桜は儚いからこそ美しいというのであれば、人の一生はもっと美しい
心臓の発作でした。
ふたりで見上げたあの日と変わらない風景。でも、隣にいた人間が消え、「私の景色」は変わってしまった。儚いといわれ、散った桜でさえ咲いているというのに、なぜ自分だけがこんなことに……!
私は、憎悪にも似た負の気持ちを覚えかけ、同時に自らを悔いました。そして、ふと気づいたのです。
ああ、そうか。桜は儚くなんかないんだ。
発作について「発症後の1分以内の致死率は9割」と知らされました。
たった1分。美しい言葉を借りていえば、人は1分でその人生を散らすことができ、二度と咲くことはないのです。
しかし、桜は季節が来る度、幾度となく花を咲かせる。
いつか思い描いたように、自分たちの子ども、孫の世代までも。きっと、この先私がいなくなってもずっと。儚いのは桜ではなく、人の方。桜は儚いからこそ美しいというのであれば、人の一生はもっと美しい。
“儚い”という字は“人の夢”と書くように、桜がつかの間の美しさというのは、人の夢……まぼろしなのかもしれません。
とはいえ、人の一生は美しいから精一杯、前向きに生きようよ!と、達観した者の視点に立つのではなく……私は、ただ、毎年春になると、はらりと舞い落ちる花びらを手のひらで受け取るように、桜からの言づてを感じてみるのです。