「お金」に興味を持つという事 - セゾン投信・中野社長の半生記 (4) 長期投資の原点!! 「債券運用」に”どっぷり”浸る
そしてこれが「失われた20年」の始まりだったのです。
株式市場も当然下落一辺倒となり、証券会社は運用会社と密約していた利益を出すことができず、1991年にはとうとう損失補填(ほてん)の実態が世間に明るみに出て、いわゆる証券不祥事へと発展しました。
大量の資金を証券会社を通じて右から左へと回せば利益が上がる狂気の時代はあっけなく幕引きとなり、大手証券ではたくさんの首脳のクビが飛んだのでした。
そもそもこんな馬鹿げた資産運用がいつまでも続くわけがありません。
大量の株式をドーンと買い上げて、またドドーンと売り抜ける。
得られた利益の裏付けは確実に誰かの損失に基づくもの。
ビジネスとして資産運用を行っていながら、それは財テクと称して自ら付加価値を生み出さない、明らかに”食うか食われるか”のギャンブルです。
そしてそんなプレーヤーがこの時期市場を席捲(せっけん)していたのです。
私のいた会社も資産運用を生業としていましたが、証券会社と持ちつ持たれつで自分の儲けは誰かの損、他人を出し抜いて利益をむさぼるゼロサムのマネーゲームをしていたのですから、損失補填事件とともに、そのフリーランチ(ただメシ)は終わりました。
私が幸運だったのは、その頃すでに債券運用の専門になっていたため、証券不祥事とは直接関わる立場に居なかったことです。
そして債券運用の手法は、値動きを追って頻繁に売買するトレーディングではなく、米欧の市場とアクセスし、外国債券を中心に国際分散型の資産配分をじっくりと行っていく「ポートフォリオ運用」でした。
この時期に債券運用の魅力にのめりこんで、その発行体企業の信用力を分析し、事業安定性や収益性から財務分析に至るまで、じっくりと実地で勉強する機会に恵まれました。
同時に、債券とは金利によって値動きが左右されるため、金利の見方を通じてマクロ経済をとらえていく能力を磨くこともできました。債券運用の醍醐味は、実体経済の先行きを把握する中で金利の見通しを立て、投資する資産の残存期間やクーポン(利率)を適宜選択して金利リスクをコントロールするとともに、発行体の信用度合いを見極め、その企業業績や財務体力の変化によって生じる信用リスクの変化からも収益機会をとらえていくという複合性にあります。
そして「ポートフォリオ運用」の基本戦略は「バイ&ホールド」と言われる考え方で、有利な利回り収入を享受しながらも、市場経済の変化を予測して最適な売却のタイミングをじっくり探っていくのです。
特に5年・10年という期間保有することを前提にして投資シナリオを描き、仮説を立ててアプローチする、さらにはさまざまな市場リスクを全体としてコントロールするためスワップ・オプションといったデリバティブ(金融派生商品)も活用して管理していく。
否が応にも、市場や経済動向に対する感覚がとぎ澄まされていきました。
こうして債券運用にどっぷり浸ることができたおかげで、必然的に実体経済や市場、それに企業を見る視点も長期でとらえる感覚が養われました。
当時は運用といえば日本株であり、債券運用は亜流で、しかも事業債の「ポートフォリオ運用」は尚更のことでした。
もし自分が日本株の担当だったら、チャートを眺めてシナリオを作るくらいのことを運用と思っていたかもしれません。
本当にラッキーでした。
特に「長期金利」はその国の経済の現状を反映し、景気の先行きを見通すバロメーターです。
1990年に日銀はバブル退治へ血道をあげようと、一気に金融引き締めへと舵を切ります。
フルスロットルでバブル景気に踊っていた日本経済は、突如急ブレーキを踏まれたようなもので、ハンドル操作が効かなくなって景気は急速に落ち込んでいくわけですが、この時期の経済動向を私は債券運用者の立場から金利を通して見ていたので、実に痛快でした。
1990年代後半には10年国債が7%を超え、長期プライムレートも8%を超えました。
日銀のヒステリックな金融引き締めに実体経済は悲鳴を上げ、景気失速は時間の問題です。
来年には一気に金融緩和へ向かうと強く見当をつけ、私はユーロ市場で投げ売り状態にあった残存期間の長いユーロ円債をひたすら買いまくりました。
案の定金利は1990年代後半がピークで、この時仕込んだポートフォリオは翌年以降すごい運用成果をあげてくれました。債券運用の世界では常に金利と向き合っているので、実体経済の体温変化にとりわけ敏感になれるのです。
これが長期でとらえる感覚! 私の長期投資の原点がこの時期にあると言えるでしょう。
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