発達障害=天才?「凡庸な自分」も「息子の存在そのもの」も肯定する――才能探しに苦しんだ小学時代に出あった言葉と、いま願うこと
ポジティブでもネガティブでもなく発達障害を受け入れる私が抱く、「発達障害児者=天才」説への強い違和感
日頃から方々で申し上げているが、私はとても凡庸な人間である。発達障害があるという点ではマイノリティであり、その特性によって失敗をしたり、罪悪感に苛まれるなどの悩みはあるが、平々凡々に生きている。「発達障害があったっていいことがない!」と嘆き続けているわけでもなければ、「特性は強み!ポジティブに捉えていきましょう!」などと啓発する気もない。
「まあ、厄介事はいろいろあるけど、発達障害がなければ人生イージーモードとも限らないし、なければないなりの悩みもあるでしょうよ。これが基本設定なのだし、どうにかやっていくしかないよね」というのが、私のスタンスである。いつでもポジティブではないが、ずっとネガティブでいるわけではない。
この辺りの考え方は「いつでもポジティブ」から「ずっとネガティブ」までの幅があって、度合いは人それぞれ、どれが正しいという話ではない。もちろん、「いつでもポジティブではないが、ずっとネガティブでいるわけではない。
揺れがある」という私が中庸だとも思わない。一口に発達障害と申し上げても、十人十色というわけだ。
以前もそんな話をコラムに書いた。
ところが、なぜかそれを許してくださらない方が時折いらっしゃる。
例えば、息子には発達障害があると私が明かしたとき、
「え、じゃあ今から何か習い事をさせたほうがいいんじゃない!?そういう障害がある人って、常人にはない特別な才能があるっていうし、今のうちに伸ばしてあげないと!」
などとアドバイスをくださる、いわゆる「発達障害児者=天才説」支持者である。
息子の持てる才能を伸ばすにしても、なぜ本人が希望しているわけでもない習い事をさせにゃならんのだなど、突っ込みたい点はさまざまある。しかしそれ以前に「ハンディがあるのだから、それぐらいのアドバンテージがないと不公平。かわいそう」という考えが根本にあるのだと、会話の端々から分かるので、真面目に返答する気になれない。
「本人が望んだら考えるけどね」
「えー!もったいない!せっかく天才になれるかもしれないのに!」
(天才はなろうとしてなれるものじゃないし、息子はこのままでも最高なんだ。ほっといてよ)
との言葉をグッと飲み込み、私は曖昧に笑うのだった。