初代は破門、三代目の反骨心が生んだ「スーパー歌舞伎」…猿之助4代150年の明と暗
“学校に通った最初の役者”とも言われている二代目市川猿之助(写真:アフロ)
四代目市川猿之助による心中事件から約2カ月、いまだ歌舞伎界の激震は続いている。子供が老いた両親を……、そんな悲劇とともに、人々の記憶に刻まれることになった屋号「澤瀉屋(おもだかや)」。彼らは傍流であるがゆえに、常に革新を求め続けなければならず、ときには邪道と批判されることもあった。四代目が襲名するまで、「神様にも等しい」と憧れていた“猿之助”という名跡の宿命をあらためて振り返る。
掃除の行き届いた大きな墓には、白菊などが数本供えられているばかりだった。東京・上野にある寛永寺。その敷地の一角にある墓石に刻まれているのは「喜熨斗累世墓」の文字。
「喜熨斗(きのし)」は代々、歌舞伎俳優を輩出してきた一家の本名。
この墓に二代目市川猿之助やその子、三代目市川段四郎らが眠っている。
だが突然死去した四代目市川段四郎さん(享年76)と妻・延子さん(享年75)、2人の遺骨は2カ月近くが経過したいま(※7月6日時点)も納められてはいない。そのためか四十九日にあたる7月5日も冒頭のような寂しい様子だった。
両親とともに、長男で澤瀉屋の看板俳優・四代目市川猿之助(47、以下四代目)