高田賢三さん「エーゲ海に散骨を」きょうだい会議で追悼計画
そのとき、賢三から『軽井沢に別荘でも買おうかな』と相談を受けて……。だから私は『デザイナーとして成功したいなら、フランスへ行きなさい!』と叱りました。そのほうが、絶対に将来のためになると思ったんです」
姉の叱咤もあり、賢三さんは船で渡仏。KENZOブランドを設立し、世界へと羽ばたいていった。
しかし’90年には信頼するパートナーと死別し、経営は次第に悪化。’93年には、ブランドを手放すことになった。それでも、実弟・紀年さん(79)は当時をこう振り返る。
「私は、あの時期に会社を手放せてよかったと思っているんです。
というのも、経営者だったころの兄は、好きな仕事だけに打ち込むわけにはいきませんでした。でも、晩年は一人のデザイナーとして自由に生きていたんです。
衣服以外のデザインをしたり、油絵に挑戦して個展を開いたり。思いのままやりたいことをやって過ごせていました。それは、兄がもっとも求めていたことでした」
今でも年に1度は食事会などを開き、必ず顔を合わせていたという高田家のきょうだいたち。紀年さんは遺骨が日本に帰ってきた後、こんな“追悼プラン”を思い描いているという。
「正直、今後のことはまだ何も決まっていません。