神奈川県川崎市にある霊園で、ひときわ目を引く夏らしい鮮やかな花々が供えられた墓。曇天に包まれた6月26日、この日は高島忠夫さん(享年88)の三回忌だ。少ししおれた花の様子から、命日の数日前に供えられたことがうかがえる。芸能界屈指の仲よしファミリーとして知られた高島家。しかしこの日、忠夫さんの妻・寿美花代(89)をはじめ、息子の高嶋政宏(55)と高嶋政伸(54)が墓に姿を見せることはなかったーー。さらに、今も寿美が暮らす忠夫さんの都内の自宅近くに住む住民は本誌にこう打ち明ける。「三回忌当日、花代さんは自宅にいたそうですが、訪ねてきたのは法要のために呼んだお坊さんとヘルパーさんだけだと聞いています。政宏さんと政伸さんは最後まで来なかったそうです」’98年にうつ病を発症し回復後もパーキンソン病を患うなど、病気と闘いながら老衰でこの世を去った忠夫さん。それから2年、高島家は2つの問題を抱えている。ひとつは寿美の“介護”。忠夫さんが亡くなった際、寿美の体調があまりよくないことを本誌に明かした政宏。そして、一部週刊誌では寿美を気遣い、忠夫さんの自宅敷地内にある別邸で夫婦そろって暮らしていることを告白していた。しかし、この2年で“母子同居”に異変が生じているという。「忠夫さんの四十九日法要の際、花代さんは体調が悪く参加できなかったのですが、政宏さんが代わりに切り盛りするなど、そばで支えているようでした。しかし最近は別邸で生活している様子はなく、ここ半年ほどは姿も見かけず、ヘルパーさんが花代さんの面倒を見ている状況です」(前出・近隣住民)そしてもうひとつの問題が、政宏と政伸の確執だ。「かつてはよく家族4人で共演していましたが、’13年を境に政宏さんと政伸さんの共演はゼロに。兄弟共演のオファーがあっても2人ともかたくなに断り、事務所の懇親会で同席しても会話すらしなかったそうです」(芸能関係者)忠夫さんが亡くなる少し前、政宏は本誌に「兄弟って本当にいろいろ難しい」と打ち明け、逝去後のイベントでも「確執はあります」と“公認”する事態に。そして、2人の兄弟共演はいまだにないまま……。■「母とは半年以上会えていない…」忠夫さんという大黒柱を失ったことで、高島ファミリーは散り散りになってしまったのだろうか。真相を確かめるべく、三回忌から数日後の7月初旬。本誌は政宏に話を聞いた。ーー三回忌当日、なぜいらっしゃらなかったのですか?「26日は仕事でどうしても無理だったのですが、三回忌法要は日にちを過ぎてからではダメなので、23日にお墓参りをしました。お墓を奇麗に磨いて、僧侶の方にお経も上げていただいています。そのうえで、当日にも実家でお経を上げてもらうようお願いしました」大雨の中、傘を差しながら淡々と答える政宏。現在も“母子同居”を続けているのだろうか。「実は、母とはコロナのせいで泣く泣く離れている状態なんです。今は仕事で撮影現場に行くたびにPCR検査をしているような状況ですし、その場では陰性でもいつ感染しているかわからないじゃないですか。母も高齢ですから、万が一のことを思うと心配なので離れて暮らしています。もう半年以上も会えていませんね……。家には介護スタッフさんに来ていただいているので、おかげさまで母もたまに散歩に出るくらい元気にしているようです。電話でしょっちゅう話していますし、いまのところは安心しています」コロナ禍で“涙の家族別居”を決断していた政宏。政伸との仲についても尋ねると、頭を抱えながら、語り始めた。「うーん、連絡は取ってないんです。政伸も仕事が忙しいし……」ーー三回忌でも連絡は取り合わないんですか?「うちは元々、昔からそれぞれが“個別”っていう考え方なんです。いまはお互い家庭を持つ身ですし、そっちの生活がメインですから余計にですね。実家の仏間に集まるのも、うまくスケジュールが合えば、くらいの感覚。母とも政伸の話は一切していません。でも父の生前はほとんど集まることもありませんでしたが、今はお坊さんのことで集まったりするようにはなったんですよ。そこは兄弟家族、気持ちはわかっているつもりです」そう言って仕事に向かった政宏。天国の忠夫さんも残された妻のために兄弟の連携を望んでいるに違いないーー。
2021年07月08日8月13日、川崎市にある霊園で住職の読経が響きわたっていた。この日、高島忠夫さん(享年88)の四十九日法要が営まれていたのだ。墓前で手を合わせていたのは、高嶋政宏(53)と親戚と思しき数人。弟の高嶋政伸(52)は仕事だったのか不在で、代わりに妻が参列していた。だが、忠夫さんに寄り添い続けた妻・寿美花代さん(87)の姿はなかった――。さかのぼること約2時間前。都内にある忠夫さんの自宅では、喪服を着た人たちが集まっていた。食卓を囲んでの思い出話に花が咲いたのだろう。途中、政宏が参列者にふるまうお酒を買い足しに行く一幕もあった。「自宅には、忠夫さんと仲の良かった人たちや事務所関係者が集まっていたそうです。妻の寿美さんもいたそうですが、もう高齢ですからね。この猛暑のなか、外に出るのは心配です。そのため、お墓までついて行くことは断念したのです。夫を亡くした悲しみも、まだ癒えていないのだと思います」(芸能関係者)寿美さんは忠夫さんが6月26日に亡くなった際も、ショックのあまり火葬場へ行けなかったという。当時、政宏は本誌の取材にこう語っていた。「落ち着いていたように見えた母ですが、父を失ったのはつらかったのか、火葬場には来なかったんです。『火葬場には行けない、行きたくない』と。『(亡きがらを)焼くのは、物質的なことにすぎないから。お父さんとは気持ちと気持ち、心と心がつながっているのだから、家でお父さんのことを思っている』、そんなことを言っていました」政宏はその後、母との距離をこれまで以上に縮めていたようだ。一部週刊誌で、政宏は寿美さんとの“母子同居”を告白。忠夫さんの自宅敷地内には2つの戸建てがあり、片方に寿美さんが住んでいる。そして、もう片方に政宏夫妻が暮らし始めたのだという。そんな彼はこの日も母のかわりに、最後まで切り盛りしていた。照りつける太陽のもと、読経は10分ほど続いた。日差しよけのパラソルがあるものの、かなりの気温。だが政宏は静かに目をつぶり、手を合わせている。それが終わると住職にお礼を告げ、年配の関係者らを駐車場まで連れていく。そして車に乗ると、再び寿美さんの待つ自宅へ戻っていった。大黒柱なき後も 高島家を支え続ける息子。その姿を、天国の忠夫さんは喜んでいるはずだ。
2019年08月21日高島忠夫さんが老衰のため6月26日に死去したと発表された。88歳だった。高島さんは51年に新東宝第1期ニューフェイスとなり、52年の映画「恋の応援団長」でデビュー。62年の「キングコング対ゴジラ」などの「ゴジラ」シリーズや96年の朝ドラ「ふたりっ子」(NHK総合)への出演でも知られている。また「クイズ・ドレミファドン!」(フジテレビ系)などのクイズ番組で司会を務め、「ゴールデン洋画劇場」(フジテレビ系)では映画の名解説が評判を呼んだ。私生活では63年に寿美花代(87)と結婚し、70年から96年まで料理番組「ごちそうさま」(日本テレビ系)の司会を夫婦で26年間担当した。また65年には次男・高嶋政宏(53)が、66年には三男・高嶋政伸(52)が誕生。2人はともに俳優の道を選んだため、“高島ファミリー”としてお茶の間で親しまれた。各メディアによると政宏は「母曰く最後は眠るように旅立っていった、のがせめてもの救いです」とコメントし、政伸は「穏やかな最期を迎えられましたのも、長きにわたり父、高島忠夫を応援して下さった皆様のおかげだと思います。心より感謝を申し上げます」と感謝しているという。高島さんは90年6月には本誌に登場。“高島ファミリー”の活躍ぶりに「皆さんに“息子さんがご活躍でいいですネェ”と言われるんです」「政宏も政伸も、もう最高の親孝行をしてくれています」と語っていた。公私ともに順風満帆だったが、晩年は病と闘い続けた。パーキンソン病を患い、10年には不整脈で心臓のペースメーカーを付ける手術も受けたという。98年には「うつ」を発症。その闘病記「『うつ』への復讐」はドラマ化するほどの反響を呼んだ。07年2月、本誌で高島さんと寿美はその苦しみを語っている。高島さんの「うつ」が特にひどかった当時、寿美は高島さんの自殺を恐れ「家中の刃物をすべて隠し、風呂の水は必ず抜いた」という。経済的にも追い詰められ、「お金も地獄、病も地獄」と回想。さらにこんなエピソードを明かしていた。高島さん(以下・高)「それまではお金のことは全部、ぼくと税理士さんでやってたからね」寿美(以下・寿)「どこにいくらあるかもわからない。通帳さえ見たことがなかったから」高「うつのせいなんでしょう。ボーッとした頭である日“家には一銭もお金がない”“借金がある”って突然思い込んでしまって。みんなにそう伝えてね」寿「そうそう。私も“家、売らなあかん”って本当に心配した。いまさら街角に立ってみたところで、もうどうしようもない年だし(笑)」そんな高島夫妻を助けたのはやはり“ファミリー”だった。政伸が銀行を周り「あそこの銀行に口座があった、こっちにもあった」とお金を見つけ出してくれたという。家族に支えられ、「うつ」に立ち向かった高島さん。寿美も「私自身も本当に辛い時期がありました。頑張りすぎてストレスがたまって」とサポートする苦しみを明かしていたが、離婚については「そんなこと、考えたこともないです」と語った。さらに「介護は財産だった」とも明かしている。寿「『ごちそうさま』を26年やらせていただいて、私がしゃべったのなんて数えるほど。それぐらい忠夫さんは、よくしゃべってた」高「この人、横で頷いてるだけでしたよ。それがいまや、僕の代わりに仕事して、税金のことも家のことも全部やって。ホントに感心します」寿「生まれ変わったのかもね(笑)。それぐらい、介護の経験は私のすごい財産になりましたから」高島さんが「いまの家内だったら、ぼくが死んでも平気ですよ」と話したところ、「いや、それはこたえる。やっぱり忠夫さんがいての私なんだから。1人になったら、それこそ私の方がうつになってしまうかもね」と語っていた寿美。そんな彼女を高島さんは、これからも空から見守ることだろう。
2019年06月28日俳優の高島忠夫さんが26日に老衰で亡くなったことを受け、次男で俳優の高嶋政宏、三男で俳優の高嶋政伸が28日、所属事務所を通じてコメントを発表した。忠夫さんは26日の13時1分、自宅にて息を引き取った。88歳だった。通夜・葬儀告別式については、妻で女優・寿美花代の「最期は家族で見守りたい」という希望により、27日に家族のみで密葬を執り行った。お別れ会などの予定はないという。■高嶋政宏病院からの、あと5分後にご家族集まってください!のエマージェンシーコールが頻繁にあるようになったのが2年前。その度に全身が総毛立つような感じにはなりましたが、ここ数カ月、寝たきりの状態が多くなり、呼吸も弱まり、母曰く最後は眠るように旅立っていった、のがせめてもの救いです。マスコミそして父のファンであった皆様、報告が遅くなりましたことお許しください。ありがとうございました。■高嶋政伸父は、最後まで明るく良く通る声で笑ったり、話したりしながら、大好きだったフリオの歌声に包まれて、本当に穏やかに旅立ちました。このような穏やかな最期を迎えられましたのも、長きにわたり父、高島忠夫を応援して下さった皆様のおかげだと思います。心より感謝を申し上げます。
2019年06月28日---------------------------------------------------------------------------初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○自転車でおいでよ有給休暇をとって自転車に乗り、自宅から数キロ離れた実家に程近い銀行支店へ行き、大学と大学院、あわせて6年間分の学費ローンを繰り上げ返済した。修士課程修了から10年、34歳までかかる予定だった借金の完済を30歳で達成したお祝いに、近所の店で一人、アイスレモネードを飲んだ。そんな一日の感慨をブログに綴ったのが、2010年9月のことである。同じ話を繰り返して書くつもりはないのだけれど、この「貸費奨学金として機能する教育ローン」という仕組みは、私の20代を本当によく支えてくれた。たしか、途中で退学したり前科者になったりすると即刻全額返済という規定があったのだ。卒業と同時に月々の返済が始まるので、よほどの一攫千金がない限りは手堅く就職するのが無難だろうとも思うようになった。こうした「枷」がなかったら、どこまで道を踏み外していたことか。「この世に自分ほど信じられんものがほかにあるか!」は横島忠夫の金言にして私の座右の銘だが、自分と違って、お金は裏切らない。諦めが早く怠惰な自分と違って、どこまでも謹厳実直かつ執拗に私を追いかけてくる。たかが数百万、されど数百万。当時、生では見たこともない桁の金額だ。完済予定日に書き込まれた「2014年」という想像もつかない遠い未来。19歳当時の私は真剣に、34歳までに自分が死んでいるか、地球が滅びている可能性のほうがずっと高いと思っていた。どっこい生きてる、30歳。10代のとき買ったTシャツを着て、10代のとき住んでいた町の銀行通りで、すっぴんに汗だくでアイスレモネードを飲んでいる。あの頃と何も変わらないのに、今日からはまるで大きく違う。借金から解放されるこの喜びは、借金を背負ったことのない人には、きっと理解できないだろう。お金が私を縛り、お金が私を戒め、そして今、お金が私に新たな自由をくれた。さっき実印を捺した書類一枚で長年の定期預金はすべて消え、次の給料日まで文字通りの残高ゼロだが、引き続き定職には就いているし、またコツコツ積み立てていけば、スイス製のちょっといい自転車を買える程度の余裕はある。さて、次に何をしようか。○台湾はあまりに遠し倹約家というわけでもないが、浪費家というわけでもない。ものすごくお金のかかる特別な趣味を持っているわけでも、習い事をしているわけでもない。オタクだから金遣いが荒いようにも見えるが、他の同年代の女性がファッションや美容に注ぎ込む金額を思えば大したことはないだろう。それで、今までの月々の学費返済と同じだけ手元に残るとしたら、私は何ができて、何をしたいと思うのだろうか。最初に思いついたのが、「旅に出たい」だった。当時よく飲み歩いていた街の安居酒屋は、どこもかしこもトイレの個室にピースボートかワーキングホリデーかその両方のポスターがべたべた貼ってあった。あれは本当に賢いプロモーション戦略だと思う。とくに目的もなく生き、どこにも身の置き場がなく呑んだくれている若者の、泥酔した脳への刷り込み効果は絶大である。海外への一人旅をしたことは一度もなかった。父親の定年祝いで家族旅行したのが最後、場所はインドネシア・バリ島のリゾートで、帰省しての家族サービスと大差なかった。スケジュールも実家任せ、出発前日まで校了で慌ただしくしていた私は、渡航先を「パリ」と勘違いして荷造りしていたくらいだ。実家に変圧器が要るかと問い合わせて発覚したのだが、パリとバリは電圧が同じだったりする。ともあれ、手始めに、一人で台湾へ行こうと思った。台湾を舞台にした小説を読んで以来ずっと興味を持っていたし、高速鉄道の開通後、ちょっとしたブームが起きて雑誌の特集などもよく組まれていた。行ってきた人たちが口を揃えて熱っぽく魅力を語り、その多くが気軽な一人旅であることも背中を押した。会社には夏期休暇の申請を出し、ガイドブックをいくつも買い込んで、仕事の合間にうきうき眺め、印をつけたりもした。ところが結果的にこの旅は実現しなかった。どうしても外せない用事が入ってしまったのだ。一緒に働いている人々から、大変申し訳ないが夏期休暇は数日ずらして取ってほしい、と頼まれて、実際そのようにした。たいした料金でもないのにバカみたいに早くから取っていた割引チケットは無駄になり、ホテル代なども含めると、正規料金との差額より高いキャンセル料が発生した。有楽町の交通会館の前で、歩きながら携帯電話で旅行会社とやりとりをしたのをよく憶えている。真夏日だったが、せいぜい6月か7月初旬だろう。ランチタイムのOLはみんな日傘を差していて、私だけ手庇で直射日光を避けつつ、アスファルトからの反射熱に焦がされていた。台湾の夏はもっと暑いと聞く。行きたいな。仕事だからしょうがないけど。電話口で「ご予約の取り直しをなさいますか?」と尋ねられ、私は「いいえ、結構です」と答えた。数日遅れて本当に夏期休暇が取れるなら、その日の朝に正規料金を握りしめて乗れる飛行機に飛び乗って、それで台湾に行こう。そうすればいいんだ、私にはお金があるんだから、労働組合であれだけ闘争した甲斐あって、ボーナスだって入るんだから!結局そんなことはせず、その年の夏休みはクーラーの効いた自宅の部屋に閉じこもり、漫画を読みDVDを観ていつものようにダラダラ過ごした。お金があっても時間がない。時間があっても管理できない。遊びに出かける気力もない。そしたら私、ずっとこのまま、こうやって生きて死ぬんだろうか。幻に終わった一人旅が私にもたらしたショックは、旅先で受けたであろうカルチャーショックより、ずっと大きかったと思う。○仕事は、お金のため、ならずもちろん、こんなことで会社を辞めたわけではないけれど、会社を辞めようと決めた際、このときのこともよく思い出した。「私はいったい何のために働いているんだろう?」という自問を繰り返すようになったのは、入社時からずっと志望していた編集部に晴れて転属となって以降のことだ。私の望みは、出世もせず転職もせず、同じ職場環境でずっと自分の好きな本を作り続けること、それだけだった。独立や起業の夢を語る同世代の話も、自分とは無関係な遠い出来事として聞き流していた。なぜなら私の望みはすでに叶っているから。あとはこれを定年退職までしぼませないように、さらに大きく素敵にふくらませていくだけだ。「本当に?」と問われたら、YESと答える自信があった。「では、何のために?」と問われると、途端に足元がぐらついた。「決まってるじゃん、働くのは、お金のためにだよ」ときっぱり答える友人たちがいた。妻子や親を養っていたり、開業の準備をしていたり、あるいは、テストの点数を競い合う学生と同じ感覚で「35歳までに2億!」などと目標を掲げていたり。私よりずっと大きな借金を抱えている友人も少なくない。学費を払い、クルマや家を買い、先祖代々の負債を肩代わりすればそうなる。彼らの姿を見て、私はもはや「お金のため」という動機を失ったのだと思った。とっとと手放せて喜んでいたはずが、ひとたび消えると、私はそれ以外に動機なんか持っていなかったんじゃないか、と不安になる。仕事終わりにジョッキで生ビールを呷り、「この一杯のために生きてる!」と言う人がいた。私は違う。「好きな仕事に就けているのなら、些細なことに文句は言わずぐっと我慢できるはずだ」と言う人がいた。私は違う。「名の知れた企業で正社員という肩書きを得て、それだけでも羨まれる時代なのに、贅沢な悩みですねー」と鼻で笑う人もいた。私はそうは思わない。自分で決断して、自分で選択して、自分なりに納得していたはずのことを、まったく納得できていないどころか、一番大事なところに今までフタをして生きてきてしまったのではないか? と考え始めると止まらなくなった。そのフタには、19歳の私の筆跡で「お金のため」と書いてあり、横には丁寧に実印も捺してあったのだろう。でも、ぶっちゃけそこまで困窮しているわけじゃないし、めちゃくちゃ高給取りなわけでもない。時給換算で単純比較すればウェイトレスや家庭教師のアルバイトをしていた学生時代とそう変わらない稼ぎ方で、その極めて非効率な職種を好きで選んだのは私自身であり、そして、そんな状況にあっても学費くらいなら払い終えることができた。「お金のため」ならいくらでも阿漕になればよかったものを、私にはもうそのフタもない。といって現状、自由気ままな一人旅にさえ出られない。しかも私を縛っているのは、目の前にある仕事の忙しさなんかじゃないことは明白だ。独り身で健康で、好きな仕事をして週末は寝て過ごす時間もあって、こんなにどうにでもなりそうな人生なのに、実際にはまったくどうにもならない、ように思える。なんでだ!?○帰りたくなる旅転職の誘いを受けたのは31歳のときで、リスクは増すが、年収は今と同程度という条件だった。実際に会社を移ったのは32歳になってからで、その前後にあちこち旅をした。退社から入社までの二週間は、ニューヨークへ行った。一冊目の本(『ハジの多い人生』)に書いたので、同じ話を繰り返すつもりはやっぱりないのだけれど、「私はこのために生きて、死ぬんだな」という実感が得られた、初めての海外一人旅だった。両手で一度に運べるだけのカバンを二つ持ち、ラブホテルを改装したような安宿に連泊し、日中は町をうろうろ歩き回り、昼食と夕食は必要最低限にして朝食と観劇にだけうんとお金を使い、下着は手洗いしてワンピースはランドリーに出し、靴を履きつぶして量販店でまったく違うかたちの靴を買い求め、降りる駅を決めずに長距離列車に乗って郊外へ出かけ、たまたま来ていた周遊バスに運ばれて時間を忘れては慌ててタクシーで目的地へ引き返し、気に入った場所があれば腰を下ろして、日が暮れるまで日記を書いていた。傍目には貧相な旅だが、私には贅沢な旅だった。「この瞬間のために生きてる!」といった類の派手な喜びはなかったが、「地球のどこに生きても、このくらいの暮らしが保てるようでありたい」と思った。小遣い帳をつけるのは三日で放り出したが、途中で資金が尽きることもなかった。できないこと、諦めたこともあるが、やってやれなくもなさそうなことは全部やり、ごくごく個人的な満足を得た。ニューヨーカーの知人はたくさんいるのに、結局、誰とも会わなかった。会えなくて寂しいとも思わなかった。何よりの収穫は、「あー、日本に帰りたくないなぁ」と思わない初めての旅だった、という点だ。むしろ「帰ったら、私は私の仕事を頑張ろう」なんて、殊勝なことを幾度も考えたりする旅だった。たとえば傍らに旅の友、気心知れた話し相手がいたら、とてもそうは思わなかっただろう。旅先の景色が二倍美しく見えるぶん、惜しむ気持ちもそれ以上に増えて、暴飲暴食と解放感で日頃のストレスを晴らしただけ、帰国後は余計に落ち込んでいたに違いない。子供の頃から「一人になる」のが好きで、人生に占めるその割合を、なるべく増やせるようにと思って生きてきた。ただそれだけのことだったと気づくのに、30年以上かかってしまった。「私はいったい何のために働いているんだろう?」という問いかけへの答えはまだ保留中ではあるが、お金を稼ぎ、時間を作り、縛りや戒めを一つ一つ解いてゆきながら、自分の答えを見つめ直すことはとても大切だ。あの旅を境に、「一人になるため」が、私の暫定の回答となった。<今回の住まい<31歳で転職を決めた、とあるのは2011年のこと。3月11日の東日本大震災の揺れは、東銀座で受けた。その日の予定をすべて切り上げて会社へ戻り、テレビで津波の映像を見て言葉を失い、銀座の店に行列してスニーカーを買って、支給されたヘルメット片手に数時間かけて徒歩帰宅した。間取り1Kの部屋では雪崩のように本が崩れ、ベッドの上にも散乱していた。眠っている間に書架に押し潰されてもおかしくないと思った。6月には同じ町の2Kの賃貸へ引っ越して、書斎と寝室を分けた。できることは、すぐやろう、後悔しないうちに。怠惰な私でさえそう思う出来事だったのだ。一人旅は実現しなかったが、新居でダラダラ過ごした。そんな夏だった。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2015年05月22日