2020年6月16日 09:10
勉強ができることは「勝ち組へのパスポート」 ではなかった――生きづらさから傲慢だった発達障害の私。就活挫折と仕事での苦難から気づいたこと
勉強ができる=仕事ができる=人生は順風満帆 ではなかった
誰かが「勉強ができる」ことは、その誰かが「たまたま勉強において好成績をとるのに向いた特性を持っている」ことを表すにすぎません。
仕事や生活では、体力やコミュニケーション能力、応用力や瞬発力、マルチタスク能力が要求されたり、ジェネラリストであることが求められることも多くあります。勉強がよくできても、仕事や生活管理がうまくできるとは限りません。勉強のできる発達障害者の場合、こうした本人内での凸凹が大きいので、「勉強はできても仕事はできない」ということが十分起こりえます。
しかし、大学時代、就活をしていた当時の私は、自分に発達障害があるとは気づいていませんでした。自分の中で能力の凸凹があるという自覚もありませんでした。新卒採用の面接で落ちまくったり仕事がことごとくうまくいかなくなったりするようになるまで、勉強ができる=仕事ができる=人生は順風満帆 だと思いこんでいたのです。
勉強ができる=本人の努力のおかげ、でもない
勉強の成績には、本人の生まれ持っての特性や努力だけでなく、育つ環境も大きく関わっています。
たとえば、本人にポテンシャルがあったとしても、家庭が勉強に集中できる環境でなければ本来の力が発揮できないでしょうし、逆に、家庭に教育にコストをかける十分な余裕があれば、本人の力を最大限に引き出すことができるでしょう。
また、誰かのある能力が「〇〇ができる」と評価されるのは、その能力が運よくその世相で価値があるとされるものであるからにすぎません。たとえば、現在天才物理学者とされているアルバート・アインシュタインも、たまたま世で価値があるとされる物理理論を発見したからこのような評価を得ていますが、あの発見がなければ、あるいはあの理論が世から価値あるものとして見いだされなければ、彼はもしかしたらただの変わった人として扱われていたかもしれないのです。
こうしたことは勉強の成績だけの話ではありません。人からの「◯◯ができる」という評価には、育つ環境や世相といった運が大きく関わっているのです。生活上おおよそすべてのスキルについて、何かが人よりできることに傲慢になってもいけないし、何かができないことについて本人の努力の問題にしてはいけないと、私は思っています。
勉強ができることに対する嫉妬や差別での苦労
私は、「勉強ができること」