第二次世界大戦末期、東京都品川区戸越の保育士たちが幼い園児たちと集団で疎開し、東京大空襲の戦火を逃れた「疎開保育園」の実話を描く映画『あの日のオルガン』。この度、W主演を務める戸田恵梨香と大原櫻子の2人と共に力強い保育士たちを演じる追加キャストが発表された。3月上旬にクランクインし、現在撮影中の本作。保育士たちのリーダー・板倉楓役の戸田さん、天真爛漫で音楽が好きな保育士・野々宮光枝役の大原さんに加え、今回1,000人を超えるオーディションを経て“保育士”役に選ばれたのは、佐久間由衣、三浦透子、堀田真由、福地桃子、白石糸、奥村佳恵と、これからの活躍が期待される6名。■佐久間由衣『人狼ゲーム ビーストサイド』でスクリーンデビューし、「トランジットガールズ」「明日の約束」、連続テレビ小説「ひよっこ」に出演。また、「ゼクシィ」10代目CMガールに抜擢された佐久間さんは、今作では神田好子役で出演。「実話に基づいて監督が描かれた作品ということもあり、この作品の一員になれることに責任とそれ以上の喜びを感じています」と心境を明かし、「嘘なく心で演じきりたいと思います。子どもたちとのお芝居も楽しみです」と意気込みを語っている。■三浦透子「天才柳沢教授の生活」「鈴木先生」『桜ノ雨』などに出演し、近日出演作『素敵なダイナマイトスキャンダル』の公開が控える三浦さんは、山岡正子役で参加。三浦さんは、「疎開保育をやり遂げた若い保母さんたちの信念とそれを貫き実行する逞しさには、演じていながら惚れ惚れします。子どもたちの無垢な力に背中を押してもらいながら、仲間の保母さんとみんなで1か月の撮影を乗り越えられたらと思っています」とコメントしている。■堀田真由dTV・FOD配信のドラマ「&美少女 NEXT GIRL meets Tokyo」や、現在放送中の連続テレビ小説「わろてんか」に出演し、夏公開の『虹色デイズ』では、コスプレ好きな女子高生役で出演する堀田さんは、堀之内初江役で出演。台本を読み感動したという堀田さんは、「一表現者として私は、このお話を沢山の方に伝えたい、残さないといけないと強く思いました。撮影が始まったいまも何が正解かは分かりません。沢山悩みもがきながら、はっちゃんを懸命に演じきりたいと思います!」と力強く意気込んでいる。■福地桃子俳優・哀川翔の次女で『あまのがわ』主演に抜擢された福地さんは、森静子役。出演決定に、嬉しさの反面、作品のテーマの重みをとても感じたと話す福地さんは、「あの時代に、いまの自分が同じことを出来るのかと聞かれたら正直1ミリも自信がなく、とても怖い。けれどその中でがむしゃらに子どもたちと向き合う保母さんたちは、形は違うけれど真に持っているものはみんな同じで。そんな逞しく強い女性たちの姿に刺激を受けました。自分自身もこの時代から教わることが沢山あるなと思っています。不器用ですが、そんな彼女達のように私もこの作品に責任を持ってがむしゃらに向き合いたいと思います」と語っている。■白石糸「コウノドリ」で看護師役を演じ注目を集めた白石さんは、江川咲子役。「当時の苦労は計り知れないと思いますが、子どもを守ろうと自分のことは二の次で生き抜いて来た彼女たちを演じたい!と思いました。なので今回、参加出来ると聞いた時は本当に嬉しく、同時にとてもやりがいを感じました。胸を張って生き抜いた彼女たちの姿を見せられるよう最後まで、全身全霊で取り組みたいと思います」と出演決定時の心境を明かしている。■奥村佳恵そして、蜷川幸雄に見出され「音楽劇 ガラスの仮面」「マクベス」、大原さんも出演したミュージカル「わたしは真悟」など舞台中心に活躍中の奥村さんは、大沢とみ役で参加。「生きるってなんだろう。食べることだろうか、眠ることだろうか、笑うことだろうか、泣くことだろうか。自分には何ができるだろうか。『あの日のオルガン』に関わることができた自分に問いかけていることです。どうしたら子どもたちを守れるだろうか。おとみさんと共に考えています」と日々自身に問いながら演じているとコメントしている。さらに今回、追加キャスト発表とあわせて、撮影されたばかりのスチールも到着した。『あの日のオルガン』は2019年2月、新宿ピカデリーほか全国にて公開予定。(cinemacafe.net)
2018年03月15日戸田恵梨香と大原櫻子が、長年、山田洋次監督作品で共同脚本や助監督を務めてきた平松恵美子監督のもと映画『あの日のオルガン』でW主演。太平洋戦争下、東京大空襲の戦火を逃れた“疎開保育園”の実話を映画化する。■あらすじ太平洋戦争末期、警報が鳴っては防空壕に避難する生活が続く1944年、東京・品川の戸越保育所では、保母たちが保育所の疎開を模索していた。まだ幼い園児たちを手放す不安、迫りくる空襲から子どもたちだけでも助けたい、と意見の分かれる親たちを保母たちが必死に説得する中、埼玉に受け入れ先の寺がみつかる。だが、荒れ寺での疎開生活をスタートした若い保母たちと幼い園児たちを待っていたのは、毎日わき出てくる問題との戦いの日々。それでも若き保母たちは子どもたちと向き合い、毎日ひたむきに励ましあいながら奮闘する。そんな彼女たちにも、やがて空襲の影が迫り…。戦争が激化する中、幾多の困難をたくましく前向きに乗り越え、ユーモアの力を持って突き進んだ、知られざるヒロインたちの奮闘を描いた真実の物語を描く本作。保母たちのリーダー板倉楓役には、『SPEC』シリーズや『コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-』シリーズといったエンターテインメント作品で幅広い役柄に挑戦してきた戸田恵梨香。等身大の年齢の重ね方が同性からの人気を集める戸田さんが、満を持して戦時中を描いた作品でメインキャストに挑戦する。また、もう1人の主人公、保母の野々宮光枝役には、『カノジョは嘘を愛しすぎてる』でスクリーンデビューを飾り、歌手として紅白歌合戦に出場するなど、女優として歌手としてフィールドを広げる大原櫻子。歌と演技の両方を生かせるミュージカルにも挑戦している大原さんが、天真爛漫で音楽好きな保母を演じる。メガホンを取るのは、『ひまわりと子犬の7日間』で監督を務め、山田監督の『小さいおうち』『母と暮せば』『家族はつらいよ』などで共同脚本、助監督を務めてきた平松恵美子。このたび、3月のクランクインに向け、W主演の戸田さん、大原さん、平松監督から意気込みあふれるコメントが到着している。園児を守り抜いた知られざる女性たちを「力強く懸命に演じたい」と戸田さん戸田恵梨香板倉楓役子どもたちを必死に守り抜いた保母さんたちは、いまでは考えられないほどのプレッシャーと苦労だったに違いなく…この作品に参加することを私自身大きな責任と感じています。向き合うことが大変恐ろしくも感じますが、強く生きた女性の姿を力強く懸命に演じたいと思います。大原櫻子野々宮光枝役実話をベースにした今回の題材。戦時中の話なので、その時代を勉強して撮影に臨みたいと思います。私は元々子どもが大好きで、最初お話をいただいたときは、素直に嬉しかったです。保母さんは並大抵の苦労ではできないお仕事ですが、光枝のキャラクターは楽しんで演じられると思います。平松恵美子監督・脚本太平洋戦争中の学童疎開は有名だが、未就学児の集団疎開については殆ど知られていない。しかもそれを言い出し、何十人もの子どもたちと疎開を実行したのが二十歳そこそこの若い保母たちだったことは尚更だろう。幼い子どもたちの命を守るために起こしたこの行動は、彼女たちの戦争に対する精一杯の抵抗ではなかったか。隠れた英雄である保母を戸田恵梨香さん、大原櫻子さんたちと創り上げていくことは胸躍る体験となるに違いない。『あの日のオルガン』は2019年陽春、新宿ピカデリーほか全国にて公開予定。(text:cinemacafe.net)
2018年02月13日あの頃も今も、コンピュータは楽しい機械です。仕事でも趣味でも、コンピュータとともに過ごしてきた読者諸氏は多いことでしょう。コンピュータ史に名を刻んできたマシンたちを、「あの日あの時」と一緒に振り返っていきませんか?○軽自動車よりも高かったノートPC1994年(平成6年)12月、ディジタル・イクイップメント・コーポレーション(略称:DEC)は、薄型ノートPC「Digital HiNote Ultra」シリーズ(3機種)を発表しました。のちに「ハイトラ」「DHU」などの愛称で呼ばれ、スリムノートとして新しいジャンルの先駆けとなったコンピュータの誕生です。DECは1998年に、コンパックに買収され、そのコンパックも2001年、ヒューレット・パッカードに買収されます。現在、DECという社名こそありませんが、テクノロジーと業績は脈々と現在のパソコン業界に引き継がれています。今回は、DECがリリースしたPCの中でも代表的な、Digital HiNote Ultraを取り上げてみましょう。ハイエンドモデル「475CT」は、東芝製の9.5インチTFT(640×480ドット)液晶ディスプレイを搭載し、OSは日本語Windows 3.1(MS-DOS 6.2V)でした。CPUはIntel 486DX4プロセッサ(75MHz)、メモリは8MB、HDDは528MB(東芝製4,200rpm)です。当時のノートPCとしては高いパフォーマンスを誇りながら、本体サイズはW280×H30.5×D216mm、重量は1.8kgと、薄型/軽量を実現します。CD-ROMドライブは非搭載ですが、本体厚が約3センチで重量2kg以下というスペックは、まさに衝撃的でした。価格は実に558,000円(日本で本格的に販売された1995年6月当時)。インパクトあるプライシングです。ちなみに1994年発売の、スバルの軽自動車ヴィヴィオが548,000円でしたので、車より高いパソコン。まさに一般的ユーザーには憧れでした。マーケティングメッセージは、「世界一スリムなUltraは、世界一軽いCD-ROMノートになる」(※1995年6月時点・日本DEC調べ)でした。20年前、ハイエンドラップトップPCは、CD-ROMドライブを搭載したモデルが多かったですので、スリム/軽量をアピールしつつ、外付けオプションのCD-ROMドック「モービルメディア」(重量0.82キロ、価格は78,000円)とのセットで拡張性も訴えます。○写真で見るDigital HiNote Ultra具体的に、その魅力を写真で見てみましょう。最大の特徴は、何といっても、Digital HiNote Ultraの優れたデザインです。機能美ともいえるそのフォルムは、1995年グッドデザイン外国商品賞を受賞します。特に、本体下部後方にレイアウトされたバッテリ部分のヒンジが回転し、キーボードに傾斜を付けられることは、使い勝手の良さとコンパクトさを両立させた、斬新なアイディアです。このギミックは特許としても申請されますが、アイディアはこれだけにとどまりません。操作性に優れたトラックボールやドッキングベイなども、見逃せない特徴です。Digital HiNote Ultraを手がけたデザイナーのMichele Bovio氏は、トラックボールに関する特許などでも有名ですが、同時に優れたエンジニアでした(特許の詳細はWebページでも確認できます)。これらのアイディアを引用したPCベンダーの数や引用特許の多さからも、当時、DECのデザインと技術がいかに先進的であったかが想像されます。○Digital HiNote Ultraとの出会い筆者は、Digital HiNote Ultraを購入することはできませんでした。秋葉原のLAOX ザ・コンピュータ館で見かけたものの、遥かに予算オーバー。買えるはずないと、残念に眺めていました(当時、同じような思いをした方も多いのではないでしょうか?)。ほどなくパソコンショップに勤務した筆者は、Digital HiNote Ultra 475CTを幸運にも業務用端末として利用することになります。まさに役得。ショップの閉店後、CD-ROMドック「モービルメディア」に接続して、音楽を楽しみながら残務作業をしたものです。モービルメディアは、フロントにツィータ(1W)×2、底面にウーファー(2W)×1のスピーカーを内蔵しており、ノートPCらしからぬ迫力のサウンドが楽しめました。単にスリムなだけでなく、マルチメディア機能にも注力していたその先進性。いま振り返ってみても、Digital HiNote Ultraは、技術力のベンダー「DEC」を象徴した名機です。○1994年12月、あの日あの時Digital HiNote Ultraシリーズが発表された1994年12月を振り返ってみましょう。家庭用ゲーム機では、初代PlayStationが発売されました。家庭用ゲーム機にも関わらず、レーシングゲーム「リッジレーサー」のリアルな画像は、圧巻そのもの。3Dゲーム(もはや死語っぽいですが)の将来性・可能性と、新しい時代の到来を感じました。PlayStationの価格は39,800円、初回生産分の10万台はすぐ完売。そして、1年後には29,800円に値下げ、販売を加速させます。およそ10年後には、全世界で1億台を販売したといいます。ハードの価格を低めに設定して普及を進め、ゲーム専用機としてプロモーションしていました。コンピュータとゲーム機、その生い立ちは違うものの、ハードウェアのポジショニングで見ると、汎用性をうたい50万円を超える価格設定のDigital HiNote UltraとPlayStation、まさに対極にあるように感じます。改めて、販売価格とともに、背景のビジネスモデルと販売戦略の重要性を感じます。DECとDigital HiNote Ultraシリーズの消滅は残念ですが、優れた技術はヒューレット・パッカードに受け継がれています。今後も憧れとなるような製品の登場を期待しましょう。――――――――――「あの日あの時あのコンピュータ」では、読者の皆さんからのご意見を募集します。記事で取り上げるコンピュータや思い入れのある名機のリクエスト、ご自身のエピソードなどをお待ちしています。また、コンピュータ本体や周辺機器の写真、カタログデータといった資料のご提供も大歓迎です。マイナビニュースの「ご意見・ご感想」からお寄せください。
2015年05月25日11月22日は両軍サポーターにとって、忘れられない日となった。あの日、首位・浦和レッズはホームで優勝を決めにかかり、勝点5差をつけられたガンバ大阪は逆転Vに望みをつなぐため勝利だけを睨んだ。結果はご存知の通り、2-0でG大阪の勝利。その後2節を経て、G大阪がJ1リーグ戦制覇、そして三冠獲得を果たしたのだった。5/2(土) 浦和レッズ対ガンバ大阪 開催情報試合後、長谷川健太監督はこう語った。「うちは18人のうち誰が出ても戦えるメンバーだが、浦和は17人だった」。途中出場した佐藤晃大(現徳島ヴォルティス)、倉田秋が試合終了間際に立て続けにゴールを決めたのに対し、浦和はケガが癒えていない興梠慎三を強行出場させ、残り2節も戦線離脱した。浦和にとって悪夢の日、G大阪にとっては最高の日から5か月半、5月2日(土)・埼玉スタジアム2002で両雄が激突する。『明治安田生命J1リーグ』1stステージで浦和は6勝2分・勝点20で首位を走る。2位に続くのは6勝1分1敗・勝点19のG大阪だ。勝点差、残り試合数は違えど、両チームの立場、舞台はあの日と同じである。果たして、浦和はどう出るか。そもそも、昨年の第32節は引き分けでよかった。今回も是が非でも勝たなければいけないわけではない。幸い、トップを張るズラタン、シャドーに位置する梅崎司、武藤雄樹らアタッカー陣はコンビネーションを高め、ゴールを積み重ね出した。4月1日の練習中にケガを負った興梠も、第9節に照準を合わせ、戦線復帰予定である。8試合で4失点と、GK・西川周作を中心に堅守も誇っている。第5節・川崎フロンターレ戦では、今までのポゼッション一辺倒から守備ブロックを形成しカウンターを狙う、違う顔も覗かせた。昨季から成長した姿を因縁の相手に見せられるか。一方のG大阪は開幕2試合こそ躓いたが、6連勝と本来の力を発揮する。連勝の原動力となっているのが宇佐美貴史だ。国際Aマッチデビューを果たした背番号39は、クラブタイ記録となる6試合連続ゴールを決めている。2位に3点差をつける9ゴールを量産し、得点ランキングを独走中である。2トップを組むパトリックとふたりで、浦和の総得点数である12点と同じゴールを叩き出している。ゴールだけではない。日本代表が刺激になったのか、前線からのプレスやオフ・ザ・ボールの動きなど、課題だった運動量の少なさも解消しつつある。5月2日(土)にキックオフを迎える浦和×G大阪は2014年11月22日と同じ結果となるのか、逆の結果となるのか。はたまた、ドローに終わるのか。試合当日は『浦和レッズ ファミリーJoinデイズ』を開催。家族で楽しめるイベントを実施するとともに、マスコットのレディアファミリーがデザインされたオリジナルミニタオルが、G大阪サポーターを除く来場者全員にプレゼントされる。チケット発売中。
2015年04月30日『アーティスト』のミシェル・アザナヴィシウス監督が手がける新作『あの日の声を探して』の予告編映像が公開された。映画は、ロシアに侵攻されるチェチェンで、壮絶な運命に翻弄されながらも懸命に生きようとする少年の姿を描いた感動作だ。『あの日の声を探して』予告編アザナヴィシウス監督がフレッド・ジンネマン監督の名作『山河遥かなり』から着想を得て製作した『あの日の声を探して』。1999年のチェチェンを舞台にした本作は、チェチェンに隣接するグルジアでロケを行い、リアリティを追求するため全編手持ちカメラで、ロケ中もセットをほとんど使わず、合成映像も使わずに制作された。主人公の少年ハジを演じるのは、オーディションで選ばれた素人のチェチェンの少年だ。このほど公開された予告編映像では、ロシア軍の攻撃によって両親を目の前で殺された少年ハジが、まだ赤ん坊の弟を胸に抱き、軍の容赦ない攻撃の中、安全な場所へと非難する姿が描かれる。街へたどり着いたハジは、フランスから調査に来たEU職員のキャロルと出会う。だが、大きなショックを受けた彼は、声を発することができなくなっていた。「私が監督として立ちたい場所にある作品」というアザナヴィシウス監督は力強い意思をもって本作を完成させた。狂気の世界で声を失った少年がどうしても伝えたかったこととは一体なんなのか? 少年の姿を通して監督が私たちに投げかけているものとは? 予告編は、短い映像の中にも壮大なテーマが感じられる内容になっている。『あの日の声を探して』4月24日(金)TOHOシネマズ シャンテ他全国順次公開
2015年02月18日ディリゲントは、イタリアの鍵盤ブランドStudiologicの最新オルガンキーボード「Numa Organ2」を発売した。価格はオープンで、市場予想価格は税抜18万円前後。同製品では、伝統的なトーンホイール・オルガンのサウンドを解析し、ドローバーを使ったサウンド生成やサウンド効果でヴィブラート、コーラス、ロータリー、リバーブ、ドライブ、クリック、クロストーク、リークまでも忠実に再現。9本のドローバーを含む操作パネルは、30以上のコントロールが可能で、最大で12個のプリセットを記憶することができる。また、プレイするシチュエーションで即座にプリセットの変更も可能となっており、伝統的なオルガンタッチを再現するFATAR製TP/8O鍵盤を採用。オーディオ出力およびコンピューター接続用USBポートに加えて、レスリー・スピーカー接続用の11pinポートも搭載している。
2014年12月12日あの頃も今も、コンピュータは楽しい機械です。仕事でも趣味でも、コンピュータとともに過ごしてきた読者諸氏は多いことでしょう。コンピュータ史に名を刻んできたマシンたちを、「あの日あの時」と一緒に振り返っていきませんか?○日本語プログラムでゲームを作れたんです1982年(昭和57年)8月25日、トミー(現・タカラトミー)は、16ビットグラフィックコンピュータ「ぴゅう太」(TP1000)を発売しました。米TI製のCPUを搭載し、メモリに16KBのRAMと20KBのROM、そのほか16色表示、擬音4種類、3和音、独自専用カートリッジ型のスロットを採用しながら、本体価格は59,800円を実現します。カートリッジは当初、6種類のゲーム(モンスターイン、ターピン、ザウルスランド、フロッガー、ボンブマン、スクランブル)が、各4,800円で用意されます。もちろん、ぴゅう太はゲーム専用機ではありません。本体上部にはJIS配列の日本語キーボードを搭載しており、日本語G-BASICが大きな特徴でした。背景を描き、アニメを加え、さらに音やタイマーをセットするなどといった、プログラミングができる本格派コンピュータだったのです。ぴゅう太のマーケティングメッセージは、「パソコンをここまで身近にしたのは『ぴゅう太』だ。」でした。1982年末のパソコン雑誌に掲載していた広告では、16ビットグラフィック機能をアピールします。女の子がぴゅう太を使い、「いちばん好きな人をコンピュータで絵にしました。」と、ジェームス・ディーン似の人物を描いた"テレビ"を映します。ぴゅう太のグラフィックは、いわゆるドロータイプではなく、独特なプログラミングを必要としましたが、当時としては16色の綺麗な描画が可能でした。日本語G-BASICの採用は、子供をターゲットにしている玩具メーカー「トミー」ならではの画期的なチャレンジ。例えば、BASICのGOTO文は「ニイケ」(~に行け)で、具体的には「40 ニイケ」のように記述します。IF文と組み合わせた場合、「モシ A=0 ナラバ 100 ニイケ」のような書き方です。慣れれば決して難しくはないのですが、プログラムリストの理解には、ちょっとしたコツが必要でした。さて、筆者とぴゅう太の出会いは、1982年末、新宿のデパートでした。発売されたばかりのPC-9801を触りに秋葉原や新宿に通ったものですが、立ち寄ったデパートの玩具コーナーにゲーム機として鎮座していた、ぴゅう太に出会いました。母親ぐらいの年齢の店員さんにハードやG-BASICについて質問しましたが、「コレ、まったく分からないんです」と困惑していました。私は、マイコンオタクの嫌な子供だったのでしょう。○1982年8月~1983年前半、あの日あの時ぴゅう太が発売された1982年8月は、「ゲームセンターあらし」のアニメがテレビ放映されていました(放映開始は1982年4月)。主人公の石野あらしが使った技、ジョイスティックを超高速で操作させる秘儀「炎のコマ」、静電気で電子回路を操作する「エレクトリック・サンダー」などが流行ったものです。もちろん現実には不可能な"動き"でしたが、ゲームセンターで「炎のコマ」と叫びながら、インベーダーゲームをプレイした方も多いのではないでしょうか。他にも、実際のインベーダーゲームにあった技法、いわゆる「名古屋打ち」なども登場し、拡散に一役買ったと記憶しています。また、防犯などの理由から、筆者の通っていた学校では、ゲームセンターの出入りが禁止となりました。この流れは社会現象でしたので、意図せず家庭用ゲーム機が普及する下地が形成されていったのかもしれません。(1982年下半期は、本コラム第1回のPC-9801で振り返りましたので、ぴゅう太が拡販された1983年上半期を振り返ってみます。)翌年の1983年4月15日、「東京ディズニーランド」が開園します。オープンからわずか1カ月で入場者100万人を記録するなど、その人気は爆発的なものでした。トミーは、東京ディズニーランドの開園当初から公式スポンサーであり、園内のショップでぴゅう太を販売しました(現在のタカラトミーも、東京ディズニーランドでウェスタンリバー鉄道のスポンサーとなっています)。ぴゅう太用のソフト「ミッキー・アスレチックランド」も4,800円で発売され、ミッキーマウスが5つのステージを駆け抜けていくその様は、キャラクターゲームの先駆け的な存在で、とても斬新でした。夢の国でぴゅう太を買われた方は、幸せだったことでしょう。――――――――――「あの日あの時あのコンピュータ」では、読者の皆さんからのご意見を募集します。記事で取り上げるコンピュータや思い入れのある名機のリクエスト、ご自身のエピソードなどをお待ちしています。また、コンピュータ本体や周辺機器の写真、カタログデータといった資料のご提供も大歓迎です。マイナビニュースの「ご意見・ご感想」からお寄せください。
2014年11月18日あの頃も今も、コンピュータは楽しい機械です。仕事でも趣味でも、コンピュータとともに過ごしてきた読者諸氏は多いことでしょう。コンピュータ史に名を刻んできたマシンたちを、「あの日あの時」と一緒に振り返っていきませんか?○FMシリーズの誕生1981年(昭和56年)5月20日に富士通は、8ビットパーソナルコンピュータ「FUJITSU MICRO 8」(以下、FM-8)を発表しました。のちに日本製コンピュータの代名詞の1つともなった「FMシリーズ」の誕生です。その設計思想は斬新で、8ビットCPU「MBL6809」(モトローラ「MC6809」コンパチブル)をメイン用とサブ用に2個搭載していました。さらに、同社の大型コンピュータ「FACOM Mシリーズ」に採用したばかりの64KbitダイナミックRAMを8個も、4層の基盤上に搭載。合計64KBという大容量の主記憶領域(メインメモリ)を誇りながら、218,000円と戦略的価格を実現したのです。発表当初のマーケティングメッセージは「CPUを2個搭載して、アドレス空間は128Kバイト、高分解ディスプレイ、日本語表示、豊富な補助記憶装置を採用したパフォーマンスモデル」。スペックでたたみかける、ビジネスユースを意識したものでした。翌1982年11月には、バブルカセット(現在でいうリムーバブル記憶装置)などを廃止した廉価版の後継機種「FM-7」が128,000円で発表され、大ヒットを飛ばします。FM-7については、別の機会に譲りましょう。FM-7の登場に合わせて、FM-8のカタログ表記も「FM-8」の略称へと変更され、「ハイクオリティ・ユースのパーソナルコンピュータ」としてメッセージを強化しながら販売が継続されます。82年ミスマガジングランプリの伊藤麻衣子(現、いとうまいこ)さんをイメージキャラクターに起用し、親しみやすさ、パーソナル感を演出していました。○FM-8との出会い1981年5月の発表は、NECのPC-6001(1981年9月発表)、PC-8801(同12月発表)の前であり、FM-8のスペックや価格には圧倒的なインパクトがありました。640×200ドット/8色表示のカラフルなデモ画面や、RS-232Cポート、アナログポートに標準でジョイスティックを付けられるなど、憧れて秋葉原のショップに通ったものです。半透明なバブルカセットのふたを開けると、電源スイッチがあり、それだけで大型機のような雰囲気でワクワクしました。電源をONにすると、標準実装されていたF-BASICの起動画面「FUJITSU MICRO 8 BASIC Version 1.0Copyright(C)1981 By FUJITSU/MICROSOFT 30358 Bytes Free Ready」カーソルが点灯し、大容量にしびれます。キータッチは重厚感があり、シューティングゲームでのBREAKキー連射にも十分対応できました。また、コンピュータ雑誌の影響は大きく、通称YAMAUCHIコマンド、拡張Kコンパイラなど、雑誌に取り上げられた情報もFM-8の人気を支えたと思います。コンピュータ雑誌といえば、何ページものダンプ(プログラム)リストが掲載されていて、それを自分の手で打ち込んで使うことが当たり前でした。FM-8ではオプションの漢字キャラクタROMもボードではなく、チップをソケットにさすタイプでしたので、パソコンをソフト、ハードウェアとも自ら作っている感覚があったのです。○1981年5月、あの日あの時1981年は世界的にみれば、IBM Personal Computer 5150が8月12日に発売されるなど、のちのコンピュータ業界の流れを左右するテクノロジーが生まれた年です。アメリカでは、初のスペースシャトル打ち上げが行われました。日本では、神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア’81)が3月20日~9月15日に開催されます。三宮とポートアイランドを結ぶ、世界初の無人運転システムだったポートライナーは、未来を感じさせてくれました。会場では、テレビ電話や3D画像といった21世紀の技術が紹介されます。日本IBMは遣唐使船の復元船をパビリオンで展示し、漢字が使えるコンピュータを「漢字反対語ゲーム」でアピールしました。当時、漢字が使えるコンピュータは画期的だったのです。漢字の入出力といえば、ワープロ専用機が主流でした。富士通初のワープロ専用機「富士通オアシス 100」(OASYS = Office Automation SYStem)が、1980年5月に270万円で発表され、1年間に1500台を超える受注があったそうです。1981年8月に小型化(本体重量は約32kg)された後継機、「富士通オアシス 100J」が159万円で発表されます。同100シリーズと合わせて1年間で1万台、3年間で10万台という販売目標を掲げ、群馬県館林新工場の建設計画を発表し、OA部門強化を打ち出します。富士通オアシスでは、独自の親指シフトキーボードも見逃せません。「かな」で入力して「親指キー」で漢字に変換する「ひと打ちひらがな、2打ち漢字」というメッセージで、自然で負担の少ないかな文字入力が可能でした。他国の文化を取り入れて、そこに日本独自発想の技術を加えて、さらに発展させるような風土がありました。なお現在でも、親指シフトキーボードは富士通コンポーネントが生産中です(Windows対応)。1981年は、OA化を意識したビジネス向けプロモーションが盛んでしたが、特に下半期より個人・パーソナル志向を意識した製品が展開されました。低価格化とともに、マーケティング戦略や販売経路が変化していった、始まりの時期と思えます。――――――――――「あの日あの時あのコンピュータ」では、読者の皆さんからのご意見を募集します。記事で取り上げるコンピュータや思い入れのある名機のリクエスト、ご自身のエピソードなどをお待ちしています。また、コンピュータ本体や周辺機器の写真、カタログデータといった資料のご提供も大歓迎です。マイナビニュースの「ご意見・ご感想」からお寄せください。
2014年01月22日夏休みの超大作、ファミリー向け映画が盛況の中、4日に公開初日を迎えたドイツ映画『あの日 あの時 愛の記憶』が大人の観客を中心に好調な動員を記録し、平日でも満席の興行を展開している。その他の写真本作は、1944年のポーランドと1976年のニューヨークを舞台に、アウシュヴィッツ収容所から脱走して生き別れになってしまった男女の運命をドラマチックに描き出したラブ・ストーリー。実話を基にした本作は、劇中で描かれる切ない恋愛劇と、深い人間ドラマが特徴の作品だ。メイン館の銀座テアトルシネマでは公開初日の初回から満席が続き、平日でも満席の回が続出。客席はシニア層、夫婦を中心にしながら、日を追うごとに若い観客の比率が増加しているという。本作の配給を手がけるクレストインターナショナルは、オリヴィエ・アサイヤス監督の『夏時間の庭』や、上映を希望する署名活動まで起こった『海洋天堂』など、大人の観客から支持される良質な作品を多く配給しており、本作もこれまでの作品同様、ロングラン興行が期待されている。夏休みは、学生や子どもたちをターゲットにした作品が多く公開されるが、その反面、大人がじっくりと観たい作品が少なくなる傾向にあり、本作は大人の観客を中心に着実に動員を伸ばすことが予想される。なお、本作は東京に続いて、大阪で公開を開始し、兵庫や名古屋など全国各地での公開が決定している。『あの日 あの時 愛の記憶』公開中
2012年08月17日秩父アニメツーリズム実行委員会はこのほど、「アニメ『あの花』 in 秩父夏キャンペーン2012」を開始した。秩父市が舞台設定のモデルになったアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(以下『あの花』)の世界を感じ、秩父の魅力に触れることを目的としたキャンペーンで、秩父市、秩父商工会議所、西武鉄道、秩父鉄道の共催で9月2日まで行う。キャンペーンの第1弾は、ファンの願い事やメッセージを『あの花』オリジナル短冊に記入してもらい、秩父地方の七夕(8月7日)に合わせて秩父市内各地に掲出する「みんな集まれ! 『超平和バスターズ』の七夕まつり!」。オリジナル短冊は、ほっとすぽっと秩父館、秩父ふるさと館、秩父観光情報館の『あの花』コーナーにて配布。記入した短冊は7月31日まで、ほっとすぽっと秩父館にて回収する。8月1日からはキャンペーン第2弾として、「あの花”夏”ラリー」を実施予定。街中に隠されたヒントを探しながら、”聖地”と呼ばれる『あの花』のロケ地を巡るクイズラリー。ゴールした人の中から先着5,000名に『あの花』オリジナルグッズをプレゼントする。これに合わせて、本町知々夫ブランド館とほっとすぽっと秩父館にて、「『あの花』街なかギャラリー」を設置。キャラクター設定、名場面シーン、「あの花 × 秩父」ポスター、「ANOHANA FES.」台本、声優サイン巨大絵馬など、『あの花』の世界観を堪能できる展示を行う。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年07月19日8月3日(金)、大阪・いずみホールで『バッハ・オルガン作品全曲演奏会』がスタートする。バッハが残したオルガン作品全228曲を、7年 (年2回全14回)をかけて演奏する、壮大なシリーズ企画だ。『バッハ・オルガン作品全曲演奏会』チケット情報これは今年3月、全10回のシリーズを好評裡に終了した同ホールの『バッハ・オルガン作品連続演奏会』をさらに発展、継承するもので、バッハの研究機関として知られるドイツの「バッハ・アルヒーフ・ライプツィヒ」との共同企画でもある。同ホールの音楽ディレクターである礒山雅と、バッハ・アルヒーフ・ライプツィヒ所長のクリストフ・ヴォルフのふたりがシリーズの音楽監督を務め、毎回ヴォルフが選定する世界的なオルガニストがリレー形式で登場する。第1回は、研究家、教育者としても多年の実績を持つドイツのオルガン奏者、ゲルハルト・ヴァインベルガーが登場。前シリーズに引き続き、解説は礒山雅が務める。チケットは現在発売中。また第2回は、2013年3月20日(水・祝)の開催で、日本を代表するオルガニスト、小糸恵の登場が予定されている。
2012年06月22日決して忘れることのできない“あの日”が近づいてきた。1年経っても先の見えない生活を送っている人々がいること、そして震災が教えてくれた数々の教訓を、改めて心に刻みたい3月11日。私たちは何を思うのだろうか。間もなく発売となる「前を向くカレンダー」は、その翌日、3月12日に始まる3日めくりのカレンダー。各ページには、困難に遭遇しながらも前を向いて歩いていこうとする人々の、強い想いが込められた言葉が並ぶ。1冊購入すると1冊が被災地に届けられるという、想いを共有するカレンダーだ。まずはページをめくってみよう。「この日を区切りに 被災者から 復興者になっぺ」(岩手県大船渡市 32歳 建築現場監督員)、「3月14日。お腹に命が宿っているのがわかった。命は巡るのだ。」(マコトかぁちゃん 茨城県 32歳 主婦)、「いってまいりまぁす。今日も一日がんばるぞ!オー!」(葛岡有 宮崎県東松島市 9歳 小4)……。強い意志がこもった言葉、運命のようなエピソード、何気ない日常の言葉。それぞれの人がそれぞれに感じ、発した、飾り気のない言葉は、どれも力強い光を放っている。「前を向くカレンダー」は、震災直後に立ち上がった「kizuna311」というプロジェクトから生まれた。俳優・渡辺謙と放送作家・小山薫堂が呼びかけ人となり、国内外の著名人による被災地への応援メッセージを動画で発信し続けるウェブサイトは、今も大きな反響を呼んでいる。カレンダーの構想が立ち上がったのは昨年10月。ウェブサイトで「あなたの言葉」を募集したところ、小学生から90代まで、被災地の方もそれ以外の地域の方も含め、1000を超える言葉の応募があったという。その一つひとつに「kizuna311」のスタッフ全員が目を通し、122の言葉を厳選。これが、カレンダーとなって全国のみなさんに届けられることとなった。残念ながら採用されなかった言葉も、全て「kizuna311」のウェブサイトで公開されているので、ぜひ目を通してみてほしい。1冊は自分で、もう1冊は被災地で1年の時を刻む「前を向くカレンダー」。価格は2冊分になるが、その価値を決めるのは、あなた自身。全国の書店、オンライン書店などで1月31日(火)に発売となる。 「前を向くカレンダー」 kizuna311 編発売:2012年1月30日全国書店・大型雑貨店にて販売予価:2,100円(本体2,000円)取材/池田美砂子
2012年01月27日