2016年2月22日 13:00
さよなら、「フィーレイ」 - 史上初の彗星着陸に挑んだ小さな探査機の物語 (1) ジョットからロゼッタ、フィーレイへ
ハレー艦隊の成功後、ソヴィエトは崩壊への道を歩み宇宙探査どころではなくなり、日本も火星や金星を目指した惑星探査へと舵を切る。一方、NASAとESAはさらにより深く彗星を知ろうと考え、共同で新しい探査機の開発を進めることになった。
○新たなる彗星探査への挑戦
米欧による彗星の共同探査の話は、ジョット打ち上げの約2カ月前、1985年5月22日にスイスのチューリッヒで持ち上がった。この中で、NASAは「彗星ランデヴー・小惑星フライバイ」(CRAF、Comet Rendezvous Asteroid Flyby)、ESAでは「彗星核サンプル・リターン」(CNSR、Comet Nucleus Sample Return)と呼ばれる探査機をそれぞれ開発することを決定する。
CRAFは彗星に近付き、並んで飛行しながら観測しつつ、槍状の観測機器を彗星核に打ち込んでデータを取るという計画。一方のCNSRは、彗星核からその氷の土壌(サンプル)を回収し、地球に持ち帰るというものだった。1987年にはCNSRに「ロゼッタ」という名前も与えられた。
両者は探査機の設計をある程度共通化することで、コスト削減も図られていた。