上皇ご夫妻のお出ましが二重権威を生んでいる……、そんな報道に苦悩されている美智子さまを支えるため、雅子さまは天皇陛下とともに、心温まる提案を――。1月2日の新年一般参賀には、上皇ご夫妻も出席された。しかしその中で、テレビでは報じられなかったハプニングがあった。午前中の3回目のお出ましで、にこやかにお手振りを始められた上皇陛下。するとお隣の美智子さまが上皇陛下に何か囁きながら腕に手を伸ばされ、お手振りを制止されたのだ。「通常の順序では、まず天皇陛下がお一人でお手振りされてから、ほかの皇族方が続くことになっています。しかしこのとき、天皇陛下のお手振りが始まってすぐに上皇陛下もお手振りをはじめられたのです。このままお二人でのお手振りが続けば、上皇陛下が天皇陛下と並び立っているような印象を与えてしまう――。美智子さまは、そのように懸念されて上皇陛下を制止されたのかもしれません」(皇室担当記者)だが、そんなハプニングにも、雅子さまは上皇ご夫妻をフォローするお気遣いをなさっていた。「雅子さまは上皇ご夫妻に身を乗り出して『どうぞ、お手振りを』とお伝えするような身ぶりで、声をかけられたのです。そういったやりとりで安心されたのか、3回目では美智子さまがお手振りされる時間も、1回目、2回目より長くなっていました」(前出・記者)宮内庁の説明では、美智子さまの嘔吐の症状は現在では治まっているという。ただ、美智子さまのご心痛が続いていることは一般参賀のご様子からも明らかだろう。そんな中、皇室ジャーナリストは、天皇陛下と雅子さまが、上皇ご夫妻にある提案をなさるのではないかと語る。「上皇ご夫妻は例年、2月ごろに葉山御用邸でご静養になります。このご静養に、天皇ご一家もご一緒する可能性があるのです。2家族“合同”でのご静養となれば、’02年8月以来、実に18年ぶりとなります」長い間“合同家族旅行”は行われてこなかったわけだが、これには理由があるという。「一つは、雅子さまが適応障害で療養に入られ、なかなかご体調が優れなかったためです。もう一つの理由は、上皇陛下が在位中であったためです。不測の事態を避けるため、在位中の天皇と将来の天皇である皇太子が、一緒に出かけ、宿泊する機会は非常に限られていたのです。しかし、上皇陛下は退位されました。そのため、2家族がおそろいで旅行されることにハードルはなくなったのです。“二重権威”などと報じられて、天皇ご一家と上皇ご夫妻との間に溝があるかのような印象を持った国民も少なくないでしょう。雅子さまの新たなご提案は、そういった声を払拭することにもつながるはずです」(前出・皇室ジャーナリスト)お忙しい中でも、天皇陛下と雅子さまは、上皇ご夫妻への気配りを欠かさないのだという。宮内庁関係者が言う。「12月23日の上皇陛下の誕生日には、愛子さまも連れて吹上仙洞御所を訪問されています。さらに12月27日には、上皇ご夫妻をはじめ、ご親族を招いた昼食会を開かれています。天皇皇后両陛下は、この前日に日帰りで福島県と宮城県の豪雨被災地を訪問され、たいへんお疲れだったと思われます。それでもこの昼食会を開かれたのは、昨年、象徴としての務めを終えられた上皇陛下、そして美智子さまを労うお気持ちゆえだったのでしょう」「女性自身」2020年1月28日号 掲載
2020年01月17日「美智子さまは、上皇ご夫妻の行動が“二重権威”を生じさせているとの報道を、たいへん気にされているご様子と感じました」そう語るのは、1月2日の新年一般参賀を取材した皇室担当記者。6万8千人もの参賀者が訪れる中、天皇陛下や皇族方は笑顔でお手振りをされていたが、美智子さまはどこか遠慮がちだったというのだ。参賀に訪れた70代の女性もこう言う。「上皇陛下と美智子さまのお元気なお姿を拝見できてよかったです。でも、美智子さまはあまり手をお振りになりませんでした。やはり天皇陛下や雅子さまより目立たないようにと、気を使っていらっしゃるのでしょうか……」昨年12月に宮内庁は、美智子さまが9月から複数回にわたり血の混じった嘔吐をされていたと公表した。精神的なストレスが原因とみられ、とりわけ天皇皇后両陛下との“二重権威”を指摘する報道がショックだったという。宮内庁関係者が、こうした報道についての見解を語る。「たしかに上皇ご夫妻は、退位された5月以降もたびたびお出かけされ、そのご様子が報じられています。しかし報道されているのは、上皇ご夫妻のお出かけのほんの一部だけでしょう。一般参賀への出席について『退位されたはずなのになぜ?』と疑問に思った人もいるかもしれませんが、元気なお姿を国民に見せる機会は必要だと思います。上皇ご夫妻も宮内庁も、そのように考えたのでしょう。ただ12月23日の上皇陛下の誕生日に、総理大臣をはじめ三権の長が吹上仙洞御所に足を運び、上皇陛下に祝意を述べています。天皇陛下と同じように国のトップたちから直接挨拶を受けることについては“二重権威”との指摘があっても仕方がありません。宮内庁も、もう少し慎重に検討すべきではなかったでしょうか」実は一般参賀では、テレビでは報じられなかったハプニングがあった。5回あるお出ましのうち、上皇ご夫妻は午前中の3回にお出ましになった。その最後となる、3回目にその場面はあった。にこやかにお手振りを始められた上皇陛下。するとお隣の美智子さまが上皇陛下に何か囁きながら腕に手を伸ばされ、お手振りを制止されたのだ。いったいそのとき、何があったのか――。目撃した前出の記者が言う。「通常の順序では、まず天皇陛下がお一人でお手振りされてから、ほかの皇族方が続くことになっています。しかしこのとき、天皇陛下のお手振りが始まってすぐに上皇陛下もお手振りをはじめられたのです。このままお二人でのお手振りが続けば、上皇陛下が天皇陛下と並び立っているような印象を与えてしまう――。美智子さまは、そのように懸念されて上皇陛下を制止されたのかもしれません。ただ、上皇陛下は天皇陛下に先んじたわけではありませんし、気づいた人も多くはないはずです。美智子さまが“二重権威”という批判を非常に気にされていることがうかがえたシーンでした」「女性自身」2020年1月28日号 掲載
2020年01月17日「根が“スポ根”で暑苦しいタイプなんだと思います。よく一緒にお仕事したスタッフさんたちから『もっと肩の力を抜いて!』と言われます(笑)」そう、まわりを和ませる笑顔を見せた吉岡里帆(26)。「新しいことに必死でしがみつくようにして稽古を重ねた」と告白する舞台『FORTUNE[フォーチュン]』(1月13日〜2月2日、東京芸術劇場プレイハウスにて公演。以降、3月1日まで松本、大阪、北九州でも公演)が今月開演する。ゲーテの『ファウスト』の舞台を現代のロンドンに置き換えた本作。作品名は、すべてを手に入れるために悪魔と「契約」を結び、やがて闇へと堕ちていく主人公(森田剛)の名前だ。吉岡は、彼が思いを寄せる女性、マギーを演じる。「マギーって、ピュアゆえに何事にも動じないのが魅力。自信にあふれ、どんな相手にも何が起きてもブレることがないんです。心が突き動かされた結果、すごく劇的なことも起こるんですけれど、一貫して強いイメージの女性です」一方で、「今作がラブストーリーだということは、’19年11月の制作発表会見の場で演出家のショーン(・ホームズ)さんが話すのを聞いて知りました(笑)」とほんわかしたコメントも。現在は、稽古を通じて、どんどん作品の魅力にとりつかれている。「今回の台本を読むと、人が壊れていくさまや不幸になっていく物語が展開するので、重苦しくて憂鬱になるのかなと想像していました。でも、悪とか人間の弱い部分にのみこまれるイメージが、稽古が進むうちに変わってきていて。むしろフォーチュンが魂を奪われてからの、人間の感情がむき出しになるパワフルさが印象的。パンチを食らうようなエネルギッシュな作品だと思います」「女性自身」2020年1月21日号 掲載
2020年01月13日国民の幸福を祈り、悲しみに寄り添いながら、昭和から平成と伝統と革新の歩みで邁進されてきた上皇陛下の傍らには、いつも皇后として支え続けた美智子さまがいらした。ご成婚後、60年に及ぶお二人の道のりをたどりたい。「とっても、よいお花ね」電話口から聞こえてきた美智子さまの嬉しそうな声に、美智子さまと文学を通じて30年以上の親交のある絵本編集者の末盛千枝子さん(78)もまたほほ笑んでいた。花とは、末盛さんが御所に持って行ったリンドウのことだ。そんな、素朴で清楚な、青紫の一輪の花にも心寄せる美智子さまをバッシングが襲ったことがあった。皇后となってから5年目の10月、心ない批判報道によるストレスで倒れ、59歳の誕生日にお声を失われる。末盛さんが、葉山の御用邸に見舞った時のことだ。「あまりにおつらそうなご様子に、つい、『専門家の助けを借りることはできませんか』と、口にしてしまいました」すると、美智子さまは、かすかに聞き取れるかどうかの声で、「お医者さまには守秘義務があるとしてもね、すべてを出さないと(カウンセリングが)成り立たないから、それはできないのよ」それから、さらに声を絞り出すようにして、『でんでんむしのかなしみ』の話をしたのだった。誰の背中にも悲しみがいっぱい詰まっているという、この新美南吉の童話を初めて聞かされながら、末盛さんは思った。「この方は、これほどの苦難さえ、お小さいころに聞いた物語で乗り越えようとなさっている」5年後、美智子さまは、インドのニューデリーで行われたIBBY(国際児童図書評議会)の世界大会で、この『でんでんむしのかなしみ』の話を柱としたビデオによる基調講演を行い、世界中に子供時代の読書の大切さを伝え、やがてそれが『橋をかける』という一冊の本に結実する。この本を製作する過程では、こんな場面もあった。「私たち、同じ本を持っているのね」偶然、編集を担当した末盛さんと同じ書籍を持っていることを知り、嬉しそうな声を上げたという美智子さま。「まるで女学生同士のような、純真なお喜びようでした。同時に、私たちには特別なことでもない、好きな本について語り合うお相手もいなかったのだろうかと思ったんです。周囲には、いつも献身的にお世話をする方々もいますが、それぞれの立場もあり、そう簡単にはお気持ちを外に出すわけにはいかないのかと思います」末盛さんは、そこには我々の想像を絶する孤独があるのではないかと推し量る。「だからこそ、悲しい思いをしている人にも、より一層深く寄り添うこともできるのではないでしょうか。私が、お電話などで時々お話をして、少しだけでも気がお楽になれるのでしたら、それは嬉しいことと思うのです」陛下が譲位を終えられて以降、最近の電話での会話は、気づくとかなり長いこともあるという。そんななか、上皇陛下が、最近、こうおっしゃるのだと、美智子さまが末盛さんにふと漏らされることがあった。「あなたと結婚できて、私は、本当に幸せだった。あなたも、そう思ってくれているといいんだけど」寄り添い続けた「祈り」は、令和の時代にも引き継がれていくーー。「女性自身」2020年1月1日・7日・14日号 掲載
2019年12月31日国民の幸福を祈り、悲しみに寄り添いながら、昭和から平成と伝統と革新の歩みで邁進されてきた上皇陛下の傍らには、いつも皇后として支え続けた美智子さまがいらした。ご成婚後、60年に及ぶお二人の道のりをたどりたい。19年5月に『上皇后陛下美智子さま心のかけ橋』を出版したメディアプロデューサーの渡邊満子さん(57)は、4月に御所に伺ったときに美智子さまのこんな言葉を聞いた。「私は、5月まで、自分の体がもつかどうか心配なのです。でも、5月まではなんとかと思っておりますけれども」陛下のご譲位まで後1カ月という張りつめた時期でもあった。「その後に乳がん、白内障の手術があったことを考えても、また2度のお引越しも控えていて、お疲れも極限状態だったと思います。しかし、そんななか、こう言葉を続けられたのでした」美智子さまは、おっしゃった。「陛下のお心とお体のお疲れを総合的にわかるのは、私しかいなかったから……」渡邊さんは、ご夫婦の絆の深さを改めて知らされたという。「それは、『譲位のあとも、私が陛下のおそばでご健康を見守っていきます』という決意のお言葉だったと思うんです。その証拠に、譲位後に乳がん手術を終えると、わずか2日で退院なさいました」ご成婚前、美智子さまは、陛下の「家庭を持つまでは絶対に死んではいけないと思った」というお言葉に、これまで読んだどの小説の中にも「このように寂しい言葉はなかった」と思われ、「力を尽くしてあたたかいホームを作ろう」と心に誓われた。その後、お子さまが誕生してからも、乳人制度を廃止して、ご自分で子育てをするなど、公務でもご家庭でも、ときに周囲の反対や軋轢と闘いながら、ご自分たちのスタイルを大切になさってきた。「美智子さまは、お子さまが赤ちゃんのころ、夜泣きすると、納戸のようなお部屋であやしながら、一晩をお過ごしになったこともあったそうです。ご自分たちの道を選択するというのは、その責務も背負うことですね。そんなとき、上皇さまと上皇后さまは、同志として支え合ってこられたのです」母として、また妻としての心配りと実践も、美智子さまらしく、ひたむきでいらしたという。文学を通じて30年以上の親交がある絵本編集者の末盛千枝子さん(78)は続ける。陛下に前立腺の病気が発見された03年ごろの電話でのことだ。「お医者さまに生の玉ねぎがいいとアドバイスされたそうなんですが、美智子さまが、『そんなに生で食べられるかしら』とおっしゃって。ちょうど、地元の盛岡のおそば屋さんに“オニオンそば”という名物があったんです。その話をしましたら、とてもご興味を持たれたんです」早速、作り方の説明をする末盛さんだった。「玉ねぎのスライスにかつお節をふって、味ぽんなどをかけて召し上がるとおいしいですよ」「えっ、味ぽん!?」驚いたような口調で返ってきたという。「“味ぽん”を、初めてお聞きになったご様子でしたね。私もちょっと驚きましたが(笑)。でもその後には、その盛岡のそば屋さんから直接レシピを取り寄せお送りするなどして、お手伝いしました。そこまで陛下のお体を気遣っていらっしゃるのだと知って、また驚いたからです」ここ数年、美智子さまがお好きだとおっしゃる言葉がある。《静かに行くものは健やかに行く健やかに行くものは遠く行く》イタリアの経済学者の言葉だそうだ。親しく交流のある末盛さんも、渡邊さんも口を揃えて言う。「いまのご自分の思いと、相通じるところがあるのではないでしょうか」「女性自身」2020年1月1日・7日・14日号 掲載
2019年12月30日国民の幸福を祈り、悲しみに寄り添いながら、昭和から平成と伝統と革新の歩みで邁進されてきた上皇陛下の傍らには、いつも皇后として支え続けた美智子さまがいらした。ご成婚後、60年に及ぶお二人の道のりをたどりたい。《「生きてるといいねママお元気ですか」文に項傾し幼な児眠る 》11年の東日本大震災後、津波で両親と妹を奪われた4歳の女の子の新聞記事を見て、いじらしさに心打たれた美智子さまが詠まれた「手紙」と題された御歌である。平成は、戦争のなかった時代として人々の記憶に刻まれるだろうが、一方で地震や台風など多くの大災害に見舞われている。そのたびに、上皇ご夫妻は避難所となっている体育館の床の上に膝をつかれて、被災者に語りかけてこられた。阪神・淡路大震災から14日後の1月31日。余震も収まらないなか、神戸市長田区の菅原市場を訪れた美智子さまは、その帰りのバスの窓から、見送る住民たちに向かって、両手を握りしめ、2度振り下ろすジェスチャーをされた。この「頑張ってください!」という手話は、被災者だけでなく、日本中を勇気付けたものだ。お二人が天皇皇后となられ最初に訪れた被災地が、91年の長崎県・雲仙普賢岳の噴火災害の現場。このとき両陛下が両膝をつかれて被災者と話す光景があったが、そのお姿に感銘を受けたというのが、本誌の皇室担当記者で皇室ジャーナリストの近重幸哉さん(58)。「上皇ご夫妻がお若かった昭和の御代、皇太子と皇太子妃時代ですが、子供たちの施設などを訪問された時も、美智子さまは、相手と視線を合わせるために膝をつかれていましたが、上皇陛下は、傍らでお立ちのままでした。ですが、平成となり被災地へのご訪問が続くなか、両陛下で膝をつかれるスタイルが定着しました。当初は『天皇陛下が膝をつくというのはいかがなものか』といった声もありました。しかし、その後も平成流といわれたその寄り添われ方を貫かれたのです」美智子さまと、文学を通じて30年以上の親交がある絵本編集者の末盛千枝子さん(78)も語る。「上皇陛下は、ご自分で“世事にはうとい”ということもおっしゃっていましたね。訪問された現場での美智子さまの雰囲気を察し、その方がいいと共感されて、ということはあったと思います。美智子さまが、人々の悲しみに気持ちを寄せられるというのは、持って生まれた資質もあるでしょうが、お若い頃の精神科医の神谷美恵子さんとの交流や、聖心女子大学での体験、そして『子供捨てるなら正田の門へ』という言い伝えがあるほどのご実家の影響もお強いのではないでしょうか」喜びにつけ、悲しみにつけ、常に誠実な思いとともに人々に寄り添われる美智子さま。そのお姿に、「象徴」の真の意味を教えられた人々は、どれほどいることだろう。「女性自身」2020年1月1日・7日・14日号 掲載
2019年12月29日乳がん手術の経過が心配されていた美智子さまに、さらなるご体調の不安――。発症から3カ月間にわたる“沈黙”にあった悲痛と、雅子さまへの思いとは……。「上皇侍従次長の説明によれば、美智子さまは今年に入ってから体調を崩されていました。御代替わりを直前に控えた4月ごろから急激に体重が減少し、現在も体重は戻らないまま。ただ、美智子さまは薬による治療を行った結果、ここ1カ月ほどは嘔吐の症状はみられないといいます。上皇職の見解では、詳しい原因はわからないものの精神的なストレスが原因になった可能性が高いとのことでした」美智子さまを苦しめた“精神的ストレス”の原因となったのは、いったい何だったのだろうか。皇室ジャーナリストは、美智子さまは孫である眞子さまと小室圭さんの長引く結婚問題を憂慮されているのではないかと語る。「やはり眞子さまの結婚問題については、美智子さまもたいへん心配されているようです。秋篠宮ご夫妻が結婚に反対する一方、佳子さまは眞子さまを応援する姿勢を示されています。“小室さん問題”をめぐって秋篠宮家が分裂してしまう――。そういった危惧を、美智子さまもお持ちなのではないでしょうか」しかし宮内庁関係者は、ストレスの原因はほかにもあるとの見解を語った。「美智子さまは毎朝、新聞に目を通されます。その際に週刊誌の新聞広告をご覧になったり、気になった記事は取り寄せてお読みになったりすることもあるのです。上皇侍従次長は今回の会見でも、詳しい原因はわからないものの、週刊誌報道にストレスを感じられた結果として、胃に負担がかかった可能性があると説明しています」上皇ご夫妻はこれまで、お体の不調に関してもなるべく公表されてきた。だが、嘔吐の症状が出始めたのは9月のことだというのに、美智子さまはなぜ12月中旬までずっと沈黙を守られていたのだろうか?前出の宮内庁関係者は、皇后となられた雅子さまへの配慮があるのではないかと語る。「9月から12月上旬にかけて、天皇皇后両陛下はたいへんな過密日程でした。適応障害からの快復途上にある雅子さまは、即位に関連する一連の儀式に臨まれることに、大きなプレッシャーがおありだったはずです。すべての儀式が終わったのが12月4日、そして雅子さま56歳の誕生日が9日でした。雅子さまが皇后としてのお務めに集中できるように――。美智子さまはそうお考えになって、症状の公表を遅らせたのではないでしょうか」深く傷つかれ、嘔吐に耐え続けながらも、美智子さまは新皇后を思いやり続けられていたのだ。「女性自身」2020年1月1日・7日・14日号 掲載
2019年12月19日今年9月以降、美智子さまが血の混じった嘔吐を複数回されていた――。宮内庁の上皇職が衝撃的な発表をしたのは、12月13日の夕方に開かれた会見でのことだった。皇室担当記者が語る。「上皇侍従次長の説明によれば、美智子さまは今年に入ってから体調を崩されていました。御代替わりを直前に控えた4月ごろから急激に体重が減少し、現在も体重は戻らないまま。また6月の検査では心不全の判断指標となるBNP値が上昇していました。この数値もいまだに改善がみられないそうです。ただ、美智子さまは薬による治療を行った結果、ここ1カ月ほどは嘔吐の症状はみられないといいます」美智子さまの側近から伝えられた“異変”の数々――。その原因についても言及があったという。「上皇侍従次長は今回の会見で、詳しい原因はわからないものの、週刊誌報道にストレスを感じられた結果として胃に負担がかかった可能性があると説明しています。美智子さまは毎朝、新聞に目を通されます。その際に週刊誌の新聞広告をご覧になったり、気になった記事は取り寄せてお読みになったりすることもあるのです」(宮内庁関係者)昨年の5月、宮内庁のホームページで「眞子内親王殿下に関する最近の週刊誌報道について」と題された文書が発表された。一部の週刊誌で、眞子さまの結婚についての美智子さまの発言とされる文言が掲載されていることについて、宮内庁は《これまで両陛下は共に首尾一貫このことに関し一切発言を慎まれてこられました》と反論。「’93年に、美智子さまに対するいわれなきバッシングが続き、ついには数カ月にわたって美智子さまは声を失われてしまいました。当時、新しい御所の建設が計画された際に、昭和天皇が愛された自然林が美智子さまのせいで丸坊主になった、といった内容でした。しかし、実際には美智子さまはこの建設場所決定にいっさい関与していなかったのです。こうした事実と異なる報道に苦しまれた経験もあって、美智子さまはご自分やご家族が週刊誌でどのように報道されているのか、非常に気にされていらっしゃいます」(前出・宮内庁関係者)美智子さまの“肉声”とされる文言を多数掲載するような記事はいったん減少するが、御代替わり後から美智子さまに批判的な記事が増加し始める。たとえば即位パレードの延期について《上皇后美智子さまのご意向が強く反映されていた》などと、宮内庁は雅子さまより美智子さまの意向が優先される「二重権威」状態であるとの報道も散見された。さらに、御代替わり後にはインターネット上でも心ないコメントが急増している。ツイッター上には次のような信じがたいツイートも見られた。《皇后雅子さまは上皇夫妻に25年間いじめられてきたの、本当に理不尽だったと思う》《雅子皇后陛下の活躍をもう妨害したり口出ししたりしないで、静かに隠居生活をしていただきたいと心から願います》さらに、今回の美智子さまの嘔吐を伝えた記事にさえ、ヤフーニュースのコメント欄には、ご体調を気遣うどころか、目を疑うような文言が並んでいる。《もういいよ、そういうの。引っ越し延期の言い訳でしょ》《一線を退いたのにストレスとかあるんですか?度々お出かけになられている様ですが、自宅でゆっくり静養してください》美智子さまは雅子さまをいじめてきた、雅子さまへの嫌がらせで皇居からの引っ越しを拒否している――。そういった趣旨の書き込みが、ネット上にあふれているのだ。ご友人がフェイスブックに綴っていた介護日記を閲覧されるなど、美智子さまは以前からインターネットを利用されている。心なき誹謗コメントの数々をご覧になっている可能性も高い――。「女性自身」2020年1月1日・7日・14日号 掲載
2019年12月19日Dragon Ashの降谷建志と女優のMEGUMIの長男・降谷凪が、映画『ラストレター』(2020年1月17日公開)で俳優デビューを果たすことが9日、明らかになった。同作は岩井俊二監督によるオリジナルのラブストーリーで、夫・子供2人と暮らす岸辺野裕里(松)が、姉・未咲の死をきっかけに初恋の人・鏡史郎(福山雅治/神木隆之介)と再会し、そこから始まった手紙の行き違いが姪・鮎美(広瀬すず)を巻き込んでいく。20年以上のキャリアで熱狂的なファンを生み出してきた岩井監督が、自身の原体験を詰め込んだ集大成として、初めて出身地である宮城でのロケーションで挑む。凪が演じるのは、松演じる裕里と庵野秀明演じる宗次郎の息子・岸辺野瑛斗。撮影前、瑛斗役のオーディションを行いましたが、なかなか岩井監督のイメージに合う「瑛斗」が見つからず、何度かオーディションを行い、約200名の中から凪が抜擢された。○降谷凪 コメント映画の撮影現場に行くのは初めてだったから緊張したけど、スタッフの皆さんに優しくしてもらったので楽しかったです。休み時間には、岩井監督にオモチャでいたずらをしたりしました。触ったら変形するオモチャで、監督に渡したら「わー!」ととても大きな声で驚いていました。『ラストレター』で経験したことや気持ちを大切に、面白い表現が出来る役者になりたいです。
2019年12月09日10月29日、親交の深かった緒方貞子さんの葬儀が営まれ、美智子さまは葬儀が始まる前に弔問された。祭壇には上皇ご夫妻から贈られた花が飾られていた。お2人の交流のはじまりは、美智子さまが高校生だった70年ほど前にさかのぼるという。美智子さまの児童文学を通じての知人で、ジャーナリストとして皇室を取材してきたメディア・プロデューサーの渡邊満子さんは言う。「上皇后さまと緒方さんは、先輩後輩であると同時に『サダ』『ミチ』と呼び合われて、上皇后さまが皇室に嫁がれてからも強い信頼関係で結ばれていました。聖心女子大学初代学長のマザー・ブリットは『世の中の役に立つ女性を育てたい』という教育方針を掲げました。上皇后さまと緒方さんは、その方針を体現するように世の中のために活躍されてきたのです。まさに“日本の誇り”とも呼べる女性たちであると思います」緒方さんが国連難民高等弁務官に就任した’91年、クルド難民危機が起こった。湾岸戦争によりイラク国内で迫害を受けた100万人を超えるクルド人が、イラクとトルコの国境地帯に取り残されたのだ。国際条約上、国境を越えなければ難民として支援できない。しかし緒方さんはイラク国内のクルド人への支援を決断。揺るがない人道主義を貫いた。安全な場所から指示を出すのではなく、自ら防弾チョッキを着てイラク北部やボスニア・ヘルツェゴビナといった紛争地に出かけ、大規模な救援作戦を指揮する。その行動力は国際的な尊敬を集めた。そうした緒方さんの活躍を美智子さまも気にかけてこられた。’92年のお誕生日に際しては「この一年で印象深かったこと」として《緒方貞子さんの難民高等弁務官のお仕事》を真っ先に挙げられた。「天皇皇后時代の上皇陛下と上皇后さまは、御所に何度も緒方さんを招かれて世界情勢や国連の活動などについて繰り返しお話を聞かれていました。ご自身たちに何ができるかお考えになって、海外青年協力隊などのボランティアで活動している方たちにお会いになり励まされてもいます」(前出・渡邊さん)緒方さんは『文藝春秋』(’03年11月号)に寄稿した文章のなかで、その当時の美智子さまについて、こう記している。《難民やその地域について、恐らく日本で一番ご理解をいただいていると申しても過言ではないでしょう》日本の皇后として世界の悲惨な現状を心配されてきた美智子さま。日本人として国際平和に貢献し続けた緒方さん。二人はお互いをリスペクトし合っていたのだ。上皇陛下が即位され、美智子さまが皇后になられたのは’89年。緒方さんが難民救済や発展途上国への支援に打ち込まれているのと時期を同じくして、美智子さまも人々の平和と安全を願って、行動を示されていた。上皇陛下とご一緒に激戦の地をお訪ねになり、太平洋戦争の犠牲となった戦没者を全身全霊で慰霊する旅を続けられた。そして、日本が災害に見舞われれば、いち早く被災地に足を運ばれて、多くの被災者を前に膝をつき、同じ目線でお見舞いの言葉をかけられた。その行動は“平成流”と呼ばれ、皇室が国民に寄り添い続けることで、甚大な災害が相次いだ日本を大いに勇気づけたのだ。「美智子さまと緒方さんは自分のことを顧みず、弱者のために力を尽くすことを、人間の最高の美徳として、共通の道を歩まれた女性だと思います。緒方さんが天国に召されたことで、美智子さまはとても大きな喪失感を抱かれていらっしゃるでしょう」(前出・渡邊さん)美智子さまの“涙の弔問”には、緒方さんと夢見た平和への思いもこめられていたことだろう。
2019年11月08日冷たい雨のなか、美智子さまが乗られた車がゆっくりと東京都内の教会に入っていった。車窓に映る美智子さまは沈痛な面持ちで、和装の喪服に身を包まれていた――。10月29日、親交の深かった緒方貞子さんの葬儀が営まれ、美智子さまは葬儀が始まる前に弔問された。祭壇には上皇ご夫妻から贈られた花が飾られていた。22日に92歳で亡くなった緒方さん。女性として初めて国連難民高等弁務官を務め、国際協力機構(JICA)の理事長などを歴任し、人道支援、難民救済活動に尽力してきた。上皇陛下の学習院の後輩で上皇ご夫妻とテニスを通じて親交が深い織田和雄さんは、緒方さんとも交流があり、葬儀に参列していた。「緒方貞子さんと私がペアを組んで、上皇陛下と美智子さまのペアと対戦したこともあります。美智子さまと緒方さんは、お二人とも球を追いかけてよく走ります。プレースタイルもよく似ていらっしゃいました」緒方さん本人が『文藝春秋』(’03年11月号)に、美智子さまとの関係をこう寄稿している。《実は、正田ご一家とは古くからのお付き合いで、皇后陛下がまだ高校生でいらした頃、軽井沢のコートでテニスをしていらしたのをよく存じ上げているのです》つまり、美智子さまと緒方さんのご交流はおよそ70年前から続いてきたのだ。《私の母校である聖心女子大学を志望しておいでだとお母様から伺って楽しみにしておりましたところ、ご入学になりましたので、“先輩”“後輩”の間柄になりました》緒方さんの寄稿文には、そんな親しみに満ちた文章もあった。ベテランの皇室ジャーナリストは、美智子さまのお気持ちを推し量る。「当時の軽井沢で、緒方さんは優秀な女子大生として有名でした。美智子さまが聖心女子大学に進学されたのは、7歳年上の緒方さんに“憧れ”を抱かれていたからかもしれません。だからこそ、緒方さんと同じ英文科に進まれ、緒方さんも務めた学生自治会の会長を美智子さまも務められたのでしょう」
2019年11月08日Kis-My-Ft2の藤ヶ谷太輔が、19日に放送されたラジオ番組『藤ヶ谷太輔 Peaceful Days』(ニッポン放送/毎週土曜22:30~23:00)に出演。舞台やミュージカルの公演中、自身に課している”我慢”を明かした。番組内で、自身が主演を務めたミュージカル『ドン・ジュアン』の楽屋の様子を明かした藤ヶ谷。「7人の時の楽屋はみんなのものですから、自分用にカスタマイズしませんけど、舞台の時は一人で使わせていただいてるので、薄暗いですね。電気を点けるのはメイクする時だけ」と言い、「あとは、自分が落ち着く香りのキャンドルを焚いて、自分の部屋に近い感じにしてる」とこだわりを語った。また、楽屋にはスピーカーを持ち込み、「本番までは、テンションを上げるために、音楽をガンガンかけている」そう。さらに、舞台やミュージカルの公演中は、自分へのご褒美を用意しているそうで、「大好きな安室(奈美恵)さんの曲を我慢して、千秋楽の日だけ聴く。もちろん聴きたいけど、なんか我慢を作って。千秋楽は、スピーカーでガンガン安室さんの曲をかけて歌って踊ってやりました」と明かしていた。
2019年10月21日歌舞伎俳優・尾上菊之助が新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』に挑む。宮崎駿の全7巻の漫画を原作に、映画版では描かれなかったすべてのストーリーを、昼の部・夜の部通しで上演。あの壮大な物語がどう歌舞伎になるのか。座頭として一座を率いながらナウシカを演じる菊之助の挑戦に、期待が募る。【チケット情報はこちら】宮崎駿が『風の谷のナウシカ』の連載を始めたのが1982年。原作の2巻の途中までを映画化して話題となったのが1984年だった。描かれているのは、戦争によって産業文明が滅んでなお、人間同士が争う世界。主人公の少女ナウシカは、人々が恐れる巨大な蟲や有毒な瘴気を発する腐海と親しみながらその世界に希望を求めていく。「宮崎監督が原作を書かれてから30年以上経ちましたが、このディストピア(反理想郷)のなかで描かれる、環境、エネルギー資源、遺伝子操作、核、戦争といった問題は、変わらず考えていかなければいけない普遍的なテーマだなと改めて思います。歌舞伎もまさしく普遍的なテーマを持つものが古典として残ってきました。また、歌舞伎には『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』など丸1日かけて上演する通し狂言という上演方法があり、この物語のスケールの壮大さはそれに匹敵すると思ったんです」。この作品を歌舞伎にしたいと考えた理由を菊之助はこう語る。確かに、歌舞伎と『風の谷のナウシカ』、意外に遠くないのかもしれない。では、具体的にどのように進めてきたのか。「たとえばナウシカの衣裳に関しては、パッと観た瞬間にナウシカだとわかるように漫画に寄り添っていこうと思っています。漫画そのままではなく、青い色、ブーツ、手袋などのエッセンスを抽出して歌舞伎と上手く融合できればと思っています。それから、王蟲や巨神兵といった大きな生き物たちは、歌舞伎でもキツネや猪などのいろんな生き物が出てきますので、その延長線上の表現方法で考え、登場させようかと考えています。また、映画版に登場した音楽も、古典歌舞伎の黒御簾音楽をベースに、一部和楽器の編成で演奏します」と、菊之助のなかにはすでに構想がある様子。そして何より頼もしいのが、「古典の技法が必ず力になると思っているんです」という言葉だ。「新作歌舞伎を創作するときに助けになるのは、やはり古典の蓄積だと思っています。『風の谷のナウシカ』のあらすじをざっと大づかみして来ていただければ、あとはもう歌舞伎の世界にどっぷり入って楽しんでいただけるはずです」。400年もの間、様々な人間と物語を表現してきた歌舞伎である。『風の谷のナウシカ』の真髄がそこに見えてきても不思議はない。公演は12月6日より新橋演舞場にて。チケットは10月19日(土)より一般発売。取材・文:大内弓子
2019年10月18日「週刊誌で、美智子さまがトートバッグを持っていらっしゃる写真を見たのですが、もう販売していないのでしょうか?」そんな問い合わせが、『株式会社レオノーレ』に頻繁に来るようになったのは、9月に入ったころだったという。レオノーレは大阪にある音楽グッズを製造・販売している会社だ。担当者は言う。「お客様のお話をよく伺うと、皆さま、『女性自身』を読まれたとのことでした」本誌9月17日号のグラビアページでは、皇室ご一家のご静養先でのご様子を掲載している。美智子さまが8月27日に、毎年恒例となっている群馬県草津町での音楽祭ワークショップにお出ましになった際の写真もその1枚だった。美智子さまはピアノの鍵盤柄のトートバッグをお持ちだったのだが、実はその写真が反響を呼んでいるというのだ。前出の担当者が続ける。「美智子さまが持たれていたのは弊社がかつて製造・販売していたトートバッグでした。25年前から販売をスタートし、3年前に製造を中止しています。ロングセラー商品で、大勢の方に愛用いただきました。お問い合わせは、以前購入いただいた方からの『もう一つ新しいものが欲しいのですが』というものが多いです」鍵盤柄のバッグはけっして珍しいものではないが、レオノーレの製品の大きな特徴は、鍵盤柄がプリントではなく、しっかり縫い付けられており、丈夫でかつ立体感もあることだ。「楽譜の重みに耐えられるように生地も厚手にしています。熟練の職人たちが、裁断から縫製まで、一つひとつを手作業で制作していますので、温かみも感じていただいているようです。音楽好きの方達が愛用されている商品なのですが、美智子さまがなぜお持ちなのかは不明なのです」音楽を通じたご友人からのプレゼントだったのだろうか。それにしてもすでに製造中止になっているのは残念なこと。しかし、担当者は言う。「たくさんのお問い合わせをいただきましたので、期間限定で復刻生産することに決定したのです」
2019年10月16日根暗男子は恋愛に無縁と思われがちですが、実はそうでもありません。ささやかなことから、女子とのお付き合いが始まることはよくあります。実は恋愛に関心がある根暗男子まったく恋愛に興味がないように見えますが、根暗男子は密かに「彼女が欲しい」と思っているものです。しかも、「絶対に無理でしょ!」と言われていた根暗男子に、彼女ができて驚かれるケースは多いです。ささやかなキッカケから、お付き合いがスタートしています。意外な一面私の友人は、同じ職場の根暗男子と飲み会の幹事をすることが決まったので、とても嫌がっていました。それまで話をしたことがなかったからです。憂うつな気持ちで幹事の打ち合わせを始めましたが、根暗男子がテキパキと物事を決めるので驚いたそうです。しかも、友人の負担を軽くしてくれるように、買い出しなどの作業はすべて引き受けてくれました。意外な一面を知って、友人は根暗男子を好きになってしまいました。思い切って告白したら受け入れてもらえたので、今では誰もがうらやむ仲良しカップルです。笑顔で挨拶根暗男子は、「自分は誰からも注目されない」と思い込んでしまいます。そのために、笑顔で挨拶をしてくれる女子がいれば、たちまち意識してしまいます。会社の同僚は、無口な根暗男子を気にしていました。いつも一人でいたからです。そこで、「自分だけは無視しない」と笑顔で挨拶をしているうちに、根暗男子と話をするようになりました。そのうち、根暗というより、シャイで謙虚な性格だとわかったので、好感を持ちました。今では、根暗男子と同僚は社内でも有名なラブラブの仲です。共通の趣味根暗男子は自分の趣味を大切にする傾向があります。鉄道やプラモデル、映画鑑賞など、好きになった趣味をとことんまで追求します。そのために、一定のジャンルにおいて、人より詳しくなる根暗男子はたくさんいます。ある女子は、根暗男子が夢中になっている趣味に注目しました。その趣味は写真撮影だったからです。自分もスマホで撮影することが好きなので、「どうすれば上手に撮れるのか」聞いてみました。女子の方から話しかけられたので、根暗男子は驚きましたが、得意な分野ですから丁寧に説明してあげました。それから、二人きりで話をする機会が増えました。一緒に写真の話で盛り上がっているうちに、お互いに恋心が芽生えたのです。根暗男子と共通の趣味があれば、短い期間で親しくなれます。
2019年10月13日Kis-My-Ft2の藤ヶ谷太輔が、5日に放送されたラジオ番組『藤ヶ谷太輔 Peaceful Days』(ニッポン放送/毎週土曜22:30~23:00)に出演。10年来の友人で、ものまねタレントとしてブレイク中のりんごちゃんとのエピソードを語った。先月放送されたテレビ番組で、藤ヶ谷との交友関係を明かして話題になったりんごちゃん。「10年近いのかな? りんごちゃんと仲良くて」と話し始めた藤ヶ谷は、Kis-My-Ft2のデビューが発表されたライブ後に、知り合いと訪れた六本木のニューハーフバーでりんごちゃんと出会ったことを明かし、「ショーを観て色々お話してて、その中にいたんだよね。出会いはそこからかな」と懐かしそうに振り返った。続けて、「うちに来て、一緒に鍋パーティーもしたことがある。一緒にご飯も食べに行ったし、カラオケも行ったし。りんごちゃんはショーとかもやってるから、そういう話もできてすごく面白い」とプライベートでの仲を打ち明けつつ、「ちょっと職業柄、しゃべりの勉強みたいな感じでお店にも行く。いじり方とか、みんな愛があるんだよね。あとは、女性の気持ちも男性の気持ちも両方分かるから、話してて勉強になるし、とにかく面白い」と、ニューハーフバーにも通っていることも明かした。また、普段から連絡を取り合い、「りんごちゃんがテレビに出る時は『観てね』って連絡が来るし、俺も『今回のテレビ観たよ』って送り合う仲」だと語った藤ヶ谷。「『共演できたらいいね』なんて、よく2人で話していて。いつかりんごちゃんと共演できたら面白いかなと思ってます。とにかく本当にしゃべりが面白い。それで可愛いし。プライベートな感じで話したいですね。自分にとっても、普段と違う空気感が出るんじゃないかな」と、りんごちゃんとのラジオ共演を熱望していた。
2019年10月07日「美智子さまはご退院後すぐから朝早く起きられて、夜も遅くまでお荷物の整理をされています。あまりに一生懸命やられているので、側近が『ご無理はなさらずに』と申し上げても『そうはいかないのよ』と手をお休めにはならないのです」そう語るのは、最近の上皇ご夫妻の生活を知る関係者。9月8日に乳がんの摘出手術をお受けになったばかりの美智子さまは、すでにお引っ越しに向けた準備を再開されたというのだ。上皇ご夫妻は、現在お住まいとなっている吹上仙洞御所から高輪皇族邸(仙洞仮御所)へ引っ越される予定。そして上皇ご夫妻のお引っ越しが完了しなければ、皇居・御所の改装工事に着手できず、天皇ご一家が皇居にお引っ越しになれないのだ。「美智子さまは、皇居は天皇陛下がお住まいになるところとの思いを強くお持ちです。両陛下に少しでも早く御所を譲りたいとのお気持ちから、ご無理をされているのでしょう。しかし、そうは言いましても吹上仙洞御所には“断捨離”をしてしまえるものなど、ほとんどございません。上皇陛下、上皇后陛下が一つひとつご覧になり、どのように整理すればいいのかを判断なさるほかないのです」(前出・上皇ご夫妻の関係者)前回お住まいを移されたのは、ご即位から約5年後の’93年12月のこと。上皇ご夫妻は赤坂御所から吹上御苑に新築された御所(現・吹上仙洞御所)にお引っ越しされた。そのときの規模を見ると、赤坂御所から運び出された荷物はなんと2トントラック延べ100台分。そのうち4割ほどは宮内庁庁舎に搬入され、御所に運び込まれたのは約6割。今回も同規模、もしくはそれ以上の荷物になると予想されているため、上皇ご夫妻の“私物”は120トンを超える見込みなのだ。しかし、高輪の仮仙洞御所はそれほど広くない。赤坂御用地内に新設された倉庫に運び込まれるものもあるようだ。元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司さんはこう語る。「外国ご訪問時や来日した賓客からいただいたプレゼント、即位などの際のお祝い品、献上品などは上皇上皇后両陛下の私物になりますが、ご在位が30年という長きにわたりますので、相当な数になっていると思われます」ご贈進品や献上品の一部は、ご即位30年、ご成婚60年を記念した特別展で展示もされた。英国のエリザベス女王から贈られたボウル、オランダのベアトリックス女王からの花瓶など、外国王室からの贈り物の数々。また国内からも、全国に古くから残る伝統的な名産品が献上されており、歴史的文化的にも貴重な逸品が並んだ。そして、それらの品々はただ保管されているだけではないと話すのは前出の宮内庁関係者。「沖縄が日本に復帰した5月15日前後、御所の居間の一角にシーサーが置かれます。雲仙・普賢岳の火砕流、三宅島の噴火、終戦記念日、東日本大震災……それぞれに“ゆかりの品”が飾られます。“思いがこもった品々”が多いので、職員が勝手に手を出すわけにはいかないのです」さらに上皇ご夫妻の蔵書も膨大な量になる。前回のお引越しのときは1万冊といわれた。「ご研究関係の書籍、ご公務関係の資料なども平成23年度に御所に書庫を増築したほどですから、相当な数になっているのでしょう」(前出・山下さん)もちろん書籍に関しても、上皇ご夫妻の指示を仰ぐほかない。お引っ越しの準備が整うまでには途方もない時間がかかってしまいそうだが――。「即位の礼に続き、11月には即位の最重要儀式ともいえる大嘗祭が行われます。天皇陛下と雅子さまもお忙しい日々が続きます。上皇陛下と美智子さまのご体調を案じていらっしゃいますし、決して皇居への引っ越しをお急ぎではないはずなのです」(前出・宮内庁関係者)美智子さまには、お体に気づかわれながらゆっくりと準備を進めていただきたい――。
2019年10月03日自分がモテないのは、根暗な性格のせいだろうな…と思っていませんか?根暗女子がモテないなんて決めつけないで!実はそういう自称根暗女子こそ、究極のモテ女子かもしれませんよ。根暗女子って本当にモテないの?あなたの「モテる女子のイメージ」はどんなものですか?明るくて笑顔が可愛いひまわりみたいな女の子でしょうか。確かにそういう女性は魅力的です。でも世の中の男性はそれぞれ違った好みを持っているので、必ずしも皆が明るい女性が好きかと言うとそうではありません。底抜けに明るい女性よりも、思慮深くて物静かな女性のほうが好きだという男性もいるんです。明るくていつも皆の輪の中にいる女性はモテるというイメージを持たれやすいですが、実際にモテるかどうかより、そういう女性の恋愛事情が皆の話題になりやすいだけという可能性もあるのではないでしょうか。根暗女子はあまり人の注目を集めませんが、だからと言って必ずしもモテないと思うのは間違いです。根暗女子はネアカ女子のように話題にのぼることが少ないためモテていても気づかれにくいだけで、実は密やかに愛を育んでいてることも多いのです。自称根暗女子のミステリアスで知的な魅力「モテない」と思い込んでいる根暗女子は自分の魅力に気付いていないだけなのではないでしょうか。女性同士つるんで騒ぐことが少ないので、実は男性からはミステリアスな高嶺の花に見えていることも多いのですが、それに気づかず「根暗」と自虐してしまいがちです。自称根暗女子は話しかけにくいオーラを放っていることから男性に声をかけられづらく、そのために「自分はモテない」と思ってしまいます。でも、男性は案外デリケートな生き物です。あなたのクールすぎる雰囲気に圧倒されて話しかけられないでいる可能性はありませんか?また、根暗女子の中には読書家の人も多いのではないでしょうか。そういう女性は知識欲が旺盛で、深い洞察力や豊かな表現力を持っています。そうした人間的な魅力を「自分だけが知っている」と思って嬉しくなる男性も少なくないようですよ。自称根暗女子の交際遍歴の特徴とは?魅力の多い根暗女子ですが、積極的にコミュニケーションを取る方ではないことから交際に発展しづらいというデメリットを持っています。自分から声をかけたり出会いを求めるのが苦手な根暗女子は、職場内や大学のサークル内などのごく身近なところで交際相手と出会っていることが多いようです。また趣味の場での出会いも多く、ネット上のやり取りの中でゆっくり信頼関係を築き、オフ会で対面して交際に至る場合もあるようです。ネアカ女子のように交際が話題になることが無くても、実はひっそりと絆を深めているというのが根暗女子の恋愛遍歴の特徴と言えるでしょう。根暗女子的恋愛の奥義は相手の好意を暖かく受け入れること古来中国では、あらゆるものを「陰」と「陽」に分けてそのエネルギーの本質を捉えるという「陰陽思想」に基づいた考え方をしてきました。この陰陽思想によれば、男性は「陽」、女性は「陰」であり、動的な男性と静的な女性という対照的な位置づけがなされています。現代では、能動的で明るい女性も物静かで優しい男性も増え、それぞれの個性が生かせる社会になってきました。そんな中、根暗女子は「陰」的な女性の性質に即した自然なあり方を選んでいるとも言えるのではないでしょうか。積極性のない自分を明るく交友関係の広い女性と比べて落ち込む必要はありません。ほんの少しだけ扉を開けて、自分に向けられる好意を暖かく受け入れられるすき間を作ってみてください。焦ってガツガツと求めるのではなく相手の愛情を受け取る姿勢をもつことが、根暗女子的恋愛における究極の奥義なのです。
2019年09月23日乳がん手術から退院された翌日の9月11日、美智子さまは上皇陛下とともに赤坂御所へ向かわれた。紀子さまの53歳の誕生日を祝う夕食会に参加されたのだ。「夕食会には秋篠宮ご一家はもちろん、天皇皇后両陛下と愛子さま、黒田清子さん夫妻も参加したのです。清子さんは上皇陛下とともに、手術当日の美智子さまに付き添われました。また、天皇皇后両陛下や秋篠宮ご夫妻もお見舞いの言葉をお伝えになっていました。美智子さまはそうした“ご一家総出”のサポートへの感謝をお伝えになったことでしょう」(宮内庁関係者)ただ、退院翌日に夕食会に参加された理由はほかにもあるのではないか、と語るのは皇室担当記者。「国際親善でのご活躍など、天皇皇后両陛下に称賛が相次いでいるのとは対照的に、秋篠宮ご夫妻には、小室さん問題についての責任を問う厳しい声が上がっています。眞子さまは紀子さまに対して口を閉ざし、ご公務についての相談を除けばほとんどコミュニケーションがとれない状況が続いているそうです。小室さん問題に悩む紀子さまを少しでも労いたい、そして眞子さまとの親子仲を取り持ちたいというお気遣いから、夕食会に出席されたのかもしれません」(前出・皇室担当記者)お誕生日に際して紀子さまは、宮内記者会の質問に答える文書を発表された。眞子さまの結婚延期に関しては、推測で答えることを《控えたい》と、回答を避けられたかのように見える。しかし皇室ジャーナリストは、実はこのご回答には重要なメッセージが込められていると語る。「佳子さまの将来については、ご本人に《深く考え、歩んでいくことを期待しております》と綴られていますが、これは眞子さまの現状を念頭に置いたお言葉ではないでしょうか。眞子さまは“深く考えていない”ために小室さんと決別できずにいる、と紀子さまはお思いなのでしょう。そして《成長を支えてくださった方々にも喜んでいただけるよう》との一節は、誰よりも上皇陛下と美智子さまを思い描いて綴られたお言葉でしょう。優しく見守ってこられた上皇ご夫妻をこれ以上悲しませてはならないーー。それこそが眞子さまの“暴走”を憂慮する、紀子さまからの切実なメッセージなのです」美智子さまはこれまで、結婚については眞子さまの内心に触れる事柄であり、ご本人の決心を待つ以外ないと、辛抱強く眞子さまのお気持ちを尊重されてきた。しかし今年7月、本誌は美智子さまの知人からこんな話を聞いた。「美智子さまは、お孫さまのことが心配だとおっしゃっていました」知人は“お孫さま”が誰かは明言しなかったが、前出の皇室ジャーナリストは言う。「美智子さまは、眞子さまのことを気にかけていらっしゃるのでしょう。親しい知人や側近にさえも沈黙を守ってこられた美智子さまですが、このままでは事態が好転することはないと思い直されたのかもしれません」美智子さまは、’10年のお誕生日に際してこう述べられている。《東宮家、秋篠宮家の家族を私はこの上なく大切なものに思っており、その家族一人一人の平穏を心から祈っています》これは雅子さまの健康や愛子さまの登校不安を心配されてのご発言だが、“小室さん問題”はそれらに匹敵するご家族の危機といっていい。「病身をおしてまで夕食会に参加されたことは、ご家族の結束を何よりも大切にされてきた美智子さまの強い意志の表れでしょう。それは、小室さんを大事に思うあまりご両親に対して心を閉ざし続ける眞子さまにとって、美智子さまからの叱責にも等しいものだったに違いありません」(前出・皇室ジャーナリスト)ご家族勢ぞろいの夕食会がきっかけとなり、再び秋篠宮家が一つになる日は来るのだろうかーー。
2019年09月19日「お世話になりました。ありがとうございました」美智子さまは、見送りに並んだ病院長らに何度も頭を下げ、感謝の言葉を述べられていたーー。乳がん手術を終えられた美智子さまは、9月10日に東大病院を退院された。美智子さまが入院されるのは帯状疱疹を発症された’97年7月以来、実に22年ぶりのこと。宮内庁関係者によれば、手術にあたっては“ご一家総出”のサポートがあったという。「手術当日の朝には上皇陛下と黒田清子さんが病院に駆けつけ、美智子さまに付き添われました。手術室へ向かうエレベーターホールでは、上皇陛下が美智子さまに優しく身を寄せ、声をかけていらっしゃいました。また、秋田県を訪問されていた天皇皇后両陛下からは、侍従職を通じてお見舞いの言葉が伝えられました。秋篠宮ご夫妻もお気持ちを伝えられたそうです」ご家族の絆を胸に、手術を乗り越えられた美智子さま。8日の手術から、わずか2日でのご退院となった。そして退院翌日の11日午後6時半ごろには、上皇陛下とご一緒にお車で赤坂御所へ。美智子さまはサングラスをかけられ、まっすぐ前を見つめられていた。「11日は、紀子さまの53歳の誕生日でした。上皇ご夫妻は、誕生日をお祝いする夕食会に出席されたのです。夕食会には秋篠宮ご一家はもちろん、天皇皇后両陛下と愛子さま、黒田清子さん夫妻も参加し、天皇家のご家族が勢ぞろいとなったのです。当然ですが、眞子さまもいらっしゃいました」(皇室担当記者)美智子さまの乳がんは「ステージ1」だったとはいえ、がん手術後たった3日での外出。お体に心配はないのだろうか。乳がんに詳しい相良病院乳腺科臨床研究センター長の柏葉匡寛医師に話を聞いた。「今回の手術は抜糸や術後の処理がほぼ必要のない術式と考えられます。傷に異常がなく、全身麻酔からの回復を確認できれば、少なくとも翌朝までにお食事、歩行は可能です」早期退院を決断され、まっさきにご家族に会いに行かれた美智子さま。紀子さまの誕生日をお祝いされただけでなく、お見舞いへの感謝をお伝えになったことだろう。
2019年09月18日左胸に早期の乳がんが見つかった美智子さまは、9月8日、東京大学医学部附属病院で、がんの摘出手術を受けられた。手術は乳房を残す温存手術(部分切除)で行われ、がん組織だけを摘出。術後には必要に応じて放射線治療を受けられ、順調なら2〜3カ月で軽い運動ができるまで回復するという。美智子さまが84歳で手術を決断されたことは、高齢化が進む日本で、がん治療をどうすべきか、考えるいい機会でもあるーー。がんは加齢とともに増加する病気。平均寿命が延びたことで高齢者の患者数が増え、’14〜’15年にがんと診断された人では、75歳以上が約4割を占めている。福岡大学医学部総合医学研究センター教授で「高齢者のがんを考える会」の発起人でもある田村和夫先生はこう語る。「がんの治療には、3大治療である、手術、抗がん剤療法、放射線治療があります。それぞれに副作用や合併症などのマイナス面を伴い、それが高齢者には高いハードルになるのです。特に体の負担が大きいのが手術。がんを切除できても、ダメージから、体力や免疫力の低下による肺炎で死亡するケースもあります。当然ながら、高齢者のがんの治療によって、その人の本来の寿命を短くしてしまうことは避けなければいけません。さらに副作用で寝たきりになったり認知症になったりしないよう生活の質(QOL)を維持することも重要なのです」東京大学医学部附属病院放射線治療部門長の中川恵一先生はこう語る。「高齢者のがん治療は、体の負担の大きい手術よりも、放射線治療が中心になります。放射線治療では治らず、手術が必要なのは胃がんや大腸がん、子宮体がんなどです。早期の胃がんや大腸がんは、身体的なダメージの少ない内視鏡・腹腔鏡などで腫瘍の切除ができるため、高齢者でも耐えることができます。しかし、進行したがんで胃や大腸の全摘となると体の負担が増え、術後に体重減少や筋力低下を招き寿命を縮めてしまうことがあるので慎重な判断が必要です。子宮体がんの全摘手術も、体へのダメージが大きいので、80歳を超えて健康状態の悪い方は、慎重に考える必要があります」がんは部位ごとに違う病気といっても過言ではない。さらに進行スピードも異なる。進行が速い、肺がんは注意が必要だ。「肺がんの根治を目指し、肺葉切除をすると、呼吸機能が大きく損なわれます。高齢者で早期の肺がんなら放射線のピンポイント照射、進行した肺がんなら抗がん剤と放射線の併用が、比較的体の負担も少なくメリットが大きいのです」(中川先生)逆に、高齢であっても手術という選択が適切な場合も。「乳がんの手術は、おなかを切るわけではないので、体への負担が少ない。そのため高齢者であっても、健康状態がよければ、手術をしたほうが完治や再発を防げるなどメリットが大きい」(中川先生)美智子さまのご決断は、医師との話し合いのうえ、最善の方法を選んだことがうかがえる。最後に田村先生が語る。「高齢者のなかには、すごく元気な人もいれば脆弱な人もいます。同年齢でも個人差がとても大きい。さらに、若い人のがん治療は、根治や長期延命が目的ですが、高齢者の場合には“残された人生をどう過ごすか”ということが重要な要素になってくるのです」
2019年09月16日9月10日の午後、美智子さまは東大病院から退院された。乳がんの摘出手術からわずか2日での退院となり、病院の玄関で病院長や看護部長にあいさつされた美智子さまのご表情も晴れやかだった。「美智子さまの左の乳腺に腫瘤が見つかったのは今年7月の健康診断です。その後の検査で乳がんと診断されました。病期は『ステージ1』で、明らかな転移もありませんでした。医師団は全身麻酔のうえ、がんとその周辺だけを摘出する『乳房温存手術』を行いました」(宮内庁関係者)手術を前にした8月下旬、美智子さまは上皇陛下とご一緒に、長野県・軽井沢と群馬県・草津で静養されている。「上皇陛下の退位関連行事に伴う過密スケジュールの影響もあってか、美智子さまはかなりお痩せになってしまいました。ご高齢でもありますし、疲労の蓄積やお体への負担は想像されていた以上のものだったようです。今回のご静養は乳がん手術へ向けて、美智子さまに体力をご回復いただくことも大切な目的でした」(皇室担当記者)美智子さまと親交の深い絵本編集者の末盛千枝子さんは、ご静養前に電話を受けたという。「軽井沢に行かれる前の晩でした。『婦人之友』9月号の書評欄に、上皇后さまが朗読されてきた詩とその英訳などを収めた書籍『降りつむ』と、私のエッセイ集『根っこと翼皇后美智子さまという存在の輝き』の書評が載っていることをお知らせくださったのです。そのことをとてもお喜びになっていましたが、手術をお控えとなっていたからか、いつものお元気な上皇后さまとは少し違うご様子も感じました。翌日、軽井沢駅に到着されたときのご様子を映像で拝見したのですが、少しお疲れのようで……。しかし、ご静養から帰られてサントリーホールのコンサートにお出かけになったときには、お元気そうでした。お隣の上皇陛下も柔らかなご表情をされていましたね」軽井沢ではテニスでご友人たちと旧交を温められ、妹の恵美子さんの別荘もお訪ねになるなど、例年と同じように過ごされた。草津ではワークショップに参加されて、世界的フルート奏者、カールハインツ・シュッツさんと合奏で、サンサーンス『白鳥』のピアノ演奏を1時間ほど練習された。現地で美智子さまに会った知人はこう語る。「少しお痩せで、最近は『ピアノの譜面がなかなか覚えられないのよ』とおっしゃっていました。けれど、拝聴した美智子さまのピアノ演奏は素晴らしいもので、ほかの参加者たちからアンコールをお願いされるほどでした。そのアンコールにお応えになり、華麗に演奏される美智子さまのお姿を拝見して、ご病気も心配ないと思いました。そしてお帰りの際には、美智子さまから『来年もね』とのお言葉をいただけました」旧友たちとの会話、そして大好きなピアノを楽しまれて、美智子さまは手術へ向けての体力も英気もしっかりと養われたようだ。8日の手術は約4時間で無事終了。リンパ節への転移も認められなかった。今後、詳細な病理診断の結果を踏まえ、再発を予防するホルモン療法などが検討されるという。手術を乗り越えられた美智子さま。友人たちに囲まれ、文学を語らい、ピアノを演奏される日を心待ちにされていることだろう――。
2019年09月14日美智子さまは9月8日、東京大学附属病院で乳がんの摘出手術を受けられた。宮内庁によれば、手術は無事に終わり、経過は順調だという。美智子さまにとって初めてのがん手術。不安もおありだったのではないかと思うのだが、8月下旬の軽井沢・草津ご静養の際、美智子さまに悲愴な雰囲気はほとんどなかったという。「幸いなことに、美智子さまの乳がんは“奇跡的な早期発見”だったのです。本当に極小のがんで、ベテラン医師でも見逃してしまうようなものだったようです」(宮内庁関係者)美智子さまは、15年以上前から乳がんの検診を受けられている。本誌も’03年5月、美智子さまが都内の癌研究会附属病院(現・がん研究会有明病院)で精密検査を受けられたことを報じている。「そのころから検査を担当してきた女性医師の高橋かおるさんに、美智子さまは絶大な信頼を寄せられています。彼女は’06年の1月に地元・静岡県の県立静岡がんセンターに移りましたが、その後も毎年、美智子さまの検診を担当してきました。そのことが、今回の奇跡的な早期発見につながったのです」(前出・宮内庁関係者)今年7月、高橋さんは乳腺超音波検査で美智子さまの左胸に病変を発見、MRI検査でも乳がんの疑いと診断した。その後、いくつかの検査を経て乳がんの告知を受けた美智子さまは「よくぞ見つけてくれました」と高橋さんへの感謝を述べられたという。医療関係者が明かす。「実は、彼女は“スーパー女医”ともいうべき名医なのです。患者さんと丁寧にやりとりし、なおかつはっきりものを言う医師。術例数も非常に多いので、手術の腕も間違いありません。20年ほど前から“乳がんといえば髙橋かおる医師”と言われるほど評価が高かったのです」高橋さんは以前から、日本の乳がん検診受診率の低さに警鐘を鳴らしてきた。’05年度の時点で欧米諸国では6~8割だった受診率が、日本ではたった17.6%だった。そうした状況に危機感を覚えた彼女はいち早くマンモグラフィーを導入して、触診でわからない「非蝕知がん」の発見にも尽力してきた。触診で判別できる大きさになる前に発見すれば、より治癒の可能性が高くなるからだ。「高橋さんは“忙しくても笑顔を忘れない”、そして“自分自身が受けたいと思える医療を行う”をモットーとしていて、女性患者の信頼がとても厚いのです」(前出・医療関係者)8日の手術は高橋かおる医師と東大病院乳腺・内分泌外科の合同チームにより行われた。がんの大きさは1センチ弱で、乳房温存手術によりその周辺5センチ弱を摘出。手術は4時間ほどで終了した。美智子さまは、経過が順調ならば術後数日で退院される見通しだという。
2019年09月10日乳がん手術のため、9月7日に東大病院へ入院されることが発表された美智子さま。ご体調が心配されていたが、軽井沢に滞在された8月23日から8月30日までのご静養では、元気な姿をお見せになっていた。8月27日には、群馬県草津町で行われていた「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル」にお出かけに。午後はお一人でピアノのワークショップに参加され、夜には上皇陛下とコンサートを観賞された。「ワークショップからコンサートまでの間は数時間と短いインターバルしかありませんでした。にもかかわらず、美智子さまはワークショップでは動きやすい白いシャツスタイル、コンサートではシックなブルーのトップスに“お召し替え”されていました」(皇室担当記者)そのこだわりは、小物使いにも。「とくに印象的だったのがバッグ。ワークショップではピアノの鍵盤柄のユニークなトートバッグをお持ちでした。コンサートでは、手持ちの金具が上品な、小ぶりの籠バッグで印象を変えられていました。タイの手工業品である高級なもので、暑い季節によくお使いになられています」(前出・皇室担当記者)上皇后となられてからも、おしゃれを楽しまれている美智子さま。退院されたあとも、お元気に過ごされることを願うばかりだ――。
2019年09月07日Kis-My-Ft2の藤ヶ谷太輔が、8月31日に放送されたラジオ番組『藤ヶ谷太輔 Peaceful Days』(ニッポン放送/毎週土曜22:30~23:00)に出演。自身がこれまで影響を受けた、ジャニーズ事務所の先輩たちについて語った。「デビューするまでがすごく長かったから、数々の先輩にお世話になっている」という藤ヶ谷。10代の頃は、コンサートや舞台で、タッキー&翼にたくさんのことを教わったと言い、「タッキーは多くを語らないんですけど、背中で語るタイプ。格好良かったですね」「Kis-My-Ft2の青春といえば、タッキー&翼さん。2人に教わった“感謝を伝える”ということを、今後もしっかり継続していきたい」と振り返って、気持ちを新たにした。次に、Jr.だった高校生の頃、嵐のコンサートツアーでバックダンサーを務め、「ファンのみなさんが、僕らJr.にも『ありがとう』って言ってくれてすごくうれしかった」というエピソードを披露。「自分は向いてないんじゃないか。ツアーが終わったら、辞めようかなと悩んでいた」ことを明かし、「そのときに、幸せを与えられる人になりたいと思って。ステージ上で感極まってたら、(櫻井)翔くんが抱きしめてくれて、『お前のおかげで楽しかった』って言ってくれたんです。あのときに、自分の感じ方が違っていたら、もしかしたら違うお仕事をしてるかもしれない」と話した。さらに、藤ヶ谷は、「モンスター級のスーパースター。ものすごく怒られることも、緊張することもありましたけど、いろいろなことを学ばせていただきました」と、元SMAPについても言及。中居正広とプライベート旅行に出かけ、夜にお酒を飲みながら、「Kis-My-Ft2が、SMAPを抜けよ。そしたら、俺らももっと面白くなるから」と言われたそうで、「『SMAPを抜くこと』っていう夢ができましたね。一生叶わぬ夢を課されたグループって面白いし、Kis-My-Ft2っぽいかなって。実際に超えることはできないけど、それを目指して、追いつけるように頑張りたいですね」と、熱く語っていた。
2019年09月01日谷賢一率いるDULL-COLORED POPが現在「福島三部作」を東京芸術劇場 シアターイーストで上演中だ。谷が丁寧な現地取材を重ね、“福島”と“原発”の歴史と問題を真正面からすくい上げた意欲作。8月8日に開幕した第二部『1986年:メビウスの輪』、8月14日に開幕した第三部『2011年:語られたがる言葉たち』に続き、8月23日には第一部『1961年:夜に昇る太陽』が開幕。全3部の一挙上演も始まり、この一大プロジェクトにじわじわと注目が集まっている。福島県双葉町が原発誘致を決定するまでの数日間を描く第一部を中心にレポートする。【チケット情報はこちら】2011年の東日本大震災、それに伴う原発事故で、原発の安全性の問題が一気に表面化したのは記憶に新しい。だが、そもそも危険な原発をなぜ福島の双葉町は誘致したのか? 第一部『1961年:夜に昇る太陽』ではその発端を描き出す。貧しい地方都市にとって原発が落とす“原発マネー”は大きなものであったことは想像に難くない。だが谷の鋭い筆は他の地方都市との競争意識や様々な自治体のエゴ、さらには広島・長崎の原爆による心の傷――原爆によって大きな傷を負った日本だからこそ、原子力をプラスのものとして使いこなしたいという複雑な心理まで及ぶ、根深いものだと暴き出す。躊躇する町民と、推し進めたい政治家との丁々発止の会話劇は小気味よく、エンタテインメントとして昇華しながらも、描き出される内容は圧倒的なリアリティを持つ。誰もがその危険性に目をつぶり、あるいは安全だと騙されたふりをして、気付けば止まれなくなっていた。この道の先に2011年の事故があると知りながら観る身としては……、何をどうすれば、あの事故は防げたのかと考えても、途方にくれるばかり。それほど複雑に絡み合った歴史の真実と重みを谷は舞台上に創出した。福島出身の母親と原発で働く技術者だった父親を持つ谷は、自分の中に被害者側の血筋と加害者側の血筋、両方が流れていると言う。その谷だからこそ描けた到達点なのだろう。2011年の原発事故で16万人超が避難を余儀なくされ、今なお4万人近くが避難先にとどまっているという。だが震災から8年がたち原発事故について話題に上がることも少なくなった。しかし何も問題は解決していないということを改めて突きつけられた気持ちだ。続く第二部では福島第一原発稼動から15年後、かつて原発反対派のリーダーだった男が“原発賛成派”として町長選挙に出馬、そんな中チェルノブイリ原発事故が発生し、あげく「日本の原発は安全です」と明言するに至るまでを描き、第三部では東日本大震災・福島原発事故のさなかのマスコミの姿を描く。谷は第一部では人形劇やアングラ演劇的手法を、第二部ではミュージカルや死者(しかも動物)の視点など、多彩な演劇的表現を巧みに取り入れている。その意味でも谷の力を注ぎ込んだ渾身の連作であることが伝わる。ぜひ一見を。東京公演は8月28日(水)まで同劇場にて。8月31日(土)からは大阪・in→dependent theatre 2ndでも上演される。
2019年08月27日女優の羽田美智子(50)が8月25日、神宮球場にて行われたヤクルト・阪神戦で始球式を行った。羽田は現在出演中のドラマ「特捜9」(テレビ朝日系)にちなんで、背番号“9番”を背負って登場。その姿に球場中が湧いた。「こんにちは!よろしくお願いします!」と元気に登場した羽田は、ユニフォームに赤いパンツという衣装で美脚を披露。さらに「夏休みの思い出になるような、いい試合になるよう頑張ります!」と意気込みを語った。屋外練習場や実家の庭でも練習したという羽田だが、結果はワンバウンド。「ちょっと緊張しました」「高校球児の気持ちがわかりました」と話し、「本当はノーバウンドでストライクを狙っていたんです」とも明かした。いっぽうで「試合前の皆さんの緊張をほぐすっていう意味では、結構よかったんじゃないかな?」と笑顔で始球式を結んでいた。「~東京音頭の作曲家『中山晋平』の故郷~信州なかのナイター」と銘打たれていた今回の試合。始球式は今年4月にグランドオープンした羽田が店主を務めるオンラインセレクトショップ「羽田甚商店」がキッカケで、オファーにつながったという。大のぶどう好きである羽田は中野市産のぶどうを同店で取り扱っており、情報交換を続けていくなかで声がかかった。自身にとって2回目となる始球式は、羽田にとって思わぬ“収穫”となったようだ。また当日は作曲家・久石譲(68)の長女であり、中野市音楽親善アンバサダーを務める麻衣(40)が「君をのせて」を独唱するというスペシャルな一幕も。試合は5-1でヤクルトが逆転勝ちを果たし、連敗をストップさせた。
2019年08月26日Kis-My-Ft2の藤ヶ谷太輔が、24日に放送されたラジオ番組『藤ヶ谷太輔 Peaceful Days』(ニッポン放送/毎週土曜22:30~23:00)に出演。ゲスト出演したトーク番組『A-Studio』(TBS系)の裏話を語った。MCの笑福亭鶴瓶が、事前にゲストの家族や友人らに極秘取材をして、その内容をもとにスタジオでトークを展開する同番組。藤ヶ谷は、家族や友人、メンバーの横尾渉らが取材を受けていたことに驚き、収録後にお礼の連絡をしたそう。すると、「みんなでオンエアを観よう」という話になり、「渉は来れなかったんだけど、家族や友達が集まってうちの実家で観ました。すごいうれしかったし、家族にも友達にも喜んでもらえるっていうのが不思議な気持ちでしたね。5分前からスタンバイして、友達とかもソワソワしてて」と楽しそうに報告した。番組放送中は、集まった友人たちが、「自分が話したことが使われるんじゃないか」とドキドキしながら鑑賞していたそう。ある友人は、「たいちゃんとこんな下ネタで盛り上がります」「普段のたいちゃんはこんなことを話してます」といったプライベートトークを披露したそうだが、放送で全カットされており、「彼は下ネタでしか跳ねなかったので、『俺の出番がなくなった……』って(笑)。トークが飛んだりすると、『あれ?俺、あの話したんだけど』とか、そういうことの連続で面白かったですね」と大盛り上がりしたことを明かした。また、藤ヶ谷は、「一番そばにいる家族や支えてくれる親友たちが、あんなに喜んでくれた時間は初めて。親孝行につながった気持ちになりましたし、友達にも『ありがとう、楽しかった』『これからもよろしくね』って言われて、この仕事をしてて良かったなって。身近な人を笑顔にすることが、少しでもできたかなという喜びを感じました」としみじみ。最後は、「すごく良い経験をさせていただきました。本当に感謝しています。こんな私ですけど、これからも楽しいことをいっぱいできれば」と決意を新たに話題を締めくくっていた。
2019年08月26日美智子さまが早期の乳がんと診断されたと宮内庁が発表したのは、8月9日のことだった。美智子さまの近況について、親しい知人は心配そうに話す。「私が今年の春ごろにお会いした際、上皇后さまは『5月まで(私の体は)もつかしら、心配なのです』とおっしゃったのです。御代替わりとなる5月まで上皇陛下をお支えし続けることができるのか……。たいへんな過密スケジュールの中で、上皇后さまはそれだけを心配されていました。国民と皇室のために尽くしてこられた60年だったのです。上皇陛下が退位される日まで全身全霊で取り組まれたご負担が、一気にお体の症状として現れてしまったように思えてなりません」上皇陛下とともに、美智子さまは8月下旬に軽井沢と草津で静養され、体力の回復を図られる。そして9月以降に手術を受けられる予定となっている。美智子さまは診断結果を動揺されることもなく受け止められたという。一緒に医師の説明を受けた上皇陛下は「しかるべきタイミングでいちばん良い治療を受けられるように計らってほしい」と話されたそうだ。実は、80代の乳がん患者は増加傾向だという。乳がんに詳しい相良病院臨床研究センター長で乳腺科の柏葉匡寛医師に話を聞いた。「国立がん研究センターによると、’03年からの12年間で80歳以上の乳がん罹患者数は3倍近くまで増加しています。がん全体の罹患者数が2倍になっていることを考慮しても、大幅な伸びです。ただ平均寿命が延び、高齢でも検診に行ける元気な女性が増えたことが患者数増加の要因と思われるので、一概に悪いこととは言えません。早期乳がんとは、腫瘍の大きさが2センチ以内で、リンパ節転移のないものです。手術では腫瘍を部分切除する『乳房温存手術』と、がんが最初にたどり着くリンパ節だけを1~2個摘出する『センチネルリンパ節生検』を行うのが標準的です」美智子さまは6月に心臓弁の逆流症も公表され、両目の白内障手術も受けられた。また、御代替わり前後から急激に体重が落ちてしまったという。次々にお体の軋みが明らかになるなか、84歳での乳がん手術――。前出の知人によると、美智子さまの決断の陰には上皇陛下の愛あふれるお言葉があったという。「上皇后さまは、ご退位後の上皇陛下と静かに過ごすことを楽しみにされていました。それだけに、乳がんという宣告には、やるせない思いでしょう。昨今、上皇陛下は上皇后さまに『あなたと結婚してよかった』と、何度も何度も繰り返しおっしゃっているのだそうです。上皇陛下の愛情が何よりの支えになり、手術と闘病への後押しになっていることと思います」ご退位後、上皇陛下との“愛の新生活”でさらに強まった夫婦の絆が、病魔を乗り越えるための原動力になっているのだろう。手術後には、どういった生活を送られることになるのだろうか。前出の柏葉医師に聞いた。「美智子さまはご高齢であるからこそ、術後には早期に離床され、1日も早く術前と同じ生活レベルに戻すようなリハビリテーションが重要です。また乳がん手術後、再発のリスクを少しでも抑えるには肥満と体重増加に気をつける必要があります。バランスのよい食事と、適度な運動習慣を取り入れることが大切です」上皇陛下が’12年に心臓のバイパス手術を受けられた際には、美智子さまがリハビリをサポートされていた。「上皇陛下も7月には脳貧血でお倒れになり、体調は万全ではありません。それでも、美智子さまを支えたいという上皇陛下のお気持ちは強いはずです」(皇室担当記者)あふれる夫婦の愛で、病魔にもきっと打ち勝てるはず――。
2019年08月26日レースクイーンの谷かえがこのほど、東京・秋葉原のソフマップで最新イメージDVD『あいのたにま』(発売中 4,104円税込 販売元:イーネット・フロンティア)の発売記念イベントを行った。レースクイーンの活動と並行しながら、今年に入ってグラビアデビューを飾った谷かえは、上からB88・W55・H86という抜群のプロポーションが魅力の現役女子大生。今年2月に発表した1stDVD『タニカエ』ではFカップバストを揺らしまくってグラドルファンの視線を釘付けにした。2枚目となる同DVDは、今年5月に海外ロケとなるタイで撮影。訪問介護士に扮した谷が、訪問先で出会った高校時代の同級生と破廉恥な行為を繰り広げるという内容となっている。花柄のビキニ水着姿でプロポーションを披露し、報道陣を悩殺した谷は、最新作について「今回は私が訪問介護士となり、訪問先が高校生の同級生の男の子なんです。昔好きだった男の子だったのでどんどん距離が縮まる感じになっています」と全体の流れを説明し、「散らかっている部屋を掃除するシーンから始まり、掃除の後はプールに入りました。そのシーンで着た水着が赤いV字系の変形水着で結構激しかったですね」と撮影を振り返った。セクシーなシーンについては「夜のベッドのシーンでは、初めて氷を使って舐めたり体に当てたりしました。朝のベッドではボレロを着てぴょんぴょん飛び跳ねたのでそのまま衣装が取れちゃいそうだったし、何度もポロリしそうで危なかったです」と明かした。また、プライベートについて聞かれると、好きなパチンコに触れ「初めてやったのが19歳の時で、その時は『牙狼』をやりました。あとは『北斗無双』も好きです」と具体的な機種をあげながら、「今は自分の中できていて、行く時期なんです。さすがに毎日ではありませんが、週に1回は行くし、多い時で週に2~3日は行きますね。都内だと新宿や渋谷が多いかな」と明かし、「1日最高で13回確変してずっと止まらず8~9万円勝ったことがありました」と笑顔を見せていた。
2019年08月22日