昭和の残像 鉄道懐古写真 (49) 昭和の終焉とともに去った東急目蒲線グリーンの電車
翌日から新しい時代「平成」が始まりました。
その年の3月18日深夜、筆者は東急目蒲線(現・目黒線)目黒駅24時40分発、奥沢駅行終電車に乗車。
自宅がある途中駅では降りずに、わざわざ終点の奥沢駅まで乗り通しました。
なぜならこの日の終電車をもって、目蒲線、ひいては東急線上(営業線上)から、グリーンの3000系旧型車が引退となったからです。
「平成」がスタートした年に、またひとつ「昭和」の電車たちが消えて行きました……。
そこで、今回は目蒲線を走った懐かしの旧型車を、形式別にご覧頂きましょう。
1939(昭和14)年の製造当初、将来は路線を標準軌に改軌して京急に乗り入れる予定だったため、改軌が可能な長軸台車を履いていました。
しかし、改軌されることなく引退となりました。
目蒲線では、全22両が中間にサハやクハを挟んだ3両編成を組み活躍。
晩年には、数本が池上線に転属となりました。
1931(昭和6)年から50両が製造され、東急のルーツでもある目黒蒲田電鉄時代から、1989年の引退まで60年弱もの間活躍していました。
名車にして長寿命車両でもあったのです。
当初、目蒲線では少数派でしたが、田園都市線にステンレスカーが増備されていくと、4両から3両編成に組み換えられ、目蒲線に転属してきました。
3両編成オンリーの目蒲線でしたが、田園都市線の4両編成が助っ人運用に入ることもありました。
1967~1974年の間、朝夕ラッシュ時におもに3450形が使用され、目黒~田園調布間の折り返し列車として運転されました。
戦後、増大する輸送力に対処するため、国鉄から戦災損傷した車両や部品の払い下げを受けて復旧させた車両で、16両が製造されました。
そのため、モーターの出力が通常の電動車の1.5倍と強く、俊足ながら空転もすごかった記憶があります。
また、メーカー4社が復旧にあたったため、車両の外観や仕上がりにかなりの違いがありました。
1982年の引退後、一部は青森県の弘南鉄道に譲渡されましたが、すでに廃車となっています。「運輸省規格型」の車両で、1947年に15両が製造されました。
この「運輸省規格型」とは、戦後の混乱期に鋼材をはじめさまざまな資材が不足したため、運輸省が車両の設計に規格を設け、資材を効率よく有効活用し車両を製造させたもの。
実際には、各鉄道会社のニーズに合わせて修正のうえ製造されたそうです。
この3700形は全車が名古屋鉄道へ譲渡され、片側3ドアの特徴を生かしラッシュ時に活躍、名鉄に3ドア車導入のキッカケを作りました。
元々、名古屋鉄道でも「運輸省規格型」の車両を保有していたので、譲渡がスムーズに運んだそうです。
1953年に製造された、東急最後の旧型車です。
製造の翌年には、東急にとって新性能車ともいえる5000系(初代)が製造を開始したので、たった2両の製造で打ち切られました。
3両在籍した荷物電車の最古参。
元々は国鉄の木造荷電が出自で、小田急の旧車体を載せ替えて鋼体化した車両でした。
当時の東急では、新玉川線(現在の田園都市線の渋谷~二子玉川間)を除く鉄道線全線で荷物電車の運行があり、大岡山駅と田園調布駅に荷物ホームもありました。
しかし1982年に、荷物電車の運行は廃止となりました。
1989(平成元)年3月18日、深夜の目蒲線奥沢駅で東急旧型車の活躍に幕が降ろされました。
セレモニーも何もない、普段通りの終電車の到着。
静まり返った駅構内で入庫待ちをする2本のデハ3500形。
そこに、拍手を贈った方がいました。
その熱い拍手は、忘れることができません。
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