愛知県名古屋市栄の「ポスト宗春」は、倹約ブームへの静かなる反発か!?
がさめた」とまで言われたらしい。
当然、突如現れたインドのマハラジャのような宗春のパフォーマンスを、江戸の吉宗が黙っておくはずがない。
吉宗は使者を通じて再三にわたり、スタイルを改めるように迫ったという。
しかし、宗春はあらゆる言葉を使い、これまた徹底的に反論したのである。
だが、この開放政策も終わりをつげる。
開放し過ぎたゆえに風紀が乱れ、加えて藩の借金増といった宗春財政のマイナス面が噴出するようになる。
それを待ち構えていたかのような江戸幕府一派の後押しもあったのかもしれない。
クーデターが突発して、宗春は元文4年(1739)に44歳の若さで失脚して蟄居(ちっきょ)謹慎を命じられた。
これにより、「尾張の開放政策」は最期を迎えた。
現代人の彼に対する評価は様々だ。
批判する者も多いが、支持派はインテリ、庶民を問わない模様。
それは単純に、「あの将軍・吉宗にたてつき、名古屋を盛り上げたリーダー」という理由だけではない。
当時にしては珍しい、日本人らしからぬ大胆な統治スタイルに支持が集まっているのだ。
例えば、政治家だけでグループを作ることなく、力のある商人との対話を積極的に行い、地域を活性化したこと。