。今はすべての格好が、ananの延長線上になっています。――(笑)。最近は一人でテレビに出られることも多いですが、松永さんが求められている理由は何だと思いますか?DJ松永:全然わからないですね。自己分析みたいなのが基本的にあんまり得意じゃないんです。毎回、「え、俺っすか」みたいな気持ちですし、毎回新鮮にビックリしています。――でも、お声掛けいただいたら、積極的に出たい?DJ松永:そうですね。必要としていただけるなら。なかなか願っても出られるようなところではないじゃないですか。一人の限られた人生の中で、こういう機会ってそうないので、トライしてみようかなっていう気持ちです。実際に自分に返ってくるものもたくさんありますし、人生経験にもなる。そもそもヒップホップって音楽に興味のある人にしかリーチできないですけど、テレビだとまったく無関係の人に知ってもらえるから、そういう機会は本当にありがたいですね。――時に失礼にもなりかねない素直な発言が的を射ていておもしろいのですが、“良く見られたい”みたいなことは考えないですか?DJ松永:いーや、それを意識できるほど器用じゃないです。ただ、気にはしているんですよね。「嫌われること言っちゃったかな」とかあとから気にして、わーっと落ち込んだりするんですけど、その都度考えて行動できないので。脊髄反射でしゃべるから。ゆっくり考えて言葉を精査して、配慮しながら角を立てずに…っていうしゃべりが、基本的に苦手なんです。だから、制作側から「こういうスタンスでお願いします」って言われてもマジで無理。できませんって説明します。それぐらい苦手で。興味のない話題の時とか、めちゃめちゃ天井見ています。――以前ラジオで、テレビに出るのは本業じゃないから、出るたびに落ち込むと話していましたが、それは緩和されてきましたか?DJ松永:ちょっとずつ慣れてきましたね。最初は自分に期待しすぎて、うまくできなかった事実を深く考え込んでしまうこともあったけど、やればやるほど結局ミュージシャンなんだなって思うようになったので。ずっと音楽をやりたくて、がんばってきて、音楽で一定の成果が出たからスポットライトがあたるようになって。それで離れた世界の人たちが、おもしろそうだなって拾い上げてくれたんだと思うんです。それに実際にバラエティの現場にお邪魔させていただくと、その現場にいるタレントさんや芸人さんは、その世界で一から積み上げて、切磋琢磨してそこに立っている人たちだから、そもそも太刀打ちしようと思うのがおこがましいわけで。去年の秋ぐらいからかな。そう徐々に切り替え始めたら、収録中に天井を見ることに負い目を感じなくなりました(笑)。――今や売れっ子と認めざるを得ない状況だと思いますが。DJ松永:全然なんですけど。――何か環境は変わりましたか?モテるようになったとか。DJ松永:どうなんですかね。人間関係増えていないですし。テレビの仕事も、カメラが回っていないところで親交を深めるとか基本的にないから。LINE交換してください、みたいなことも全然ないっすね。――以前「好きになった人の全部を好きになる」と言っていたのを聞いたことがありますが、ではどんな人を好きになるのでしょう。DJ松永:俺、好きなタイプって聞かれた時に、ポンと出せる答えがなくていつも困っているんです。自分の経験が豊富なわけじゃないから、こういう人が好きとか苦手とか、蓄積されていないんです。うーん…。かわいらしい人もいいなって思うし、大人っぽい人にもその良さがあるし…。選べないよって。――困らせてしまってすみません。DJ松永:恋愛に関しては、マジ小学生なんですよ。そこから成長していなくて。でもほんとに、好きなタイプって聞かれた時に、答えられるようにしたほうがいいですね。ミニアルバム『かつて天才だった俺たちへ』が発売中。表題曲のMVは1100万回再生以上。毎週火曜深夜に放送されている『Creepy Nutsのオールナイトニッポン0』(ニッポン放送)も人気。バラエティ番組では『イグナッツ!!』(テレビ朝日系)にレギュラー出演中。ゲスト出演も多数なので、HPをチェック。ディージェイまつなが1990年8月23日生まれ、新潟県出身。中学2年生の時にヒップホップと出合う。2013年、ラッパーのR-指定さんとCreepy Nutsの活動を開始。‘17年、メジャーデビュー。おもな楽曲は「よふかしのうた」「かつて天才だった俺たちへ」など。‘19年、「DMC WORLD DJ CHAMPIONSHIPS 2019」で優勝。世界一のDJとなる。ジャケット¥45,000パンツ¥29,000(共にタクタク/スタジオ ファブワーク TEL:03・6438・9575)シャツ¥10,000(スリック/ブライト TEL:03・5843・0411)シューズ¥23,000(トス/HEMT PR TEL:03・6721・0882)ソックスはスタイリスト私物※『anan』2021年2月24日号より。写真・野呂知功(TRIVAL)スタイリスト・鹿野巧真ヘア&メイク・藤井陽子インタビュー、文・保手濱奈美(by anan編集部)
2021年02月20日2021年1月26日、演歌歌手の松永ひとみさんが亡くなったことが明らかになりました。53歳でした。松永さんは『おんな笠』や『ねぶた風恋歌』などで知られ、美しい歌声で人気を博していました。サンケイスポーツによると、浴室で転倒したことが原因とみられています。関係者によると、松永さんは独身で1人暮らし。連絡が取れないのを心配した親族が今月21日、マンションの管理人と警察の立ち合いのもと、チェーンロックのかかっている玄関から室内に入り、浴室で倒れているところを発見された。検視の結果、頭部に裂傷をともなう脳挫傷の後があり、転倒した際に頭部を強く打って出血多量などで亡くなったとみられる。死亡推定時刻は19日午後2時から午後3時頃。前日18日に所属レコード会社の社員が電話で2月上旬に予定する仕事の打ち合わせをしたときは、元気な様子だったという。サンケイスポーツーより引用ネットからは、松永さんの旅立ちを惜しむ声が上がっています。・53歳って…早すぎます。足が滑ったのか、体調が悪かったのか。残念でなりません。・一人暮らしだと、浴室での転倒は怖いです。ご冥福をお祈りします。・突然のことで驚きました。同じ青森出身の者として応援していました。残念です。ご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2021年01月26日池袋自動車暴走事故から1年。被害者遺族・松永拓也さん(33)の、最愛の妻と娘とのかけがえのない日常は、突然奪われた。遺された夫が、悲しみと苦しみのなかでもがきながら、踏み出せた“一歩”とは――。『起きて「お父さんお仕事お休みがいい~」と何度も言っていた。公園で1h近くずっとぶらんこに乗っていた』真菜(まな・当時31歳)は、莉子(りこ・当時3歳)が生まれた日から1日も欠かさず育児日記をつけていて、これは、事故の起きる3日前の16日の日記です。几帳面な文字とぎっしりの書き込みを見ただけで、彼女の人柄がわかると思います。当時、莉子は、毎日のように、僕に「仕事を休んでほしい」と言っていました。それから、「おかあさんが焼いたパン、公園で一緒に食べようね」。ずっと母親べったりだったのが、やっと3歳ごろから、お父さんっ子になってきてた。ですが、この先も莉子の成長がつづられるはずの日記は、いきなり中断させられました。日記帳の最後に記された『たく(拓也)帰ってきてたくさんあそんだ。』という青いインク文字をいとおしげになぞるようにしながら、松永さんが言う。松永さんは、2019年4月19日に豊島区で起きた「池袋自動車暴走事故」の被害者遺族だ。妻の真菜さんと一人娘の莉子ちゃんの命を、瞬時に奪い去ったあの忌まわしい事故から1年が過ぎた――。壁のカレンダーも、’19年4月のままです。6月にはディズニーランドに行く予定で、3人とも楽しみにしていました。初めて「イッツ・ア・スモールワールド」に乗ったときの、莉子の目のキラキラが忘れられなくて。カレンダーをめくっちゃうと、自分の時だけが進んでしまう気がするんです。2人の時間は止まったままなのに……。かつて一緒に暮らしたこの部屋にいると、扉の陰からひょっこり2人が顔を出すんじゃないかと思ったり、3人の暮らしが夢だったような錯覚に襲われるのがつらすぎて、僕は事故以来、ずっと近所にある実家に身を寄せています。僕自身、自殺も考えた事故当初の時期を経て、この1年間、多くの転機となる出来事がありました。被害者の会への参加、署名活動、ブログやツイッターでの交通事故防止へ向けての発信など。自分でも精神医学などの本で勉強して試みましたが、なにより多くの出会いや支えもあり、ようやく年明けくらいから気持ちをコントロールできつつあります。とはいえ、正直、まだ無理くりですが……。事故防止に向けて、精力的な活動を続けていた松永さんだが、今回のインタビューのなかで印象的だったのは、終始抑制された加害者の飯塚幸三被告(88)への感情だった。率直に「憎しみはありませんか」と尋ねた――。いえ、絶対、ありますよ。人間ですから、それは否定しません。でも、憎しみを抱いている間は、相手だけにとらわれてしまい、それでは自分がしんどいです。それだったら、生前の2人の顔を思い浮かべて、愛と感謝を思っていたほうが心も安定します。苦肉の策ですが、それが僕なりのやり方。そうして憎しみと処罰感情を分けて考えるように、1年をかけてマインドチェンジしていくことができたという感じです。たぶん、真菜も莉子も、生前に僕の怒っているところは見たことがないはず。だから、2人にそんな姿を見せたくないという思いも、正直ありました。実は、事故の朝、こんなことがあったんです。前日の帰宅が遅くて、寝坊していました。そしたら、キッチンで莉子にご飯を食べさせていた真菜がすごい勢いで僕のもとに駆け寄って、おなかの辺りにギュッとしがみついてきたんですよ。「どうしたの!」「ううん、なんでもない」あのときのことを思い出すと不思議な気持ちになりますし、あの重みは生涯忘れません。僕の中に残っている真菜や莉子の温もりや肌の感触が、今、事故防止の活動でも、日々の生活でも、僕が前に進もうとするときに、そっと背中を押してくれるんです。「女性自身」2020年5月5日号 掲載
2020年04月27日妻・真菜さん(まな・当時31歳)と娘・莉子ちゃん(りこ・当時3歳)の命を奪った池袋自動車暴走事故から1年。被害者遺族の夫・松永拓也さん(33)の、初の実名告白160分。松永さんの心の支えは、今でも、肌に残った妻と娘の温もりだという。1年前、“いつも通りの日々”を送るはずだった、あの日の家族の様子を語ってくれた――。事故当日の19日は、いつもどおり、朝7時10分くらいに家を出ました。莉子はそのころ、彼女のブームだった“おしりバイバイ”で見送ってくれました。お昼休みの、スマホを使ってのテレビ電話も、いつもと同じ。あの日、2人は、自宅から10分ほどの南池袋公園にいました。「お父さん、今日は定時?お仕事、がんばってね」「あれ、珍しく今日は自転車なんだ。気をつけて帰るんだよ」「じゃあね」それが、最後の会話となりました。僕のスマホに、突如、警察から、「奥さんと娘さんが交通事故に遭いました」という電話がかかってきたのは、午後2時ごろ。パニックになりながらも電車に飛び乗って、病院に着くと、医師が「即死でした」と。もう、泣き叫ぶしかなかった。対面した2人の遺体には、顔に布がかぶせられていました。まず真菜の顔をめくったらズタズタなんです、もう、傷だらけで。次に莉子を見ようとしたら、看護師さんが、「娘さんは、見ないほうがいいと思います」。親族からも、「将来、莉子ちゃんの顔を思い浮かべるときに、あのかわいい顔を思い出せなくなるよ」。そうか、と思って。莉子は、その後、業者の方から、遺体を修復するエンバーミングに「顔だけで3日かかります」と言われたほどのひどい損傷でした。後日、遺体が自宅に戻ったとき、やっぱり、どうしても最後に莉子に会いたくて、顔の布を0.5ミリだけでも下げようとして、これはダメだとわかりました。あれ以上、動かしてたら、僕の心は一生壊れていたでしょう。松永さんが、1つ年下の真菜さんと出会ったのは、13年夏だった。わが妻ながら、僕は真菜を人間として尊敬していました。人の悪口や愚痴を言うのを聞いたことは一度もありません。結婚当時、僕はまだ若くて、家計的にも豊かではありませんでした家族を幸せにできるか不安で、つい彼女の前で弱音を吐きました。すると、「私も5人きょうだいで、けっして裕福じゃなかったけど、幸せというのは、お金だけじゃないんだよ。私、今、すごい幸せだよ」。そんなやさしくて気丈な真菜を絶対幸せにする、と胸に誓いました。莉子が生まれたのは、16年1月11日でした。出産は、僕も立ち会いました。生まれた瞬間には、2人同時に「かわいい!」で、うれし泣きでしたね。つくづく、あの場にいられてよかったと思うんです。命の重みというか、一つの生命が生まれるというのはこんなに大変で、神秘的なことなんだと知りました。大変ながらも充実した子育ての日々が、ずっと続くものだと信じていました。事故からおよそ1カ月後には職場にも復帰し、事故防止に向けても精力的な活動を続けていた松永さん。今でも、原動力は、天国で見守っている家族の存在だという。年明けに、こんな夢を見ました。少し背の伸びた莉子が、お風呂から1人で出てきたから驚いて、「えっ、莉子ちゃん。1人でお風呂に入れるの?」「そうだよ、すごいでしょ!お父さん」「すごいね!」そう言いながら抱きしめてたら、横から真菜がいつのも笑顔で、「たく!気持ちはわかるんだけど、体が心配だから、お酒は飲みすぎないでね。飲むんだったら、コレにして」と、ポンと炭酸水を手渡されたところで、目が覚めました。最近、苦手なお酒が増えてるのをわかってたんだなぁ、それにしても炭酸水かぁと、ほんとに久しぶりに笑っている自分に気づいて。僕はもう取り戻せないけど、これ以上、ほかの人たちの、かけがえのない日常が失われてほしくない。いつか自分の寿命が尽きたとき、天国で真菜と莉子が出迎えてくれて、僕は1人でも2人でも「命を救うお手伝いができたよ」と報告できたらそれでいいのかなと、そう思うんです。「女性自身」2020年5月5日号 掲載
2020年04月27日池袋自動車暴走事故から1年。被害者遺族・松永拓也さん(33)の、最愛の妻・真菜さん(まな・当時31歳)と娘・莉子ちゃん(りこ・当時3歳)とのかけがえのない日常は、突然奪われた。遺された夫が、悲しみと苦しみのなかでもがきながら、踏み出せた“一歩”とは――。2人のお通夜の日、僕は葬儀場に泊まって、一晩中、真菜と莉子の棺桶を交互に開けていました。真菜の手を握りながら、「真菜。ありがとう、愛してるよ」。莉子のほうに行ったら、大好きだった『ノンタン』の絵本を読み聞かせて、「莉子ちゃん、ありがとうね。お父さん、莉子ちゃん、大好きよ」。告別式でも、供花の間も、もうこれで2人の体にふれられるのは最後とわかってたから、僕は棺桶の蓋を閉められたくなくて、取り乱してしまった。それから花で埋まって少しだけ見えていた真菜と莉子のおでこにキスして……。最後は親族から、「もうそろそろ」と促されて。それで、なんとか喪主の挨拶を終えると、やがて棺桶も閉じられて。それが、2人との本当のお別れでした。事故以来、最初の1週間はほとんど食べられなかったし、眠れなかった。本気で死ぬことも考えました。初めての記者会見は、事故から5日後だった。松永さんは、真菜さんと莉子ちゃんの写真とともにのぞんだ。時には嗚咽を漏らしながら心情を吐露する姿は、日本中に、高齢者ドライバーの運転についての議論を巻き起こした。実況見分後、加害者の飯塚幸三被告(88歳・旧通産省工業技術院元院長)は、8月にも逮捕されるだろうとの大方の予想を裏切り、任意の取調べが続き、世間やマスコミでは“上級国民”なる言葉が話題となる事態に――。ちょうど事故から1カ月が過ぎたころですが、1通の手紙が届きました。「関東交通犯罪遺族の会(あいの会)」代表の小沢さんからで、「どうか1人で悩まないで」という手紙と一緒に、被害者と遺族の道標となる「被害者ノート」も同封されていました。交通事故防止に向けて社会に訴えていこうとしている思いを知り、自分もともに活動したいと、事故後に初めて希望を感じました。この後、松永さんは7月に署名活動を開始。約39万筆の署名を集めて東京地検に提出した。署名活動と同時に、家族ビデオも公開しました。内容は、事故前年のわが家の父の日の様子です。玄関先で、真菜と莉子が僕をサプライズで迎えてくれる、いわば家族の日常。何げない日常がある日突然奪われるのが交通事故なんだと、実際に奪われてしまったんだと、それを伝えたかった。9月には、自転車や血まみれの真菜の衣服など遺品が戻ってきました。あの頑丈な自転車が真っ二つになっているのを目の当たりにしたときはショックでした。いちばんきつかったのは、莉子が使っていたチャイルドシートの足元が割れていたこと。せめて痛みを感じていなければ、と願うしかなかったです。年が明けて20年2月6日、飯塚被告を東京地検が過失運転致死傷罪で在宅起訴。ようやく、あとは裁判の開始を待つところまできた。それを受けての記者会見。「この10カ月、悲しみと苦しみのなかでもがきながら、ようやく一歩が踏み出せます」。そう、松永さんは語った。2人の命が戻らないのはわかっていますが、真実を明らかにしたい。そうでなければ、再発防止のタネに使えないじゃないですか。加害者には命の尊さを知ってほしいし、犯した罪に相応の処罰を受けることが、今後の事故防止にもつながると思います。そのためには、僕も被害者参加制度を使って、公判では自分なりに真実を追求したい。正直、事故から1年たったというのは、遺族の僕にとっては、ただの日付に過ぎない。この先も日々、2人の死と向き合っていくのは変わりません。たとえ裁判が終わっても、あいの会の活動を通じて、交通事故防止に向けて取り組んでいくことも同じです。「女性自身」2020年5月5日号 掲載
2020年04月27日二階のベランダにかかっている物干し竿は錆びついており、窓の奥に見えるふすまには穴が開いている。千葉県内にある小保方晴子さん(35)の実家には、人が住んでいる気配はまったくなかった。’14年1月に小保方さんが発表した「STAP細胞」は世界的に注目され、彼女は“リケジョの星”ともてはやされた。しかし、その数カ月後に研究に関する不正疑惑が浮上し、最終的には理化学研究所も退職することになったのだ。「’16年に上梓した手記『あの日』はベストセラーになり、印税は3千500万円以上とも報じられています。その後、’17年1月からは1年以上にわたり『婦人公論』で『小保方晴子日記―「あの日」からの記録』を連載し、注目を集め続けました。しかし『婦人公論』連載終了後は消息も途絶え、どこかの研究機関に再就職や研究再開をもちかけているという話も聞いたことがありません」(科学ジャーナリスト)STAP騒動から1年後ごろまでは、千葉県内の実家で家族も生活していたようだった。「しかし、この2~3年は小保方さんのご家族にはまったくお会いしておらず、家も“まるで廃墟のよう”と言われています」(近隣住民)ついに“平成のコペルニクス”にはなれなかった小保方さん。1年前のインタビューではこんな前向きな思いも明かしていた。《研究をしていた時から根底にあった思いは、社会の役に立ちたいということ。どんな形であっても、これからもそのために生きていきたい。この人生でもう一度、その夢を追い続けたいと思っています》(『婦人公論』’18年4月10日)いまも彼女はどこかで、著書の印税生活を送りながら、夢を追い続けているのだろうか。
2019年05月08日「最近でこそだいぶ減ってきましたが、子どもたちが描く絵を見ると、以前はかなりの割合で戦争の絵がありました。戦闘機や戦車、人が撃たれて血を流している場面や、横たわる死体を描く子もたくさんいて。見ているこちらのほうが、本当につらくなりましたよ」 そう話すのは、国際協力NGO「国境なき子どもたち(以下・KnK)」のシリア難民支援・現地事業総括の松永晴子さん(38)。 ’11年から内戦状態に陥ったシリア。つい先日も、アサド政権が化学兵器を使用したとして、米英仏の3カ国が空爆を実施するなど、戦闘終結のめどは一向に立たない。 世界各国で、子どもたちの教育と自立を支援しているKnKのなかで、松永さんが活動しているのは、シリアの隣国・ヨルダン。内戦が勃発した7年前から、およそ66万人のシリア人が、難民としてヨルダンに流入している。 ヨルダンで松永さんたちKnKは、同国の教育省と手を組み、多いときには4,000人以上の難民の子どもたちを支援してきた。その活動内容は、アクティビティや歌、踊り、さらに演劇や作文などを取り入れた授業を行うことで、傷ついた彼らの心を癒し、学校に通う意欲を少しでも高めてもらおうとしてきた。また、欠席が続く生徒の家庭訪問をして、学校に足を運ぶよう働きかけたりもしてきた。 「ひとくちに難民と言っても、全員が難民キャンプで暮らしているわけではないんです。ヨルダンのシリア難民の場合、キャンプで生活している人は全体の2割ほど。多くは一般市民とともに町でアパートを借りて暮らしています」 町で暮らす難民の子どもたちは、ヨルダンの子と同じ学校に。だが、生徒数が急増し、教室が足りない学校では午前がヨルダン人、午後がシリア人と2部制をとった。 「すると、どうしてもいざこざが起きる。同じ学校に通っているのに、国籍が違うというだけで仲よくできないなんて、健全じゃありませんよね」 そこで松永さんたちは、双方の子どもが参加できる授業を開いた。 「シリア人、ヨルダン人混成でチーム競技をし、一緒に学校の美化運動も。さまざまなことに共同で取り組んでもらうことで、自然と彼らは打ち解けたんです。国籍を超え相互理解を深めることは、KnKの支援の、大きな目的の1つでもあるんです」 キャンプの外では、難民も自立が求められる。だが、そもそも失業率が高いヨルダンで、シリア人難民の彼らが就けるのは肉体労働など、限られた職種だけなのが現実だ。 「そのうえ、本来なら大黒柱の父親が、戦闘に巻き込まれ負傷して体に障害が残っていることも。そうなると、家計を支えるため子どもが働きに出ることになり、学校をドロップアウトしてしまうんです。以前、家庭訪問で出会ったあるお母さんは、つらそうにこぼしました。『仕事から帰るたび息子が、また学校に行きたいと泣くんです』って」 KnKは、学校に通えない期間が長かった子どもが復学するための補習授業も行ってきた。さらに、昨年からは難民キャンプ内の子どもたちのキャリア教育にも注力している。 「難民キャンプで暮らす子どもたちに『将来、就きたい職業は?』と尋ねると、多くの子が『学校の先生』とか『お医者さん』『看護師さん』と答えるんですよ」 ここまで話して、松永さんは顔を曇らせた。 「立派な答えと思いますよね。でも、難民キャンプで暮らす彼らの口からは、ほかの職業はまず出てこない。それは、子どもたちの身近に教師、医師、看護師以外の仕事をしている大人がいないからなんです」 そこで松永さんは、同じくキャンプで暮らす大人、子どもたちの親に頼んでまわったという。 「シリア時代の仕事について、子どもたちに説明してほしいとお願いしました。どういう勉強をすればその仕事に就けるのか、その職業にはどんな魅力があるのかを、具体的に子どもたちに話してもらうんです。でも……親御さんたちは『よかった時代を思い出すのはつらい』と協力を拒む方も少なくない。ある意味、子どもたち以上に、大人も傷ついているんです」 祖国での暮らしを懐かしむ人は多い。停戦協定の一報が流れるたび、淡い期待を抱き帰国を選択する難民もいる。 「仕事仲間の年配の女性教師に打ち明けられました。『私の息子はもう安全だと信じて帰ったそのすぐ後に、空爆で死んだんだ』と。また、KnKの仕事をしていた20代半ばの女性スタッフは『大学に進みたいけど、難民キャンプでは無理だから』と、3年ほど前にシリアの親戚を頼り帰国したんです。以来、彼女とは連絡が取れていません。無事でいてくれるといいんですが」 泥沼の内戦で、故郷から離れ、隣国ヨルダンで生きるシリア難民たちに平和はいつ訪れるのか――。
2018年05月05日「飛行機の音を聞いただけで、泣きながら耳をふさいで、その場にしゃがみこんで動けなくなってしまう、そんな子どもも少なくありませんでした」 こう語るのは、国際協力NGO「国境なき子どもたち(以下・KnK)」のシリア難民支援・現地事業総括の松永晴子さん(38)。 ’11年から内戦状態に陥ったシリア。つい先日も、アサド政権が化学兵器を使用したとして、米英仏の3カ国が空爆を実施するなど、戦闘終結のめどは一向に立たない。 世界各国で、子どもたちの教育と自立を支援しているKnKのなかで、松永さんが活動しているのは、シリアの隣国・ヨルダン。内戦が勃発した7年前から、およそ66万人のシリア人が、難民としてヨルダンに流入している。 「飛行機の音だけではありません。体を動かすアクティビティの一環として、子どもたちが互いの足につけた風船を、踏んづけて割り合うゲームをしたことがありました。楽しく遊んでいたはずの子どもが、風船の破裂音でつらい記憶が呼び覚まされ、泣き崩れてしまうということもありました」 そういうシーンを見聞きするたび、空爆で無残に家や学校を破壊され、目の前で肉親が撃ち殺された子どもたちの心の傷が「想像以上に深いことを思い知らされる」と松永さんは話す。 「この3年ほど、ヨルダン政府はシリアとの国境を開いていません。ですから、ここにいる子どもたちの多くは、それ以前から難民キャンプで生活を送っている。それだけ長い間、安全なところで暮らしてきても、いまだに『うちのお父さん、ピストルで殺されちゃったからね』『僕のお父さんは爆弾で』と、まるで世間話のように平然と語る子どもたちがいます。それだけ戦争や人の死が、幼い彼らにとって身近なままなんです」 さらに「最近でこそだいぶ減ってきましたが」と前置きしつつ、松永さんは続けた。 「子どもたちが描く絵を見ると、以前はかなりの割合で戦争の絵がありました。戦闘機や戦車、人が撃たれて血を流している場面や、横たわる死体を描く子もたくさんいて。見ているこちらのほうが、本当につらくなりましたよ」 ヨルダンで松永さんたちKnKは、同国の教育省と手を組み、多いときには4,000人以上の難民の子どもたちを支援してきた。その活動内容は、アクティビティや歌、踊り、さらに演劇や作文などを取り入れた授業を行うことで、傷ついた彼らの心を癒し、学校に通う意欲を少しでも高めてもらおうとしてきた。また、欠席が続く生徒の家庭訪問をして、学校に足を運ぶよう働きかけたりもしてきた。 先行きがまったく見通せないシリア情勢。「だからこそ」と松永さんは力を込める。 「彼らの心の傷をリセットすることは簡単じゃないのは重々承知しています。それに『いつごろまでには戦争も終わるよ』なんて軽々しく勇気づけることもできやしません。だからこそ、子どもたちには学校の勉強を頑張って続けてほしいんです。彼らが自分の未来を切り開くためにも、将来、祖国を復興させるためにも、いま、彼らが持っている数少ない選択肢のなかで、もっとも有効なものは学業だと、私はそう信じているんです」
2018年05月05日STAP細胞発見の報道から、気づけば4年。最近はニュースでも見かけなくなった元理化学研究所(以下理研)研究員の小保方晴子さんですが、3月25日に処女作から約2年ぶりの手記を出版。今回は理研でのSTAP細胞騒動終焉後の、2014年12月以降の小保方女史の日常が、日記として綴られています。 騒動後も彼女の生活は“平穏な日々”ではなく心身を崩し、マスコミに追われ、刑事告発があり、また在学していた早稲田大学からは博士号を剥奪。その際の苦しい心中が、表現力豊かに語られています。 本作の内容はSTAP細胞騒動後に起きた出来事に関する記述も多いのですが、主だった内容は彼女の生活からの視点。傷つきながらも立ち向かおうとして、心を折り、また立ち直ろうとする。まさに三歩進んで二歩下がる姿が描かれています。 センセーショナルな割烹着姿の女性がさまざまな“進化”を遂げたのも衝撃ですが、今思えば彼女はなぜ彼女はスターとなってしまったのか。本書を読みすすめながら、研究者としての側面以外の彼女の顔を考えてみたいと思います。 ■精神疾患者の日常と回復状況としての有用性 読み進めていちばん最初に感じたことは意外にも彼女の素顔ではなく、本書の有効性です。本書は”STAP細胞の騒動後に起きたことを当事者が語る”という特筆性を脇に置けば、精神疾患を患った女性の”ある程度の回復”までの記録として読むことができます。 2015年の1月はマスコミからの逃亡劇のなかひたすら泣き、絶望し続けている。と思ったら2月にはクスリの効果なのか食欲に振り回される記述が増え、勉学への意欲をほんの少し取り戻します。そして3月になると涙し絶望しながらも、パン作りや料理にいそしんだ記録が目に入ってきます。 その後は出来事とあわせてまた絶望の淵に立たされたり、少し回復したり、パニックが起きたりと状態に波があります。診断による鬱とPTSDがどのような事象によってどう変化を遂げるのか、そして後半の回復がどんなキッカケから生まれたかがよく理解できます。 当事者としてはどれも絶望や混乱に変わりないのかもしれません。ただ鬱や精神疾患を体験したことのない人にとっては、心の変化と心身の変化が比較的わかりやすく書かれているので理解の深まる内容かもしれません。 ■強い「わかってほしい」が原動力でありトラブルの元凶か STAP細胞騒動の中心人物とはいえ、彼女がなぜここまで“渦中のスター”として扱われたのか。そこには若い女性研究者だったからということ以外にも、注目されるべき理由があったように思います。1つは多くの人が感じているであろうビジュアル面での異質さです。 STAP細胞での釈明会見では、7万6,000円のバーバリーのワンピースを着用し、その後の対談では11万6,000円のレッドヴァレンティノのワンピース。そして週刊誌のグラビアに登場した際はグッチの21万3,840円のワンピースと、衣装も見た目もランクアップして私たちの前に現れました。 研究者という立場よりも感じる“オンナ”の側面は、間接的に研究者としての説得力を減退させ不謹慎な側面にばかり注目を集めるような作用がありました。 「なぜわざわざ自分から話題を振りまくのか」と思う人も多いかと思いますが、本書を手にとるとその理由が少しわかる気がします。彼女の原動力は研究したい学びたいという気持ちの前に「私をわかってほしい」という気持ちが強くあり、同時に“行動のちぐはぐさ”があるのです。 たとえば通院している病院の先生に「本が出たら大きな反響がある」としてしばらく病院に来ないで欲しいと告げられた際、彼女は本書に「見放されたような気がいて、すごく寂しかったのに、また笑ってしまった」と綴っています。通院し続けたいという気持ちを明確に持っているのに、先生の指示に素直に従ったような記述がありました。 他にも出版にあたり打ち合わせをした際、同席者が世間の悪口や業界の噂話を“笑い話”として出した際、彼女は心の中で「慣れていない」と感じまた疲労感を覚えていたようです。ただこれも本人に伝えることはなかったようです。 こういった我慢してその場をやりすごしたという記述が、本書では散見しています。主にその対象は心を許していない相手に対して行うようですが、ちょっとした本音を我慢して裏で辛くなるのは“本音が伝わらないことによる状況悪化”を起こしかねません。見方によっては被害者意識が強い人とも捉えられます。 思ったことを何でも伝えるのも問題ですが、こうして文字として改めて綴るところからも「本心をわかってほしい」という気持ちの強さがあるのでしょう。研究者として理解されるよりも、自分をわかってもらうことを優先した結果が、ふるまいや見た目の異質さに、つながっているのかもしれません。 「シャッター音がなるたびに、自分の(命の)ロウソクに火を分けられているように感じた。(中略)もう私の火は揺らいでいない、そう思った時に、最後のシャッター音が聞こえた。写真にうつる女性を見て、この人の火はきっとドラマティックに燃え続ける、ロウソクが尽きるまで火が消えることはないと信じることができた(中略)。私は分けられた火をまた誰かに分けながら生きていく」 本書出版の際に撮影に望んだときのことを、あとがきにかえた日記として、彼女はこう綴っています。 前作では今でも実験をしている夢を見る。涙が勝手に込み上げてくる。と書いた彼女が、2年の時を経てどう変化し、そしてどう進化していくのか。“ドラマティックに燃える火”が彼女の身を焦がさず、幸せの炎であることをまずは願いたいです。
2018年04月11日3月22日に『小保方晴子日記』(中央公論新社)を出版した小保方晴子さん(34)。STAP細胞騒動から4年。今回の著書には、論文ねつ造を指摘されて“どん底”に落ちた日々から、彼女がどうやってここまで這い上がってきたかが、克明に描かれている。 日記は、理研を依願退職した直後の14年12月31日から始まるが、当時は一歩も外に出ず引きこもる生活だったという。 《一日に何度も死にたいと思って、気が付けば真剣に方法を考えてしまう日々が続いている(15年1月24日)》(『小保方晴子日記』より・以下同) こうして絶望の淵に追いやられた彼女は、16年1月に手記『あの日』(講談社)を出版。何を言っても世間が聞く耳を持ってくれなかったと感じていた彼女は、本を書くことで、初めて鬱屈した思いを活字の形で吐き出すことができたようだ。このころから、彼女の生活に変化が現れていく。 STAP騒動の渦中には、スエットにパーカー姿で、髪の毛を振り乱して理研に出勤していた彼女の姿を本誌も目撃していた。だが2年前の手記出版をきっかけに、彼女は次第に化粧品やファッションへの関心を取り戻していったのだ。 《白いワンピースを友人が代わりに買って、郵送してくれた。私にウェディングドレスを着る日は来ないと思うから、奮発してこの白いワンピースを買うと決めたのだ(16年4月9日)》 ただ騒動のなかで、犠牲者も出た。14年8月、自ら命を絶った小保方さんの元上司、笹井芳樹さん(享年52)。一時はノーベル賞候補とまで言われた笹井さんの妻・A子さんに、本誌は2年前にも取材したが、今回あらためて話を聞かせてもらった。 前回の取材は、小保方さんが初の手記を出した直後のこと。A子さんは「小保方さん個人の気持ちを綴った内容なら読みたくありません」と終始、硬い表情だった。 しかし、あれから流れた2年の歳月がA子さんの心を融かしたのだろう。今回は、柔らかい表情で記者の質問に答えてくれた。 「小保方さんからの連絡は、まだありません。ただ、(小保方さんが自分に)連絡することは大変なことだとは思います。たとえば、交通事故で人の命を奪ってしまった人が遺族に謝罪に行くのはすごく勇気がいること。それと同じような大変さはあるので……」 A子さんは、そう彼女を思いやってみせた。 「じつは主人が、小保方さんについて『研究者には向いていない』と言っていたことがあったんです。でも、彼女にはこうして文章を書く才能があったということなんでしょう。私も、なんとか前を向いて生きていきたいと思います」 そう言って微笑んでいた、A子さん。その瞳は、小保方さんの行く末をどこか危ぶんでいるようにも見えたーー。
2018年04月05日《えっ、小保方さん、めっちゃ綺麗になってない!?》《別人ですよ!》 3月22日に『小保方晴子日記』(中央公論新社)を出版した小保方晴子さん(34)。STAP細胞騒動から4年。小保方さんは今回の自著発売にあたって、雑誌『婦人公論』4月10日号のインタビューに登場した。そこで披露したグラビア写真での変貌ぶりに、ネットには驚きの声が殺到しているのだ。 小保方さんといえば、かねてからそのファッションが注目されてきた。STAP細胞を“発見”して一躍、時代の寵児となった当初は、研究室で白衣代わりに着ていた“白のかっぽう着”が注目を集めた。ベテランスタイリストはこう語る。 「今回の『婦人公論』グラビアで着用していた白のワンピースは、グッチの春の新作で21万3千円。これは、論文ねつ造を指摘された14年4月の反論会見で彼女が着ていた7万6千円のバーバリーのワンピース、さらには16年6月の雑誌対談で着ていた11万6千円のレッドヴァレンティノのドレスをも上回る“過去最高額”ですね」 着ている洋服の値段は右肩上がりだが、彼女の服の好み自体は、以前からあまり変わっていないという。 「世の中から姿を消していた2年前、瀬戸内寂聴さん(95)との対談で久しぶりに姿を見せた際のドレスも、今回と同じ白色。自分は潔白ーーそう訴えるかのような、クリーンで無垢な雰囲気のデザインでした。でも、今回のグッチのワンピースは胸元にフリルやリボンがあしらわれた派手なデザイン。“勝負服”というか、『返り咲いてやる!』といった意欲が見えます。2年前よりも自信が回復したのか、“野望”すら感じられますね」 プロの目にも過去との違いがはっきり見てとれるようだ。今回の著書には、論文ねつ造を指摘されて“どん底”に落ちた日々から、彼女がどうやってここまで這い上がってきたかが、克明に描かれている。日記は、理研を依願退職した直後の14年12月31日から始まるが、当時は一歩も外に出ず引きこもる生活だったという。 《一日に何度も死にたいと思って、気が付けば真剣に方法を考えてしまう日々が続いている(15年1月24日)》(『小保方晴子日記』より・以下同) 絶望の淵に追いやられた彼女は、16年1月に手記『あの日』(講談社)を出版。何を言っても世間が聞く耳を持ってくれなかったと感じていた彼女は、本を書くことで、初めて鬱屈した思いを活字の形で吐き出すことができたようだ。このころから、彼女の生活に変化が現れていく。 《新作の化粧品でテンションアップ(16年1月3日)》 STAP騒動の渦中には、スエットにパーカー姿で、髪の毛を振り乱して理研に出勤していた彼女を本誌も目撃していた。2年前の手記出版をきっかけに、彼女は次第に化粧品やファッションへの関心を取り戻していく。 《白いワンピースを友人が代わりに買って、郵送してくれた。私にウェディングドレスを着る日は来ないと思うから、奮発してこの白いワンピースを買うと決めたのだ(16年4月9日)》 STAP騒動から4年。彼女は、美しい“鎧”をまとうことで、世の中と再び対峙する勇気を得たのだろう。
2018年04月05日今、注目の女の子を紹介する『anan』で連載中の「イットガール」。今回は女優の松永有紗さんです。大舞台のヒロインを演じる運動神経抜群のアクティブガール!8月から公演の舞台『四月は君の嘘』で主演する松永さん。今の心境は?「舞台にも挑戦したいと思っていたとき、原作を読んでいた作品の主演が決まって本当に嬉しいです。大きな舞台は初めてなので緊張しますが、ワクワクしています!」。アイドル、モデルを経験し、現在女優として活躍している松永さんの今後の目標は?「石原さとみさんみたいに、いろんな役にハマる女優になりたいです。具体的には、青春モノの学園ドラマで、特技のバトントワリングが活かせる役を演じられたらいいな~!」派手な小物を集めるのが好き。イヤリング、サングラス、ネックレスなど。古着屋さんでよく購入します。見た目の可愛さで気分が上がるリップ。鮮やかなピンク、オレンジ、赤が多め。今は、ランコムが一番好きです♪空を眺めると、癒されるんです。一駅前で降りて、空を眺めながら歩くのが至福のとき。無心になれます。まつなが・ありさ1998年生まれ。女優の他、アイドルグループ「リンクSTAR‘s」でも活動中。主演する舞台『四月は君の嘘』は8月24日から東京で、9月7日から大阪で公演が始まる。※『anan』2017年8月9日号より。写真・土佐麻理子文・松下侑衣花(by anan編集部)
2017年08月07日手塚治虫が死の縁まで綴っていた日記の一節を原案に映画化をした『トイレのピエタ』。公開を前日に控えた5日(金)、タワーレコード渋谷店にて松永大司監督と杉咲花さんがトークショーを行った。実は今回が初対談ということで、監督から「二人だと嫌だって言われると怖いな」というと、杉咲さんからすかさず「これ、楽屋でも言われたんですけど、本当にやめて欲しいな、って思っています」と突っ込みが。すると監督は監督で、「泣かされたって杉咲が色々なところで言っていますけど、虚像ですよ、虚像!」と報道を否定。それを聞き、不服そうな杉咲さんの可愛らしい姿に、会場は温かい笑いで包まれた。本作では、パワフルな役を演じた杉咲さんだったが、オーディションでの初対面では、びっくりするほど声が小さく「この子はないだろうな」って思ったと監督が激白。とはいえ、芝居をした瞬間からのパワーがものすごく、そのギャップに惚れ込み、1年間オーディションを行ったとはいうものの、即決だったそうだ。一方で、監督との思い出はやっぱり泣かされたことですか?とMCから尋ねられた杉咲さんは「そうですね。泣かされたことですね」と応答。「監督の第一印象は、すごく大きくて、前髪が斜めだな、って…」というと会場からは笑いと拍手が起こり、「おいおい、拍手が起こっているじゃないかお前!」と監督が苦笑。お互い信頼関係を持ちながら、すっかり打ち解けている様子だった。完成作品を観た杉咲さんは「監督からの最高のプレゼントだなと思いました。凄いものに出逢ってしまったからこそ、ピエタを超えるものを創らないといけいと思いました」と絶賛。また本作は、「RADWIMPS」の野田洋次郎さんが映画初主演を務めるということでも話題を集めている。杉咲さんは、野田さんについて「ずっと宏(本作での役名)でした。とにかく冷静で繊細で気がついたらみんなが宏を見ているような素晴らしい方でした」と魅力を話した。小説としても楽しめるこの作品について、監督は「理想は、映画を観て、本を読んで、また映画を観てもらいたいです。杉咲花という少女のようなあどけない時から、女の子に変わっていく貴重な過程を収めさせてもらったので、ドキュメンタリーとしても是非味わって欲しいです」とPRをした。『トイレのピエタ』は6月6日(土)より 新宿ピカデリーほか全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:トイレのピエタ 2015年6月6日より新宿ピカデリーほか全国にて公開(C) 2015「トイレのピエタ」製作委員会
2015年06月05日