母が3月に逝去…新田恵利さん「母は最後に『ありがとぉ』と」
死については親子ですでに話し合っていた。’00年にひで子さんは尊厳死協会に入り、延命治療をおこなわない方針も決めていた。
「これ以上の病院での治療は望まず、母の希望どおり、在宅で看取ることにしたんです」
母の願いは極力かなえてあげることにした。食べたいものを聞くと、指を2つ立てて「ホタテ2貫」と言った。兄が好物のホタテのすしを買いに走った。今年の正月には雑煮に入ったおもちを1個食べることができたが、2月からは固形物をほとんど受け付けなくなった。
少しずつ、命の炎が小さくなっていくひで子さん。会話も、「お水」「ジュース」など、単語だけのやりとりとなっていった。
「でも、母は、最後までやっぱり母なんですね。兄や私を『もういいから休みなさい』って、気遣ってくれるんです」
穏やかな親子の時間が流れ、3月23日が訪れた。
「朝、様子を見にいくと口呼吸で、ぜえぜえいって苦しそうにしているんです。声をかけても目を開けるのがやっとで……。その日、ラジオの生放送があったんですが、お休みをいただきました」
午前中、ベッドの両サイドで、新田さんと兄が、ひで子さんを挟むように見守った。遠のく意識の中でひで子さんは、何かを伝えようと口を開けた。