無駄は許されない?「苦難を糧に」を強いた日々を脱して。障害は人と社会の間にあるのだから――私が発信し続ける理由
どうも、世間の大部分にとって、人生に“無駄”があっては拙いらしい。
何しろ、本人が、無駄だった、失敗だったと断じていることでさえ、
「そんなことはない!」
「それを糧に成長すればいい!」
と、なにがなんでも意味を与えようとするのだ。
まるで、“意味の松葉杖”無しでは歩けない怪我人である。
そんな“無駄を許せない空気感”こそが、人々を追い詰めているのではなかろうか。
大体、皆が、キラキラした人生を送れるわけではないし、そんな必要も義務もない。
全員が何かを成し遂げ、輝かしいゴールを切ることなど不可能である。
「文庫版あとがき」『ヒキコモリ漂流記[完全版]』収録(山田ルイ53世著/角川文庫)P260-261より
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本当にそうだ。私は深くうなずいた。
『仕事ナビ』では、ポンコツながらの職業経験が糧になったと書いたが、人生全般は「全てが糧になっている」とは言い難い。てんかんや発達障害を含めて、苦難を経験したからこそ見える風景は確かにある。だからと言って、「あの経験があって良かった!」とは思えない過去もたくさんあるのだ。
「苦難を糧に」という言葉に従おうとしたころの私は、糧に糧にと必死になるあまり、自分の心の傷に向き合うことができていなかった。「無駄だった。あんな経験したくなかった」と素直に言えるようになって初めて、事実を事実として受け入れ、前を向けるようになった気がする。そこからようやく少しずつ、自分という存在を肯定できるようになった。実のところ、疲れが溜まっているときなどは、自己否定感が頭にちらつくことが今でもある。
まだまだ完全に回復はできていない。
人生に無駄があったっていい。苦難を糧にできなくてもいい。そこも含めてこその自分だと今は思えるし、何を糧にするかは自分で決めたい。そして、糧にするものが、必ずしも苦難である必要はないのだから。
「特別な才能」や「役立つなにか」を持たなくても、許される空気になれば。そのために私が今できること
テレビなどの発達障害特集では、特別な才能を持った当事者が多く紹介される。分かりやすい「天才」当事者を掲げることで、「発達障害」を知ることへのハードルを下げたり、発達障害当事者のご家族の不安を和らげるなどの狙いもあるのだろう。
でも、こうした特集を見て「発達障害児者=天才」