株式会社明治屋(本社:東京都中央区、代表取締役社長:磯野 太市郎)は、影絵作家の藤城清治先生オリジナル「銀座いろはかるた」とコラボレーションいたしました、「銀座いろはかるたコラボバッグ」を2023年5月1日(月)より明治屋ストアー(一部店舗を除く)にて数量限定で発売いたします。(栃木県の藤城清治美術館、東京都のラ・ビーカフェでも数量限定同時発売)藤城清治 銀座いろはかるたコラボバッグ【商品概要】影絵作家の藤城清治先生が銀座の街を描いたオリジナルの「銀座いろはかるた」。町名や老舗のお店、ゆかりの人物を織り込んだ文字札に合わせた美しい影絵の絵札45枚は全てがオリジナルのデザインです。今回のコラボバッグのデザインはその絵札の中の1枚。2004年当時銀座にあった「明治屋銀座ストアー」がモデルになっており、絵を通じてより多くの方々に笑顔をお届けできたらという想いから今回のコラボバッグが実現しました。銀座いろはかるた【商品情報】商品名 : 銀座いろはかるた コラボバッグ価格 : 1,299円(税込1,429円)発売日 : 2023年5月1日(月)販売店舗: 明治屋ストアー(一部店舗を除く)藤城清治美術館、ラ・ビーカフェ、オンラインショップ限定数 : 1,000枚限り 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2023年04月26日「藤城清治版画展」が、大丸東京店9階イベントスペースにて2020年8月12日(水)から8月18日(火)まで開催される。藤城清治は、影絵や絵本、壁画などを制作する影絵作家。慶應義塾大学在学中より影絵劇創作活動を開始した藤城清治は、大学卒業後に絵の劇団「ジュヌ・パントル」を結成。また、編集者・花森安治に見出され、雑誌「暮しの手帖」にて長年にわたり影絵を連載した。96歳になった現在も、作品制作に力を注いでいる。「藤城清治版画展」では、光と影を表現した、幻想的な藤城清治の複製画100点を展示販売する。木の影絵に色彩鮮やかな背景、光を描いた「大きな祈り」や、月の光と影のコントラストが印象的な「月光の響き」など、繊細でファンタジックな世界観の作品が集結。観覧車や楽器、魚、鳥、自然の背景を1枚の影絵で緻密に表現した「生命讃歌」も登場する。【詳細】藤城清治版画展開催期間:2020年8月12日(水)~8月18日(火)開催場所:大丸東京店9階イベントスペース住所:東京都千代田区丸の内1-9-1・「大きな祈り」 330,000円・「月光の響き」 550,000円・「アリスのハート」 88,000円・「生命讃歌」 733,425円※価格は全て税込。
2020年08月02日『光のこびと こころの恋人 藤城清治版画展』が、大阪・大丸梅田店の大丸ミュージアム<梅田>にて、2019年7月24日(水)から29日(月)まで開催される。『光のこびと こころの恋人 藤城清治版画展』では、影絵作家の藤城清治の作品を紹介する。 慶應義塾大学在学中より影絵劇創作活動を開始した藤城清治は、大学卒業後に、絵の劇団「ジュヌ・パントル」を結成。また、編集者・花森安治に見出され、雑誌「暮しの手帖」にて長年にわたり影絵を連載した。会場では、光と影を使い、幅広いテーマで製作された新作版画や名作、絵本、書籍、グッズを取り揃え、販売する。【詳細】『光のこびと こころの恋人 藤城清治版画展』会期:2019年7月24日(水)~29日(月)会場:大丸ミュージアム<梅田>大丸梅田店 15階住所:大阪府大阪市北区梅田3-1−1入場時間:10:00~20:00 ※最終日は18:00入場料:無料■藤城清治サイン会日時:7月27日(土)・28日(日) 各日13:30~※サイン会当日に会場で対象商品を含むレシート1枚につき、税込3,000円以上購入した先着100名(1家族につき1枚)に整理券を配布。※本人または天候・交通機関の状況により、 予告なくスケジュールを変更・中止する場合あり。
2019年07月13日影絵作家の藤城清治さん(94)といえば、瞳の大きな“こびと”や愛らしい動物たちが登場する影絵でおなじみ。誰もが『暮しの手帖』の連載やカレンダーなどで目にしたことのある国民的アーチストである。画業80年を超える今も、毎年のように展覧会を行い、東日本大震災には自ら被災地にも足を運んで作品を発表するなど、創作の第一線での活動が続いている。放射線の線量計が鳴り続けるなか、防護服に身を固めながらデッサンを続ける藤城さん。鬼気迫る姿は、国民的に親しまれた、メルヘンチックな作風とは遠いように映るだろう。体験しているからこそ、戦争などをモチーフにするのはつらかったというが、年を重ねた今は違う。「どの時代も生きてきたこと自体を素晴らしいと思う。50~80代と経たからこそ戦争や災害もテーマにできる」藤城さんが、サイン会のために広島を訪れたのは80歳の夏。朝目覚めてホテルの窓を開けると、眼前に原爆ドームがあった。「心震える思いがして、すぐにデッサンに出ました。周囲を回るうちに雨が降りだして、消しゴムも使えない状況でしたが、どんどん引き込まれていったんです。それまで、僕の画風では原爆ドームを描いても自分らしさは出せないと思ったし、戦争の遺産を前にしても、かつて海軍を志願した自分自身の体験もあるから、つらさのほうが大きかった。しかし、年齢を重ねていくうちに、美しいものがある一方で、人間の負の歴史や現実の生きざまもありのままに伝えていかねばと思うようになりました」藤城さんが喜寿を迎えるころから、地方へも同行するようになったという娘の亜季さんが語る。「父は、それまで戦争に関する場所に行きたがりませんでした。原爆ドームの前でも、『僕はここを描きたい。でも、現実を描いたら、僕のメルヘンの世界に親しんでくれていたファンやスタッフが嫌がるんじゃないか』。そう言って涙を流すんです。私はとっさに、『絵描きが描きたいものを描かないでどうするの。チチ(お父さん)の自由に描いてください』と言っていました」3日間の予定の広島滞在は、終わってみれば10日間にも延長されていた。こうして’05年、『悲しくも美しい平和への遺産』が完成した。この広島以降、藤城さんに一つの変化が起きた。「それから父は、旅行カバンに必ず2冊のスケッチブックを入れるようになりました」(亜季さん)東日本大震災の後も、藤城さんは、愛用のスケッチブックを手に被災地へ向かった。震災翌年の’12年夏には、東北各地を訪れ、『南三陸町防災対策庁舎』や『陸前高田の奇跡の一本松』といった作品を制作。前者では、美しい構図の中に、庁舎を襲う津波とも炎とも見える造形が描かれている。「市民にマイクで避難を呼びかけながら奪われた職員の尊い命もありました。そんな真実の光景も描かなければならないと思いました。一本松のときは力が入って、気付いたら、上がってきた潮の中に足がつかったまま描いてました」同じ年の冬には、原発事故後の福島県大熊町にも入った。吹雪も舞い始めるなか、防護服を着てのデッサンとなった。このときも同行していた亜季さんは語る。「父は私たちと違って、腰掛けての作業ですから地面に近くて、浴びる放射線も段違いに多かったのです。私たちの線量計が“ピピ”ぐらいのときに、父のは“ピピピピピ……”と途切れなく鳴り続けて、私はその音が怖くて」移動するように説得する亜季さんに、藤城さんは怒鳴った。「バカヤロー。今、僕がこれを描かないでどうするんだ」せめてもと、亜季さんは、長靴だけは何度も履き替えるようにしてもらったという。被災地に通い続けたのと同じく、’16年に発表された特攻隊をモチーフにした『平和の世界へ』があるように、藤城さんは、戦争を後世に語り継ぐことの大事さを訴え続ける。「戦争はいったん始まったら、簡単に終わらせられるものじゃない。その悔いを、友を失った無念を知る僕だからこそできるのは、悲惨な現実とともに、そこに愛や夢を光と影で描くことだと思ったんです」広島、そして東北や熊本でも、戦争や大災害の傷痕が残る地を描いた作品には、色とりどりの折り鶴や鳥が空に向かい飛翔し、藤城さんの分身ともいうべき“こびと”の姿がある。それらは、戦争を体験した藤城さんが、われわれ人間の中に見いだした「希望」であり、「いのち」の象徴なのだ。藤城さんの挑みたいテーマは尽きない。「僕のメルヘン世界の原点でもある神話の世界を広げて描いていきたい」その言葉を裏付けるように、現在、’19年5月のお披露目を目指して、宮崎空港に飾られるステンドグラス作品の大作『神々と光と国の始まり』が制作進行中だ。
2018年11月22日10月中旬の穏やかな午後。東京・目黒の閑静な住宅街にあるスタジオ。ここの主である影絵作家の藤城清治さん(94)は、2階のアトリエで制作の真っ最中だった。藤城さんといえば、瞳の大きな“こびと”や愛らしい動物たちが登場する影絵でおなじみ。誰もが『暮しの手帖』の連載やカレンダーなどで目にしたことのある国民的アーチストである。画業80年を超える今も、毎年のように展覧会を行い、東日本大震災には自ら被災地にも足を運んで作品を発表するなど、創作の第一線での活動が続いている。50畳もある仕事場には大きなライトテーブルがいくつも並び、作業台には夥しい数のカラーフィルムやペンなどが置かれ、天井からは何枚もの作品が下がっている。「これは、イノシシ。ちょうど来年の干支だね」愛用する片刃カミソリを一心に動かしながら、藤城さんが言う。目の前で右手がシャッシャッと動くたびに、鉛筆の下絵から、かわいいウリ坊の背中に密集した毛の一本一本が切り出されていく。「いつもカミソリの刃が当たっている僕の中指は、このとおり削れてしまって、人さし指なんてこんなにカチカチだよ。ほら」差し出された指に触れれば、石のような硬さ。その無骨な指先に、藤城さんが影絵作家として積み重ねてきた歳月が年輪のように刻まれているのだった。1924(大正13)年4月、藤城さんは東京・品川に生まれた。小学校での転居後はずっと現在の地で暮らしている。慶應大学附属中学の普通部に通っていた12歳から油絵を始め、日本社会全体に戦時色が濃くなるなか、慶應の予科(高校)へ。学園祭で上演された人形劇を見たことで、「大人も楽しめる人形劇をやろう」と決心するが、徐々に授業はなくなり、勤労動員に駆り出されていく。その後、海軍予備学生に志願して海軍航空隊に入隊。少尉となった弱冠20歳で、10代半ばの少年兵を率いて、千葉の九十九里海岸で訓練を行った。慶應大学経済学部の2年に復学し、人形劇団「ジュヌ・パントル」を結成したのが終戦の翌年。続いて文学部の講師だった小澤愛圀先生を通じて影絵と出合う。「先生のお宅で、アジアの影絵芝居の写真を見せてもらって、妖しい魅力に、これぞ人形劇の原点だと、いっぺんでまいっちゃった。物資も乏しい時代でしたが、影絵なら、ロウソクや裸電球があればできるんじゃないかと思って」大学卒業後は、父のツテで銀行に内定していたというが。「なんとなく銀行はイヤで(笑)、影絵に近いと思って、勝手に映画会社の宣伝部に入社したんだ。ここでパンフレット表紙のスターの似顔絵だけでなく、企画から編集まですべて一人でやりました」この東京興行(現・東京テアトル)での奮闘のなか、淀川長治さんら偉才との交流も始まるが、人生の転機となったのが、当時『スタイルブック』編集長の花森安治さんとの出会いだった。最初は、鋭い社会批判を行う姿勢に憧れて藤城さんから訪問したが、逆に花森さんはすぐに一流編集者の目で、藤城さんの若い才能を見抜いた。「今度、新しい婦人雑誌を作るんだが、手伝ってくれないか」こうして戦後の日本社会に新風を巻き起こす『暮しの手帖』に創刊号から関わっていく。「3号目の打ち合わせのとき。たまたま停電になってね。間をもたせるため、影絵の話をしたんだよ。そしたら、花森さんは影絵にも詳しくて、『君の影絵はきっと流行るよ。これからは、人が生きていくうえで、何かためになる作品を作らなきゃダメだ』と」こうして始まった藤城さんの影絵は、『暮しの手帖』の顔の一つとして、以降、48年間に及ぶ大連載となる。結婚は24歳のときで、やがて1女をもうけた。妻となる千代さんは、会社の同僚だった。「僕の1年後に入社してきた宣伝部長の秘書でした。最初は気取ってるなと思ったけど、話すとすごく自然体で、いいなぁと(笑)」26歳で、最初の影絵の絵本『ぶどう酒びんのふしぎな旅』を花森さんの後押しもあり、出版。2年後には、銀座の交詢社ビルで人形劇『雪の女王』を上演。ちなみに今も藤城さんと親交がある黒柳徹子さんは、この作品を見たことがきっかけでテレビの世界へ誘われたと、のちに語っている。藤城さんは着ぐるみの人形劇団「木馬座」を結成後、テレビ番組『木馬座アワー』で、世の子どもたちの人気を独占するのが42歳のとき。いちばんの人気キャラは、もちろんカエルの“ケロヨン”だ。「武道館をはじめとするショーなどで、ケロヨンの中に入っていたのは、家内なんです。僕も身内には何でも言えるから、『観客席に飛び降りろ!』なんてね(笑)」そうしたなか、思いがけない依頼が届く。「皇太子妃時代から、美智子さまは、僕が『暮しの手帖』やオリジナルカレンダーに掲載していた影絵をご覧になっていたようで、’88年の『つり橋はぼくのハープ』という作品を、ぜひ原画でご覧になりたいとのお申し出がありました。僕自身、当時はこの作品を最も気に入っていたこともあり、本当に深いご理解を示していただいたことに感激して、お譲りさせていただくことにしたんです」以降、御所で、美智子さまがハープを演奏される部屋には、この作品が飾られているという。「皇后陛下になられてからでしたが、影絵のお話をしに皇居へうかがったこともありました。美智子さまはアジアの影絵芝居などにもお詳しくて、ご質問も的確なことに感服いたしました」もっと以前の’65年には、こんなほほ笑ましいエピソードも。「当時、学習院の幼稚園に通われていた皇太子殿下の浩宮さまが、木馬座のミュージカルを三越劇場に観劇にいらして、着ぐるみの馬に乗って、場内を回るという楽しいハプニングもありました。また、皇太子殿下とご結婚された雅子さまは、ご実家がうちのアトリエの“ご近所”という不思議なご縁もあるんです」雅子さまの少女時代のころには、藤城さんのアトリエには木馬座のキャラクターの着ぐるみなどがたくさん保管されていたという。「雅子さまは玄関先に置いていたケロヨンに毎朝、ご挨拶されて通学していたそうです」美智子さまにはじまり、皇太子ご一家や秋篠宮ご一家など、皇室ファミリーはこぞって藤城さんのファンで、展覧会にもたびたびお出ましになっている。藤城さんは言う。「皇族の方々は、みなさん、動物好きで、いつも生き物すべてに対する深く大きな慈愛を感じております。僕も、影絵でさまざまな動物を描きます。たとえば、猫。作品を作るとき、僕は猫が人気だからとか、自分の飼い猫のかわいさを伝えたいのじゃなくて、猫という生き物そのものの素晴らしさを伝えたいと思っている。つまり動物でも、人でも、一様に“生きる喜び”を描きたいという純粋な気持ちなんです」
2018年11月22日東日本大震災から7年を迎えた。その直前、両陛下が6月の福島県ご訪問の際に、原発周辺をご覧になると報じられた。6月9日にいわき市に入られる両陛下は、避難生活を送る原発事故被災者を激励される。その後、南相馬市で全国植樹祭、そして相馬市を訪れ、犠牲者を慰霊される予定だ。 「いわき市から南相馬市への移動には常磐自動車道を使うのですが、途中、福島第一原発が見えるほど接近するのです。両陛下の強いご希望もあり、自動車道から原発周辺の視察をされることが検討中です。来年4月末までのご在位中に、未曾有の事故を起こした福島第一原発を、ご自身の目でご覧になりたいとお考えなのです」(皇室担当記者) 実は、陛下と美智子さまは7年前の震災直後から原発ご視察を望まれていたのだ。東大地震研究所の地震火山情報センター長・佐竹健治さんが、震災翌月のできごとを語ってくれた。 「4月20日、私が震災被害の状況を説明するために皇居へ参内すると、当時の侍従長・川島裕さんが困惑した様子で『天皇陛下が、原発を見たいとおっしゃっているのです』と言うのです。当時は放射線量も高く、難色を示す川島さんに、陛下は『自衛隊の飛行機で上空から見るならいいだろう、それでもだめなのか』とかなり強硬なご様子だったそうです」 ’11年5月以降、両陛下はこれまでに5回、福島県を訪問されている。原発事故にお心を痛め、常に福島に思いを寄せてこられてきた両陛下が、7年間切望しながらも実現しなかったのが、原発のご視察なのである。おふたりの思いをより強くする出来事が昨年あったと、皇室ジャーナリストが語る。 「昨年7月、ご静養中に訪れた那須高原の『藤城清治美術館』で、両陛下が熱心にご覧になった作品があります。影絵『福島 原発ススキの里』です。荒廃した原発近くの川に鮭がのぼる様子が描かれ、事故の甚大さと同時に、再生への希望がこめられています。これは’12年11月、当時88歳の藤代さんが原発のある大熊町に防護服を着て入り、命がけで2日間デッサンしたものです。天皇陛下と美智子さまは、そんな藤代さんの行動力にふれて、さらに思いを強くされたのだと思います」 福島第一原発の事故を、絶対に忘れてはいけないーー。陛下と美智子さまが、自ら現地に足を運ばれることで、そのメッセージが国民にも伝わるはずだ。
2018年03月16日大阪・梅田の「イデーショップ ヴァリエテ」(大阪府大阪市北区大深町4-20グランフロント大阪南館5階)にて、プロダクトデザイナー・藤城成貴の作品をまとめて紹介するエキシビション「ディケイド(decade)」を10月17日から11月10日まで開催する。藤城がイデー独立後、10年にわたり発表してきたプロダクトの数々を展示販売。人気を誇るソファ「SIERRA SOFA」(14万8,000円から)や多機能カゴ「knot」、素材の特性を活かした照明「eiffel」「rivet lamp」などがラインアップ。直線で構成されたモビール「FRAMES」(2万7,000円、3万5,000円)のイデー別注カラーも登場する。1974年生まれの藤城は、和光大学経済学部卒業後に桑沢デザイン研究所夜間部を卒業。イデーを経て2005年より「シゲキフジシロ デザイン(shigeki fujishiro design)」として個人でデザイン活動を行い、現在はスペインのプロダクトメーカー「RSバルセロナ(Barcelona)」と契約。プライウッドメーカー「サイトーウッド(SAITO WOOD)」のディレクターも務める。家具のみならず「アディダス(adidas)」のスニーカーや「プティ アッシュ エルメス(petit h Hermes)」のアートワーク等を手掛けている。
2014年10月13日