鹿児島県在住。男の子2人の母。長男妊娠を機にイラストを載せたブログを書き始める。必死な毎日を笑いに変換することで、荒れ狂う精神を落ち着かせ、自分自身を客観的に見ることのできるブログは、もはやライフワーク。同世代の子を持つ母たちより共感を得たり得なかったりしながら、日々の子育てを綴り続けている。シモネタとビールを愛する。Amebaブログ公式トップブロガー。webを中心にイラストや四コマ漫画を手がける。
現在2人の子を持つ母、中村こてつです。同じ場所につむじがあるのは、おなじ時に受精した受精卵だからでしょうか。私とオットの不妊治療の体験記をお伝えします。
不妊治療を始めて、2年経とうとしていました。治療を重ねていくうちに、憂鬱になるときがありました。 そのうちの一つが、『子持ちの友人との集まり』に行くときでした。 子どもがいてもいなくてもどちらでもヨシ、と思っていたはずの私でした。 それなのに、私より後に結婚した友人たちが次々に妊娠・出産していくのを見聞きしながら、治療を続けていると、それまで平気だった集まりが、なぜだか憂鬱になりました。 大好きな友人たち、集まることが決まったら会える日をワクワクと待っていたくらいなのに。 親しい友人たちは決して私に子どもがいないことを揶揄したり、デリカシーのない質問を投げかけてくるような人たちではありません。今までと変わらず私に接してくれています。 それなのに私はどうしたことでしょう。なるべくなら行きたくない会いたくないと思ってしまう…落ち込むようなことを言われるのでは? なんらかの出来事で子どもがいないことを痛感させられるのでは? 勝手にネガティブな想像をして重い気持ちになっていました。 しかし、行ってしまえばそれなりに楽しいのです。勝手に暗い想像をしていただけでした。 ただ、友人と話が盛り上がっている最中、子どもが呼んだり泣いたりで、しょっちゅう会話を中断されてしまうとき、何とも言えない気持ちになりました。 そうせざるを得ないし、母親は子ども優先なのが当たり前。そう分かってはいても、当たり前に話を中断されることにモヤっとしている自分がいて、そんな自分もイヤで、複雑な気持ちになったものでした。 ある日、友人から相談されました。 「それまで仲良くしていた義理のお姉さん(既婚・不妊治療中)に妊娠したとメールを送った以来、連絡がない。どうしたものか」 優しい性格の友人が、珍しくムッとしている印象を受けました。初めての妊娠なのにどうして喜んでくれないんだろう、と。 お義姉さんの気持ちが分かる気がしました。 近しい存在の妊娠ほど衝撃を受けるものです。 一番の親友からメールで妊娠の報告を受けたとき、それまでのどの妊娠報告よりもドクンと心臓が波打ちました。 おめでとうの気持ちと、それ以外の気持ちが混在していました。 また追い抜かれちゃった… おめでとう… 自然にできる人はできるんだなぁ… なんで私はできない側だったのかなぁ… 〇〇子がお母さんか、楽しみだなぁ… 苦しい… おめでとう…おめでとうって言わなくちゃ… …どうしてっ…私だけっ… 動揺を抑えながら、心のドロドロを悟られないようにしながら、慎重に返信したのを覚えています。 不妊治療を始めたら、いつのまにかもう一人の自分がいました。 もう一人の私は、時々現れて、憂鬱でネガティブでドロドロしながら、自分自身の存在に傷ついていました。 治療中の方が集うネット上の掲示板では、子持ちの友人と会いたくない・妊娠した友人と距離を置いてしまう・赤ちゃんの載った年賀状がイヤだと思う…、そんな意見もよく見ました。 掲示板の女性たちも私と同様、傷ついていたのでしょうか。 人の幸せを喜べない自分自身に。 私は一体どうしてしまったんだろう。どうなってしまうんだろう。 とてもとても苦しい。 不妊治療のトンネルは一時的に人格さえも変えてしまうのでしょうか。 私は、私たちは、ただ一つの命を育みたいだけなのに。 「不妊治療していると気持ちが落ち込むことも多いの。かわいがっている義理の妹の妊娠が嬉しくないわけがないよ。時間はかかるかもしれないけれど、おめでとうって言いたいはず。だから、もう少し待ってあげて。お義姉さんから何か言ってくるまで。」 自分に語りかけながら、友人にそうお願いしました。 (※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。)
2017年10月18日生理予定日から使えるという妊娠検査薬。予定日を過ぎてもまだ生理がこない。明日使ってみよう… そう決めた翌日、体温は見事に低下しました。妊娠検査薬の封を切ることはありませんでした。 着床出血か? と検索しまくっていた出血も徐々に減っていき、生理だったのか不正出血だったのか分からぬまま、私の人工授精でのラストチャレンジは終わりました。 ショックというよりもトホホという感じでしょうか。あぁ、やっぱりねぇ。そんな感想。 クリニックに電話し、体温が下がったことを伝えました。そしてもう一つ、次、体外受精をします、とも。 10月の生理が開始したら通院開始ということで、2ヶ月間は治療が完全に休みになりました。 しばらく通院しなくていいと思うと心がすごく軽くなったのを覚えています。 人工授精を繰り返しているとき、義父が入退院を繰り返していました。 身体を悪くするのと同時に、認知症の症状が出始めました。 最終的に義父はグループホームに入り、私たち夫婦が通う形になりました。 時々病院やホームから歩いて抜け出してしまったり、 その他にも困った行動もあったりして、私たちも心が休まらない日々が続きました。 その頃は、友人たちの出産ラッシュでもあり、出産後の赤ちゃんに会うために仲良しグループで集まることもよくありました。 産まれたばかりの赤ちゃんは柔らかくて甘くて、キラキラしていました。 これから希望に満ち溢れた人生を歩いてくであろう命。 そんなキラキラした命を愛おしそうに抱く友人。 一方私は、義父の辻褄の合わない話に相槌を打ったり、抜け出してふらふら歩く後ろ姿にずっと付き合ったり、誰かに謝ったりしていました。 赤ちゃんと老人、同じお世話が必要な人間を抱えている。 同じ命のはずなのに 違う 世界が違う 友人たちの子育てトークを聞きながら、そんなことを思っていました。 治療と同じく、いつまで続くのか分からなかった義父のお世話。 漠然とした不安な日々に心も身体も疲労していました。 同じ空間にいるはずなのに、私と友人たちのいる世界は違うんだと思いました。 赤ちゃんを幸せそうに抱く友人がまぶしくてまぶしくて 私はそっと目を逸らしました。 (※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。)
2017年10月04日自分の中でなんとなくそんな気がしていました。もしかするとドクターもそう思っていたかもしれません。けれども、治療をステップアップする決心がつきませんでした。 排卵誘発の注射の量を増やして、8回目の人工授精をすることにしました。また5日間注射に通います。 そんな中、台風が接近し、クリニックが休診となった日がありました。が、私は毎日注射を打たねばならないので、暴風域を抜けるであろう夜9時に通院することになりました。 夜だったので、オットも一緒に行けました。 クリニックには私たち同様、注射を待つご夫婦が何組かいました。 ぼそぼそと会話をする声と、窓の外を通り過ぎる大きな風の音。二つの音を聞きながら、ぼーっと座っていました。 あぁ、どうして今、私はここに座っているんだっけ… 台風の後、夫婦で話をしました。人工授精はこれで最後にすることに決めました。 そして、8回目の人工授精の日。 ―これで最後― 自分の中で(まさか体外受精まではしないだろう…)とたかをくくっていた部分がありました。 気付けば、その『まさか』は目の前。たかをくくらず、腹をくくる時がやってきたようです。 内診で、右に約10個、左に5、6個の卵胞を確認しました。 このまま排卵させる注射を打つと卵巣が腫れる可能性があるということで、点鼻薬での排卵に切り替わりました。 予定していた注射は、一週間体内に残り、排卵せずにいた他の卵胞がどんどん成長してしまい、結果卵巣が腫れる…という事態になりえるとのことでした。 点鼻薬は注射より効果が小さいけれど、一度のみの効き目なので、上記のような副作用がないとのことで、OHSSを心配していたので、ホッとしました。 そして、最後の人工授精を無事に終え、2週間後の判定を待っていました。 すると、生理予定日より一週間早いのに、出血… こ、これは…着床出血ってやつ??? 着床出血とは、受精卵が子宮に根を生やしたとき(着床)に起こると言われる出血で、ネットで不妊治療の掲示板などを読んでいると、治療の末妊娠された方がよく使うワードなのです! 検索魔になる私(笑)。 「着床出血 症状」などで検索しまくります。 検索結果で自分の症状と同じようなものばかりを信じ、そうでないものには理由をつけて無視していた気がします(笑)。 その後も出血は続き、クリニックに相談すると様子見と言われ、次の診察までにさらに検索しまくる毎日でした。 生理予定日に生理が来ませんでした。 前日に届いたメール便の封を切りました。生理予定日当日から使える妊娠検査薬です。決めました。 (※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。)
2017年09月20日ステップアップを検討する目安でもあり、自分の中の「ここまでには妊娠!」と目標にもしていた6回目の人工授精。その人工授精も妊娠することなく終わってしまいました。 ここから、どうするか… オットは私の考えを優先するというスタンス。 私は…私はどうしたいんだろう。 産めるものなら産んでやるわい、と気持ちは切り替えたものの、切望しているわけではありませんでした。今すぐにでも欲しい! そう思えたなら、何の迷いもなく体外受精などにステップアップしていたでしょう。 身体的、経済的に負担はないほうがいい…もう少し、人工授精で頑張りたい。 悩んだ末、ドクターに伝え、7回目の人工授精に挑むことにしました。 挑むにあたり、誘発の仕方を変えてみることにしました。 これまで内服薬で排卵を促していましたが、注射で直接ホルモンを注入する方法に変えます。 この方法だと、今までの人工授精より2割くらいは妊娠の可能性が上がるとのことでした。 内服薬とは反対で、頚官粘液も増えるし、子宮内膜も厚くなるというメリットもあります。デメリットといえば、卵巣過剰刺激症候群(OHSS)になる可能性があるということ。 卵巣が腫れたり、同時に排卵することで腹水がたまったり、重症になると胸水も溜まります。血液濃度が濃くなって、血栓(脳梗塞などの心配)ができやすいとの説明も受けました。そうならないためにも、様子を見ながら少量ずつ使用していくとのことでした。 また、卵胞がたくさん育ちすぎて、多胎の可能性も20%とかなり高くなると言われました。このようなデメリットがあるため、治療のために同意書を記入しました。 OHSSになりやすい人は、多嚢胞性卵巣症候群の人や若い人とのこと。29歳ですけど…というと、十分若いです。と言われてちょっと嬉しくなる乙女心(笑)。 7回目の人工授精に向けて、治療が開始されました。 まずは卵胞を育てるために注射に通いました。5日連続、1本の注射を打つためだけに往復3時間の通院です。注射は筋肉注射で、肩かお尻のどちらに打つか選べます。 腕よりはましな気がして、私はいつもお尻を選択していました。ものすごく痛く、打ったあとも筋肉痛のような痛みが数日続きました。 そして7回目の人工授精を実施。 これまでとは違った方法での人工授精。期待と不安で過ごす2週間でした…。 妊娠できたらその後の生活は一変するなぁ。双子ちゃんだったらどうしよう~(無知ゆえの憧れがありました)。産院は家の近くがいいのかなぁ。そしたらオットは毎日来るかもね。 くすくす、くすくす。 -2週間後- 体温の下がった朝、生理が始まりました。 うん。キソタイオン、ウソ、ツカナイ。 7回目の人工授精も失敗。 「どれくらい長いか分からない暗いトンネルの中を歩いている」 不妊治療はそんな風に表現されることがあります。治療を始めてから時間だけが経ち、気付けば私もトンネルの中を歩いていました。 奥へ進めば進むほど、不安や悲しみ・焦りが体にまとわりつきます。まったく明かりのない中では、気持ちを上向きに持つことが段々と難しくなっていきます。 出口は、まだ見えませんでした。 (※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。)
2017年09月06日初めての人工授精は月経が始まったことで、成功しなかったことを知りました。 そこまで落ち込むことはありませんでした。 「…まぁ、まだ1回目だしね。」 自分の中で6回までは挑戦してみると決めていました。 そして、おそらくそれまでには妊娠できると、不思議な自信も持っていました。(今思えば何の根拠もない(笑)) オットは「精子無力症」と診断され、その後の複数回の精液検査でも精子の運動率は基準をかなり下回る結果が続いていました。 しかし、人工授精の時は洗浄濃縮され、人工授精するには問題ない値になっていました。 私も毎回の診察でしっかり排卵していると確認していました。 だから回数を重ねて、確率を上げていけば、いつかきっと妊娠できる。そう思っていました。 翌月、2回目の人工授精をしました。生理がきました。少し気持ちが塞ぎました。 年を跨ぎ1月末、3回目の人工授精をしました。生理がきました。 その少し前に、姉が第二子を妊娠したことを聞きました。涙が出ました。 その翌月、4回目の人工授精をしました。 結果待ちの間に私の誕生日がきました。29歳になりました。 誕生日の日、生理がきました。些細なことがきっかけで大泣きしました。 4回目の人工授精のときには、精子に影響することを聞いたオットが禁煙を始め、精子の値がかなり改善したこともあり、少し期待していました。 (オットも大喜びしていましたが、その2ヶ月後には元に戻ってしまいました…) 翌々月、季節は春になっていました。 5回目の人工授精をしました。 生理予定日になっても生理がきませんでした。 妊娠検査薬使ってみようか…そう思った日の夜、生理がきました。もう泣きませんでした。 すぐさま、クリニックへ来月の予約をしました。 その翌月、6回目の人工授精をしました。あたりまえのように生理がきました。 いつのまにか、ステップアップの目安である回数になっていました。 (※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。)
2017年08月23日タイミング療法を数回試した後、数か月の通院拒否、そして開き直り( 第10話参照 )、その後、不妊治療クリニックに再デビューした私は、ドクターに次のステップに進むことを伝えました。 看護師さんから『人工授精(AIH)を受けられる方へ』という用紙とともに、説明を受けました。 人工授精は、精子が少ない場合や原因不明の場合に、少しでも卵子の近くまで精子を運ぶため、精子を子宮の中に入れる治療です。 ちょうど排卵の時期に、採取した精液を洗浄して元気のよい精子だけを選び、細いチューブで子宮の中に注入します。 私の場合ですが、人工授精のための通院は3、4回ほどでした。 月経が開始したら排卵誘発剤を飲み始めます。 排卵日近くなったら卵胞の大きさをチェックし、排卵日を予想し、人工授精の日を決めました。場合によっては点鼻薬や排卵を促す注射を打ったりもします。 当日の朝、寝室にオットを一人残し、採精してもらいます。 採れたての精子とともにクリニックへ。採った精子はそのまま注入するわけではなく洗浄し、ばい菌などを取り除きます。その間1時間ほど待ちます。 診察室に呼ばれました。 いつものお股開脚椅子に座ります。 膣内に細い管が差し込まれる感覚が分かりました。 いよいよだ…ドキド… 「はい、終わりましたよ~。」 えっ、もう終わり?! ドキドキする暇もなかった… 自分が不妊治療を始める前は、その音の響きから否応なく不妊治療してますっ! という感じを受ける「人工授精」だったけれど、いざやってみると本当に簡単でした。 体への負担も軽かったです(個人差はあるかと思います)。費用も保険適用ではないものの2万円前後と比較的挑戦しやすいです(…と思うのは、その後の治療で金銭感覚がおかしくなっていったからでしょうか(苦笑))。 しかし、これで妊娠できるのなら…精神的にも身体的にも経済的にもいい、と私は思いました。 ドクター曰く、人工授精で1回当たりの妊娠する確率はそこまで高くはなく、5~6回挑戦してみて結果が得られない場合、ステップアップ(体外受精・顕微授精など)を検討することが多いそう。 よし! 6回目までには妊娠するぞ! 1回目の人工授精の帰り道、静かに闘志を燃やした私なのでした。 (※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。)
2017年08月09日一度目のタイミング療法は、極度の私の緊張により失敗に終わりました。 その後のタイミングでは、なんとか行為は成功(笑)。 回数を重ねるごとに、排卵誘発剤を飲んだり、人工的に排卵を起こす注射を打ったり、さらに強い排卵誘発の注射をしたりと、いろんなことを試したけれど、妊娠には至りませんでした。 4、5回タイミング療法を試した頃、急用でクリニックの予約をキャンセルしました。 その後、予約を取り直さなければならなかったのに、私はそれをしませんでした。 そのまま、ズルズルと病院に行かないまま4ヶ月が過ぎました。 ずっと黙って見ていたオットがとうとう口を開きました。 「また、行こうか。」 渋々と、私はまたクリニックに電話をしたのでした。 通院を休んでいる間は、ゆっくりと自分と向き合う時間になったのかもしれません。 私の中で、少しずつ心境が変化していました。 治療して子どもを作ることを拒んで過ごしている今の生活。それは、ひとつの尊い命を産み育てるというそのことと果たして釣り合うのか。その価値はあるのか。 もし自分に子供を産むことができるのなら、それに挑戦すべきじゃないか。 私は挑戦する権利を持っている。 しかもそれに期限があるならば、できるときにやるべきではないか。 何もしないで後で万が一後悔するより、挑戦してそれでも出来ないなら、そのときに別の人生を考えてもいいのではないか。 おそらく60歳になってから、治療を始めてもおそらくもう遅い。 やれるもんならやってみよう。産めるもんなら産んでみよう。そんな気持ちが芽生えていました。 そうなると、もう自分にウソはついてないので、気持ちが軽くなりました。 クリニックに通うことも苦ではなくなりました。 今までは、子供いないことが不幸じゃないんだと言ってる自分なのに治療に通う自分。この矛盾が苦痛でした。 しかし「産めるものなら産んでやろうじゃないか、てやんでぃ。」と開き直る(?)ことができたら、憂鬱な世界がパァ~っと明るくなったのでした。 (※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。)
2017年07月26日私とオットの不妊の要因も判明し、さぁいよいよ本格的な治療へ進みます。 って、とりあえず検査だけのつもりが、いつのまにか治療を進める話になっている…けれども子どもが欲しいというオットの気持ちを考えると「やりたくない!」と突っぱねることもできず…ゆらゆらしていました。ゆらゆらしたまま通院していました。 何か事情がない限り、多くの人が考えることだと思うのですが 私もそう思っていました。 そこで自然に近い形の『タイミング療法』をやることにしました。 自分でできる方法なので、妊娠したいなぁと思っている方なら、一度は試したことがあるのではないでしょうか。 基礎体温やおりもの(経管粘液)の質などの変化から排卵日を予測し、適切なタイミングで性交を行ないます。 自分でもできますが、病院だと超音波検査(卵胞の大きさを計測)や場合によっては血液検査や排卵誘発剤などを使いながらタイミングを計るので、かなり正確にタイミングが取ることができます。 ドクターいわく、卵子と精子の寿命などから、排卵直前に性交し、精子をスタンバイさせるのが理想らしいです。 まだまだ治療に前向きになれず鬱屈とした気持ちでいたので、卵胞チェックのためにクリニックへ向かう足取りも軽くはありませんでした。 クリニックは繁華街にあり、結婚してから田舎に住むようになった私には魅力的なお店もたくさんあったのですが、ウィンドウショッピングをして帰る気にもなりませんでした。 ある日の受診日、ドクターが言いました。 いよいよか…ごくり。 メールでオットに伝えました。 『今日だって。』 『了解。早く帰れるよう調整する。』 夜、全ての準備は整い、私たちは寝室へ。 そして、先生の指導どおりのタイミングで…… ココロとカラダは繋がっているんだなぁと深く実感した出来事でした。 私の体が全く反応しなかったのです。…カラッカラ(笑)。こんなことは人生で初めてでした。なんとかかんとか努力しようと頑張ったオットも最後には諦めました。 こうして初めての不妊治療は「できずに終了」という結果に終わったのでした。 (※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。)
2017年07月12日精液検査の結果、オットが精子無力症と言われました。ドクターによると、精子の運動率が低い状態を精子無力症と言うそうです。 オットの運動率は基準を大きく下回っていました。卵子に向かってまっすぐに泳いでいかねば妊娠に繋がらない運動性は「その場運動」だったり「緩慢」の欄に〇がついていました。この運動率を改善する方法は分かっていないそうです。 ただし、精子のコンディションは日常のストレスや生活習慣によって日々するので、一度の検査だけでは判断せず、複数回検査をします。 検査結果をオットに伝えるのにショックを与えたくありませんでした。 どうしてか。 その頃、オットと私との間には夫婦生活への欲求のズレがありました。 オブラートに包みますが(笑)、朝早くから夜遅くまで仕事のオットに、私からの愛のボールは返球してもらえず、ボールかごの中に仕舞われることがよくありました。プレイボール! のかけ声がグラウンドに鳴り響かず、寂しさから夜中にお酒を飲んでしまう日々でした。 そんな感じだったので、オットが検査結果にショックを受けたら、今以上に試合できなくなるのでは? と不安でした。 どう言えばいいの…精子無力症だったことより、試合できなくなるんじゃないかとの不安のほうが正直大きく、私は軽くパニックになっていました。 オットが帰宅しました。 どうだった?ともちろん聞かれ…私は言いました。 私も一応PCOSと診断されていたので、あくまで「両方に」というところを強調しました。 オットは言いました「そっかぁ…」。 大きくショックを受けている風でもなく、真摯に事実を受け止めていました。 「原因も分かったことだし、治療がんばろうね。」 男性はプライドが高い、ましてや生きる上で大切な部分の事、きっとショックを受けるだろう。そう思い込んでいたので、オットの様子は拍子抜けでもありました。 「次の治療は何するの?」と前向きなオットにいろんな意味でホッした私でした。 この記事を書くにあたり、オットに当時の気持ちを聞いてみました。 ショックだったけど、数年妊娠していない事実があったからそんなこともあるかなぁと思っていたそうです。 そして不妊治療しようと決めた時点で覚悟もしたと。だからショックだけど原因が分かって、次に進めるな。と思ったそうです。 オットは、中途半端な気持ちで治療を開始した私とは違いました。 (※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。)
2017年06月28日治療をする前は「精液検査」というと、病院の小さな部屋で採精しやすくなりそうな映像を再生しながら…というようなイメージが刷り込まれていたので「オットもこの病院のどこかで…ゴクリ」と妙な緊張をしていました(笑)。 が、実際は、日にちを指定され、当日の朝に自宅で採取したものをクリニックに持参するという方法でした。それを聞いて、オットも私も、ホッとしました。 次回が精液検査という診察のお会計の時、採精用の容器を受け取りました。 プラスチックの蓋付のコップでした。茶色の紙袋に入っていました。 一見するとカフェで買ったアイスカフェラテ…みたいな…。街で小脇に抱えても気付かれなさそう…こらこら(笑)。 当日の朝。オットは一人がいいと言うので、別の部屋で待ちました。しばらくしてオットが部屋から出てきました。 おお! これが… 妙な感動。 いい大人ですから、まったく見たことがないと言うと嘘になりますが、こうしてわざわざ容器に採ったものをまじまじと見るのは初めてでした。 オットは出勤し、私はクリニックへ向かいます。 時間が経つと鮮度が落ちそう…と思うと焦りました。余談ですが、採取したばかりの時はトロリとしているのに、時間が経つとサラサラになっています。 朝イチでクリニックに精液を提出し、検査を待つ間は近くのカフェでカフェラテを飲みました(笑)。 診察室に呼ばれ、ドクターからの話を聞きます。 「旦那さんの検査の結果ですが…」ドクターは『精液検査報告書』と書かれた用紙を差し出しました。 ドクターの言葉とともに用紙の下の方に丸く囲まれた「精子無力症」の文字が目に入りました。 ドクターはなおも続けます。「症状の程度でいうと、中等度~重度、ですね。」 精子が無力…!? しかも重度…!? この日のこの結果を聞いたあと、ドクターとどんな話をしたか、思い出そうとしましたが思い出せません。 ただ、「オットにどう言えばいい?」という想いがぐるぐると頭を回っていました。 (※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。)
2017年06月14日不妊治療を進めるにあたり、必要な検査がいくつかありました。(採血によるホルモン検査・卵管の通過性を調べる検査・子宮を内視鏡でみるファイバースコープ・超音波検査など) 月経周期に合わせて検査を行うので、一通り終わるまでに1か月半ほどかかりました。 検査の結果、私は『多嚢胞性卵巣症候群(たのうほうせいらんそうしょうこうぐん)』だと言われました。 初めて聞く言葉でした。PCOSとも表現されます。 ドクターから、卵巣内の卵胞(卵子の入った袋)の発育が遅く、ある程度の大きさになっても排卵されず、複数の卵胞が卵巣内にたまってしまう疾患だと説明を受けました。月経異常・多毛・にきび・肥満などの症 状を伴うことがあるとのことです。 排卵がされないままだと、卵巣の皮は段々と厚く硬くなり、ますます排卵しにくい状態になってしまうようです。 毎月起こるはずの排卵がなんらかの原因でうまく行われない状態は排卵障害と呼ばれ、多多嚢胞性卵巣症候群もそのうちの一つです。若い女性の排卵障害では多くみられる疾患のようです。 多嚢胞性卵巣症候群と診断された場合でも、程度には個人差があり、全ての特徴を持っている人もいれば、超音波での所見だけが異常(ネックレスサイン:複数の卵胞が繋がっているように見える)の人もいて、重症度はさまざまのようです。 中にはスムーズに排卵できる人もおり、自覚症状がないため気付かず自然妊娠していたり、診察して初めて知るという人もいるようですが、どの人も排卵しにくいことは確かだそう。 エコーで確認すると、確かに私の卵巣にもいくつかの卵胞がありました。 後の診察でも確認していくのですが、私の場合は、毎回ではないけれど排卵はできているようでした。クリニックのドクター曰く、多嚢胞性卵巣自体は体質だそうです。 説明を受けながら、あぁやっぱりね…と思っていました。原因があるから妊娠もしていないわけで。 しかしながら、不妊症は原因が一つではなく、複数のこともあり、また最後まで原因が分からないということも多くあります。 そして、男性側に原因があることもあります。ですので、女性の検査と共に、男性も検査を受けることは必要不可欠です。 私の通っていたクリニックでは必ず行う検査として『精液検査』がありました。オットもその検査を受けることになりました。 (※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。)
2017年05月31日不妊治療クリニックの初診の日になりました。平日の午後だったので、一人ででかけました。繁華街のビル中にあるクリニックへは、我が家から車で1時間半かかります。 ビルにある共同の小さなエレベーターで上がりました。上がっているのに、どんどん下に行くような気持ちでした。あぁ、とうとう来てしまった。 初めに問診票を書き、その後ドクターから妊娠のメカニズムや今後の検査方法・治療方法などの説明を受けました。 その後、子宮と卵巣の状態をチェックするために、診察台に上がりました。 それまでテレビでしか見たことのなかった、カーテン越しに下半身を丸出しにするあの診察…。 スカートと下着を脱ぎ椅子に座ると、看護師さんの「動きますね~」の声と同時にウィーンと開脚していく我が身。あぁ… その後、妊娠出産と頻繁にこの椅子に座りましたが、ずっと慣れることはなかったです…。 毎回、心の中でひぇ~~! と叫びながら(笑)、自然と腰を上にずらしてあまり開脚しないような体勢を取ってしまうのですが、必ず看護師さんに「もう少し下がってください」と指摘を受けてしまうのでした。 クリニックは、治療中の繊細な心にとても配慮しているのであろう気配りが行き届いていました。 看護師さんも事務員さんもみなさん優しく丁寧で、通院中、心を傷つけるような言葉は何一つ言われたことはありませんでした。 私の県に不妊専門のクリニックが少ないということもあるけれど、人気があるのが納得の病院でした。 スタッフ皆さんは優しくも『妊娠できるよう頑張っていきましょう!』という雰囲気でした(不妊クリニックだから当たり前なのですが)。 それだけに、自分の気持ちと周囲の気持ちのギャップに戸惑いました。気持ちと行動が矛盾している自分にも戸惑いました。 下半身を露出して器具を入れられる妙な虚しさも手伝って、クリニックを出て車に戻ると我慢していた涙がこぼれました。 泣きながら運転していると、偶然仲良しの友達を発見しました。 仲良しだったのに長く会えずに、普通だったら「おおーい!」と声をかけてお茶でもするところですが、私は目をそらして彼女の横を通り過ぎたのです。 泣き顔を見られたくはなかったし、その理由を妊婦の彼女に説明できる自信はそのときにはありませんでした。 (※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。また、この体験記に記載された内容や治療法は、あくまでも筆者の感想であり治療を保証するものではありません。)
2017年05月17日オットが言いました。 すでにネットで検索し、不妊治療専門の病院を見つけていたようでした。 結婚してもうすぐ丸4年になろうかという、ある日。 私は27才になっていました。 当時の不妊の定義というと「避妊しないで2年以上妊娠に至らない状態(※)」と言われていました。 私たち夫婦は、ばっちりそれに当てはまっていました。 (※)2015年8月、日本産科婦人科学会は不妊の定義を従来の2年から諸外国に合わせて1年に変更。 オットの提案に数秒固まりました。 とうとう来たか…。 正直、イヤでした。 けれども、これは私だけの問題ではなくて、夫婦の問題。子どもを欲しがっているオットの想いを無視することはできない…。 とりあえず検査だけはしてみる…と、渋々承諾しました。 オットはその場でクリニックへ電話しました。が、妻本人からの電話でないと予約できないと言われ、また私がかけ直しました。 初診の予約が3ヶ月先に決まりました。 私の住む県には専門病院の数が少ないからでしょうか、初診の予約の取りにくさは現在もあまり変わっていないようです。 初診までに毎日基礎体温をつけるよう言われました。 憂鬱でした。とても。 それでも、病院で言われたとおりに基礎体温を記録しはじめました。 基礎体温は、朝目覚めてから体を起こさずに舌下に入れて5分ほど測ります。 (私は知らなかったのですが20秒ほどで測れる「予測式」というものもあるそうな!) これが曲者(笑)で、朝に弱い私はしょっちゅう二度寝してしまい、口の中からポロリと落としてしまうことがよくありました…。 寝ぼけながらも「落としちゃダメだ…」とものすごい力で噛んでいたので、私の体温計は歯形でボロボロになっていました(笑)。 風邪を引いたら内科に、心を病んだら心療内科に、それと同じように子どもが欲しいけれど妊娠しづらいなら不妊専門の科にかかるのは当たり前だと思います。 しかし、私の場合、自分にその気持ちがないのに行かなければならないことが本当に苦痛でした。 そして、初診の日がやってきました。 (※私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです)
2017年05月03日結婚して3年が過ぎました。オットの希望もあり避妊はやめていました。いつでも妊娠する状態。しかし、妊娠しない。実家の母からは帰省のたびに「早く産め産め」コールが。 「不妊治療」という言葉はメディアなどで知っていました。しかし、治療をしようという気にはなれませんでした。 結婚して数年経った私たち夫婦に子どもがいないという話になると、同情されたり、気まずい雰囲気になったりする時がありました。 冗談まじりにもっと頑張れと応援されたり、妊娠に効果的なアドバイスをいただくこともありました。 もちろん不妊治療を勧められることもありました。 できなくても大丈夫よと励まされ、夫婦二人でも楽しむための人生のコツを伝授されることもありました。 私にはそれらのすべてが、「子どもがいないとダメ」だと言われているように聞こえました。 結婚したら次は子ども。それが定番の流れ。それが幸せな人生。 当たり前でしょと言わんばかりの周囲の無意識の態度がどうも腑に落ちませんでした。 パートで働きだした職場の宴会で、酔っぱらった男性上司に子どもがいかに素晴らしいかをねちっこく語られ、そんな素晴らしい存在を産まないなんてダメダメ! 的なお説教をされたこともありました。 半笑いで対応しながら、え? 私ダメなの!? と頭の片隅でボーっと考えていました。(その上司とは説教後、表面上の付き合いだけに徹しました(笑)。) たしかに子どもは素晴らしい。子どもがいることはひとつの幸せ。 自分の人生が「子どもがいること」でしか幸せじゃないとしたら、それは悲しい。 子どもがいるいないで人生が幸せかは決まらない、そう思っていました。今でも思っています。 幸せかどうかは結局はその人の生き方次第。 子どもは人生の何分の一かを共に過ごし、子育てという体験をさせてもらう相手であって、親の一部でも所有物でもありません。 ある年齢に達したら、彼らはそれぞれの人生を歩いていくでしょう。 子育てという貴重な体験はとても素晴らしいものだろうけれど、人生においての素晴らしい体験はそれだけではなく、もし今回の人生で子どもを持たなかったとしても、きっとこの世に生まれてきた別の役割があるのではないでしょうか。 そんなことを考えていたので、不妊治療してまで産みたいとは思いませんでした。 積極的に子どもを「作る」ための治療は、自分の今の人生を否定するような気がしたのです。 自然に妊娠したなら育てるし、できなければできないで2人の生活でイイと思っていました。 夫婦での生活はとても幸せだったのですから。 私、今でも十分幸せなんですけど? 産まないとダメですか?産まないと不幸せなんですか? 大きな声で叫びたい衝動にかられていました。
2017年04月19日私が結婚したのは23才のときでした。高校の同級生の中ではとても早い方。 最近では第3次の波のほうが高くなっているか…。 若く結婚したので、「子どもは、まだしばらくいいかなぁ~」と思っていました。オットもその意見に賛成でした。 しばらくは夫婦二人の生活を楽しもうよ。そうしよう。 でも……「しばらく」の概念って人それぞれなんですよね。 オットは結婚当時35才。私よりひとまわり年齢が上でした。自分の年齢のこともあり、早めに子どもが欲しかったオット。 うっすらと彼の中で『夫婦二人の楽しい生活』は1年くらい…と思っていたようです。 結婚1年目を過ぎたあたりから、ときどき「まだ避妊するの???」と聞かれるようになりました。 そのたびに私は「うーん…」と曖昧な返事をしていました。私は、まだまだ産むつもりがなかったのです。 産むつもりがなかったとはいえ、がっちり避妊! という感じでもなく、もし妊娠したら産むつもりではありました。(とはいえ、まだ自分の中で産む決心がつきませんでした) 何歳で産むか。本当に残念ながら、女性には身体的にタイムリミットがあります。 「子どもは、簡単にできるものだと思っていた」 通っていたクリニックでできた知り合いや、不妊治療者の集うネット上の掲示板でよく聞かれた言葉です。 産みたいのに産めない。 まだ産みたくないけれど、年齢的にはそろそろ産んだ方がいい。 私は欲しいのに夫が協力してくれない。 夫は欲しがっているけれど、私にはまだ決心がつかない。 自分の思い通りにいかない妊娠・出産。 自分の気持ちだけを優先できない妊娠・出産。 治療を始めた頃は、妊娠するのも女性・産むのも女性。しかも何歳までにという期間を言われる。 どうして女性ばかりが大変な思いをするんだろうと、憤りを感じていました。 ~あとがき~ 私、中村こてつが不妊治療をしていた期間は、2005年11月~2008年10月で、あくまでも私の体験とその当時感じたことと内容となりますのでご了承ください。
2017年04月05日みなさんこんにちは。中村こてつと申します。 これは次男のケン。もうすぐ年中さんです。 長男のタロ。スローペースな7歳。 50才のオットー。平日戦力外(※育児に関しては。笑) 見事に同じ場所につむじのある、息子たち。 同時期に受精させた卵だし、『おでこにつむじ』という同じ遺伝子情報が組み込まれていたのかも!? と勝手に考える時があります。 医学的にはどうなのか分かりません…。 主人と子どもたちの頭の形がそっくりなのと同じで、単純にだれかの遺伝でしょ。とも思うのですが。 7年以上続けている自分のブログでは、これまで不妊治療についてはあまり触れてきませんでした。 この度、ご縁があり、ウーマンエキサイトさんで『体験記』として記事を書かせていただくことになりました。 主に長男のときの治療について記していこうと思っています。 私が長男を妊娠するために不妊治療をしていたのは、2005年11月~2008年10月のことです。 かなり昔のことで現在の医療と違う点もあるかと思いますが、当時の気持ちや夫婦のこと・仕事のこと・周囲の人々のことなど、不妊治療を体験したからこそ感じたこと、その点については現在治療を頑張られている方々とも共通する部分は多いのではと考えます。 私の体験を読んでいただくことで、どなたかが安心できたり、一人じゃないんだとちょっぴり心強くなっていただくことができれば、とても嬉しいです。 隔週での更新となります。よろしくお願いいたします。
2017年03月22日