「間に合わせの学力」では人生厳しい。「本質的な学力」を伸ばす“1日10分”の学び
「学力」とは、「教育を通じて獲得した力」です。一般的には、「どれだけ勉強ができるかを示す力」といっていいでしょう。文科省がおこなっている学力調査などは、まさにその意味で使われているものです。しかし、育児や教育に関する執筆活動の他、各種メディアで活躍する教育ジャーナリストのおおたとしまささんは、「『本質的な学力』とは『どう生きていくか』を考える力」だと語ります。
構成/岩川悟(slipstream)取材・文/清家茂樹(ESS)写真/石塚雅人(インタビューカットのみ)
勉強をし過ぎる子どもと全然しない子ども
いま、小学生を見ていて問題に感じるのは、勉強をする子どもとそうではない子どもの差が開き過ぎているということです。これは中学受験に付随する問題でもあります。いまの中学受験は競争が過酷ですから、受験をするとなるとすごく勉強をしなければなりません。
一方、中学受験をしないと決めた子どもは、逆に勉強を全然しなくなる傾向にあるように感じます。
人間形成のためか、あるいはいわゆる後伸びする力を養うためか、「子どもの頃にはできるだけ遊んだほうがいい」という意見もあります。でも、その遊びがただゲームをするだけだったり、スマホをいじるばかりだったりというものであれば問題でしょう。
もちろんずば抜けて勉強ができる必要はありませんし、教科書を丸暗記するような必要もない。でも、教科書に書かれていることを筋道立てて理解し、小学校で得るべき基礎学力を身につけておかなければ、その子どもの後々の人生は厳しいものになるはずです。
それこそ、中学受験はしなくても、高校受験や大学受験の場面で壁にぶつかることになるでしょう。基礎学力や学びの姿勢がなければ、そういうときに手にしようとするのは「付け焼き刃の学力」でしかないのです。つまり、高校入試や大学入試という目的をクリアするためだけの「間に合わせの学力」です。
もちろん、それで目的を達成できれば問題はないかもしれません。ただ、付け焼き刃の学力だけしかない場合と、それとは異なる「本質的な学力」を身につけている場合では、その後の人生は大きく変わってくるはずです。
「教養」が世界での自分の生かし方を示す
では、「本質的な学力」とはどんなものでしょうか。それは、ふたつの要素にわけられるとわたしは考えています。ひとつは「教養」。もうひとつは、「学び続ける力」