英語話者=50数ヶ国語話者!? 幼少期から始めたい文学教育と、魅力あふれる世界の絵本
多くの日本の人は、なんとなく漠然と「言葉」と「国籍」と「住んでいる国」がきれいな形で繋がっていると思っています。けれども実際は、言語と国籍と居住国は、必ずしも一致するとは限りません。
日本語が使える外国人は数多くいますし、日本語しか使えない外国籍の人も数多くいます。私も含め、日本の外に住んでいる日本人も少なくありません。生まれた時の国籍と、大人になった時の国籍が異なる場合だってあるでしょう。
英語という言語は一つですが、英語を公用語とする国は現在50を超えるはずです。つまり、英語と日本語を話す私は基本的には2言語話者ですが、屁理屈を言えば50数ヶ国語話者でもあるのです。
「○ヶ国語」のように、「国」と「言葉」を一本の線で結びつけて言語や社会を理解しようとすることに、そもそも無理があるのかもしれません。
「単なる日本語の表現の問題じゃないの?」と思われるかもしれませんね。確かに、「2言語」というのか「2ヶ国語」というのかは、とてもささいなことです。けれど、国や言葉、文化について考えていく、とても身近なきっかけでもあります。それを潰して欲しくはないなあ、とも思うのです。
言葉と文化と国の関係に柔軟な姿勢を、幼少期から育むために
これから先、子供達が暮らしていくであろう世界は、必ずしも国と言葉と文化や文学が一本の線で単純につながっていくような世界ではないだろうと予想がつきます。
「イギリスに住むイギリス人が、母語である英語を使ってイギリス人の心を描いたのが英文学」と単純にくくることができないように、「日本に住む日本人が、母語である日本語を使って日本人の心を描いたのが日本文学」と言うことが適切でない世界に、子供達は育っていくでしょう。細かいことを言えば、これからの子供達がそういう世界に育っていくのではなく、もともと世界はそういうもので、今まで私たちの多くが気づかなかっただけなのかもしれませんね。
「英文学」「英語の物語」という言葉を聞いた時に、「イギリスの」あるいは「アメリカの」物語だけを思い浮かべるのではなく、もう少し、広い世界を想定できること。
そして、「国、言葉、文学(文化)」が一直線で繋がらない、という、シンプルだけれどとても重要なことを理解していること。
言葉と文化と国の関係に柔軟であることは、やがて子供達が、自分の暮らす社会や、もっと広い世界を理解しようとする時に、手助けになるだろうと思うのです。