新国立劇場「デカローグ」全十篇に出演中。亀田佳明が明かす、“ある余白の存在”への思い
という存在なのかなと。“ある余白の存在”と捉えてもいいんじゃないかと思うのですが、そうであればやはり、偏った価値基準とか評価というものがあまりない、フラットな状態でいるべきなのかなと思います。
ふたりの演出家、それぞれが描く“男”の存在感
──そうした存在でいるべきと思うきっかけとなった場面、エピソードなどがあったのでしょうか。
具体的にここ、というのがあるわけではないのですが……十篇の物語の中には、救い難い内容の話もあるんですね。けれど、この作品群を通して、物事や人間の捉え方についての価値基準は人それぞれで、それでいいんだよ、って言わているように感じるんです。一般的には「悲劇」と括られる事象も、あるいは「喜劇」と括られる事象も、もしかしたら見る人によっては別の視点に繋がることがあるかもしれない。「男」にはそういった「別の視点の存在」という役割も含まれているのかな、と思っています。
『デカローグ1「ある運命に関する物語」』より、左から)ノゾエ征爾、亀田佳明(撮影:宮川舞子)
──演出は小川絵梨子さんと上村聡史さんが分担されていますが、亀田さんが演じられる役の描き方、ニュアンスにはそれぞれに違いがあるそうですね。