「誤発注しました!助けて!」誤発注が嘘だったら購入者は返金を求められる?
人という字は人と人が支え合ってできている、なんて昔から言われておりますが、「誤発注しました!助けて!」と言われると何とかしてあげたくなるのが人情というもの。
でもそんな人情を逆手にとって売上を積み増してやろう……そんなけしからん目論見に乗っかってしまった場合どうすればよいでしょうか。
*画像はイメージです:https://pixta.jp/
物を購入しようとする際、書面がなくとも、人は売買契約を締結します!という意思表示をしているということになります。
しかし、その売買契約締結の意思表示に誤解がある場合で、(1)誤解がなければ意思表示をしなかったであろうと考えられ、かつ(2)意思表示をしないことが一般取引上の通念に照らしてもっともだと認められるような場合には、その意思表示の要素に錯誤があったとして無効とされます(民法95条本文)。
具体的には、Aという商品を買うつもりでBという商品を購入してしまったような場合です。
ただし、その錯誤の中でも、意思表示はあるものの、売買契約締結の意思を形成しようとする動機に錯誤があるにすぎない場合、たとえば先の例と異なり、Aの商品を買うという意思自体に誤りはないものの、Aを買おうと思った動機に錯誤があるような場合には、ただちに錯誤無効が適用できるわけではありません。
この「動機の錯誤」については、判例上、基本的に意思表示の要素ではないことから、その錯誤があっても要素の錯誤には当たらないとされますが、動機が相手方に表示された場合には、動機の錯誤が要素の錯誤になったとして、無効となり得るとされています。
今回の件では、「その商品を購入しよう」という意思自体に誤りはありませんよね。
しかし、そのきっかけが「誤発注で大変な思いをしていてかわいそうだから」ということにある場合、それはまさに「動機の錯誤」に該当します。
とすると、上に述べたように、判例上はその動機が相手方に表示された場合に限り、無効ということになり得るため、そのような表示がない場合には、無効を主張できないことになります。
これに従うと、本事例では、「誤発注でお店が大変そうだから」と購入の動機をお店側に表示した上で購入をした場合に限り錯誤無効の主張ができ、結果として無効になった場合には、その返金を求めることはできるでしょうが、それ以外は難しいかもしれません。なお、個別の売買契約の締結に向け、誤発注であること誘因材料として売買契約をさせた場合には、詐欺取消(民法96条1項)により取消しが可能になる場合があり得ると思います。
誤発注という事実をもって「騙された!」という方もいそうですので、詐欺罪が成立するのか、という観点から検討しましょう。
詐欺罪は窃盗罪などと同じく財産に対する罪ですが、その財産的損害をどのように考えるかが問題です。
つまり、たとえ誤発注であっても1,000円相当の商品を1,000円で購入をしているような場合には、「獲得しようとしたもの」と「給付したもの」は等価値とみることもできます。
他方、誤発注という虚偽の事実の告知がなければ、購入することはなかったというのであれば、購入者は1,000円という財産上の損害を受けたということもできそうです。
このことは、つまり財産上の損害を形式的に捉えるのか実質的に捉えるのかという問題として整理されますが、裁判例は、基本的に形式的な損害があれば詐欺罪の成立を肯定しつつ、実質的な財産的損害がない場合には詐欺罪の成立を否定するものもみられます。これらからすると、少なくとも詐欺罪が全く成立しないとは言いにくいでしょう。
なお、これに関連して、最高裁は、第三者を装って預金口座開設を申し込み、結果として預金通帳の交付を受けた事案においては、預金通帳の財産的価値を認めて詐欺罪の成立を肯定し(最決平成14年10月21日)、本人名義であっても他人に譲渡する意図を秘して口座開設をし、預金通帳の交付を受けた事案においても、そのような意図が銀行側に明らかとなっていれば預金通帳を交付することはなかったとして、結果的に詐欺罪の成立を認めています(最判平成19年7月17日)。
この判断が誤発注事例にそのまま当てはまるとは限りませんが、少なくとも当然に成立しないということはなさそうです。
人の親切につけ込むという手口は、悲しいかないつの時代もあり得るもの。古くは財布を落としてしまったから……として交通費の寸借詐欺などが思い出されますね。
そんなことが繰り返されると、本当に困っている人も色眼鏡で見られてしまい、とても生きづらい世の中になりかねません。裁判所職員がつけているバッヂは三種の神器のひとつである八咫(やた)の鏡がモチーフになっておりますが、その意味合いは、鏡が非常に清らかで、はっきりと曇りなく真実を映し出すことに由来するそうです。
情けは人のためならず、いつも心置きなく他人に親切でいられるように、ひとりひとりが心の中に真実を映し出す鏡を持っていたいものですね。
*著者 大達 一賢(エジソン法律事務所。第一東京弁護士会所属。「強い、やさしさ。」、「守る≒攻める」、「戦略&リーガル」の3つの思いを胸に、依頼者のために全力を尽くします)
【画像】イメージです
*まさよ / PIXTA(ピクスタ)
でもそんな人情を逆手にとって売上を積み増してやろう……そんなけしからん目論見に乗っかってしまった場合どうすればよいでしょうか。
*画像はイメージです:https://pixta.jp/
■誤発注が嘘だったら購入者は返金を求めることができる?
物を購入しようとする際、書面がなくとも、人は売買契約を締結します!という意思表示をしているということになります。
しかし、その売買契約締結の意思表示に誤解がある場合で、(1)誤解がなければ意思表示をしなかったであろうと考えられ、かつ(2)意思表示をしないことが一般取引上の通念に照らしてもっともだと認められるような場合には、その意思表示の要素に錯誤があったとして無効とされます(民法95条本文)。
具体的には、Aという商品を買うつもりでBという商品を購入してしまったような場合です。
ただし、その錯誤の中でも、意思表示はあるものの、売買契約締結の意思を形成しようとする動機に錯誤があるにすぎない場合、たとえば先の例と異なり、Aの商品を買うという意思自体に誤りはないものの、Aを買おうと思った動機に錯誤があるような場合には、ただちに錯誤無効が適用できるわけではありません。
この「動機の錯誤」については、判例上、基本的に意思表示の要素ではないことから、その錯誤があっても要素の錯誤には当たらないとされますが、動機が相手方に表示された場合には、動機の錯誤が要素の錯誤になったとして、無効となり得るとされています。
今回の件では、「その商品を購入しよう」という意思自体に誤りはありませんよね。
しかし、そのきっかけが「誤発注で大変な思いをしていてかわいそうだから」ということにある場合、それはまさに「動機の錯誤」に該当します。
とすると、上に述べたように、判例上はその動機が相手方に表示された場合に限り、無効ということになり得るため、そのような表示がない場合には、無効を主張できないことになります。
これに従うと、本事例では、「誤発注でお店が大変そうだから」と購入の動機をお店側に表示した上で購入をした場合に限り錯誤無効の主張ができ、結果として無効になった場合には、その返金を求めることはできるでしょうが、それ以外は難しいかもしれません。なお、個別の売買契約の締結に向け、誤発注であること誘因材料として売買契約をさせた場合には、詐欺取消(民法96条1項)により取消しが可能になる場合があり得ると思います。
■この「誤発注商法」はどのような罪になる?
誤発注という事実をもって「騙された!」という方もいそうですので、詐欺罪が成立するのか、という観点から検討しましょう。
詐欺罪は窃盗罪などと同じく財産に対する罪ですが、その財産的損害をどのように考えるかが問題です。
つまり、たとえ誤発注であっても1,000円相当の商品を1,000円で購入をしているような場合には、「獲得しようとしたもの」と「給付したもの」は等価値とみることもできます。
他方、誤発注という虚偽の事実の告知がなければ、購入することはなかったというのであれば、購入者は1,000円という財産上の損害を受けたということもできそうです。
このことは、つまり財産上の損害を形式的に捉えるのか実質的に捉えるのかという問題として整理されますが、裁判例は、基本的に形式的な損害があれば詐欺罪の成立を肯定しつつ、実質的な財産的損害がない場合には詐欺罪の成立を否定するものもみられます。これらからすると、少なくとも詐欺罪が全く成立しないとは言いにくいでしょう。
なお、これに関連して、最高裁は、第三者を装って預金口座開設を申し込み、結果として預金通帳の交付を受けた事案においては、預金通帳の財産的価値を認めて詐欺罪の成立を肯定し(最決平成14年10月21日)、本人名義であっても他人に譲渡する意図を秘して口座開設をし、預金通帳の交付を受けた事案においても、そのような意図が銀行側に明らかとなっていれば預金通帳を交付することはなかったとして、結果的に詐欺罪の成立を認めています(最判平成19年7月17日)。
この判断が誤発注事例にそのまま当てはまるとは限りませんが、少なくとも当然に成立しないということはなさそうです。
人の親切につけ込むという手口は、悲しいかないつの時代もあり得るもの。古くは財布を落としてしまったから……として交通費の寸借詐欺などが思い出されますね。
そんなことが繰り返されると、本当に困っている人も色眼鏡で見られてしまい、とても生きづらい世の中になりかねません。裁判所職員がつけているバッヂは三種の神器のひとつである八咫(やた)の鏡がモチーフになっておりますが、その意味合いは、鏡が非常に清らかで、はっきりと曇りなく真実を映し出すことに由来するそうです。
情けは人のためならず、いつも心置きなく他人に親切でいられるように、ひとりひとりが心の中に真実を映し出す鏡を持っていたいものですね。
*著者 大達 一賢(エジソン法律事務所。第一東京弁護士会所属。「強い、やさしさ。」、「守る≒攻める」、「戦略&リーガル」の3つの思いを胸に、依頼者のために全力を尽くします)
【画像】イメージです
*まさよ / PIXTA(ピクスタ)