「指導者ではあるけれど息子にサッカーを教えたことはない」昌子源選手の 父・昌子力さんが実践していた子どもへのかかわり方とは
というのは、私も仕事柄プロを目指していた子がドロップアウトしてしまうのを過去たくさん見てきましたから、我が子もあんなふうになるぐらいだったら、もっと気楽に生きたらええんちゃうか、なんていう気持ちがありました。
それでサッカーを一旦辞めたのですが、そんなときに私がインストラクターを務めていたB級ライセンスの受講生に米子北高の中村真吾コーチ(当時、現監督)がいて、城市徳之監督(当時)が大阪体育大学の後輩という縁もあって、米子北高の練習会に参加させてもらったんです。
本人も久しぶりにボールを蹴ったこともあり、帰ってきた息子の表情は久しぶりに見る晴れやかな顔でした。数日後、本人が「俺、米子北に行くわ!」と言うてきたのでに行かせることにしました。米子北はかなり校則、躾が厳しい学校であったことや、寮生活を通して自主自立を育てられたと思います。
また、ある程度ボールを扱える子がいても、攻守の切り替えの早さや連続したプレーを求めるチームスタイルで、加えてそれを徹底させていく強さのあるサッカー部でしたから、体力も根性もついて、あの子にとっては足らないものを補ってもらえてよかったみたいです。
■子どものサッカーに対して何も言わなかったことが何よりの指導だった
そこで何か物事が私の中でもスーッと1本に繋がった感じがしましたね。小さいときはやっぱりスキルをキチンと身につけて、15歳から17歳ぐらいで持っている技をより早く強く連続して発揮できるように持っていくのが絶対に必要だなと思いました。
結局、源にはちょっとした身体能力があったかもしれないけど、あの子の実践するサッカーに対して何も言わなかったことが、何よりの指導だったんやと思っていますよ。
あの子が自分で失敗をして自分でケツを拭かなあかんような環境に入ってこそ、これをやったらあかんのやな、ここまではええねんな、とかが理解できたようでした。
■いつも何かに頼る環境にいると成長できない
その後、鹿島アントラーズに加入してからのあの子を観て一番驚いたのは、喋れる選手になったことですね。実は中3のときに彼の持つ正義感に驚くことがありました。それを元々持っていたのか、そのときに芽生えたのかは分からないですけど、そういうことと相まって、色々な経験したからこそ自信を持って物を言えるんだろうなと。頼りないと思っていた子だったのに、インタビューでもちゃんと答えたり、自分の思いを言葉にしたりできるようになっていました。