当時千代田区猿楽町にあったぴあから歩いて5分ほどの場所にあった「山の上ホテル」に、筆がなかなか進まない大森監督を作家先生よろしくカンヅメ状態にして、編集者の私と二人三脚の突貫工事で執筆・編集をしたことが昨日のことのように思い出される。
『MAKING OFオレンジロード急行』(ぴあ刊)表紙イラストは及川正通さん
大森監督との出会いから始まったPFF(ぴあフィルムフェスティバル)
1980年、第4回から名称をPFFと変えた映画祭の公募部門「オフシアター‘80」(88年からPFFアワード)で、大森監督に最終審査員に加わってもらった。大島渚、大林宣彦、長谷川和彦といった面々に、若き大森一樹と原将人が参画したのである。この年の応募数は490本、入選には黒沢清、松岡錠司、利重剛、緒方明監督らが名を連ねた。
以後、彼は現在の審査員システム(毎年5名の交代制)に変わる1988年まで最終審査を担当してくれた。
1981年12月 PFF2次審査会場でのスナップ。奥に大森監督。大島渚、大林宣彦、長谷川和彦監督の顔も見える
大森監督と最後にあったのは、数年前に文化庁芸術祭テレビ部門の審査員をやっていた時だった。