無駄は許されない?「苦難を糧に」を強いた日々を脱して。障害は人と社会の間にあるのだから――私が発信し続ける理由
と是認の思いで叫びたくなる文章に出会う。
「ナンバーワンでなくても良い。オンリーワンであれ!」
素晴らしい。
しかし反面、
「オンリーワン、……結局、何かしら特別でないと駄目なのか……」
と恐ろしくもなる。
殆どの人間は、ナンバーワンでも、オンリーワンでもない。
本当は、何も取り柄が無い人間だっている。
無駄や失敗に塗れた日々を過ごす人間も少なくない。
そんな人間が、ただ生きていても、責められることがない社会……それこそが正常だと僕は思うのだ。
「文庫版あとがき」『ヒキコモリ漂流記[完全版]』収録(山田ルイ53世著/角川文庫)P261-262より
https://www.amazon.co.jp/dp/4041062373
上記はお笑いコンビ「髭男爵」の山田ルイ53世氏の著書『ヒキコモリ漂流記[完全版]』のあとがきからの引用で、山田氏はインタビューや講演会でも、同じ旨の言葉を繰り返している。10代のときに6年間の引きこもり生活を経験した氏は、その期間を「(自分にとっては)完全に無駄だった」と断じている。すると「その6年間があったからこそ、今の山田さんがあるんですよね?」と、「はい!あの日々が今の糧になっています!」という一言を引き出そうといわんばかりの質問が飛んでくるのだそうだ。「あくまでも自分の感覚ですが」との前置きをしても、「いや、無駄でした」との答えはすこぶる不評らしい。
確かに、はた目から見た山田氏は、その6年間について語ることで執筆や講演などの仕事を手にしているのだから、無駄ではないように感じられるだろう。しかし、「得られたかもしれないものが得られなかった6年間」を振り返ったとき胸に去来する思いは、山田氏にしか分からない。
話は逸れるが、私は過去にそこそこの大病を患ったことがある。命に別状はなかったが、まあ、自分なりには大変だった。
それを知った知人から「でも気づきや学びもあったでしょう?何事も経験だよね!」とキラキラした笑顔で言われたとき、「なぜそんなことを君が決めるのだ」という言葉が喉元まで出かかった。山田氏の「無駄だった」という発言に対して、「いやいやそんなことはないでしょう!」とばかりに明るい言葉を引き出そうとするのも、もしかしたら似たようなことなのかもしれない。当の本人が「無駄」と言うなら、周囲が躍起になって否定することはないように思える。