くらし情報『世界遺産・富岡製糸場をめぐる旅。未来へ継承するべき理由に迫る【後編】』

世界遺産・富岡製糸場をめぐる旅。未来へ継承するべき理由に迫る【後編】

当時、工女だった和田英(わだ・えい)が記した『富岡日記』には、仕事仲間とのやりとりや場内で生活していたブリュナ氏の妻の洋服についてなど、女性らしい視点で日々のことが描かれている。短くて2カ月、長くて2年という期間を富岡製糸場で過ごし、技術を習得した後には地元に戻り、それぞれの地元の製糸場で指導者として活躍した工女たち。彼女たちもまた、日本の絹産業ひいては近代化を支えたひとりなのだ。

操業停止から20年近くも職員をおき保守管理を続ける

明治26年まで官営だった富岡製糸場は、民間に払い下げられ三井製糸所として生糸生産を続けていく。また明治から昭和にかけて様々な企業に経営が移るものの、昭和12年に片倉製糸紡績(後の片倉工業)が経営する片倉製糸所へ。そして115年間にわたり休むことなく動き続けた工場は、昭和62年3月に操業を停止する。しかし国の指定史跡として富岡市が管理するまで20年近くにわたり、片倉工業は職員を置いて製糸場の保守管理をし続けていたそうだ。

絹の大衆化、養蚕・製糸の技術交流や革新への功績

富岡製糸場の見学終了後、長谷川さんは「昔、繭生産は年1回限りでした。
でも大量に生糸を作るために養蚕技術を向上させて年5回もの繭生産が可能になった。

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