桂文枝が明かす母との生活「子どもの頃の運動会はイヤで…」
戦後の焼け野原や食糧難、闇市--そういった“生きる必死さ”とは無縁な生活でしたね」
しかし5歳のとき、そんな生活が一変する。
「大阪市内の小さな製材所の3畳一間に、母子2人で暮らすように。母は、叔父の知人だった製材所の社長さんに雇ってもらい、事務作業とまかないの仕事をするようになりました」
だが数年後、製材所は材木街を襲った大火事で全焼してしまう。今度は母の兄の家に身を寄せることになった。
「おっちゃん(母の兄)の家は本当に粗末で、いわゆるバラックでした。そのころ母は、月曜日から金曜日まで料理旅館に住み込みで働き、土曜日になると帰ってくる生活でした」
当時母は30代前半。文枝さんはそのころの母をこう振り返る。
「小学生の私と2人で暮らそうと思えば、安アパートを1部屋借りて住むこともできたはずですが、母はそうしなかった。
おっちゃんにわが子を預けて、“女の人生”を謳歌したい時期でもあったんでしょう。週末の夜遅くに帰ってくる母は化粧や酒のにおいがして、すごく嫌だった記憶がある。母を遠くに感じたものです。その後、母は再婚するのですが、私は最後まで猛反対しました。彼女からすれば、“母ひとり子ひとり”の人生に疲れたのかもしれませんが、当時の私には納得できませんでしたね」