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ウーマンエキサイトをご覧のみなさん、こんにちは。tomekkoです。ここ何回か世界史に名を残した女性たちを見てきて『強い女性』への興味が俄然湧いてきました。腕力ではなく、強力なリーダーシップと政治的な手腕の見事さで、時に強かに、時にしなやかに数々の困難を切り抜けるという『強さ』。特に女王や女帝は権力闘争という男社会の中で、男性の何倍ものハンデを追っているはずなのに、偉業を成し遂げるって凄すぎますよね。というわけで、今回は女性統治者といえば必ず名前が筆頭に出てくるオーストリアの女帝マリア・テレジアのことを調べてみました。以前取り上げたフランス王妃、 マリー・アントワネット の実母でもあるマリア・テレジア。男系相続が伝統のハプスブルク家出身の彼女は、正確にはオーストリア女王ではなく、オーストリア女大公、正確な肩書きは神聖ローマ皇后なのです。ですが、皇后として国王を支えたというより、ガンガン前に出て国を統治していた「王」としての印象が強くないですか? 私が持っていたイメージは・政治手腕のすごい人・子だくさんなビッグマザー・マリー・アントワネットを愛情深く心配する母といったところでした。さて、実態はどうなのでしょう?権力も!プライベートの愛も!両方を手にした強運の女王マリア・テレジアは、この時代の神聖ローマ皇帝の長女という立場としてはかなり珍しい、奇跡のような幸せをつかんだ人です。それは正式な夫になる人との『恋愛結婚』を許されたこと。マリアと比べると格下の立場だった9歳年上のフランツに、彼女はなんと6歳の時に恋をするのです! 男系相続を習わしとしているハプスブルク家において、後継に恵まれなかったところに長女マリアの結婚は政治的にもかなり重要な位置付けになっていて、フランツとの結婚をめぐっては周りからも反対がありました。ですが、父親であるカール6世がフランツを気に入ったこと、そしてまだ男子誕生に期待をしていたことなどから2人の結婚はやや強引に実現したのです。権力者の家庭に生まれた女子といえば、本人の意志など関係なく政治で結婚が決められる時代。そんな中、マリア・テレジアはもうこの時点で超強運の持ち主なんです!普通ならありえない王族の恋愛結婚。ゆえに?夫婦円満からの子だくさんの人生を送ることになりました。子ども16人!って…凄すぎない?なんと、マリア・テレジアが夫フランツとの間にもうけた子女は5男11女。合計なんと16人!!ハプスブルク家が元々多産家系で、かつマリア本人も安産体質だったのでしょうが16人って…凄くないですか?育てるのは乳母たちがやってくれるとしても、人生の半分は妊娠出産してるってことですよね…?!(少子化対策って、やっぱり育てるリソースと経済的安定に尽きるんだな…ってことでいいでしょうか…?)そしてこの夫婦は、格差婚による相続問題認識の甘さから周辺各国に侵略を狙われたり、国内からも揶揄されることがあっても、生涯を通じて良きパートナーだったようです。でも、驚くのはまだ早いんですよ!マリアは働き盛りのほとんどの期間を妊娠と出産をしていたにもかかわらず!さらには、あくまで男系相続を守りたい父カール6世は、マリアに一切政治教育を施さなかったにもかかわらず!なんと…!出産&育児しながら 国を救う!政治にあまり関心がなく家族との時間を大切にする夫のサポートを得て、マリアは2つの大きな侵略戦争に負けず、国家を守ったのです!しかもなんと20代でこれをやってのけたんです…!マリアの父であるカール6世の死後、彼女が23歳で第4子妊娠中の時にオーストリア継承戦争が始まってしまいます。女性であるマリアの実質的継承に反対する周辺諸国からの侵略戦争で、一時期オーストリアの立場は非常に危うくなるのですが…!マリアは、乳飲み子の息子を抱えて(これは後世つけられた尾鰭の可能性あり)ハンガリー議会で支援を求めます。落ち着いた美しさを持ち毅然と演説する彼女の姿に議員たちは感銘を受け、最終的にハンガリーの貴族や議会は彼女を支持する決定を下すのです。その後も彼女はイギリスやロシアと同盟を結び、また国内では国民の支持を得るために改革を進め、軍事力も強化します。政治教育を受けていないのに的確な判断を下し、危機に直面しても動じない彼女の強さと手腕はヨーロッパ中に広まり、偉大な統治者として評判となりました。とはいえ、周辺諸国からの侵攻が相次ぎ対外的には困難な状況。こんなピンチに国内の不満も溢れてきそうですが…。あまり男だから、女だからとは言いたくないんですが、やはり女性ならではの協調性をいかしたリーダーシップがあったのではないかと思うんです。妊娠出産子育てしながら、軍事・教育・農地改革にと次々に内政にテコ入れ。その手法は才能ある若手官僚を抜擢していく一方で、古い官僚たちへの心配りも細やかだったと言われています。自ら宮廷内を歩き回ってひとりひとりへ丁寧に説明をし、派閥争いなどの内側からの崩壊を予防したというのは本当にすごい功績じゃないですか!女性3人で 手を組む作戦!さらに、この時代の女性3人が国家間の関係において重要な役割を果たしたとされるのが、プロイセン包囲網を組んだ通称『3枚のペチコート作戦』です。マリアは敵対していたフランスとの交渉にあたり、その中で当時ルイ15世の寵愛を受けていたポンパドゥール夫人の立場と心情を鋭く察知し、優れた政治手腕を持つ官僚カウニッツを通じて彼女を味方につけたのです!ルイ15世の愛人として、フランス宮廷内で強い影響力を持っていたポンパドゥール夫人。宮廷での地位維持にこだわりがあり、自分を守りたいーそんなポンパドゥール夫人の事情を見抜いて自国の政治戦略にうまく利用したマリア・テレジアの才覚には脱帽です。さらにマリアはロシアの女帝エリザヴェータとも外交的な信頼関係を結びます。「3枚のペチコート(女性の下着)作戦」というのは、マリア・テレジア、ポンパドゥール夫人、エリザヴェータという3人の女性が、外交的に関係を築き戦争の終結に向けて重要な役割を果たしたことの象徴です。血を流さず成功したこの手法、まさに協調性をいかしたリーダーシップですよね!え…毒親な一面も?そんな気配りと鋭い観察眼で難しい国政を非常にうまく治めたマリア・テレジアですが、子だくさんなこともあって子ども好きで良き母だったのかな〜なんてイメージを持ちますよね。いやいや それがまぁまぁな毒親というか…厳格&支配的だったようなのです…。さらには、愛情差別もあったようで溺愛した四女のマリア・クリスティーナにだけは自分と同じ恋愛結婚を許していますが、障害を持っていた娘と自分に反抗的な娘は冷遇していたとも言われてます。国家の利益を優先しなければいけないという立場ゆえ仕方ないとも…思いますが。ちなみにマリー・アントワネットは2番目にお気に入りの娘でしたが、彼女も他の娘たちと同じく結婚を通じて政治利用されています。自分は恋愛結婚させてもらった幸せを実感しているだろうに、そこは関係なく娘を駒として使った…?と思うような行動はちょっと衝撃でした。夫とラブラブで いい夫婦だったのは間違いない!あくまで夫フランツが政治に関心が薄く、マリア・テレジアをサポートするのに抵抗のない性格だったからこそ、彼女は全力で政治という仕事に取り組めたのでしょう。彼女は彼を心から信頼&愛していたようで、フランツに先立たれると非常に落ち込み、その後亡くなるまで喪服で過ごすほどでした。そして晩年は、長男ヨーゼフ2世を後継者として立てつつも自身の崩御までは共同統治。近代化を進めたいヨーゼフ2世と、しばしば意見が合わず対立し官僚たちを困らせて政府内での決定が遅れることもあったようです。改革に対する慎重な姿勢は「老害」と言えなくもないですが、ここは難しいところですね…。どんな完璧に見える人にも欠点はあるし、国の統治者という背負うものが大きな立場につくと、身内には配慮が欠けるように見えるというのも歴史あるあるですよね。マリア・テレジアは「国の母」として、また有能な政治家として大きな成功を収め国民に敬愛された実質的な女帝でしたが、子どもたちから見るとどんな母に見えていたのでしょうか? 尊敬と同時に、彼女の強い教育方針や政治的期待は負担に感じていたことも多かったのでしょう…。そこで夫が家庭的だったというのも、最高の相性だったのでしょう。自分にぴったりなパートナーを6歳でみそめたのも凄い…! 偉大なる女帝の意外な生活の一部から、夫婦そして家族の在り方を考えさせられた回でした。
2025年04月05日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。前回が世界三大美女として有名な 楊貴妃 だった流れから、今回は同じチームの誰もが知ってる女王さまにご登場頂こうと思います!ご存知、古代エジプト最後の女王、クレオパトラ!思ってたんとだいぶ違う!ミステリアスな女王クレオパトラとは歴史に詳しくなくても誰もが名前を聞いたことがあり、なんとなく姿も思い浮かぶ気がするのに、実は正確なことはあまりわかっていない人なんです。そもそも紀元前という遠い昔だから(なんとキリスト誕生30年前!)ってこともあるんですが、大きな地震で当時の首都アレキサンドリアが海底に沈んでしまったり、まだお墓が見つかっていなかったりと解明されていないことが多いのです…それがまたミステリアスなロマンを掻き立てるんでしょうねぇ。ではなぜクレオパトラはこんなに有名で逸話が多く知られているのか?というと、当時の最大勢力、ローマ帝国との関わりが非常に深かったためローマ側に多くの記録が残されているからなんです。クレオパトラに、どんなイメージを持っていますか?彫りが深い黒髪のエキゾチックな美貌でローマ帝国のトップをたぶらかし、次々と骨抜きにした美女?黄金や宝石に囲まれた美しい宮殿で、贅沢を極めた悪女?それとも滅びゆく国で愛に逃避行し、毒蛇(アスプ)による自害をした悲劇の女性?ローマとエジプトの当時の関係性は、支配国家と属国でした。そして、クレオパトラに限らずですが女性の権力者は死後悪く言われることが多いんですよね…。男性は多くの女性と関係があっても権力者なら当然ってことになるのにねぇ…?そんなわけで現代に残るクレオパトラ像は、やや悪い方に偏りのあるローマ側の記録と、そのミステリアスさとその恋愛遍歴から後世に多くの戯曲や小説の題材にされ、作り上げられた架空のイメージがほとんどなのです。私自身、子どもの頃に見た映画『クレオパトラ』の印象が強いんですよね。今回改めて調べてみましたが、やはりこれが正解!と言い切れないので「そんな説もあるんだな〜」ぐらいで読んでいただけると幸いです。ちなみに、クレオパトラって当たり前にエジプト人だと思ってたんですよね、私。そりゃエジプトの女王なわけだし。でもこの人、実はギリシャ人!え!?なんと白い肌にもしかしたら金髪の巻毛だったかもしれないんですって!ちょっと意外でありつつ、そういえばクレオパトラが白人のエリザベス・テーラーなことになんの違和感も持っていなかったわ…(というわけで今回は意外性の面からギリシャ人ぽい見た目でお送りします!)紀元前の世界って実はすっごく国際社会なんです。古代エジプトの王(ファラオ)が、実はエジプト人以外だった期間も多く、さらにファラオは自分の統治する国民の言葉を理解する必要もなく、関心を持つこともなかったようです。ファラオの役割は太陽神ラーの化身として、庶民とは全く違う金銀財宝を身に纏った煌びやかな存在で贅沢な生活を送ること。幸いナイル川が豊穣をもたらし食糧が豊富なためエジプトは当時最も裕福な国となっていました。その富をもたらす神の象徴らしく存在することが何より国の繁栄に大切だったのでしょう。クレオパトラの見た目が本当に絶世の美女だったのかは分かりません。ただ伝わる魅力として有名なのは、声がとにかく美しく彼女が話し出すと誰もがうっとりと聞き惚れてしまったそう。さらにそんな魅力的な声で、多言語(7カ国語とも9か国語とも!)を自由自在に操ることができたとのこと!そして乗馬の名手でもあり自ら軍隊を率いて戦いの指揮もしたとのことで、ただ玉座に座り贅沢をしているだけではなく、かなり能力の高い人だったようです。また後世の哲学者パスカルが「クレオパトラの鼻があと1cm低ければ歴史は変わっていたかもしれない」という名言をも生み出した彼女の『美人論』ですが、やはり巨大なローマ帝国を率いる男性ふたりが惚れ込んだ!となるとそりゃあ美人なのは間違いないでしょうね。でも大体歴史に伝説を残す女性って「美人」を強調されることが多いんですが、当然「美貌」だけじゃないんです。クレオパトラは語学力と知性、そしておそらく戦略に長け大胆な行動力もある人だったからこそ、政治に恋のエッセンスを盛り込んで成果を上げることができたのでしょう。クレオパトラ22歳の時に出会ったローマの将軍カエサルはなんと53歳。この歳の差、そして国の代表同士でありながら恋愛に発展したのには彼女の策略によるところが大きかったはず。姉弟での覇権争いに敗れ王宮を追放され困窮していたクレオパトラがカエサルに助けを求めるため、厳しい警備を潜り抜けて直接会いに行ったとされているのですが…!有名な逸話では贈り物の絨毯を開くと美女が転がり出てきた、というもの。紐で縛ってあった寝具袋の中に隠れまるで自分がプレゼントかのように現れた、という説もありどちらも後世の創作を疑うような演出ですが、カエサルの死後アントニウスと初対面した時の話を知るとそれぐらいのことはやりそうな人でもあります。恋も権力も!その手で操る策士の女王カエサルが死去し後ろ盾を失って再び窮地にあったクレオパトラ。カエサルの部下だったアントニウスが、彼女を尋問しようと呼び出すのですが…。クレオパトラはそこに巨大で贅を凝らした船団を組み、香を炊き美しい帆と豪華な装飾品、花を散りばめた船の上で優雅に寝そべって登場するのです!それはもう女神アフロディーテが現れたかのようだったそうで…。その旅団を見た者たちが驚いて、噂としてアントニウスにも届くような超インパクト大な出会いを演出したのです。女王としてのプライドを保つだけでなく、財を最大限に使って美しさを印象づけ、落ち目だった立場を逆転させるどころか見事に相手を恋に落としたクレオパトラ。実力者過ぎるんです…!とはいえクレオパトラのその戦略も、相手によって成果は違ったようです。年齢差もあったでしょうが、カエサルは根っからの実利主義であり政治上手でどこか冷静。彼女をローマに同伴し子まで成した仲だったのに、遺言にクレオパトラの子について言及することはなく、カエサルの死去によってクレオパトラは梯子を外された状態になってしまいます。カエサルは、クレオパトラを属国の愛人としてしか見ていなかったのかもしれませんね…。一方のアントニウスは、血気盛んで豪傑、政治はそんなに得意ではない軍人です。この人はカエサルとは逆にクレオパトラにゾッコンだったようで、元々エジプトの土地だった領土を返還したり、クレオパトラとの生活に耽溺してエジプトに長期滞在したり…彼女の望むことはなんでも叶えてあげたい!という感じです。死を前にしても崩さぬ女王の美学がハンパない!そしてこのふたりは、ちょっとイラッとする名前の結社(サークルみたいなもの)まで作っていたようで…。その名も『真似のできない生活者たち』圧倒的な富を象徴するサークルで、贅沢な宴や芸術的なイベントで知識人たちとの交流などを楽しんでいたようです。ローマへの挑発的な意味合いもあったのかもですが、確かにイラっとさせるでしょ〜?そして、この後アントニウスと対立したローマのオクタヴィアヌスとの『アクティオンの海戦』に敗れたふたりは、死を覚悟した時にも新しい結社を作ります。その名も『死を共にする仲間』オクタウィアヌスの軍が迫ってくるまでの間、またひたっっすら贅沢三昧だったようです。ですが、これは単なる享楽ではなく、敵への屈服を否定するクレオパトラの美学だったのかもしれません。死を前にしても自分が女王だというプライドを見せつける歴史的なパフォーマンス!さすが!そしてふたりの最期はそれこそまるで演劇のよう。クレオパトラ自害の知らせを受けて絶望し、後を追おうと自害しかけたアントニウスに誤報だったことが知らされます。最期の時はクレオパトラのそばで、と願うアントニウスは彼女の元に運ばれて息絶えるのです。そしてその後彼女も彼に重なるように自害ー。あれ?どこかで聞いたことあるストーリーじゃないですか?そうそう『ロミオとジュリエット』!あまりのロマンスっぷりに後世の創作に多大な影響を与えたと言われるクレオパトラですが、もしかしてシェイクスピアも…?!(真偽のほどは分かりませんが)知性と美貌で愛と権力を操る女王そんなわけで、クレオパトラがどんな人だったのかをまとめると、圧倒的な富、知性、美貌、戦略を使って、恋と権力闘争を同時にこなし、自分の人生そのものを演出し切ったかなりの実力者だったようです。窮地でこそ発揮されるド派手で大胆な演出力は、エジプトの伊達政宗と呼びたい。逆か、政宗が戦国時代のクレオパトラか。(秀吉への裏切り疑惑で呼び出された政宗は、死装束で十字架を背負い市中をパレードして世論の同情を集めるというパフォーマンスを行った)そしてロマンティックな最期のため悲劇のヒロイン感がありますが、いやいや実際にはかなり非道なこともしていたようでして…。当時としては彼女が特別じゃないんですが、覇権争いのために弟妹も殺していますし、自害の前には様々な毒を側近で実験していたという話も残っていますのでね。三大美人として楊貴妃と並べられることが多いけれど、間違いなく武則天タイプの戦略的で超パワフル女王なのでした。
2025年02月13日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは、tomekkoです。文豪クズ列伝から歴史上の人物を深掘りしていく形となったこの連載ですが、だんだん日本を飛び出し世界史まで手を伸ばしはじめております。実は世界史はぜんっぜんわからない私、名前くらいしか…というまっさらな状態から調べ、考察を深めていくのが苦しくも楽しい時間でした!2025年もさまざまな歴史上の人物について、意外なエピソードや興味深い史実を交えながら、その人物像をお伝えしていきたいと思います。さて、2025年第一弾は、前回の 武則天 から火がついた中国史への好奇心に乗っかって、絶世の美女として名高い楊貴妃です!国を滅ぼすレベルの美貌!「傾国の美女」とは武則天が中国史上で「悪女」とされるなら、楊貴妃は「傾国の美女」として有名ですね。傾国の美女とは、その美しさがあまりにも際立ちすぎて、国や王朝を滅ぼしてしまうほどの影響力を持った女性を指す言葉です。ちなみに楊貴妃は世界三大美女としても名前があがりますが、楊貴妃と並ぶのはクレオパトラと小野小町。個人的に…小野小町は正直ちょい弱くない?と思ってます笑。傾国…つまり君主がデレデレに色ボケしちゃって政治がおろそかになったり、無駄遣いが増えて文字通り国を傾かせるほどってもうよっぽどの手練手管があったんじゃない?! めっちゃやり手なんでしょうね?!と想像して色々と調べてみたものの、楊貴妃と玄宗皇帝をめぐるラブロマンスやらこの時期に起きた大きな反乱の話は詳しく出てくるのに、「楊貴妃本人が何をしたのか」についてはあまりよくわからないんですよねぇ。唐という300年も続いた文明豊かで平和な時代を崩壊させるきっかけを作ったはずなのに、楊貴妃自身を責めたり悪様に罵るエピソードがほとんど出てこないのもなんだか不思議。国家君主とその寵姫といういかにも政治的な関係性なのに、後宮ドラマでよく聞くようなドロドロな女の争いも見えず、ひたすらふたりのキャッキャウフフエピソードが後世まで語り継がれているなんて…歴史上見渡しても他にこんな人います?馴れ初めは父親と息子のNTR玄宗皇帝と楊貴妃、歳の差なんと34歳!!この年齢差でお察しの方もいると思いますが…そう、前回の武則天と同じ手口(古代中国ではよくある手法だった)父子間での嫁NTRですー!長く続く時代の世襲君主ってだいたい無能になっていくことが多いんですが、玄宗は違いました。政治家としても超有能で政治闘争も勝ち抜き国民からも名君として慕われていました。そんな彼には妃も子どもも多く、後宮の争いも凄まじかったようです。その中でも特に寵を争った4人の妃を次々と喪って、気落ちしていた玄宗の前に現れたのは!皇太子最有力候補だった息子の妃としての楊貴妃だったのです。中流庶民出身だけど絶世の美女であった彼女に一目惚れしてしまった玄宗、彼女を一時的に出家させ経歴を誤魔化しながら内縁関係を続け、5年後に正式に玄宗後宮に迎えました。武則天は死の間際の父親の嫁に息子が唾つけといたって感じだけど、こっちは歳も近くてお似合いの息子から奪い取る形なのでより罪は重く見えちゃいますねぇ。まぁ現代の感覚だとどちらも凄い話ですが。楊貴妃の魅力は美貌だけじゃない!能力が高く数々の修羅場をくぐり抜け、酸いも甘いも噛み分けた60歳。それも後宮に数千人もの女性が控えている選びたい放題の皇帝が一目惚れして、息子から取り上げるほどの楊貴妃の美貌と魅力って…どんだけなの?!記録によると、楊貴妃の容姿は唐代の理想とされる豊かな曲線美スタイル、髪は艶やかで肌のきめ細やかさは見事、物腰は柔らかく…。と、そりゃ美しかったんだろうけども、伝えられている表現からはそこまで見た人を虜にするようなとんでもない魔性の魅力は見えてこないんですよね。そうです! 彼女の魅力は容姿だけではなかったんです。作曲をするほど音楽好きでもあった玄宗皇帝と趣味の合う舞踊の才能、琴や琵琶といった楽器にも精通している教養の高さ。そして、おそらく楊貴妃の最大の魅力はこれなんじゃないかなー。周りの人を楽しませる利発さ、おだてに乗らない堅実さ、そして余計なことを言わない賢さ(後半は想像込みですが)というのも、楊貴妃が玄宗に気に入られると親族である楊一族が取り立てられ権勢を振い始めます。その中には3人の姉もいて、毎月10万銭もの化粧代を支給してもらったり、政治や科挙の運営にも口を出すなど傍若無人な振る舞いが目立っていくのです。特に玄宗に取り入って出世したのが楊国忠という親族で、酒と博打が大好き。でも計算が得意で経理系からの大出世の末、国家財政を担う宰相にまで成り上がるのです。こうして楊一族が政治でも私生活でもやりたい放題、贅沢放題するようになったことで人々からの嫉妬や反感を買い、その後の反乱に発展したんですよね…まぁ当たり前だけど。でも、そのど真ん中にいるはずの楊貴妃はというと?有名なところでは、日持ちしない大好物のライチを遠い産地から早馬で運ばせていた…。黄色の裙という長い裳を好んでお気に入りの龍脳の香りをつけていたので、歩けばその香りが遠くまで漂った…。玄宗皇帝と2人で宴会をしたり、温泉付きの別荘に入り浸ったりと、もちろん一般人からするとかなり贅沢な生活だったでしょうが、そこまで常軌を逸しているほどではなさそうです。ふたりで色ボケを続けた結果…悲劇的な最期を迎えることに楊貴妃が明確に行なった政治介入は、玄宗に気に入られたオリエンタルな武将、安録山を養子にしたことぐらいでしょうか。これが皮肉にも、自身の首を絞める原因となりました。イラン系×トルコ系の血を引く豪放な性格で9ヶ国語を操るビジネスと政治センスに溢れる武闘派、安録山。パフォーマンスも派手でそりゃあこんな人面白いに決まってる。玄宗も楊貴妃も成り上がってきたこの男を大いに気に入り、節度士という国境を守る地位を与え、結果的に莫大な軍事力を持たせることになってしまいます。そして子のいない楊貴妃が、彼を養子に迎え、なんと…いい歳したおじさんにおむつをはかせてお風呂に入れる遊びもしたとか……え?…えぇ? これは有名な逸話の一つですが、事実じゃなく後世で誇張された創作話の可能性も。想像すると気持ち悪いですもんね…。安録山は通常都を遠く離れた辺境の地で任務についているため、皇帝のすぐそばに侍る楊国忠が自分を失脚させようと諫言をしたりしていないかと疑心暗鬼になっていきます。そして軍事力を掌握していくことで楊一族に並ぶ勢力となり、安史の乱を引き起こすのです。国の8割の武力は安録山が掌握していたため、平和ボケしていた唐軍は都を守れずあっという間に陥落。玄宗と楊貴妃は都を捨てて楊貴妃の出身地、蜀に逃げることになりました。しかし玄宗と楊貴妃についていた唐軍兵士たちが、過酷な逃亡の過程で疲弊し空腹で不満が爆発。この騒動の原因を作った楊国忠とその一族を皆殺しにしろ!と集団ヒステリー状態になってしまうのです。そして…玄宗も楊貴妃とその家族を守ることができなくなり、楊貴妃は玄宗によって自ら命を絶つよう命じられます。楊貴妃は玄宗に非常に愛されていたにもかかわらず、このような悲劇的な最期を迎えるのです…。そしてこの騒動の後は、安録山も死亡。乱はひとまず収束したものの、一気に唐王朝はガタガタと崩れ落ちていくのでした。楊貴妃にみる「美人薄命」の真実とは時は過ぎ、50年後に白居易によって玄宗皇帝と楊貴妃の美しくも儚いラブロマンスを讃え、ふたりを偲ぶ『長恨歌』が紡がれます。評価が高く、日本にも渡り源氏物語でもしばしば引用される長恨歌ですが、その魅力は権力者とその寵姫という立場を超えて、純粋な人間ふたりの対等な純愛を描いたものだからだと言われています。でも死後50年、ほとんど当時のことを知る人はいないんですよね。だから、ちょっと二次創作に近いというかほぼフィクション…だとしても!国を揺るがすキッカケになり、その責めを負って死ぬことになった人なのに、そこまで悪い話が記録されていないのは(「悲劇的な美人」として美化されたこともあると思いますが)、本人の人となりによるところが大きいのではないでしょうか。自らの力で成り上がり権力を握った武則天とは違い、楊貴妃はどこまでも『ただそこにいて愛された人』でしかないんです。勝手に暴走した身内のハンドリングができなかったことは責められません…よね?強大な権力者の最愛の人となれば周囲に取り入りたい人が群がってきて、ヨイショはすごいし甘い誘惑も止まなかったことでしょう。このくらいの贅沢、わがまま、いいんじゃない?皇帝ゾッコンだし? とエスカレートしてしまう人も多いと思うのに、楊貴妃が直接誰かに横暴な行動を取ったり、積極的に権力を追い求めたりする記述はほとんどないのです。調べる前は、絶大な美女が皇帝を骨抜きにして贅沢し放題した結果、国が傾いたのかと思っていたのですが、そうではなかったようです。楊貴妃の美しさと人間性が玄宗を虜にし、ふたりで深い愛を育んでいただけ…。とはいえ、楊貴妃が玄宗との愛を大切にして、聡明な振る舞いをしていたとしても、時の権力者に寵愛されるという影響は大きく、周囲に波紋を広げ、自身も悲劇的な最後を迎えたのは事実。楊貴妃の生涯は「権力者に愛されすぎた悲劇」の象徴なんですね…。そしてもう一つ今回の学び!『美人薄命』って「天から美貌を授かった代わりに、病弱で早死にしたりすることが多い」みたいな意味だと思っていたんですが!本来の意味は「美人はその美しさゆえに争いの種となって、トラブルや不幸に巻き込まれやすくなる」ということのようです! 本人に悪気がなくても存在するだけで周囲に影響を与えてしまう…やっぱり「美しすぎるって罪」なのねぇ…。
2025年01月10日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。前回の マリー・アントワネット編 はいかがでしたか?「パンがなければお菓子を食べればいい」のセリフ(本人は言ってない!)で知られていて、絢爛たる栄光から最後は処刑されるという悲劇の女王として有名な彼女。民衆の憎しみを募らせる原因を本人が作ってしまったこともありますが、調べたところいわゆる悪女ではなさそうでした。中国史上唯一の女帝三大悪女といえば…?今回紹介するのは、マリー・アントワネットとはいろんな意味で真逆のようなあの人!中国三大悪女に名を連ね、中国4000年の歴史の中でも唯一の女帝、武則天(則天武后)です。中国史には疎いワタシ。でも調べてみると出るわ出るわ、驚くようなエピソードの数々!その中でも彼女の人となりが感じられる部分を紹介していこうと思います。中国史上唯一の女帝となった人の出自は意外にも傍流貴族。しかし身分は高くなくとも父親が材木商から地方の長官に成り上がった人物で、商才と出世欲、そして財産がしっかりあったことがわかります。後妻の子だった照という少女は、幼い頃から地頭の良さが目立っていたのかもしれません。父親に溺愛され高度な教育を授けられたことが、後々に効いてくるのです…!父親が亡くなると先妻の兄たちから厳しいいじめを受け辛い日々も過ごした照。でもここで泣き寝入りするタイプなら女帝まで成り上がれるわけもございません!14歳の時、唐の皇帝、太宗の後宮に入ることになりました。これが照の運命を変え……ません、まだ!太宗皇帝はすでに老齢で照は若く、また才人という身分の低い妃だったのでほとんど接触もなく過ごしていました。運命の出会いから胸クソの残酷展開に…(怖)しかし運命は太宗の死に際して転がり始めます。太宗の見舞いに来ていた皇太子の高宗と後宮でバッタリ…!!なんと言っても武照は漆黒の髪に大きな切れ長の瞳、色白で薔薇色の頬に桃色の唇…そして、大きな胸の持ち主!異次元の美しさに青年高宗は一目惚れってわけ。実はこの時から関係を持っていた…かどうかはわかりませんが、太宗の死後慣例に従い一応出家したことになった照(当時は尼になると額に焼印を押していたが、それをしてないんです〜なんか匂いますね〜)は尼寺にこもります。そして不思議ととってもスムーズに1年後高宗の後宮に復帰するんですよ。あらまぁ。高宗には皇后の王氏がいましたが蕭淑妃という寵妃がおり、このふたりが対立を極めていました。そこで皇后が、淑妃を追い出すために照を還俗させ引き出した、という説もあります。が、ここから中国の歴史ドラマで見たことある残酷展開になります…。(高宗は照にゾッコンとなり淑妃を退けた皇后でしたが、後々自分の行動をめちゃくちゃ後悔しただろうなぁ…)子育て世代の読者も多い中ちょっとにわかに信じがたい話ですが、照に女の子が生まれると大事件が起きます。照が不在の時に皇后が赤ちゃんを見にやってきて、皇后が帰った後に見ると亡くなっていた!というのです…。照は高宗に、皇后に赤ちゃんを殺されたと訴えます。高宗もそれを信じ、皇后、そしてなぜか淑妃も一緒に罪人として地下牢に閉じ込めました。歴史あるある、親族もみんな流罪です。これ、お察しの通り(察したくないが)照の自作自演の可能性が高いようなのです。皇后が来ることを知って別室に身を隠した照が、皇后が帰ってすぐに自分の産んだ子を殺した…なんて…信じられないけど、その後の照の行動を知ると「いや、この人それぐらい平気でやるな…」と思ってしまうのがまた怖い話なのです。照を庇うわけではありませんが、現代日本の感覚で読むと身震いするようなこと、中国の後宮では日常茶飯事だったんですよね。嫉妬と欲望が渦巻く後宮では、妃たちが日夜寵愛を得るため=自分の立場の安定と親族の権力保持のために、殺るか殺られるかの緊迫した生活をしていたんです。毒が使われることも多く、お茶も気軽に飲めないシーン、よく見ますよね、ドラマやアニメで…。だから皇帝の寵愛を独り占めしていた照は、皇后から狙われるリスクが最も高い人でもあったんです。攻撃は最大の防御というべきか、ある意味わが子(女児だったから…?)を利用することで当時の敵を蹴散らすのに最大限の威力を発動したのです。そんなわけで照は、高宗をそそのかして重臣たちの反対を押しきり皇后として立后します。皇后になると投獄しておいた王氏と淑妃を拷問して惨殺…というところからも残虐さを感じられますね…(震)。武則天の驚くべき能力とは?病弱で政治にも積極的でない高宗は勝ち気で賢い照にとって好都合でした。皇后になると垂簾政治と言われる最高権力者を裏で操る形で政治の中心になっていきました。彼女は徹底した密告・反対勢力の粛清(時には自分の身内ですら)による恐怖政治で国民を震え上がらせました。暗殺や拷問の逸話が数多く残っています…。あまりの暴政に夫である高宗は廃后も画策しますが、事前に察知して防止し皇帝の権力奪還をさせませんでした。高宗が崩御するとその皇太子を廃位させ、自分の立てた皇帝を使い傀儡政治を続けました。そしてついに690年、63歳にして自ら帝位につくのです。武周王朝の始まりです。野心家で手段を選ばない血も涙もない人ってだけでなく(それだけでもうすごいけど)、彼女には驚くべき能力がありました。それは、人材登用能力。とにかく有能な人材を見抜く力がすごい!武照は自分の後見となる親族が有力貴族ではないことを鑑み、非貴族層から人材を積極的に採用するため科挙制を強化。才能があり、且つ忠誠心の強い者で周りを固めることで盤石な政治環境を作り上げました。特に代表的な宰相、狄仁傑は長きに渡り武照の右腕として支えた人物で、武照の統治下で国内外の難題処理に成功したのは彼の手腕あってこそだったようです。お墓まで独特って…すごく変わってない?殺生しまくりだけど仏教を重んじ、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりとして自分の顔に似せた仏像を造らせたり、妖僧や美青年を寵愛したりとやりたい放題やってますがー。案外彼女の統治下では農民の反乱が一度も起きている記録がなく、安定していたというべきか、統治能力は高く、経済や文化の発展に寄与したともいえます。そんな武照、705年に没しますが、そのお墓の墓誌に経歴や功績を一切刻ませない『無字碑』が有名です。『無字碑』が何を意味するかについては、歴史家や研究者の間でさまざまな議論が行われていますが「何も刻まない」という選択がかえって関心を呼び、武則天の生涯や彼女の影響力について議論を続けさせる原動力となっています。武則天の『無字碑』は、彼女のカリスマ性や歴史的な意義をさらに際立たせていますが…やはりどちらかというと無慈悲……。「日本」との関わりも実は深い!日本との関わりは意外と濃厚な武照改め武則天。先に挙げた洛陽の盧舎那仏は、遣唐使がスケッチして持ち帰り、奈良の大仏の元となっています。数々の海外との戦争にも勝利を挙げた中に、倭国として百済に助太刀した白村江の戦いもあったり。そしてなんと、実は『日本(にっぽん)』という国の呼び方もまた遣唐使の進言に対し、改名や改元大好きな武則天が承諾したことで始まったんですって!!武則天は文字への興味も非常に高く、『則天文字』も考案しています。日本でお馴染み、水戸黄門の光圀公の『圀』がここで武則天につながるとは…!と、意外に日本との関係も深い中国史上唯一そして最恐の女帝武則天ですが、やはりこれだけの結果を出す人って、とにかく「持ってるなぁ〜!」という感想でした。美人で、人を見る目があって、有能な人を使いこなせる本人も頭の切れるスーパーウーマン。目的を達成するためには残虐な手段を取るサイコパス的な行動もありますが、国や時代背景を考えたら当時の権力抗争を勝ち抜くには必要だったのかもしれません。さすが中国唯一の女帝だけあって、ものすごい濃いキャラの武則天。憧れるか?と言われたら…正直怖すぎる!と思ってしまうのですが、実力主義で女性の地位向上にも貢献した人です。有能な人を見抜いて組織化する能力って、一人でキャパ以上の仕事を抱え込んでアップアップしがちなワタシには少しでも必要だなと思ったりも。しかし、この時代に63歳で即位(亡くなったのは80歳)ってすごくないですか…? 生まれつきものすごいパワーを「持ってるなぁ〜!」の人で、ものすごいキャラだったのは…間違いないです!
2024年12月03日ウーマンエキサイトをごらんの皆さん、こんにちは。tomekkoです。マリー・アントワネットの実像を探る 前編 はいかがでしたか?偉大な功績や素晴らしい作品を生み出してる有名人の私生活は意外に酷い…ということはよくあるんですが、逆のパターン、珍しくないですか?少なくともこの連載で取り上げた中では初めてでした。前編では見知らぬ国に嫁ぎ、慣れないしきたりや貴族同士のしがらみに試行錯誤しながら自分の居場所を模索した彼女を紹介しました。後編では自分らしい王妃としてのあり方を見つけたマリー・アントワネットの様子と、断頭台に上がるまでを見ていきたいと思います。ていねいな暮らしをする良い母親だった説!若い時には賭博やぜいたくなファッションにのめり込んだマリー・アントワネットですが、念願の出産を経験するとガラリ。賭博はスッパリとやめ、当時としては珍しく自分の手元で子育てをする熱心な母親として目覚めます。また、前国王ルイ15世が愛妾ポンパドゥール夫人のために作った小宮殿プチ・トリアノンを貰い受け、自然豊かな農場や牧場を作り家畜を眺める生活に一変。ファッションも窮屈に締め上げるコルセットや高々と盛り上げるヘアスタイルから脱却。麦わら帽子にリラックス感たっぷりの緩やかなドレスへと移行していったのです。なんだか既視感のある読者さんも多いはず。いやご多聞に漏れずワタクシも…。若い時は流行の盛り髪、ギャルメイクにヒールでキメキメにしてクラブ通いしてたのに30過ぎて子ども産んだら途端に「自然派・オーガニック・無添加」といったワードを使いこなし日々「ていねいな暮らし」のハッシュタグでSNS検索するようになったそこのあなたー!あなたのことですよー!そう考えると親近感が湧きますね。女性ならある程度経験する心の変化だもん。若かりし日のトレンドもそうですが、ファッションにおけるマリー・アントワネットの統率力は素晴らしく、フランス人の習慣を大きく変えるきっかけになりました。産後の体型崩れを隠すドレスデザインの導入のほか、フランス人の衛生観念に影響を与えたのは香り。お風呂に入る習慣が無く動物性のどぎつい香水で臭いを誤魔化していた当時のフランスで、マリー・アントワネットは毎日お風呂に入り、薔薇などの軽くて自然な柔らかい香りを纏うことを好みました。フランスといえば香水の本場ですが、外国から来た王妃が改革したってちょっと意外。こういう自分らしいセンスやアイデアがあり、周りと同じかどうかを気にせずに人々を惹きつけていく人って、反面伝統や古い価値観に固執するタイプの人からは反感をもたれてしまいますよね。出る杭は打たれるというやつで…。自分に戻れる場所で暮らしていたら宮廷内で孤立してしまうことに…。プチ・トリアノンはエチケットやしきたりにうるさいヴェルサイユ宮殿の中で唯一見つけた自分だけの居場所、自由空間でした。でもここで少数の気の合う貴族たちとだけ過ごすことがまた貴族間の溝を深め、反発を強める結果となってしまうのです。実家であるウィーン風に作った「王妃の庭」はパリへの抵抗を感じさせ、お気に入り貴族vsその他の貴族たちの小競り合いは毎日のように起きました。またここで、有名なフェルゼンとの不倫が始まってしまったことも問題でした。マリー・アントワネットにとっては自分を守るための行動が、かえって彼女の醜聞を広める結果になってしまったのは切ないですねぇ。マリー・アントワネットの魅力は顔じゃない!そういえばファッションリーダーとしてもてはやされたことや、貴公子との熱愛、そして華やかに描かれた肖像画の雰囲気でマリー・アントワネットって“美女“のイメージを持っている人も少なくないのでは?昔の肖像画を見ると美しく見えますが、実際に会った人たちの証言からするとお顔の整った人ではないんです。なんせお抱えの画家に美化して描かせてますからね。でもマリー・アントワネットには、突出した魅力が3つありました。・肌の白さ、特にデコルテのきめ細やかさ・青い吸い込まれるような瞳に眩い金髪・身のこなし、優美な所作特に所作はヴェルサイユ宮殿の王侯貴族たちをして「彼女ほど優美なお辞儀をする人を見たことが無い」と言わしめるほど。自然に出る所作は育ちの良さや心構えのような、内面的な美を表すもの。私も自分の写真を見てゾッとしながら日々衰えを感じるばかりの40代だからこそ、ていねいな言葉遣いや姿勢、所作などに気をつけたいと思います…。って急にアラフォー美活講座になっちゃっいましたが…。イメージと違う!死刑直前の最期の言葉とは? さて、王妃の行動としては賛否両論あった彼女ですが、革命の足音がどんどん近づきついに国王一家はパリ市民によって拘束されてしまいます。浪費家で遊興と快楽に溺れた頭の軽い女性というイメージが一般的にあるかもしれませんが、裁判にかけられたマリー・アントワネットはかけられた全ての罪状、疑惑に対して正面から戦いました。王妃として相応の教養を身につけていた彼女のディベート力、聡明さは際立っており、自らを筋道立てて弁護した内容に異議が出ないどころか、時には傍聴席から称賛の声が上がることもあったとか。とはいえ最初から結論は決まっていた形だけの裁判。夫ルイ16世に続き、彼女も断頭台に登ることになりました。死刑宣告を受けた後に書かれた遺書は、血煙を上げヒステリックに盛り上がる革命の中、悟りを開いたような冷静さがあって胸を打たれます。「犯罪者にとって死刑は恥だが、無実の罪で断頭台に上がることは恥ずべきものではない」死刑当日、自慢の髪を短く刈られやつれ果てた姿はまるで老婆のようだったけれど、その身のこなしは威厳のある王妃そのもの。断頭台への急な階段を、両手を後ろ手に縛られたまま堂々と登っていったのです。死刑直前、執行人の足を踏んでしまったマリー・アントワネットは「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではございませんのよ」と落ち着いた声で詫びたとか。これが革命の犠牲として民衆の憎悪の中殺された王妃の最期の言葉だなんて…。「許せない」と誰かを糾弾する「正義中毒」は恐ろしい!フランス革命から200年以上進んだ現代。でも、マリー・アントワネットの人生を調べてみて一番感じたのは「人間って昔も今も変わらないな」でした。誰もがインターネットを使いこなし、スマホで自分の思いをいつでも匿名で発信できる。そんな中で顔や名前を出して活動し人気になった有名人が、ちょっとした言葉選びや軽率な行動などからしつこく誹謗中傷のターゲットにされる。そんな事件をよく目にするようになりました。社会の不満ー社会不安やストレスが高まると『正義』を盾に誰かを叩く人が増えるみたいです。そもそも人間は、わかりやすい攻撃対象を見つけて、罰することに快感を覚えるようにできているんだそうです。(これは誰しもが陥ってしまう可能性があって、もちろん、私も気をつけないといけません。)マリー・アントワネットは、同じ特権階級である貴族たちの悪意をもって民衆の中に『スケープゴート』として放り込まれたのではないでしょうか。負の感情をぶつけやすい生贄として。今回マリー・アントワネットの知らなかった側面を知ることで、悪名高い王妃は実は歴史の犠牲者だったことがわかりました。しかもこれは過去話ではなく、現代でも形を変えて似たようなことは起こりえるなと思いました。集団で人を傷つけることの残酷さに気付いてもらえたら…。そんな思いで今回のお話は締めくくりたいと思います。
2024年11月10日ウーマンエキサイトをご覧のみなさん、こんにちは。tomekkoです。偉人の人間性を知る意外なエピソード、海外の偉人も読みたい!とリクエストをいただきましたー!こういうコメントいただけるの嬉しいです。…こんな人物の話を読みたい!など感想やご要望頂けたら参考にさせていただきますのでぜひ!歴史的な悪女といえば…?さてさて、海外の偉人で一番に思い浮かんだのがこの人。パリオリンピックの開会式でもグロテスクな演出に使われ物議を醸した歴史的にも有名な“悪女“………。贅沢、浪費、派手で傲慢。「パンがなければお菓子を食べればいい」という無知で無神経な発言で民衆の憎悪を集めた王妃…。マリー・アントワネットのイメージってこんな感じじゃないでしょうか?学生時代は『ベルサイユのばら』で世界史のフランス革命をどうにか乗り切った私も、彼女の悲劇的な運命に同情はすれどご本人の素行にも問題あったんだろうな…と思っていました。でも改めて調べてみると!思ってたんとだいぶ違うエピソードがざくざく出てきまして…。今回は歴史的“虚像“がいかにして作られたかを調べてみることに。14歳という若さで結婚してヴェルサイユへオーストリアの女王マリア・テレジアの娘として生まれたマリー・アントワネット。14歳という若さで、近いようで全く文化も生活様式も違うパリへ、ルイ16世の妃として嫁ぎました。幼少期を自由でのびのびと過ごしたウィーンから、厳格なしきたりと儀式が多いヴェルサイユでガチガチに縛られる生活へ。その苦しさから、彼女のファッションセンスが認められる華やかな舞踏会や社交会でチヤホヤされたり、現実逃避できる賭博にのめり込んでいた時期があったのは事実。贅を凝らしたファッションや奇をてらったヘアスタイルが大流行し、浪費家や贅沢三昧のイメージがついたのでしょうね。でも、これらの放蕩は実は一時的なものなんです。彼女は一生こんな感じだったと思っている人も多いのでは?結婚から7年も子宝に恵まれなかったことも夫婦仲を疑われ批判される材料になったようです。現代でも苦しんでいる人が多い話ですが…今も昔もどこの国でもロイヤルウェディングは即“世継ぎ“が期待されてしまう妃。精神的にも追い詰められていたでしょうなぁ。しかし出産は彼女を大きく成長させ変化をもたらしました。賭博への興味を失い、子育て熱心な母親になっていくのです!(こちらは後編でお伝えします)代名詞となったあのセリフ…本人は言ってない説!さて、マリー・アントワネットの一番印象的な意外エピソードと言えば、やっぱり誰でも知ってるこの“迷言“ではないでしょうか。庶民の暮らしの苦しさ、貧しさを知らない傲慢なお姫様らしさが全面に表れているためか、このセリフが彼女の代名詞になるほど有名ですね。でも、実はこんなこと言ってない説!発言の主は某大公国の公爵夫人ではないかと1760年代に書かれたルソーの『告白』中の内容から言われています。この時マリー・アントワネットはまだ幼少期で王妃にもなっていないんですよね。実際のマリー・アントワネットは飢饉の時、むしろ民衆のために財を集め寄付をしたり、パンの原材料小麦粉に代わる主食としてジャガイモを広めるため国王夫妻でファッションにジャガイモの花を取り入れたりといった模範的な行動をしているのですが…あまり知られていないですよね。私も知らなかった…です。センセーショナルなデマは一人歩きし、回収不可能に。フランス人ですら多くが今でも彼女の発言だと思っているそうです。無念すぎる…。実は民衆よりも先に彼女を嫌っていたのは、宮廷に出入りする王侯貴族たち。彼らの嫉妬と悪意によって作られた悪い噂が王家に反感を持つ貴族たちの中でどんどん広まるうちに、本当のことなど何も知らない民衆の憎悪のネタになっていったのではないかと言われています。もし彼女が本当に傲慢で浪費家だったとしても、王族を取り巻く他の貴族たちもそう大差なかったでしょうに!毎晩のように宮廷で繰り広げられる舞踏会は決して王族だけのものではなかったわけで。他の貴族たちだって贅沢していたはず。ではなぜ、この王妃は同胞ともいえる貴族たちからこんなにも憎まれたのでしょうか?マリー・アントワネットが貴族から嫌われた理由とは?王妃になったマリー・アントワネット、実はヴェルサイユ宮殿内の儀式の簡素化や無駄なしきたりの廃止、緩和などを進めていきました。より自由な気風の実家ウィーンに寄せようとすることに不満を持つというのはまぁ理解できますが…でも、無駄を省くって国政においてとても大事なお仕事ですよね?しかしどうやらこれが彼女が反感を買った大きな要因の一つ。“ムダ“な決まりや儀式の中には特権を示すものがあり、その既得権益を守ることで他の貴族に対するマウント材料になっていたのです。それをムダの一言で奪い取られた上流貴族たちが王妃に不満を持ち、離れていった…ということみたい。さらにマリー・アントワネットは、自分のお気に入りの貴族としか付き合わなかったことも宮廷内での溝を深めてしまったようなのですが…それにも理由がありそうです。彼女が嫁いだ先には先代ルイ15世の寵姫、デュ・バリー夫人が社交界の華として君臨していました。マリー・アントワネットは早々にこのデュ・バリー夫人と壮絶なシカトバトルを繰り広げたと伝えられていますが、その陰にはルイ15世の王女たちの企みがあったようです。デュ・バリー夫人の存在を面白く思わない王女たちがマリーを味方に引き入れてそそのかしたようなのです。美しく朗らかで宮廷でも人気者のデュ・バリー夫人ですが、出自が貧しく、母マリア・テレジアが下賤の職業の女性を嫌っていたことも重なって、マリーは王女たちの企みに加担してしまいます。無視は2年も続き、最後はルイ15世を怒らせてしまいます。騒動をおさめるため予め決められた言葉をデュ・バリー夫人にかけたマリー・アントワネットですが、その後王女たちとは距離を置くようになりました。なんだか中学生のいじめみたいですが…って当時14〜15歳なので現代なら中学生ですよね。若く経験の浅いアントワネットは、陰で操る王女たちによっていじめの主犯格みたいになってしまったのですが、彼女も被害者なのでは?とも思えます…。人間不信になって、本当に自分の味方でいてくれると思った人だけに付き合いを限定したくなる気持ちもよくわかります。そんないろんな事情が積み重なり、彼女に恨みを持つ貴族たちが集っては悪意あるデマを広めて世論を印象操作していった…と考えられています。「贅沢で無責任な王妃」という悪評が定着してしまっていますが、彼女はその時代と政治のプロパガンダの犠牲者だったようです。後編では、そんな彼女の人間性にさらに迫ってみたいと思います!
2024年10月15日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。新紙幣、使ってますか?キャッシュレス化が進んだわが家はたぶん世間一般の流れよりも遅れて新紙幣を手にしたんですがやっぱり実物を見るとおお!ってテンション上がりますね。価値は変わらないんだけど(笑)子どもたちが気になるのはやっぱり“顔“。この人は誰?と聞かれるとスマホ検索しつつどうにか説明していたのですが、一万円札のお顔『近代資本主義の父』渋沢栄一はなんと造幣局の立ち上げにも寄与した人だそうです!まさか自分が刷られる側になるとは思ってもみなかったでしょうね。お金のことは俺に任せろ!近代日本経済の父といえば実は以前大河ドラマで取り上げられていた時には興味のある時代ではなかったので見てなくて、実業家として成功した人ってことぐらいしか知らなかったのでこれを機に、と渋沢栄一のことを調べてみたのですが…。生涯で500以上もの事業や企業・団体の立ち上げや運営に携わってきたとは凄すぎる!しかも名だたる大企業や日々の生活に欠かせないインフラ事業ばかりじゃないですか!わしら渋沢さんのおかげで生活できていると言っても過言ではないような…。前回取り上げた 高橋是清 は奴隷から総理大臣になった人でしたが、渋沢栄一は百姓から武士、幕臣さらには明治維新もうまいこと切り抜けて明治政府では官僚となり、最後は大実業家に!幕末から昭和を駆け抜け、91歳で大往生を遂げるまで順調にやってきた感のある運にも才能にも恵まれた人なんですね。ま、百姓と言っても野菜を作りながら藍玉製造や養蚕を兼業する商売上手な豪農だった渋沢家。幼少期から父親について仕入れのため各地を巡ったり、製造販売までの過程を実地で身につけていたことがその商才の元でした。更に漢学に武道など、百姓の身分ながら多方面で実力を磨いていたため一橋家の家臣に取り立てられ、慶喜の将軍就任とともに幕臣にまで上り詰めた実力の持ち主。そして何より、実業家としての思想を孔子の『論語』に求めたのも良かった。経済を回して得た富を国民と共有し社会に還元するべし、という考え方に異を唱える人は少ないですよね。と、このシリーズがベタ褒めで終わる…なんて思ってませんよね?おこんさんとたぬ君の白けた視線が痛いよ…?妻と妾を同居させた?女性関係も派手な覇王!そうそう、どんな人にもA面があったらB面があるもの!でもねぇ…渋沢さん、なんでも規模(というか数)が大きいんですよ!渋沢栄一の有名なB面エピソードは…そう「女性関係が派手過ぎる」こと!ご本人をして「明眸皓歯(めいぼうこうし・明るい目に白い歯、つまり美女のこと)以外は恥じるところは無い」と豪語されているぐらいでして…。新紙幣を結婚式のご祝儀に使うなってのはブラックジョークとしても、実態を知ると確かにちょっと…考えちゃうところがあります。妻は先妻千代と後妻兼子の二人。そして妾は数知れず…二人の妻の子以外は渋沢一族として認めないとして認知されている子は17人。ってそれでも多いんですが、非嫡子も入れたら50人を超えるのではという噂もあるそう。なんと最後にできた子、68歳のときですよ…え?正気か?そんな渋沢の最も酷いエピソードとしては、妻と妾を同居させていたってことでしょうか…。渋沢の二人の奥さん、どんな思いをされていたんでしょう…ねぇ。渋沢栄一の成功を支えた気が強い聡明な妻たち最初の妻、千代は1つ年下のいとこ。とても気丈で誇り高き典型的な幕末の女だったようです。同じ農民とはいえ名主(村長)の娘。学問にも通じ信念を曲げない烈婦。幕末って志士の奮闘が目立つけれど、実は女性にもかっこいい人が多いですよね…!そんな千代は渋沢の女遍歴に対しても「あの人は何でもできて情に厚いから慕われるんでしょう」と達観した対応だったとか。離れ離れが多かった維新前後の結婚生活でも渋沢からの手紙にも「女の情愛や執着でやるべき務めを邪魔してはならぬ」と自戒してあまり返事を書かなかったというほどの女性。本心を周囲に知らせることなく、41歳でコレラによって亡くなりました。そして迎えられた後妻の兼子は、零落した豪商の娘で芸妓でした。これまたプライドが高く、多くの男性から妾の誘いがあっても乗らず、渋沢が正式な妻としてもらい受けると言ってくれたことで決意。兼子もまた、先妻の子たちとその世話をしていた先住の妾もいる渋沢家で苦難の日々を送ったことでしょう。「あの人も『論語』とはうまいものを見つけなさったよ。『聖書』だったらきっと守れまい』と渋沢の女好きを揶揄した言葉が有名です。キリスト教には姦淫を禁ずる戒律があるが儒教には無いということのようです。妾(愛人)を『友人』と呼んでいたでもね?いくら一夫多妻が認められていた時代とはいえ、さすがに妻と妾を同居させるのは倫理的に御法度でしょー。ただ、ゴシップ誌にスクープを打たれたこともあったようですが進退に影響はせず。(今だったら狂気の沙汰で大炎上必至)それって男の女遊びに甘かった時代背景もあるけど、他にも理由がありそうなんです。社会的、庶民目線から見ても立派というか…素晴らしいんですよね。儒教の思想をもとに経済を回し生活インフラを整え、医療や福祉、教育にも手広く携わる。そもそも一人でこれだけのことに力を求められ期待に応えられるってことが超人的にすごいわけなんだけど、世のため人のためになることを成し遂げています。あとは他にもっと酷かった伊藤博文などが同時代にいたことで、相対的に目立たなかったということもあったようです笑。そしてもう一つ、やはり正妻たちの気丈さ、聡明さに助けられた面はあるのではないかと。妾が大きい顔をしたり悪婦、毒婦として渋沢自身を仕事もままならないほど骨抜きにするようなことにならなかったのは妻の威厳と管理の目が行き渡っていたからかもしれません。でもしっかり者の妻が許しても、現代の私たちの感覚で見ちゃうといろんな女性たちが内心苦しんだだろうなぁと思ってしまいますよね。「英雄色を好む」ってことでしょうがないよね!とは同じ女性としては言えません…。でもちょっとだけ渋沢の密かな孤独が、垣間見えたような気がするエピソードがありました。こちらは息子、秀雄の言葉です。「父は打ち解けた親友がいなかった。代わりに妾を『友人』と呼んでいた」「はぁぁ?」と思いつつも、少し胸がチクリとしませんか?調整力に優れ、謙虚な態度で様々な立場の人々との関係を円滑に保つことができ、多方面から信頼され偉大な業績を打ち立てた渋沢。同時に、非常に多忙で責任ある立場…プレッシャーも物凄かったに違いありません。渋沢にとって妾(女性)は、単なる性的パートナーというよりも、社会的なプレッシャーから解放され気軽に話せて心の支えを得る貴重な存在だったのかもしれません。妾(愛人)を人間として尊重しているのも好感度高い…?同じ人間としてちょっと理解できるだけに…女性としてはより複雑な気持ちになります…けどね。そして、生涯「女好き」がなおることはなかったけれど、自分の過ちを素直に改められる謙虚なところも好感度が高いんです!女性をこれだけとっかえひっかえしていることを、女子教育を推進していた教育者から指摘され反省し(?)女子教育にも力を入れた…なんて話もあります。当時の女性教育は困難を極めるものだったけれど、それでも今の日本女子大学設立を成し遂げたわけです。やっぱり…どれもこれもスケールが大き過ぎる! 女グセが悪いのを知っても「人間らしいところもあるんだな」と妙に納得させられてしまう日本円の新しい顔、渋沢栄一なのでした。
2024年09月17日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。突然ですが、ここ数年なんとなく停滞気味だった自分自身の活動を振り返って、今年はいろいろと新しいことに挑戦しているんです。でもそれってすごく不安で、今より悪くなるのではないか? 失敗したらどうしよう…と生粋のネガティ部メンタルが噴き出して仕方ないのです。そんなさなかに高橋是清の生涯を知りました。そうね、社会の教科書に載っていたのは知ってる。名前は誰でも聞いたことはあるでしょう。総理大臣もやってた気がする。あとは名前の正義っぽさに引っ張られたのかなーんとなく品行方正な人のように思っていました。明治維新前後の人だし武士の厳しさは持ちつつ総理大臣までやるのだから賢くて政治力があったんだろうな…なんてふわっとしたイメージ。人生の高低差が凄すぎる…!ところがどっこい、調べてみると高橋是清って商魂逞しく成り上がったわけでもなく、気高い思想を掲げて民衆を率いたわけでもないんだけど、人生ひたすら天国と地獄行ったり来たりしてるような生涯でその波乱万丈ぶりに船酔いしそうなんです…!幕府御用絵師の子、と言ったら何だか裕福で立派な感じがしますが、実はお手付きになった女中の子。生まれた是清は仙台藩の足軽の養子になって育ちました。11歳の時には横浜にできたばかりの、宣教師のヘボン夫妻による塾に通い始めます。ヘボン氏が医学、そして妻クララは英語を教えるヘボン塾で是清少年は初めて西洋の文化と英語に触れたんですね。しばらく研鑽を積むと、留学のチャンスが訪れます。14歳にしてアメリカ留学に向かう是清ですがここから地獄がはじまるのです…。留学したら奴隷として売られた…!なんと仲介した貿易商に渡航費や滞在費を着服され、さらにホームステイ先では英語がわからないのを良いことに騙されて奴隷契約にサインさせられてしまうのです!!凡人ならここで自分の境遇を悲観したり呪ったりするところですが…。ここで是清の天性の才能と生きる力が発揮されます。というのも…是清は自分が奴隷になったことに『気づいてなかった』「留学って厳しい勉強だなぁ」と納得して働いていたそう。14歳という若さでまだまだ世の中を知らなかったというのこともありますが、窮地を窮地と思わない鈍感力というかポジティブというか…。いろんな家庭に転売され、辛い思いをしながらも、英会話を習得した是清は奴隷契約に気づき、江戸幕府からサンフランシスコの名誉領事を嘱託されていた人物を頼り、契約を取り消すことに成功!ようやく日本に帰るのです…が!時は1868年、明治元年。つまり…明治維新真っ只中でした!留学前とは全く違う景色が目の前に広がっていたー。故郷である仙台藩は幕軍、つまり征伐される側の賊軍になっていたわけで…帰るべき場所もなく途方に暮れた是清。しかしここで救いの手が。同時期に帰国して外国人判事の職を得ていた森有礼から声をかけてもらい、森の書生として働いて、英語教師としての職を得ます。ところが、茶屋遊びなどで遊んでしまいその職を失います…。その後、文部省(現在の文部科学省)に入省するんですがーー。てことで、足軽の養子から奴隷を経て文部省の官僚までいったんだから、これでめでたしめでたし…。というわけにはいかず、ここからまた嘘でしょ!?という転落を経験します。投資詐欺ですっからかんに…今でいう投資詐欺でしょうか。南米ペルーの銀山の鉱山事業を持ちかけられ、出資して遥々現地まで出向いたところそこはもう掘り尽くされていたそうです…。帰国した是清は35歳にして財産を全て失います。文部省の官僚から投資詐欺で無一文にって…こんなことあります?急展開すぎません?でもね、またしても!是清を救い出す人がいたのです。それは日銀総裁の川田小一郎。詐欺に引っかかり無一文のホームレスに日銀入行を勧める総裁とは、何とも夢のある話です。アメリカンドリーム的な映画のワンシーンにありそう。是清、やっぱり“持ってる“なぁ。人間力がすごい!そしてこの出会いが是清の才能を開花させたようです。是清の財務能力は的確で効果的。日銀総裁にも就任し、その手腕を買われ大蔵大臣も歴任した是清。日露戦争の資金を一人で稼いできた話は有名ですが、その手法は日本国債を海外で売ってくるというもの。ロシアに日本が勝てるなど世界からは思われていない上、まだまだ開国して間もなく信用の無い日本国債をひとりで9億分も売るという途方もないミッションを成功させた是清の交渉力には驚愕させられますね。また危機に対応する瞬発力と落ち着いた判断力もすごいんです。昭和2年の金融恐慌の際には片面だけ急拵えで印刷させた200円札を銀行窓口に積み上げて押しかけた民衆を鎮静化させました。この機転、数々の修羅場を潜り抜けて成功してきた人ならではだなぁ。何度どん底を経験しても…とにかく明るくポジティブまんまるい見た目から『だるま宰相』という愛称で呼ばれた是清ですが、実際彼自身の人生は七転び八起き。そもそも地頭が良くて高い能力を持っているのも間違いないのですが、転んでもサッと手を差し伸べてくれる人が常に周りにいるような感じがしませんか?それって運なのかな? それとも人柄?その答えが高橋是清本人の言葉にあります。「境遇の順境は、心構え一つでどうにでも変化するものである。」「授かった仕事が何であろうと、常にそれに満足して一生懸命にやるなら、衣食は足りるのだ」逆境に嘆くことなく、いつも前向きに明るく頑張る人。与えられた仕事はどんな内容でも一生懸命やる人。生来の気質もあるでしょうが「自分に運は巡って来る」って信じていたんですって。何度も人生のどん底を経験して何度も何度も這い上がってきたからこその「深みのある言葉」に裏打ちされたポジティブさは眩しすぎる…。ネガティ部員歴数十年の私、そう簡単には変身できないけれど、ひとつひとつの仕事を丁寧に頑張ること、そして新しいことに取り組む時ぐらい、不安を口にするより楽しみ!と口角を上げてみる努力をしてみたいと思います!
2024年08月15日ウーマンエキサイトをご覧のみなさん、こんにちは。tomekkoです。 前回 は今どハマり中の大河ドラマに乗っかって書いてみましたが、藤原道長のイメージはちょっと変わりましたでしょうか?偉人や歴史上の有名人って、教科書にまとめられた内容や強烈なインパクトのあるできごとでイメージされることがほとんどですよね。戦国武将は特にその傾向強いのではないでしょうか?ということで、今回調べてみたのは…。冷酷なカリスマ織田信長野心的な伊達政宗の意外な趣味とは?魔王 織田信長、そして独眼竜 伊達政宗。いずれも野心的で勇敢な武将というイメージがありますよね。信長は神仏をも恐れぬ好戦的な独裁者としてのエピソードが山ほどあるし、政宗はその眼帯としゃれた兜のデザインから見た目のかっこよさに惹かれる人も多いでしょう。伊達政宗については戦国の中でも特に激戦時代を知略を駆使して生き残ったことから、老獪なイメージもあるかも知れませんね。でもでも…このふたりの武将には意外な趣味があったんです。そう、スイーツとお料理です!豪快に瓢箪から酒をラッパ飲みして怒鳴り散らしてそうな魔王信長ですが、実はなんと下戸!甘いものが大好きなスイーツ男子だったんです…!!ポルトガルから来日していた宣教師ルイス・フロイスによる『日本史』には信長に謁見した際の様子が記されています。信長は「朝早く起床し、酒を好まず、食を節するなど極めて健康的な生活を送っていた」えっ 信長ってお酒…飲まないの?!?!フロイスが所属するイエズス会は、キリスト教布教のためまずは権力者たちに酒やお菓子を贈ったそうですが、信長にもワインを献上したものの飲んだ記録はありません。代わりに信長が大喜びしたのは、金平糖及び有平糖といった砂糖菓子でした。ガラス瓶に詰められてキラキラ輝いて見える金平糖にうっとり見惚れるコワモテの殿様。想像するとちょっと可愛くないですか?信長はかなり気に入ったようで、何度も取り寄せたという話も残っています。甘いもの好きな信長の好物は干し柿でした。戦国時代の頃より美濃地方の名産品になっており、よく家臣への褒美に使われ、前述のフロイスにも贈ったそうです。(フロイスは柿とは知らず、干しイチジクだと思っていたようですが)そんな信長の干し柿にまつわるエピソードにはこんな話もあります。 戦で早くに父を亡くした家臣の息子が九歳で家督を継いで(過酷な時代…)主君の織田信長に謁見した時のこと。信長は、取り次ぎ役の堀久太郎に、床の間に山盛りになっている干し柿を下賜するように命じました。久太郎が2つばかり渡そうとすると、それを見た信長は、「ケチケチするな。もっとたくさん持たせてやれ!」と叱りつけ、十数個も持たせたそうです。一抱えもある干し柿は九歳の子どもの手には受けきれず、袴のすそを広げて袋を作って受け取った少年の姿を見て信長は上機嫌で笑いかけたとか。他にも戦で1番槍の手柄を立てた家臣に干し柿とかぶっていた笠を褒美にするなど、干し柿は信長にとって、とっておきのプレゼントだったようです。干し柿をもらって(きっとみんな喜ぶぞ!ヨシヨシ!)って思ってそうな信長、これまた可愛いところがあるじゃないか…。お菓子を手作りした信長…可愛くない?甘いもの好きが高じて、時には自分でも台所に立つこともあったというエピソードにはびっくり。それもなんと家康とその家臣のために信長自ら手作りのお菓子でもてなしたというんです。信長が作ったのは『ふりもみこがし』という、炒った米や麦を臼で挽いて粉にし、お砂糖を混ぜたお菓子。家康の家臣、松平家忠の日記には「上様自ら家康の御膳を運び、お供衆にもふりもみこかしを挽いて下さった」と同席した家臣から届いた書簡について記述があります。男子厨房に入らず、という考え方自体案外新しいもので戦国時代の料理人は男性が当たり前なのですが、とはいえ殿様自ら襷掛けして顔に粉とかつけながらせっせと作っていたかと思うと…やだ、またしても可愛い一面を見つけてしまった!とはいえもちろんこれらはあくまで『意外な』一面。フロイスの目の前でも、通りがかりの女性の顔を覗こうとした下人を即座に切り捨てたり、人の意見は聞き入れない独裁者といったイメージ通りの記録が多く、可愛い一面があったからって…冷酷な独裁者だったのは間違いないと思われます。 さて一方の伊達政宗はというと…無類のお料理好き!研究熱心でかなりの凝り性だったようでなんと政宗氏、毎朝2畳敷きの豪華なトイレで献立を考えるのが日課だったそうです。こちらは比較的知られているかも知れませんね。伊達巻やずんだ餅などルーツが政宗であることが有名な物もあります。ずんだ餅は枝豆の綺麗な緑の餡をつけて食べるお餅ですが、政宗が陣太刀の柄で枝豆を砕いて作ったから「じんだ」が「ずんだ」に訛った説。伊達巻も、政宗がヒラメの肉に卵を混ぜて焼いた平玉子焼を好んで食べていたことが、 後にこの平玉子焼を巻きすで巻くようになり伊達巻と呼ばれるようになった説。まあどちらも諸説ありますが、やはり食にこだわりのある政宗だからこそ由来に名前が上がるのでしょうね。ただ調べていくと、政宗はただ食べることが好きで自分でも料理するようになった人とはちがうようで、やはり根底には戦国の世を生き抜く武将としてのしっかりとした思想があったようです。「人をもてなす際に一番重要なのは料理であり、そのメニューを管理するのは主人の仕事。」「誰かをもてなすときに一番大事なことは心のこもった料理を出すことである。それも主人自らが作った料理でなければならない。もし自分が作らず人任せにして、悪い料理を出して腹痛でも起こされたら、こちらの気遣いなどあったものではない。」などなど、まるで料亭の主人のような格言の数々が残っています。政宗は客人には自らの手で配膳までしたそうです。格言をベースに見ると大事なのは料理そのものそいうより、相手との関係性を良く保つための心遣いのように感じられます。厳しい戦国の世を生き延びるために、多くの家臣とその家族の命を預かる武将(リーダー)に必要なのは実戦での強さはもちろん、風向きを読む賢さ、そして人の心をつかむカリスマ性だったのではないでしょうか?料理は、何度も存続の危機を乗り越えて泰平の世に伊達の血筋と領地を残した政宗の生き残り戦略の一つだったのですね。調べる前は、武芸と戦に明け暮れ日々緊張感のある決断を迫られている武将たちにとって、もしかして甘味や料理は息抜きだったのでは? 忙しいのに仕事と趣味を両立して、さすが仕事のできる男はちがうぜ〜なんて軽く考えていた私。いや〜そんな甘い話じゃなかったですね、甘味だけに…(え?)料理もスイーツも人の欲望(食欲)を満たすための手段で、家臣の心を掴んだり外交戦略に役立ったりしてるわけです。信長だってただ自分が好きな甘いものは皆んな好きだろうとホイホイ干し柿をプレゼントしていたわけではないでしょう(多分)自領の特産品を贈ることで生産者を庇護したり、『美濃尾張の信長』からの品としてのバリューを知らしめたり…といった意味もあったかも知れません。政宗に至っては相手との関係を強めたり密約を結んだりと、料理は政治戦に使う戦略のひとつだったのでしょう。料理ってそもそも段取り良くないとできないよなーと日々実感しているマルチタスク苦手主婦。さすがは歴史に名を残す偉大なリーダーは一味ちがうぜ!!と唸らされたエピソードでした。《参考文献》・『フロイス日本史』・『大日本史料 第十一編之六』・『現代語訳 家忠日記』・『伊達政宗 五常訓』
2024年07月19日ウーマンエキサイトをご覧のみなさん、こんにちは。tomekkoです。文豪シリーズですが、意外な一面を知れば知るほどその人に親近感や愛着を感じるということに気づきまして…。これは文豪に限らず、いろんな偉人の意外な一面も知りたいぞ!ということで調べるジャンルを広げてみました。というわけで、今回は大河ドラマ『光る君へ』で大注目の、あの方…!そう、藤原道長。平安時代の摂関政治の仕組みを完成させ最高権力者となった人で、源氏物語の光源氏のモデルとも言われているのです。実は私、それくらいしか知らないんです。日本史好きと言うより装束オタクなので、自分の好きなジャンル以外は高校日本史の知識なのです。なので以前女性文豪編で紫式部と清少納言を描きましたが、その時もまだ教科書レベルの道長イメージで描いています。 やはり成し遂げた功績とそこまでの経緯にいささか悪どい印象があるからでしょうか。はたまた道長といえばこの歌!! ぐらい有名な 「この世はすべて私のためにあると思う!」と詠んじゃった自画自賛ソングのせいでしょうか…。ただ、ただね?紫式部たちのように自らの経験をしたためることのできた女性ですら多くが謎に包まれているのに対し、道長については千年前の人とは思えないほど詳しいエピソードが残されているのです。なぜかというと…。それは本人含め多くの公人が日記に記しているから。当時の日記は人に読まれることを前提としており、特に男性の書く日記は政治に関する公式記録と言えるものなので、政治の中心部に長く存在感を示していた道長のことが多く書かれるのは当然です。そこで多くの人々に記録された道長のエピソードから、特に意外なエピソードを探してみました。実は愛妻家だった?道長の成功の秘訣は、もちろん本人の戦略や才覚や運の良さもありますが、何よりの功労者はその妻と子どもたちでしょう。多くの女性の元に通った道長ですが、主な妻は二人。同居して公にも「北の方」と称された源倫子と、同等に身分は高いものの第二夫人的扱いの源明子。この二人の妻がすごいんです! なんと女性の平均寿命が40歳程度だった(ただし幼少期の死亡率が高いため平均を下げている)時代に、どちらも80代まで生きた健康長寿!さらに二人は、それぞれ6人ずつの子どもがいるのです。早すぎる妊娠出産や難産、産後の肥立ちの悪さなどで亡くなる女性も多い中…この結果は偶然とは思えませんね。倫子も明子も、20歳を超えてから道長と結婚しており、また出産の頻度も程よく間が空いていて、体への負担が少なかったのではないでしょうか?と考えると、女性たちの持って生まれた体の強さはあるにしても道長は(この時代の男性にしては)、子育てや母体への負担に配慮していたのかも。まぁ他にもたくさん通うところもあり、仕事も忙しかっただけ…なのかも知れませんが、結果的に健康な妻が多くの子を成したことで三代の天皇にそれぞれ一族の娘たちを入内させ皇后にすることができたわけで、この妻と子なくして道長の大出世は語れないのです!と、この成功要因を本人も痛感していたからなのかは分かりませんが、道長は自分自身の昇進を辞退して妻や家族の授位を優先しているんです。五男の末っ子でありながら、邪魔な者は身内でも排除して兄弟たちを踏み越えのし上がった出世欲モンスターみたいなイメージありません?私はありました。でも実際には正妻倫子の方が位が上という状態が続くのです。もともと道長よりも家柄的にも高い人ではありますが、こういうところにも道長の妻への感謝と心配りがあるように思えますね。そしてやっぱりどんなシゴデキ男だって孫にはメロメロ。溺愛する孫におしっこ引っかけられて喜ぶなんて、千年経っても貴族でも庶民でもジイジってどこも同じなんですね。とはいえこのほっこりエピソード、その孫が中宮となった娘彰子が産んだ皇子で次期天皇だったからこそのお喜び、だったのかもしれません。自分と血縁関係の人間がついに天皇になる。『夢が叶う』という言葉にはちょっと裏を感じてしまうなぁ…。二面性のある不思議な性格だった?そんな気遣い上手な、そして身内には無邪気な一面も見せていた道長ですが、同性に対してはどこか怖さを感じるエピソードが豊富です。長兄道隆の息子であり道長の甥、伊周とは特にソリが合わなかったのか政治的に対立していたとはいえ、宮中で掴み合いの喧嘩をしたり、弓くらべでは挑発して見事に矢を命中させています。若い時には宿直(夜間の宮中警護)中、暇を持て余した帝(花山天皇)から肝試しを命じられ、次々脱落した兄たちを尻目に一人お供もつけずひょうひょうと歩いて行き、大極殿まで行って柱の一部を証拠に削り取ってきたという逸話も。感情豊かなのに、冷静で豪胆。で、めちゃくちゃ負けず嫌い。多才で不思議な人だけど、成功する人ってこういう人なんだろうな、という妙な納得感もあります。(もちろん後年作られたエピソードも多数あると思いますが)有名なアノ歌はダダ滑りしていた可能性もそして冒頭に登場したアノ有名な月の歌。実は『黒歴史』だった…のかもしれません。一族から三代の皇后を出す『一家三后』という歴史上類を見ない大成功を収めた道長。そりゃ調子に乗ってしまうのもわからなくはないのですが…。娘威子が後一条天皇の中宮に立后したことを祝う祝賀会でのこと。『小右記』を記した藤原実資を呼んで「今から歌を詠むから必ず返歌してほしい」と前置きし、実資も「もちろんです!返さないことなどありましょうか」と応じたのですが、詠んだ歌があまりにもあまりにもだったからでしょうか…? 返歌をする代わりにその場にいた公卿(くげ)たちと道長の歌を唱和しました。『小右記』にこの歌について特別批判めいたことは書かれていませんが、返歌を約束した上でのこの対応って、ちょっと勘繰ってしまいますね。最高権力者が浮かれているのをみんなドン引きして見ていた…?ということで、きっと道長も翌朝酔いが醒めたら(みんな記憶なくしてますように…)とゾッとした酔っぱらい傲慢ソングだったのかもしれません。(もちろん諸説ありますが。)他にもたくさんのエピソードが残っており、有名な紫式部や和泉式部たちとの会話も残されています(セクハラトーク多め)。本人の直筆も残っていて、事細かに日記に記す几帳面さの割に字の書き方はおおらかだったりとさまざまな面が見えて面白いのですが、『紫式部日記』などから人物像を探るのもおすすめです。成功する男の特徴・性格が垣間見えるかもしれませんよ。
2024年06月10日ウーマンエキサイトをご覧のみなさん、こんにちは。tomekkoです。文豪クズ男列伝(クズとは失礼な言い方ですが現代の感覚で感じ取るとこういう表現になってしまうという…意図です)として始まったこのシリーズですが、女流作家も濃ゆい人生を生きた人たちがいるのです。以前紹介した「岡本かの子」の評伝小説を書き、ご本人も奔放な女流作家といえば…「瀬戸内寂聴」先生!今回は瀬戸内寂聴の人生を見に行ってみましょう!瀬戸内寂聴といえば一般的には禁欲と清浄をイメージする尼僧の姿でありながら、愛と欲をテーマとした作品を多く世に出している印象がある不思議な作家ではないでしょうか。普通の主婦には収まり切れない…恋愛体質!生涯を通して『女』『人間の業』を追求し続けた瀬戸内寂聴ですが…。本名は晴美。徳島の仏壇店に生まれ、体は弱いながらも不自由のない少女時代を過ごした晴美は、東京女子大学在学中の20歳の時に見合いで結婚。戦時中の当時の女性としては順風満帆なコースだったと思われます。夫の任地の北京に同伴し、娘を出産。終戦と共に帰国した晴美ですが、ここで平凡な主婦としての人生から逸れていくのです。なんと夫の教え子の青年と恋愛関係に…!見合いで結婚した歳の離れた夫より、4歳年下の若者に惹かれてしまう気持ち…まぁわからんでもないですが…ううむ。自身の世界観を世の中に発信する情熱を持っているというのは、そもそもパワーがあっていろんな情熱が強い方なんでしょうね。そして夫と娘を置いて、青年と駆け落ちし初めての小説を書き始めます。ですが…その青年はその後自殺してしまったようです。…でもこのことが、作家瀬戸内寂聴の誕生には不可欠な出来事だったのでしょう。本格的な作家デビュー作となった『花芯』。川端康成や三島由紀夫をはじめとした錚々たる文豪たちから評価されたにもかかわらず、文芸評論家からは『子宮小説家』などと揶揄され、その後文芸誌からの依頼が来なかったといいます。でも、文豪のエピソードをいろいろと見てきた私としては、この評価は納得できないんですよねぇぇ…。実際に読んでみると、淡々と柔らかく美しい文章で表現された女性たちの性と愛の短編集なのです。作者自身が奔放だったという事実があるために世論の風潮がネガティブに傾いたということもあるようですが、男性作家であれば恋愛遍歴を私小説として発表している人も多いのに…。男性なら許される(評価される)けど女性側が書くと「生々しい」「はしたない」と言われる、そんな時代に批判を恐れず堂々と発表した寂聴先生! 今となってはむしろかっこいいとさえ思います!その後数年、文芸誌から干されながらも挫けずに執筆活動を続け、大衆誌や新聞連載などでの活躍を経て、1963年には自身の三角関係の体験を描いた『夏の終わり』で女流文学賞を受賞。作家としての地位を確立しました。批判されても心折れず、路線変更せずに自分の描きたいことを貫いた意志の強さ…すごいです。出家してから“さらに”自由に!ただまぁ、やはりご自身の愛の追求も当然続行しますよね。小説家、井上光晴と講演旅行を経てまた恋愛関係になりますが、岡本かの子女史とはちょっと違うなと思うところは、そんな自分を良しとはせず、常にどこか悔やんだり自分を責めたりもしているような…一面もあるようです。そこで禁欲のため、宗教に救いを求めますが…。子宮作家の汚名のせいでしょうか。キリスト教の修道女になろうとして複数の教会から断れられ、今度は仏門を叩くも複数のお寺から断られてしまったそうです。そして1973年、ようやく中尊寺にて出家が叶います。最後の彼氏は48歳年下男性?!得度の際、髪も性愛も断つことを宣言した寂聴でしたが、実際には出家後も飲酒も肉食もありで、なんと85歳の時に48歳年下男性と恋愛関係だったという話もあります。…どこか自制の必要性を感じながらも自分を偽らずに貫いて生きた寂聴は、何歳になってもとても魅力的だったのでしょう!素晴らしい!年齢を重ねても出家しても創作意欲は衰えず、仏門に入ってからは仏教関連や歴史上の人物伝、また源氏物語の翻訳とその関連書籍など旺盛な執筆活動をしました。それこそ多くの文豪が挑戦した現代語訳があるけれど、寂聴は出家した者だからこそわかる「女の心の(背)丈」の変化を源氏物語の現代語訳で表しているのが特徴的です。天下一の色男との恋愛に苦しみ続けた女君たちが、出家により心の丈がスッと伸びて光源氏を見下し突き放すフェーズに入る、そこに着目し表現した作品は同じ現代語訳でも読後感が全く違ってきますね。うーん、経験者ならでは?!時代を切り拓き多くの女性たちが救われた!瀬戸内寂聴という作家は、出家しながらも人間について考え続け、多くの女性たちを救った人生だったのかなと思います。男性中心の文壇から干されてからの彼女は、その批評に屈することなくむしろ抗うように、時代の因習にとらわれずに自分らしく生きたさまざまな女性活動家や作家の伝記を出し続けて評価を伸ばしてきました。京都に寂庵という庵をむすび、そこで恋愛に悩む女性たちに親しみやすい言葉で法話を説き、交流する活動も続けていました。制御不能で、人間にとって喜びも悲しみも大きくなる恋愛、そして情欲を「それが人生なんだ」と生涯実践していた寂聴先生…。『生きることは愛すること』をモットーに抜群のコミュ力で多くの著名人、一般人とも交流を広げ、作品数の量もさることながら執筆以外の活動の厚さ、濃さを知れば知るほど愛のエネルギーの塊のような人です。名前やお顔は知っていたけど作品には触れたことが無いという人も多いのではないでしょうか。初めて手に取るならやはり読みやすい短編集の『花芯』。そしてちょうど今年話題の『源氏物語』現代語訳は作者本人が「中学生くらいからでも理解できるように」とわかりやすい訳を意識して書かれているので、おすすめです!
2024年05月01日ウーマンエキサイトをご覧のみなさんこんにちは。tomekkoです。クズ文豪シリーズ、女流作家も楽しんでいただけたようなので性別に関わらず書いていけたらと思っていますが、今回は正統派?文豪と言えばこの人!日本人初のノーベル文学賞受賞者、川端康成の人生を見ていきましょう。痩せた身体にギョロリと鋭い眼光。ストイックな古武士のような雰囲気ある姿から生み出される美しい表現に流麗な文体。東京帝大卒のエリートで小説のタイプとしては「新感覚派」と呼ばれます。とても真面目な雰囲気でおかしなところがある…?いやいや(やはり)なかなか波瀾万丈なんです!!身近な人の死の経験が多すぎる…泣川端の人生は、幼い頃から晩年まで身近な人の死と向き合い続けるものでした。特に幼少期から人格形成に影響を及ぼす思春期にかけて大切な家族を次々と亡くしているのを知ると、あまりにハードな運命で辛くなります。“孤独の人“という表現がぴったりくる川端。この経験が人との親密な関わり、そしてあたたかい家庭への強い憧れを作っていったのでしょう。初恋は同性だったかも?!そんな川端の初恋は、同性だったかもしれないと晩年に本人が記しています。寄宿舎生活だった中学校で、自分を慕う可愛い後輩と親密に過ごした川端。後年まで文通は続き、完全に恋文にしか見えないような手紙を送りかけて思いとどまったとか。精神的な繋がりではあったものの、少年のころの淡い恋心を何十年も経った時に思い返すって…めっちゃエモいですね。きっと美しくキラキラした思い出なんでしょう…。悲劇の大失恋を経験そんな川端の人生最大の恋愛はなんと13歳の少女!なのですが、プラトニックなままでの大失恋となったようです。初々しい桃割れに結った可愛らしいカフェの女給、伊藤初代は男性客から大人気。現代の感覚で13歳というとちょっと引いちゃいますが、当時は感覚では庶民向けの舞妓さんというところでしょうか。川端は「ちよちゃん」とみんなに可愛がられる初代に夢中になります。かと言って生真面目な性格なので気軽に絡むでもなく、独特な大きな目でじっと人を凝視する癖を大発揮してわかりやすく目で追いまくっていたようですね。ついに初代に思いを打ち明け、16歳になっていた初代とトントン拍子に婚約まで漕ぎ着けた川端。周りの友人たちにも公表し祝福されて、ウキウキと新婚生活の準備などもしていた矢先に悲劇の電報が…!!初代は決して「非常」の理由を言わず川端から去りますが、他の男性に乱暴されたことが原因か…?とも言われています。(真相は不明です)もしこの説が本当であるとすれば、20歳と16歳の未来あるカップルの将来を根こそぎ奪った人間がいたことに怒りを禁じ得ませんね…。後年生活が苦しい初代が頼って来たようですが川端は受け入れなかったそうです。すれ違った運命は、哀しいけれどもう交わることはなかったようです。また川端康成は、かなり特徴的な「眼力」を持っていて、いくつもの伝説を作っているのですが…。意志の強さは目に宿る…?「眼力」がすごい黙ってギョロリと見つめるだけで家賃を取り立てに来た大家さんを諦めさせ、押し入った泥棒が鉢合わせした川端の睨みにおそれをなして逃げ出した!?この眼力、実はこんなことにも大活躍だったそうで…。真面目そうに見えて、実は『借金の天才』でした。(これも昔の文豪あるある)お金のことに頓着のない川端、「金はある時に払えばいいし、ない時は払わなくて良い」という謎持論を持っていました。お金がない時は節約しようとか、借りたら余裕のある時に返すとか…そういった人としての常識がすっぽ抜けていたようです。普通に無銭飲食無銭滞在して払えなければ踏み倒せば良いという…コレは立派なクズ認定ですね。川端得意の睨みで菊池寛は同人誌の印刷代を渋々出すことになり、ある出版社は欲しい壺があるからという理由で金庫の中身を丸ごと持ち出されました。(その額300万円ほど!)さらに名作『伊豆の踊り子』の取材名目だった旅館逗留は数ヶ月に及んだそうですが、なんと1円も宿泊代を払わず踏み倒した…って知ると読後感が微妙になりそう。川端康成と聞いて一番に思いつく『日本人初ノーベル文学賞受賞者』の肩書きですが、この時の賞金を当てにして趣味の骨董品を買い漁り、結果としては賞金の5倍もの額を買っていたという話もあります。死後は未払金が大量に残されたということで…いやぁ〜欲望の強さと常識のなさが合体して周りは大迷惑だったと思います。(物凄い才能があったのも間違いないですが)狂気あふれる過激で変態的な作品も!そんなちょっと破天荒な一面とは別に、動物好きで犬や小鳥などをたくさん飼っては愛でていたようです。『禽獣』という作品の動物への視線もかなり独特…。初代との恋が破れた後、家族を持ち孫も可愛がっていた川端ですが、晩年も近親者に先立たれ、文人仲間の自死を見送る経験もします。最後は弟子であり唯一無二の師友と言われた三島由紀夫の自決に影響を受け、72歳でガス自殺…。その心境は凡人には計り知れませんが、人生の深淵をものすごい「眼力」で観察し、見つめ続けたのでしょう…。「雪国」「伊豆の踊り子」などが有名なのでお堅い印象のある川端康成ですが、愛憎まみれる過激で変態的な作品も実はあるのです。ただただ眠っている少女を眺める老人たちの話「眠れる美女」や、美しい女性のあとをつける男の話「みずうみ」など、狂気が満ち満ちております…。それなのに美しいのが凄い! さすが文豪!有名作品だけでなくディープな川端康成ワールドを覗いてみたい気持ちになりませんでしたか? …また一味違った世界が広がっていますよ!
2024年04月05日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。前回、文豪クズ男列伝の特別編として女流作家「岡本かの子」をご紹介したところ、女性作家についてもっと知りたいというお声もいただいたので、今回は流行りに乗ってこちらの超有名女流作家たちについて書いてみたいと思います。私の趣味をご存知の方、インスタやXを見てくださっている方からは「ハイハイ知ってるよ」…という声が聞こえてきそうですが、私は幼少期から平安時代の文化や文学が大好きなんです!今年の大河ドラマの紫式部の人生をモチーフにした『光る君へ…』。完全にドハマりで、やや家族を巻き込みながら楽しんでいます!ということで、平安時代を代表する才女といえばやっぱり紫式部と清少納言でしょう!実は直接出会ったことがない清少納言と紫式部ドラマでは同席していたふたりでしたが、史実としては交流した記録は残っていません。同じ天皇時代に宮中で働いていたとはいえ、紫式部が一条天皇の女御(妃)彰子に仕えたのは、清少納言の主人で中宮(皇后)であった定子とその一家が失脚した数年後からなので、少なくとも宮中で遭遇することはなかったはずです。でも、このふたりが同僚だったとしたら…ふたりのそれぞれの作品ももっと殺伐とした内容になっていたかもしれません。というのも、清少納言と紫式部って正反対の性格のようなんです。平安時代の人って絵で見るとみーんな引き目鉤鼻、更に身分によって髪型も身につけるものも同じだから、なかなか個性を見出しにくいんですが文字で残された作品は個性が爆発しています!まずは清少納言からいきましょう。頭がキレて気が強い!キャリアウーマンの清少納言清少納言は祖父も父も百人一首に選ばれるほど有名な歌人である清原家出身。幼いころから歌や漢詩を学び、この時代にはかなり珍しいタイプの女性に育ちました。平安時代の貴族女性に生まれたら、経済力のある男性が通って来てくれるのをひたすら待つだけの人生です。さらに家事は召使がやるので、琴を弾いたり庭を眺めて歌を詠んだりするくらいしかやることがありません。もちろん人に顔を見られてはいけないのでほとんど外出もできず、いくらお金と時間があってもできることが限られます。これってなかなかキツくないですか? ま、正直お家大好き&ひとりが大好きな私はそんなにしんどくないような気もするのですが…。とにかく当時の貴族女性の生き方のスタンダードがこれだった時代に、彼女はこう言ってのけます。「将来の計画性もなく夫に頼りっきりでささやかな家庭の幸せだけ守ってるような人生なんてつまらないし軽蔑しちゃう。それなりの身分の娘に生まれたからには結婚前に宮仕えぐらいして社会勉強した方がいい。できれば典侍(ないしのすけ)ぐらいの地位は経験しておくべき。宮仕えする女は軽くてダメだなんて考えの男はほんっと憎たらしいわ。」(枕草子「生い先なく…」)え、バリキャリの考え方…? 平安時代の女性でこんな考え方する人がいるなんて!!と衝撃でした。頭の良い女性は幸せになれないとまで言われる平安の世で、自身の聡明さに自信を持って人とは違った視点で世の中を捉え、宮中での生活を楽しんだ清少納言は気の強い陽キャな印象ですね。そんな、一見はつらつとして見える彼女の意外な一面について、以前からXで人気の犬アイコンの編集者たらればさん(@tarareba722)の解釈に目から鱗でした!「清少納言の直属の上司、中宮定子さまは清少納言にとって直視できないほど尊いお方。枕草子に書かれた彼女の定子さまへの心酔っぷりはまさに推し活のようだ」といった内容を投稿されていたのです。これは「成功したオタク」ってやつですかね?「初めて宮仕えに出た頃はどうしたらいいかわからなくて泣きそうになりながら毎日夜になったら参上して近くに侍っていると定子さまが絵などを見せてくださるけど、緊張して手も出せず縮こまってしまう。(中略)とても寒い頃で、袖口からちらりとのぞいた指先が本当に艶々とした綺麗な薄紅色で、こんなに美しい人がこの世に実在するのかとびっくりしてお見上げしたものだわ。」(枕草子・第179段「宮にはじめてまゐりたるころ」)教養と感性には自信のある清少納言ですが容姿にはコンプレックスがあったみたい。とてつもなく高貴で美しい定子さまは今で言うなら直接お会いできるなんて夢のまた夢、別世界のキラキラした芸能人のよう。そんな彼女から直接話しかけられ、やりとりしている自分に時々ハッと我に返って「あの美しい推しとこんなみすぼらしいババア(宮仕え当時すでに三十路近く、定子よりだいぶ年上だった)がしゃべってるよ 恥ずかしいー!!」って…頭のキレる皮肉屋なキャリアウーマンがこんなふうに推しに身悶えてる姿を想像すると、この人にもこんな可愛いところがあるのか、と微笑ましくなってきますね。一方紫式部はというと…。華やかな生活に馴染めずしんどくなって休職しちゃった紫式部清少納言と同様、幼いころから学に親しむ環境がバッチリあった学者・藤原為時の娘なんですが、彼女の場合はけっこうコンサバな育てられ方をしたようです。父親が弟の出来の悪さを嘆き「お前が男だったら」と言われた話は有名ですが(今で言えば毒親というやつかも…)こういう言葉で子どもって自己肯定感折られていくんだな、とつくづく思うわけです。ですが、こうして紫式部は「女のくせに学をひけらかすのははしたない」と自分の賢さ、学識を恥じつつもどこか認められたい、そんな陰キャ女子に育ったのかもしれません。一条天皇に入内させた娘の彰子のために教養高いサロンを作りたかった道長。そんな道長に源氏物語がヒットしたことで目をつけられスカウトされた紫式部なのですが…。『紫式部日記』の中には時の最高権力派閥の華やかなサロンでの生活に馴染めず、空気読みすぎてしんどくなって休職しちゃう陰キャ式部が描かれてまして…「その辛さ分かる〜」と共感しかございません。とはいえ『紫式部日記』って、ちょいちょい毒舌部分があるんですよね。なんならそこだけが有名になってる感も…。「清少納言って人ほんと最悪。したり顔でかしこぶってる。漢字を無闇に使ってるけどよく見たら間違ってるとこいっぱいあるし。ああやって人より自分は優れてるように見せたがる人って最後には見劣りして残念な結果になるのよね。どんなつまらないことでも感動して見せて、少しでもいい感じのネタ探しに頑張っちゃってる感じ、かえってダサくない?」紫式部が日記の中で清少納言をガチめにこき下ろしている部分、なんというか…SNSで有名インフルエンサーの悪口言ってる裏垢女子…みたいな…?でもこれ(本音も入ってると思うけど)実は政治の動きが関係しているとも言われています。つまり道長率いる彰子サロン所属の紫式部としては、前勢力定子サロンの風評を下げる必要があってわざわざ書いた可能性もある…と。それだけ清少納言が及ぼした影響力が大きかったとも言えそうです。当時の日記は人に読まれる前提なので、個人の感想風だけど意図が仕込まれていると考えられますよね。ふたりが現代で創作活動をしていたなら…って想像してみました。どちらが良い悪いと言いたいわけではなく、自己表現のタイプの違いを表現してみましたが…いかがでしょうか? 平安時代に文学や和歌で活躍した女性はまだまだいます。心にどのような想いを抱えて生きていたのか…本当のところは本人にしかわからないことですが、彼女たちの境遇や人となりを想像しながら作品を読んでみるとまた一味違った楽しみ方ができそうです!
2024年03月04日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。2024年も文豪や芸術家の意外な素顔を知って作品にも触れるきっかけになれるよう、楽しい連載をしていきたいと思っております。さて、年の初めということもあり、今回はクズ文豪列伝は特別編です!「クズ」って社会的に逸脱した行動を取って、さらにそれを正当化するような人のことだと思うんですが、逸脱するほどの激しいエネルギーがその人にあったからこそ名作が誕生したり、そこにたどり着くまでの生い立ちを知ると作品への理解が深まったりと…書くたびにその文豪に愛着を見つけています。自分に正直であろうとした人たちの生き様って、勇気を与えてくれますよね。これまで男性作家ばかりを取り上げてきましたが、ずっと女流作家のことも書いてみたいと思っていました。男性に比べ数が少ないので目立たないだけで、きっと女性の文豪にも変わり者やクズな生き方をした人はいるだろうし、そんな人にも共感する部分はあるだろうから…。そんなわけで今回調べてみたのは、太陽の塔や「芸術は爆発だ!」で有名な芸術家、岡本太郎氏の母、岡本かの子です。歌人であり小説家。仏教研究者でもあります。夫と息子と自分の愛人とも一緒に住んでた…?!まぁ、なんというかその風貌からも一風変わった人の匂いは感じられますが、この人「ちょっと個性的な作家」というにはあまりに凄まじい、強烈な人生を送っていたのです。生まれは大地主のお嬢様。そしてなんと、夫と息子がいながらにして愛人をひとつ屋根の下に住まわせ、そのメンバーで海外旅行にまで行っていたと…それも愛人はひとりじゃない…!たったひとりの男を夢中にさせ続けることだって難しいことなのに、愛人が何人もいただなんてどんな絶世の美女…と思っていたのですが!かの子さんは端的に言って、そのイメージを壊す人でした。おかっぱ頭に奇抜な濃い化粧の個性的な見た目に、わがままで横暴、料理も洗濯もできないっていうね…。かの子さんの夫はイケメンの画家・漫画家・文筆家で(放蕩を繰り返すクズでしたけど…)、愛人たちは医師や後の県知事になる人など驚くほどハイスペック。そんな男たちが天女の生まれ変わりで唯一無二の素晴らしい女性と崇拝していたのです。自分の中の常識というか価値観がひっくり返ると言ったら失礼だけど、唖然とするというかなんだか納得いかない複雑な気持ちになりました…。では、なぜ岡本かの子はハイスペ男子たちにモテたのか?その理由は、彼女の生まれ持った気質にあるようです。マイワールドの強さで男を沼らせる女学校時代のあだ名は蛙(かわず)。敬愛する谷崎潤一郎に「白粉デコデコの醜女」「着物の趣味が悪い」と嫌われてしまったようです。作家円地文子も「かの子女史を私は一度も美しいと思ったことはない」と断言しています。そんな周囲の声など本人は意にも介さず、ひたすら独自の美意識でマイワールドを炸裂させていた彼女の女学校時代のペンネームは「野薔薇」。…いや「蛙」との落差よ!ネガティブ思考の私からしたら信じられない自分軸の強さ!!誰になんと言われようと、自分は美しいし、自分の作品には価値がある!…周りの評価や悪意も跳ね返してしまう厚いバリアの中で生きられるってどんな感じなのか…凡人には計り知れません。そんなかの子ワールドに完全沼ったのが夫、一平でした。家柄も良くイケメンでニヒリストの画学生。黙っていても女性は寄ってくるし、斜に構えていたところもあったのでしょう。そんな、やさぐれプレイボーイ一平は、かの子さんに出会い一目惚れ。(え?)あまりに感情丸裸なままぶつかってくるかの子さんは当時はもちろん、きっと現代にいても常識からかけ離れすぎて“ふつう“の人たちからは煙たがられるかも。でも一平には、そんなかの子さんが純真無垢な天女のように見え一気に引き込まれてしまったんです。娘が常人とは違うのを理解していた彼女の両親からはなかなか結婚を許してもらえませんでしたが、一平は血判状まで作ってかの子さんを生涯幸せにすると誓い、結婚したんですって…!そんなふたりが結婚して子どもができると…どうなると思います?普通の子育ては…無理でした!そんなふたりの間には太郎が生まれます。しかし浮世離れした価値観で稀代の不器用だったかの子さんが普通の子育てができるわけもなく…当然ぶっ飛んだ育て方になったようです。その最も有名なエピソードがこれ。自分の仕事を邪魔されたくないから「幼い我が子を柱に縛り付けていた」…今なら虐待で児相に通報待ったなしな大炎上案件ですよね。そもそもふつうの生活も危うい人なのに、子育てなんて…寝ている赤ん坊に蹴躓いたことも一度や二度ではなく、家事炊事は何ひとつもまともにできるものがなかったかの子さん。実はあとふたり子どもがいたのですが、どちらも幼いうちに亡くなっており、太郎自身が「自分は生まれ持った生命力で成長した」と言い切るほど、かの子さんの育児は危なっかしいものだったようです。息子が年頃になれば自分の恋愛相談までしちゃうし(お父さん一緒に暮らしてるんですけどね…。)親子関係というより兄を慕う妹のようになっていくという…。…ってこの状況はかなりスレスレで凡人には理解できないわけですが、息子からは「ユニークで生々しい人間そのもの」として許容され、「対等な人間同士のぶつかり合い」ができたと愛され尊敬されているかの子さん…。他人の親子関係に口を挟むもんじゃないなぁ、とつくづく思いますね。親子も相性です相性! そんな普通じゃない育児をしながら書き上げた『老妓抄』をはじめとした小説は、濃厚な表現力で人間の生々しく素朴な姿を描き文壇で評価を得ました。自分のことは客観視できているようには見えないんだけど、他者への鋭い観察力と表現力は見事な点も不思議な魅力です。良き母とは…? を改めて考えるキッカケに!私も今では子育ては自分の人生の一部ぐらいに気楽に考えられるようになり、ほどほどに手を抜けるようになりましたが、正直ひとり目の時は病的に自分を追い込み、かの子さんとは逆のタイプのヤバい人でした〜。人生全てを子どもに捧げよ!子どものことを常に中心に考えて子どもの生活に全て合わせて、良い母ー世間的に見てそう見えるようーにならなくてはとノイローゼ状態だった頃を振り返ると怖くなります。毎日愛しい子どもといられて幸せ〜と言いながらも思い出すのは家の中で赤ちゃんとふたりで息が詰まりそうだったこと。出先ではコミュ障のくせに社交頑張ってママ友を作り、子ども向けの料理ばかりを必死に調べて作っていたこと。休みの日は疲れている夫を急かして公園やイベントにせっせと出かけ、思い出作りと称して写真を撮りまくっていたこと…。うーん、幸せだったことは間違いないんだけど、同時に大人として、女性としての自分を押し殺しすぎて心が悲鳴を上げていたなぁ。かの子さんの生き方を真似したいわけではなく真似なんてできませんが、でも自分は自分、女性としてもひとりの人間としても自分の尊厳を大事にして生きることを妥協しないで貫く生き様は少し羨ましくも…あります。良妻賢母の呪いを解いて、自分なりのバランスを追求したい…なんて考えるキッカケになりました。かの子さんの小説作品は多くはありませんが、代表作である『老妓抄』はまさにかの子さんの美意識、人生観を表しているのでぜひ読んでみてほしい短編です。
2024年01月19日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。クズ文豪シリーズへのコメント、ご感想いつもありがとうございます!リクエストもよくいただくので毎月次は誰の人生と作品を紐解こうかとワクワクしながら書かせていただいております。さて、このシリーズを始めた当初から書きたいけど書きづらいな〜どうしようかな〜と思っていた文豪さんがおりまして…。ご存知三島由紀夫!!美しい日本語の表現、耽美で雅で悲劇的。そしてどこか妖しい薫りが立ち込めるような作品性。谷崎潤一郎とどっちが好きかと聞かれたら…悩みに悩んで決められないくらい好きなんです。とはいえ人生をじっくり知ろうとしたことはなく、どうしても作品のテーマの強烈さと亡くなり方の壮絶さのため、ご本人もさぞかし家族を泣かせたクズ系譜であろうと(ひどい)勝手に思い込んでいました。そんな三島由紀夫をついに書いてみよう、と調べ始めてすぐに、作品から勝手に抱いていた私のイメージは大間違いだったことに気づきました。意外にも家族思いな一面が!官僚を3代務める家柄で本人も幼少期から学業優秀。三島自身も一年間ではありますが大蔵省(現財務省)の役人だったこともあるんです。ま、ここまでは文豪あるあるじゃないですか。なんなら家柄と神童だったという事実はクズ文豪を生成する必須素材のような気がしてきます…。でも三島は違うんです。生涯を通してめっちゃくちゃ純粋で硬派。それ故に晩年は政治的思想に傾いていってしまったのではないかと思われます…。他のクズ文豪と大きく違うな、と感じたのが子どもたちへの思いやり。割腹自決という凄惨な最期を選んだ三島ですが、自分が亡くなった後にも毎年子どもたちにクリスマスプレゼントが届くように百貨店に先んじて手配をし、子ども向け雑誌の定期購読料も先々の分まで先払いしておいたそう。家庭を顧みず酒や賭け事に溺れたり女にだらしなかったり…その挙げ句勝手に死んでしまう(なんなら女を巻き添えにする)ような文豪たちを見てきてのこのエピソード…ちょっと胸に来るものがありませんか?自衛隊駐屯地で檄文を撒きクーデターを煽動する演説の後に切腹して自決するという激しい行動の裏で、家庭の小さな幸せを大切にする心の持ち主でもあったんですね。現代の感覚でも「クズ」という枠に入らなそうな三島由紀夫をどんな切り口で紹介したら楽しめるかなぁ…と考えたのですが、今回は三島由紀夫の『審美眼』に注目してみたいと思います。三島由紀夫 独特の美意識とは?兎にも角にも、三島の特徴は独自の『美』をとことん追求していたこと。それは自分のペンネームへのこだわりにも見られます。16歳という若さで『花ざかりの森』で文壇デビューし、天才が現れたと絶賛された三島。当時は本名を使っていましたが、若すぎることを案じて周囲からペンネームの使用を勧められました。万葉仮名ふうに当て字の名前にすること、そして漢字の見た目から来る印象、並びの美しさ、柔らかさにまでこだわって“由紀夫“となった経緯には既にこの歳から言葉に、響きだけでなく字面の並びにも理想の美を求めて見ていたことがわかります。そんな三島は、実は昭和を代表する名女優や俳優を見出した究極の審美眼を持っていました。たぶん彼はあのまま生き続けていたら文豪としてだけでななく、プロデューサーとしての名声もほしいままにしていたんじゃないかな。中でも有名な方を紹介してみましょう。幼少期は祖母の影響で能や歌舞伎に触れ、その流れで古典文学をこよなく愛し、日本中世の御伽草子や能の筋書きをベースに、自身でも戯曲や創作歌舞伎を次々と発表し上演しました。この時の役者の中で、三島が出会った超弩級の新人が若き日の坂東玉三郎さんです。美輪明宏に「君は、大物になる」とつぶやいた元々梨園出身でもなく歌舞伎で主役を張る家柄ではない14代守田勘弥の養子として育てられた少年を、三島由紀夫は自作の歌舞伎『椿説弓張月』でヒロインの白縫姫に大抜擢。三島は若き日の玉三郎さんを「薄翅蜻蛉(うすばかげろう)のよう」と評し、これまた自作の『サド侯爵夫人』を「将来君がやる作品だから持っていなさい」と手渡したそう。現在の消えてしまいそうな儚い少年美を愛でつつ、将来凄みのある立女形に育つことも見越したその審美眼…恐れ入ります!!もうひとり、三島由紀夫と親交のあった有名な方は、美輪明宏さんです。銀座のゲイバーでアルバイトしていた16歳の頃から、三島だけでなく各界の著名人たちを虜にしていた美輪さん。『仮面の告白』が大ヒットし、周囲から先生先生とチヤホヤされていた三島に、当時アルバイトしていた美輪さんは指名されても媚びることがなかったそう。類稀な美貌だけでなく、遊郭育ちもあってか常連の文豪たちのジョークにも洒脱な切り返しをする頭の良さで既に売れっ子だった美輪さんですが、フランス語で歌ったシャンソン『ばら色の人生』を聴いた三島がいたく感動し「君は、大物になる」とじっと見つめてつぶやいた、そのたった一言が千万の言葉よりも嬉しかったと後に美輪さんは語っています。自決の前には、300本もの薔薇の花束を手に楽屋を訪れ、「もう君の楽屋には来ないからね」と言って、最前列でコンサートを聴いて去っていったそうです。その後…あの自決事件は起こるのです。他にも岸田今日子さんや若尾文子さんのような往年の名女優も多く見出した三島ですが、あまりに美しい話ばかりなので、一つクズ繋がりのエピソードを入れておこうかな…。太宰治に直接「嫌い」と言い切る!そう、クズ文豪代表である太宰治先生!当然っちゃ当然だけど、こういうタイプ苦手そうですよねー。既に売れっ子作家だった一回り以上歳上の太宰の退廃的な生活態度を批判していました。(そりゃそうだ)直接会いに行くことになり、酔って持論を展開する太宰に直接「嫌い」と言い切った三島も三島ですが、「こうして会いに来てるんだから、やっぱり好きなんじゃないか」と平然と返す太宰もいかにも太宰らしくていいですね(事実どうだったのかはわかりませんが…。)でも本当は、この嫌悪感は同族嫌悪に近いものだったのではないか、と言われています。太宰の弱さにイラッとするのは、三島自身も元々は虚弱体質で男らしいへのコンプレックスも強かったようです。(三島は後年 鍛え上げて筋肉自慢の肉体を手に入れました!)こうして見てくると三島由紀夫という人は、並外れた頭脳と鋭敏な感性を持つがゆえに異様に繊細で、言葉や表現に対しても人に対しても究極の美を追求し過ぎる…要するに極端で危険なタイプだったように思えます。(…だから天才なんですけどね) 作品もまた何を紹介しようか悩むほど名作揃いなんですが、悲劇的な愛や美を求めるお話が多いのでとっつきにくい方も多いかもしれません。でも、三島は劇作家としても素晴らしいので本をあまり読まない方でも接しやすい古典をベースにした戯曲も多いんです。もし初めて三島作品に触れるなら珍しくコミカルでハッピーな創作歌舞伎『鰯売恋曳網』が軽めでおすすめですよ〜。
2023年12月07日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。今更ですが、私は自分の職業をコミックエッセイストと読んでいます。自分のこれまでの経験や思い出、家族との何気ない日常に焦点を当てて、そのまま楽しかったモーメントを切り取って絵に描くこともあれば、ある出来事をきっかけに考えたことを文章に綴ることもあります。自分の人生を切り売りしてる…? と言ってしまうとアレなんですが、昔からいろんな作家さんのエッセイを好きでよく読んでいたのでこのエッセイジャンルというのが好きなのです。個人に起きたプライベートな事実をその人なりの切り口や視点で他人が読んでも面白いと思われる作品にする…って面白いですよね。もちろん夫や子どもたちに「これは書いていい?困らない?」と確認を取って許可の出た事実だけを使っているのですが…。今回は自分の人生経験を赤裸々に作品に投影して名を馳せたこの方を! 紹介したいと思います。これまで題材にしてきた文豪もですが、現代の感覚だと明治〜昭和前期の文豪たちって倫理観狂ってんな…って思うことばかりで、島崎藤村の半生も現代なら週刊誌のスクープ記事になりそうな事件ばかりなのです…!さて、島崎藤村の幼少期はやはり同時期の文豪たち同様、学業優秀で順風満帆そうに見えるのですが…。これはツラい…お父さんが発狂して獄中死国学者の父から6歳にして中国古典を教えられ、小学校入学後は国文学や西洋文学にも幅を広げ知識を深めていきました。しかしその立派なお父さんですが、明治維新後の混乱した日本の状況に正気を失い、寺院に放火未遂の罪で投獄されてしまいます…!藤村15歳の時にお父さんは獄中で狂死。これは間違いなく藤村の人生観に大きく影響を及ぼしたでしょう。自分の15歳のメンタルを思い出しても、とても耐えられるとは思えないです…。でも後年、この出来事を題材にして傑作『夜明け前』を執筆します。発表したのは57歳ということからも、父の獄中死を自分の中で消化するのにそれだけの長い時間が必要だったのかもしれませんね。ここまではゴシップというより壮絶な体験をしている藤村…これで歪まない方がおかしい、とも思いますが…20代からはいよいよ色々なことが起きてまいります!仕事が手につかないレベルの「恋煩い」を小説にしました20歳で女学校の英語教師なんてやっちゃうからー!恋しちゃうからー!!なんと生徒の佐藤輔子さんは当時21歳で先生よりも年上で婚約者もいたのだとか。どうやら恋仲…というか藤村の片思いだった可能性が高くプラトニックで終わったようですが、仕事が手につかないほどの恋の病に悩み、藤村は退職してしまいます。その上、輔子は婚約者との結婚後すぐにつわりで衰弱死してしまう、という藤村にとっては更に傷を深める不幸があったのでした。この時の想いと状況をリアルに描いたのが初の長編自伝的小説『春』。これが藤村の赤裸々執筆スタイルの始まりとなったのでしょうか。最高傑作と呼ばれる…問題作が誕生姪を妊娠させた体験を小説に!藤村にはもう一つ、週刊誌の見出しになってしまいそうなクズエピソードがあります。それが『姪っ子孕ませ事件』!!藤村は身内の不幸に苦しめられた人生で、30代ではなんと3人の娘を次々と亡くし、その後妻も亡くなります。その悲しみは計り知れませんが、妻に代わって身の回りの世話をしにきてくれた姪のこま子を妊娠させてしまうという…うわぁ…この時代だから許されてしまったのでしょうが…。現代の感覚だとそれはダメ絶対!! ですよね…。しかもこの後、関係を終わらせるためにフランスに高飛びですよ?(言い方)優雅に(かどうかはわかりませんが)『仏蘭西だより』なんて新聞連載をしながら、騒ぎが落ち着くのを待っていた…とも見えちゃいまして…身勝手感がすごい。さらにすごいのは、その後この体験をまた赤裸々に小説化しちゃうんですよ…。こま子さんも納得の上で作品化されたそうですが、これって純粋に『自然主義派』って言っていいのかな…と個人的にはモヤモヤが止まりません。のちに書かれたこま子さんの手記には「ほとんど真実を記述している。けれども叔父に都合の悪い場所は可及的に抹殺されている。」とあります。そうですか…きっとそうですよね。晩年は文壇の重鎮として落ち着いた?身近な人の不幸を多く見送り苦しんだ前半に比べ、晩年は文壇の重鎮となり『日本ペンクラブ』の初代会長になったり帝国芸術会員になったりと優雅に過ごした島崎藤村。過去に取り上げた他の文豪はやらかした上に若くして亡くなったり自ら命を絶ったりした人が多い中、若い時に現代なら大炎上間違いなしの事件を起こしても晩年は悠々自適となると、まぁなんというかいかにも明治生まれのクズ男って感じが…。「若い時の苦労が報われましたね、先生!」とは手放しで言えない自分がいます。社会問題の闇に切り込んだ作品『破戒』そんな私が学生時代に初めて読んだ島崎藤村の小説は有名な『破戒』でした。わかってはいても目を背け見えないふりをしがちな部落差別問題に正面から向き合った社会的にも意義のある作品ですが、当時の自分にはあまりに難しくてうまく読み取れませんでした。赤裸々自然主義派の藤村、ということはこれも実体験なのかな?と調べたところ彼自身のことではなかったのですが、実在の教員大江磯吉という人物が差別と戦う様子を知って生き方に共感したことがきっかけになっていたんですって。女関係のヒドい赤裸々作品を知ってしまった後だとなんとも言えない複雑な気持ちになりますが、この作品を、3人の娘を相次いで栄養失調で失いながらも断固たる決意で書き上げ社会に投げかけたのですよね。やはり才能のある人は…とにかく色々すごいのでしょう。父の狂死を30年以上経って見つめ直した『夜明け前』と合わせて、私も読後30年近く経た今『破戒』ももう一度読み返したくなりました。ぜひご一緒に秋の夜長に読んでみてくださいね。
2023年11月09日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。前回の 森鴎外編 で、そんなに知らなかった文豪のエピソードを知って興味を持てたよーといったメッセージを編集部宛てにいただいて、とても嬉しかったです!そしてこんな人も扱って欲しいといったリクエストも!文豪、と題したこのシリーズですが、せっかく「いまむかし」をテーマとしているのでちょっと趣向を変えて、近代に限らず歴史に名を残した歌人なんかにも目を向けてみたいと思います。いや実はリクエストをいただいて、私自身が(そういえばよく知らない…どんな人だったんだろう?)と興味を抱いたからなんですけど。関係を持った女性は3千人超えという伝説の男!なんと今回は平安時代まで遡っちゃいます!最近控えめだったたぬ君が嬉しそう〜。「在原業平」歴史に興味がなくても、名前だけは聞いたことがあるという方も多いのではないでしょうか。でも多分、パッと思いつく歴史上の人物って天下獲ったり何かを成し遂げたり日本で初めて何かをしたり…偉人と呼ばれる人たちですよね…?そんな中、在原業平は何で有名かというと…。『特に何も成し遂げてないけどあまりにモテすぎて歴史に名を残してしまった人物』なのです!なんと関係を持った女性は3千人を超えるという伝説があります…! さすがにアバンチュール多すぎない?その結果イケメンの代名詞のようになった業平は、後に書かれた『伊勢物語』の主人公のモデルにもなっています。エピソードを読み進めていくと気づくと思いますが、長編恋愛小説『源氏物語』にも伊勢物語になぞらえた設定がいくつも出てきて、かの紫式部先生も参考にされたプレイボーイの日本代表なわけです。とはいえ在原業平と言えば最初に出てくるのは歌人としての肩書き。和歌の名手として六歌仙、三十六歌仙にも選ばれています。勅選和歌集『古今和歌集』を編纂した紀貫之をして「その心余りて言葉足らず(あまりに情熱が強すぎて表現する言葉が足りない)」と評させるほど、熱く激しい恋心を少ない文字の中に見事に凝縮した人なのです!お…そういえばこの歌仙の中にはやっぱりモテすぎて有名人がもう1人いますね。そう、美人の代名詞「小野小町」ですー。(業平はもちろん口説いてます! 美女最高峰には断られたみたいだけど…)男女ともに、そんなに身分は高くないのにモテすぎた人が日本を代表する歌人として選ばれている。これは何か事情がありそうな…?身分は高くない、と言いましたが、確かに在原業平は百人一首でも武装した姿で描かれています。彼の最終の官職である蔵人頭のユニフォームなわけですが、蔵人とは位階は高くなくとも天皇の覚えもめでたい側近。実は、在原業平の出自を辿ると本来彼は皇族の血筋なのです。しかし祖父である平城上皇が譲位したのちに天皇に反旗を翻し(薬子の変)それが失敗して一族は零落します。皇族から臣籍、つまり家臣の立場に格下げされてしまうのです。一族は再興のチャンスを狙いますがライバル藤原氏によって妨害され、皇族に戻ることはできませんでした。業平20歳ごろ、ちょうど働き盛り男盛りで周りの貴族の子息たちもどんどん出世街道を邁進しているのを横目に見ながら、落ちぶれた一族はまともに官位を上げてももらえないままくすぶります。高貴な生まれで何不自由ない気ままな皇族暮らしが約束されていたはずなのに、親族の起こした政変によって不遇な運命に翻弄されて…。私なら仕事行くのも嫌になって引きこもっちゃうかもしれない…ところなのですが!業平には物凄い才能…ポテンシャルがあったのです。人がモテる条件は平安時代から変わらない?“容姿端麗で自由奔放、勉強はそんなにだけど和歌がめちゃくちゃ上手い“ー『日本三代実録』(意訳)平安時代当時、女性が顔や姿を家族以外にはうかつに見せない状態で恋はどうやって始まるかと言えば、美しいと噂に聞いた女性の家に訪ねていって、御簾越しに和歌のやりとりをして駆け引きをするわけです。相手はどんな人柄なのかな、教養はどのくらいあるのかな、話は合いそうかな…?現代なら飲み会や職場やアプリなどで出会って、容姿が好みだったり話が合えばその後も何度か会ってみて…お互いに恋愛感情が生まれればお付き合いしましょう〜となる流れを、相手の顔が見えない状況で言葉のやり取りだけで汲み取り合う平安時代!!えーえーえーむっ…ずかしくない?言葉のやり取りが大事な平安時代小野小町や在原業平という和歌の天才は和歌を詠むのが上手い=コミュ力が高い=モテ女・男だということなんですね!!(もちろん当時の感覚で美男美女だったのも事実なのでしょうが。)これからという時に不遇な環境でくすぶっていたであろう業平は、その心の穴を埋めようとしたのでしょうか?ここからがクズ男の本領発揮となりますー。数々の女性たちと浮名を流した業平ですが、中でも一番有名なのが政敵の娘でもあり天皇のお妃候補である高貴な姫君との禁断の恋に情熱をぶつけます。(おっとこれ源氏物語で見たような…?)その関係はまもなくバレて別れさせられることになりますが…。禁断の悲恋から、名歌は生まれるわけですね。平安時代から匂わせポエムはあるんですこちらの歌、百人一首にも収められているので有名ですよね。子どもの頃に暗記した人も多いかと思いますし、漫画のタイトルにも使われています。現代語訳にすると実際の川が紅葉で紅く染まっている様子を見ているようですよね。でも実はこれ、屏風に描かれた絵画を見て歌を作ったものだったようです…!そしてこのネタ元になった屏風は、禁断の恋のお相手、藤原高子さまの持ち物でしたー!はい匂わせー!!その女性の部屋に飾られている屏風を見ることのできたってことですからねぇ。コミュ力が高いって…頭いいよね?ところで業平の人物像には、勉強はあまりできないけど…とありましたが、恋の駆け引きは一流だったようで…古い歌や季節折々の表現をよく知っていて引用したり、相手の思わせぶりな歌の意味を即座に解釈してうまく掛け合わせた返歌を作ったり…こんなの頭が良くなかったできないと思いませんか!?その賢さがよく現れているのが、こちらも有名な伊勢物語の一節にある『かきつばた』の頭を取った即興歌。教科書に載っていたという方も多いのではないでしょうか。あいうえお作文のように、頭の文字を取りながらしっかり意味の通じる文章を作るってかなり難しい。更に文字数制限があって、ただ景色や気持ちを説明するだけでなく表面的な言葉の裏に別の意味を持たせてみたり…。和歌となるとより難易度あがりますよね?今も昔も、やっぱりコミュ力が高い人って頭が良いし、同性異性にかかわらずモテる、人たらしが多いんだなぁとしみじみ思うコミュ障な私なのでした。現代ならカリスマホストやトップアイドルになっていたかも?というわけでプレイボーイ日本代表みたいな在原業平。ちょっと、共感してもらえるかわからないんですが現代で言ったら…。ローランド!? なのか? と思ってしまいました。自らの容姿と才覚だけでのし上がり、女性たちを虜にし数々の名言(歌)を残している…。ここで「我か、我以外か」って言わせてみたかったんです…!現代だとカリスマホストやトップアイドルになっていたかもしれない? 業平さん!エピソードはたくさんあって字数の関係で書ききれないほどでしたが…伊勢物語は現代語訳もありますし、源氏物語のベースにもなったと言われている洒落たプレイボーイエピソード、ぜひ読んでみてくださいね。
2023年10月02日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。文豪クズ男列伝、ここまでに3人の作品と私生活を見てきましたが…時代はあったとはいえ、作家の人間性って…? と複雑な気持ちになってきます。フェティッシュな女好き、借金まみれの放蕩ニート、大騒ぎ系メンヘラとなかなかの逸材揃いのクズっぷりですが、今回はエリート中のエリート! という印象のこの方はどうでしょうか?東京大学予科に最年少で入学 医学博士で文学博士で…小説家!森鴎外。日本陸軍の軍医統帥となりながら『舞姫』『山椒太夫』や『高瀬舟』といった流麗な文体の名作を数々残した文豪…その経歴を列挙するとぐうの音も出ませんわね。家柄もよく神童で、成長すると軍医のトップに君臨しながらも文学でも評価されるだなんてパンピーとしては羨ましい以外の感想が言えません〜!!てか東大入る歳おかしくないです!? 飛び級とか本当にする人っているんだね!でもま、言うても人間ですからね。もしかしてちょっと変なところがあるのでは…?とちょっと興味本位で森鴎外の人生を覗いてみましょうかね!森鴎外の作品として一番有名なのは『舞姫』です。ドイツ留学中の森の実体験を元に書かれたこのお話自体も、美しい文体でありつつ内容は女性側からするとまぁまぁひどい話だよね…?でも事実は小説よりもっとクズかった!!これまでの文豪もそうですが、現代だったらこんなこと立場ある大人がやらかしたら社会的制裁を受けるだろうな…という事件がゴロゴロ転がってますね。留学先で妊娠させた女性の責任を取らずに帰ってきてしまい、日本まで追いかけてきたその女性に対して親族が対応するという…男としてというか人間としてどうなんだと思ってしまいますよね?実際のエリーゼさんは強い女性で、心を病むことはなくその後も鴎外と文通も続けていたり、30代後半で再婚されたりとしっかりと自立して生き抜いたと言われてますが…。森鴎外という人はプライドの高い人だったようで、こういった自身の経験(やらかし?)を昇華するために物語の結末を自分の都合の良いように、なんなら相手から恋焦がれられているという美しいフィクションにした? ということなのでしょうか…。これは…いろいろ生きづらい!さて、ペンネームからも社会的地位からもお堅いイメージのある森鴎外ですが、実はちょっと意外な元祖でもある…!?そう、我が子たちにキラキラネームを付けていたんです!娘でエッセイストになった森茉莉(マリ)さんは有名ですが、実は兄弟みんな洋風かぶれな今で言うキラキラネーム。きっかけは自分自身の本名である「林太郎」がドイツ語では発音しにくく名前を覚えてもらえなかったことだそう。子どもたちだけでなく、長男の於莵(おと←オットー)さんのお子さんたち、つまり孫にもこの流れを受け継ぎ、五人の息子たちは「真章(まくす←マークス)」「富(とむ←トム)」「礼於(れお←レオ)」「樊須(はんす←ハンス)」「常治(じょうじ←ジョージ)」と全員洋風な名前になっているんですね。多種多様な名前が溢れる現代なら驚かないけど、「⚪︎⚪︎太郎」や「△ノ介」などがまだまだ多かった時代にこれはかえって日本での自己紹介で絶対何度も聞き直されて大変だったでしょうな…。また鴎外は、医学、特に細菌学の権威に師事したことで時代に先駆けて細菌の知識を身につけたわけですが…。お湯にいる細菌のことを知った鴎外はお湯に浸かることができなくなり、手桶に溜めたお湯で体を洗うことしかしなかったそう。食事も生物を食べられず果物に至るまで全て火を通して食べるという潔癖ぶり。焼き芋は「消毒」されているから大好物、というのもちょっと…。コロナ禍で無菌状態が長かった子どもたちに手洗いやマスクの習慣が浸透したのは良かったけれど、ちょっと潔癖ぎみになっている子も多いことを思うとわかる気もするなぁ。しかし、名家で金持ちで頭が良かった鴎外の人生なのですが、現代でもよく見かける幼い頃から親の絶大な期待を背負いながら塾や受験に挑む子どもたちの姿に重なって、少し切なくもなります。藩医の家柄とはいえ絶大な勢力を持った長州の藩閥政治を横目に見ていた弱小藩出身。一家の命運はたった1人の男の子であった林太郎(鴎外)の肩にのしかかってしまうのです。幼少期からの徹底的な母親のスパルタ教育が、たまたま地頭よく生まれた林太郎にうまくはまり、どんどん吸収して結果を出すことでますます周囲の期待は膨らんでいきます。両親の期待に応えてエリートコースを突き進み、陸軍軍医のトップに就任。さらに文学の世界にまで…と、人が羨む人生の成功者のように思えるのですが…。なんと!死の床で「馬鹿らしい!」と叫ぶ60歳で肺結核を患った鴎外が、死の間際に残した言葉がこれだなんて、どういうことなんでしょう?そしてこんなに華やかな功績を残した人とは思えない『石見の森林太郎(本名)として死にたい』という遺言も残しています。若い頃は人と喧嘩もたくさんしたけれど『自分以外みんな馬鹿』と思ってからは優しく振る舞うことができるようになった、という本人の言葉も。…どこか歪んだ心が見え隠れしてますよね。賢くて繊細で周囲の期待に応える器があったばかりに、自分の本心をずっと押し殺してきて生きてしまったのかもしれない鴎外。本当は、エリーゼさんと結婚したかったのかもしれないし、医者ではなく文学者として、芸術家としてだけ生きていきたかったのかもしれません。母、姉弟それぞれが「出会いと運」で大きく境遇が変わっていく様子を描く『山椒大夫』や、安楽死とは? 罪とは? という難しい問いを江戸時代を舞台に罪人の島送り船を通して語る『高瀬舟』の中にも、鴎外の本音が散りばめられているのでしょうね。親や周囲の期待が大きいと、その人自身が本当はどんなことがしたいのか、自分がどんな思いを持っているのかを見失うことって大いにあるんでしょうね。もちろん才能がある人の悩みなので、パンピーは心配しなくていいのかもしれませんが(笑)。親としては我が子にも期待しすぎず、本人が本人の意思を見失わないようにしたいなぁ…とつくづく思いました!
2023年09月01日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。茹だるような暑さの中 長い長い夏休み…ですね。わが家の3兄弟もパソコンに1人向かう母を尻目に朝から庭のプールに…いいなぁ〜。さて、外に出る気も失せる猛暑なので読書は良いですよね。夏は読書感想文が宿題として出ているところが多いと思うので、小学生高学年になってれば、文豪の名作小説をおすすめしたいところです!例えば『走れメロス』。これは子どもでも、作者の名前を知らなくても聞いたことのある名作ではないでしょうか。人を信じることの大切さを説くような、感動の友情物語…という紹介のされ方が多い作品ですが…作者さんはというと…?文豪界のクズ代表といえば…!そうそうそう!作者の太宰治といえば…『無頼派』と呼ばれる権威・道徳に反発し戦中戦後の抑圧された人々から絶大な支持を得た作家、と言えば聞こえは良いのですが!実生活は乱れに乱れた生粋のクズ!文豪界のクズ代表と言っても過言ではないんですよね…。今でもファンが多く永く読まれる素晴らしい作品を生み出した太宰治とは…?そんなわけで、クズとしても有名すぎる太宰治ですがまたまた人生と作品を振り返ってみましょう。なんと言っても驚くのは、人生で計4回の自殺未遂…5回目についに本懐を遂げたということ。しかも5回のうち3回はお付き合いしていた女性を道連れにしようとしています。うーん、ちょっと子どもには聞かせたくないお話です。ちなみに太宰は経済的に恵まれない生活をしていたのでしょうか…?いやいや、逆なんです。大金持ちの放蕩息子で、学校も裏口のような形で入学する始末。仕送りはなんと現在の価値で月100万円…!!それなのにエリート意識の強い家族や権力構造への反発心だけは強かった…なんてもうこの時点でクズポテンシャル高すぎではないですかぁ!現代ならいかにもネットで炎上するタイプの金持ちお坊ちゃん系クズですよね…。十分すぎるほどに経済的に恵まれた環境というのは一見幸せそうですが、お金はあっても太宰治という人間を理解できた家族はいなかったとも言われています。…他人の家の中も心の中も覗くことはできないので実際のところはわからないですが。見事に自己中な行動の数々!そんな太宰さんの憧れの人は芥川龍之介氏。こちらも有名な文豪のひとりです。芥川龍之介が好きすぎて似顔絵を描いたり講演を聴きに行ったりするほどの入れ込みようでしたが、太宰18歳の時に自死。このこともまた彼の希死念慮を強めたのではないかとも言われています。そして当然のごとく、芥川賞ができると受賞を目指します。25歳の時に第一回芥川賞の最終選考まで残った太宰。それはそれは嬉しかったに違いありません。しかし選考委員の川端康成によって、才能はあれど私生活が荒れすぎていることを理由に落選させられて大激怒。川端康成を名指しして「大悪党」「刺す」などと書いたり、同じく選考委員である佐藤春夫(覚えてますか?谷崎潤一郎と妻を巡って一悶着あったあの人…!)に長さ4mにも渡る超長い懇願の手紙を送りつけたりと大騒ぎ。結局生涯、一度も憧れの芥川賞を獲ることはできなかったそうです。なんだろう、素直に同情できないんだけど…。そして、冒頭の『走れメロス』にも実はこんな裏話が…!宿賃を払えずに借金のカタに親友を置いて帰ったまま、呑気に将棋を打っていた…って愕然ですよ。『走れメロス』は人間不信の暴君に親友を人質に取られ、メロスは死に物狂いで走ってたのに(※実はほぼ歩いていたという検証もされていますが)物語の作者は走りません。えぇ〜? なんで?ちょっとさすがに知りたくなかった…なぁ。あの感動は一体、となるやつですねこれ。とにかく情緒が不安定!最後まで大騒ぎの『グッド・バイ』自分の生きづらさからの自堕落っぷりに強いコンプレックスを持って人生を送った太宰治の絶筆はその名も『グッド・バイ』(未完)。愛人をはべらす男性主人公が心を入れ替えようと美人な女性に妻代わりをしてもらい、愛人たちと別れていくというコミカルながら太宰らしい自虐要素の強い筋書きを書いている途中で、当時リアルに愛人であった山﨑富栄と玉川上水へ入水。これが5回目…享年38歳。生きづらさに苦しむ主人公『人間失格』「恥の多い生涯を送ってきました。」という冒頭の文章があまりに有名な太宰治の代表作の一つである『人間失格』。まさに自身の手記、自伝かと思うほどに人間社会の中で上手に生きられない、生きづらさに苦しむ主人公に…モヤモヤしっぱなしなのですが…。太宰治の生涯を知ってから読むとまた読後感が変わってくるなと思います。自分自身や周りの人たちを見ていても思うんですが、誰だって自分のダメなところって目を背けがちになりません? 自分のダメさを人のせいにしたり、環境のせいにしたりして正当化してしまうことってあると思うんです。でもね、太宰治はそういう人として弱い部分、甘ったれたところ、ダメだとわかっているのに変えられないところを真っ直ぐ見つめて作品にしています。自分の中に強烈な闇を抱えて、それを受け流さず見つめ続けたからこそ素晴らしい作品が生まれたのでしょうが…それと一緒に生きていくのは苦しかったんだろうなぁとも思います。そしておそらくどうやって死ぬかまで含めてあるべき人生を模索していたのかも…。現代は一昔前の人と比べると便利な生活をしているけれど、自分はこれでいいのかな? 常に何かが足りないという思いに追いかけられて不安を感じている人も少なくないのではないでしょうか。そんな現代…いやどの時代においても、太宰作品は多くの人の心を揺さぶる名作なのは間違いない!…のですが こんだけ語ってから言うのもなんだけど、小学生には作者のことは考えずに『走れメロス』を純粋に楽しんでほしいです。
2023年07月30日ウーマンエキサイトをご覧のみなさん、こんにちは。tomekkoです。『文豪クズ男列伝』と称して、ちょっと現代人からしたら受け入れられないわ…な文豪の裏の顔を見てみようシリーズですが、前回の谷崎潤一郎編はいかがでしたか?歴史でも文学でも、モノクロの生真面目そうな写真や難しげな活字の並びだけでは興味を持ちにくいですよね。ワタシは歴史学者でも日本文学研究者でもないただの歴史好き、文学好きなだけのいちファンですが、教科書に載ってる遠い存在の人々の人間臭い一面を紹介すれば、ちょっと読んでみようかなと興味を持ってもらえるんじゃないかな…と。そんな気持ちで伝えていきたいと思います!遊び狂って借金まみれ!天才歌人・石川啄木の激しい人生今回の主人公はわずか26歳で夭折した明治の天才歌人、石川啄木(1886ー1912)。この人に限らずですが、若くして亡くなった文豪や芸術家には儚さや、芸術のために人生を捧げたようなクリーンなイメージがありませんか?特に石川啄木の代表作である『一握の砂』なんてもうタイトルからしてもの悲しいし、とにかくずっと生活に困窮していかにも『清貧』という人生を送っているかのような印象でした。しかし…?こんな苦労と悲しみばかりを背負ったような啄木さんにどんな裏の顔が…?ウズウズしてきたので今回もたぬ君、おこんさんと調べに行ってみようと思います!さてさて、石川啄木の一番有名な歌と言えばこちらではないでしょうか。はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る引用:「一握の砂」石川啄木高度経済成長期並みに働いても税金取られて物価は上がって生活レベルが全然上がらない…まるで現代、ワタシたちのこと言ってます? と思うほど時代を越えて庶民の共感を呼ぶ名歌。……なんですが。知ってました?啄木の死後残されていた大量の借金メモ。それも、生活のためと言いつつ実はほとんどが遊興費に消えていた…なんて。友人たちにお金を借りては寿司や天ぷらを食べたり芸者や娼妓遊びに入れあげていた、とんでもない『たかり屋』だったなんて!あれあれ? 急に作品が薄っぺらく見えてきちゃう…!雪深い東北でアカギレをいっぱい作って働いたのに暮らしが楽にならないとじっと手を見つめている青年のイメージだったのに‼︎でもね、返すあてもないのに見えすいた嘘をついては金をたかる啄木に愛想を尽かして去っていく友人もいる中で、彼が亡くなるまで見返りを求めず金を用立て生活を支え続けた友もいたわけで、ついつい助けてあげたくなるような人柄でもあったのでしょうね。更に啄木さん、ローマ字日記なるものもつけていたそうです…なぜか?それは学生時代から愛を育んできた妻節子に読まれたくないことを書いていたから。どんな内容だったかはお察しください(汗)。でもこれで思い出しました。中学生の頃、授業中に友達と手紙を回しあったりしませんでした?ワタシは手紙を中継してくれる人に中身を読まれないように、ローマ字で書いてたこと、あったあった!(笑)中学生の自分と発想が同じで笑ってしまいました。でもちょっと笑い事では済まされないこともやってしまいます。長年の仲であった節子と両家の反対を押し切ってついに結婚することになったというのに、なんと結婚式当日にバックれたんですって…‼︎ドラマとかでたまにある、結婚式に新郎が現れないってヤツ…これ現実にやる奴おるんかい!新郎不在のまま執り行われた結婚式、当の妻節子は夫を庇ったそうですが、なかにはこれを機に絶交した友人もいたとか。そりゃそうなるわ…。自分の結婚式に出なかった理由は、責任や重圧からの逃避だったのではないかと言われています。(※この時の啄木の行動の理由には後述する父の仕事復帰のため宗教上の謹慎をしていたとする説もあり、真相は不明です。)ここまでの行動を見て、ちょっと変わった人〜とかお騒がせな人〜では済まされないレベルの人だったんだ…ということに気付きますよね。ところで、そんな彼の幼少期、育った環境はというと…。お金にルーズで逃げ癖があるのは父親譲り…?父は村のお寺の住職、その唯一の男児で少年時代は成績優秀で神童として育ちます。病弱だったこともあって母からは溺愛され…わがままで自己愛が強い、いわゆる『自己中』な性格に育ってしまった(らしい)啄木。そして住職であった父親が村人への強引な借金などで住職の座を追われることになり、それまでチヤホヤされていた啄木はハシゴを外された状態に。一家は経済的にも困窮します。金にだらしなく、強引な行動に出たり嘘をついては責任から逃れがちな性格は父親譲りのようですね。お父さんもまた、自分の責任と向き合わなければならなくなると失踪してしまうんです(あぁ…なんてことだ…)。こういったエピソードからは他罰的で心の弱さが目立つ、正直かなりのダメ人間に見えてしまう石川啄木。でも、知っていくにつれ、ワタシは個人的にとても彼に親近感を感じるようになりました。自分だって人の悪いところは妙に目についてイライラするくせに自分には甘いことってあるじゃないですか。自分の自信のなさや心の弱さに向き合えず、言い訳や責任逃れをしてしまうことって人間誰しもありますよね。…でも、じゃあ、そんな自分の弱さに向き合って、言葉を磨き抜いて、清らかささえ感じられるほどの作品として芸術の域にまで昇華できる人はなかなかいません。やはり天才…石川啄木! センスある言葉選びと儚さを感じさせるリズム、三行分かち書きという当時としては斬新な手法。リアルな感情を、言葉に、歌にして人々の共感を得た石川啄木の才能は…もっと生前に讃えられるべきだったと思います。26歳で結核により亡くなったのは本人だけでなく周りも似たような状況でした。そんな貧困や社会的要因、生来のメンタルの生きづらさ、いろんなことが重なって誕生した作品だった…と別の気づきにもなった探究でした。そんな背景を感じながら…石川啄木作品、読んでみると、きっと味わい深さが変わりますよ!
2023年06月29日ウーマンエキサイトをご覧のみなさん、こんにちは。tomekkoです。前回初めて 『文豪クズ男列伝』 を書いてみましたがいかがでしたか?ちょっと刺激的な内容ではありますが、作家の人生や創作に大いに影響を及ぼした恋愛事情を紐解くと案外身近に感じられたり、興味をそそられたり…ということもあるのではないでしょうか?前回の記事には「こんな作品があったんですね!興味が湧いてきました」「角度を変えて見ると面白いですね」などのコメントもいただいて、描いて良かった〜と思っています。それでは今回も 谷崎潤一郎の人生を追っていきます…!恋多き男の本領発揮!あんなに揉めたのなんだったの離婚良妻賢母の妻・千代を友人である佐藤春夫に譲る譲らないで大揉めに揉めたのに、結局離婚することになった谷崎…。その後、当時雑誌の記者をしていた丁未子と再婚するのですが、裏ではまたまさかの別の女性の影が…。それは、豪商の人妻松子。美しく理想通りの女性・松子を崇拝する谷崎でしたが、人妻で自分のものにならないので丁未子と結婚。ところが、松子の夫の店が倒産し松子から頼られるとすぐに交際スタート。松子の離婚も成立しないうちから同居を始めてしまうのです。ここまでくるとため息しか出ないんですが、私が複雑な気持ちになったのは、この松子とその姉妹が谷崎作品の中で一番好きな『細雪』のモデルだったことです!『細雪』は昭和初期の裕福な大阪町人の日常を見事な美しい文体で表していて、それぞれ種類の違う花のような四姉妹の何気ない会話や仕草が目に浮かぶような表現が素敵な名作です。当時は戦争も始まり社会はそれどころではなかったのでしょうが、それでもやはりこの作品が愛されたのは、庶民にとって身近なようで手の届かない美しい人々への憧憬があったからなのかなと思います。谷崎は理想の女性に家事や所帯じみたことはしてほしくない人だったそう。『細雪』を読んでいても舞台が裕福な家ということもあり、四姉妹が家事をするような場面はほとんど出てきません。時間をかけてお出かけの着物や帯を選んだり、どこそこで食事をしたり帰りに半襟をあつらえに行ったりコンサートを観に行ったり花見に行ったり。悩みといえばなかなか結婚相手の決まらない三女や自由奔放なモダンガールの四女の生活のこと。日常の美しいところだけを切り抜いた近代の絵巻物的な印象があるんです。日常生活にも徹底的に理想を求め続ける男!でも実際の生活ってそういうものではないですよね?だから結婚後の松子も谷崎の理想の女性(人目を忍んで逢っていた頃のまま)を演じ続けることにとても苦労していたそうです。いやーこうして見ていくと、谷崎潤一郎の人生ってリアルに光源氏みたいって言われているのもわかりますよね…。※こちらはあくまで谷崎潤一郎の世界観のイメージです平安時代だし、物語だし!で許されてたけど実際にこんなことするんだ…と思うと引きますね。当時の日本の現実からはかけ離れた西洋的、ファム・ファタール(男を堕落させる悪女)への崇拝が強く、その姿を妻になる女性に求め続けるというTHE自分勝手&癖が強すぎる谷崎ですが、そんな谷崎だからあの耽美でちょっと猟奇的な世界観に満ちた名作が生まれたんだ…と思うとなかなか複雑な感情になってしまいます。ですが…ただの胸くそクズ男なだけなら後世に名を残すことはないでしょう。女性たちが谷崎の世界に巻き込まれて不幸になっていっただけなのか…と言い切ってしまうのもちょっと違いそうです。なぜなら谷崎との関係に悩む女性たちの相談に乗っていたのは元妻や身の回りの人々だそう。女性へのちょっと変わった性癖や数々の問題点はあれど、面倒見の良い側面があったり、千代に対しても感謝の思いは示していたようです。平凡がいいよね…と気づいてしまったけれど才能に恵まれたアーティストの数奇な人生…であることには間違いないですが、それを陰で支える人々の人生や苦労にも注目してみるとまた違った楽しみ方(と言っていいのかな…?)ができるのかもしれませんね。最後に。谷崎先生、クズクズ言ってごめんなさい! 人間性としてはマジかよ? 大丈夫? と思いますが、それでもやっぱり変わらず作品は大好きです!!
2023年05月31日ウーマンエキサイトをご覧のみなさん、こんにちは。tomekkoです。活字離れが進んでいると言われる昨今ですが、子どもだけでなく大人の皆さん…読書していますか?私は昔から本が大好きで歴史好きでもあるので純文学と呼ばれる近代小説は大好物です。エッセイのような軽妙さや気楽さは無く、芸術性を追求した表現が多かったり、その時代のことを知らないと良さが感じにくい部分があって難しい部分もあるのですが…。でも、だからこそ(私の拙い画力と文章ではありますが)、ちょっと視点を変えて紹介することで作家や作品に興味を持ってもらえたら…と思って書いてみることにしました。教科書にのってる文豪ってひどい男が多くない?ってことで『クズ男列伝!』スタートです!ええ…作品は輝くばかりの芸術性、美しい文章に彩られているのに書いてる作者のクズエピソードのひどいこと…。もちろん時代性を考慮すると仕方のないことはあるのですが、まぁ現代の感覚ではドン引き必至ですね。(※クズなんて刺激的な言葉を使ってはいますがあくまでも人物像と恋愛遍歴は別物だし、作者の経験あってこその作品の創意性というのは大前提であることはご了承ください。)では早速いってみましょう!今回紹介するのは近代の耽美・陰鬱私小説の大家、谷崎潤一郎先生です!なぜこの方を一発目に持ってきたのか…実は私は谷崎作品が大好きだからです。幼少期からどこか陰のある妖艶な美女や威勢よく啖呵を切る美人に惹かれていた私にはピッタリの理想的な女性たちが谷崎作品では描かれています。…とそこに現れたのはいつもの歴史案内人、おこんさんたち。ですが…?なるほど…今回はちょっと子どもには刺激強め〜…というか説明しにくい〜…モゴモゴ…な内容が含まれることになりそうですな。というわけでたぬ君に子守りを任せておこんさんと女ふたり旅と行きますか。恋多き男…谷崎潤一郎の女性関係図まずは、谷崎潤一郎をめぐる女性関係図を整理してみると…。めっちゃくちゃ複雑なんですけど!?3回結婚しているのは良いとしても、なんで同じ家の姉妹やら人妻やらと結婚したの…?ですが、この時代には姉妹を娶るということはおかしいことではありませんでした。ただ、例えば妻に先立たれたために身の回りの世話(当時の嫁への価値観がわかりますね)のため独身だったその妹をもらうとか、家同士の結婚という考え方の下では特に問題ではなかったのでしょう。でもこの人の場合はちょっと事情が違うみたいなんですよ。早くもうーん、ひどい。初さんに惹かれるのは分かります。私もこういう女性、好き。でも初には旦那がいるから「仕方なく」「姉に似ているだろうと思って」妹の千代と結婚…。平安時代のクズ男代表『源氏物語』の光源氏が若紫を拉致する理由に通ずるものがあって風情があると言えば…いや理解が難しい。(片想いの義母に所縁があって面影のある少女を自分好みに育てようという…現代の感覚だとあり得ない理由です)しかしながら妹の千代さんはいなせで悪女味ある元芸者の初とは違い、家庭的で夫の言うことをよく聞く良妻賢母。わがままで生活の一つ一つに強いこだわりのある夫に支える控えめな奥さんなんて、妻の鑑といった感じで羨ましい限りだと思うんですが、逆にそれが気に入らない谷崎先生は次々と“妻殺し“や“夫婦の不和“をテーマにした作品を量産してしまいます…!!小説の中で千代をモデルにしていると思われる女性は常に「地味な縞」の着物を着ていると表現されているんですが、実際に残っている千代の着物を見ると慎ましい渋い色の紬や鮫小紋、縞が多くて、これまた切なくなってしまいます…。千代さんは後に谷崎の親友でもある作家の佐藤春夫と(谷崎と離婚後)再婚するのですが…千代を譲る譲らないで揉めています。でも千代さんが最終的に佐藤春夫と落ち着いて良かった…と思ってしまいます。(自分は良妻賢母タイプでも無いのに勝手に千代に感情移入するのはやっぱ女性視点だからでしょうか…)癖が強い…狂気溢れる作品の数々一方で谷崎は初への憧れを強くし美しい悪女をヒロインとした『お艶殺し』『神童』などの作品も生み出します。中でも狂気溢れるフェティシズム・被虐趣味を体現した作品が『富美子の足』という短編。いやぁ…性癖ィ………しかし才能溢れるクズ男による理想の女性を探す旅は始まったばかりで次のターゲットは、初と千代の妹…!初と千代の妹の「せい」は谷崎と出会った当時はまだ少女。スラリとしなやかな体つき、そしてどこか若い時から妖艶さ&性への奔放さを持っていてこれが谷崎の理想に見事にハマったようで…。この時期に描かれたのが谷崎作品の代表作の一つとも言える有名な『痴人の愛』。若く美しく奔放な女性をわがまま放題にさせ女王のように扱って傅く男のマゾヒスティックな愛は、まさに谷崎が求める女性との関係性だったんですねぇ…。いやぁ…だから性癖ィ………個人的に一番クズみが強い! と思ったのは、せいとの結婚を考え千代を佐藤春夫に譲ろうとしたのに、まだまだ若く遊びたい盛りのせいに断られて前言撤回し、結果佐藤と絶交してしまった『小田原事件』。その後現れる別の女性のために谷崎は結局離婚し、千代と佐藤は結婚することになるんですがこの事件は世間から誹謗中傷を受けて千代と佐藤も大変な思いをしたそうです。クズ男に振り回された誠実な千代さんを思うと言葉が出ないtomekkoでした。さて、大先生の女性への偏向的な執着は同族姉妹の間だけでは済まなかったようで…。まだまだ谷崎のクズ烈伝は続くのです…!
2023年05月10日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。突然ですが…みなさんは“推し”がいますか?少し前までは一部のオタク趣味と言われていましたが、コロナ禍を経て(?)主婦&子育て層もドッと増えたと言われる推し活。自分が応援したい人=推しを見つけて応援したり動画を見たりグッズを買ったり音楽を購入したり…最近では「推し事(おしごと)」ともいうみたいですね!表立っては言ってませんが、例に漏れず私も推しの底なし沼入りしております。正直これまでの人生全く興味のなかった分野だったのに、推しに出会ってしまったせいでズブズブと…。妻の推し活を冷ややか〜な目で見ている夫ですが、よく考えたら子どもたちだって変形ロボットや野球のスター選手、戦国武将などそれぞれの琴線に触れる推しを見つけて日々楽しんでるんだもん。母だって推しで癒されたり(時間溶かしたり)したっていいじゃないですか?!…なんて言っていたら、日本史好きな長男がこんな疑問を投げかけてくれました。「推し活って昔もあったのかなぁ?」よくぞ聞いてくれました〜〜〜!推し活の歴史といえば?私は以前から歌舞伎鑑賞が趣味なのですが、六代目中村勘九郎さんがまだ勘三郎だった頃に友人に誘われて行った平成中村座。江戸っ子たちが日夜通い詰めていたであろう芝居小屋を再現した造りで、役者さんの汗の粒さえも肉眼で見える距離に驚いた記憶があります。その芝居小屋の中でも特に印象深かったのが『御大尽席』。高額なチケット代を支払えば特別なサービスを受けることができるそう。つまり、江戸時代だって“推し”に感謝&特別扱いされるために必死にお金をかけた人もいたわけです。日本史上調べればもちろんいろいろな流行はあったわけですが、推しという『個人』を『一般庶民』がお金をかけて応援する、というブームがはっきりと見てとれるのはやはり江戸時代。歴史案内人のお二方と一緒に江戸時代の推し活について見ていきましょう〜!歌舞伎の発祥は以前こちらの連載でも取り上げた通り出雲阿国が始めたかぶき踊りですが、そのブームを遊女屋が真似て客集めをしたことで「たくさんの演者」の中から好みの1人を選ぶ、という形でした。舞台に立つのは遊女(禁止されてからは若衆と呼ばれる男娼)であり、客は誰を買うか「品定め」しているので、この時代の歌舞伎は今でいう「推し活」ではないようです。(「推し活」は推しが発信するコンテンツを楽しんだり、活動を応援したり、勝手に貢ぐこと(お布施?)で払った以上の精神的快楽を得る活動ですから!!)どちらかというとお店の入り口の写真からホステスを選んでいるのに近いんでしょうね…。さて女歌舞伎も若衆歌舞伎も風紀を乱すという理由で禁止され、成人男性のみの野郎歌舞伎が定着し定期的に公演されるようになっていくと、いよいよ「推し活」文化が隆盛していきます。芝居小屋は舞台を三方から見下ろすようにできており、上の階に行くほど席代は高くVIP扱いとなります。前述の「御大尽席」は当時「上桟敷」と言われ、この最も高い席には贔屓の役者さんが直接ご挨拶に来てくれたり、公演後は芝居茶屋と呼ばれる宴席に役者さんを招待することができたりしたんですって…!え、推しが直接会いに来てくれるなんてそんな世界線あるの…? 想像しただけで息が…!!色男役はもちろん女性たちの憧れのアイドル。本気で恋してしまう女子たちも多かったことでしょう。でも歌舞伎の場合、面白さはそれだけじゃないんです。女性役を務める女形が独自の路線で女性たちの心をつかんで一大ブームを巻き起こします!明和期(1700年代後半)に活躍した二代目瀬川菊之丞という女形は、その美貌と独創的なファッションで女性たちのファッションのリーダーとなりました。髪型から帯の結び方、身につける小物に着物の色などこぞって真似する女性たちは彼の俳号(俳句を読む際に使うペンネーム)にちなんで「路考娘」と呼ばれたそう。現代だと、例えばジャニーズやK-POPなど男性アイドルは疑似恋愛的な対象ですが、女性たちのファッションアイコンになるのは女性アイドルがほとんどですよね。女形(男性から見た理想の女性を演じている男性)が、女性たちに支持されるというのは歌舞伎ならではの特殊な事例なのかもしれません。江戸の男性の推し活とは?では江戸の男性に人気だったのは…?今でいう清純派で身近に感じられる坂道系アイドルなら、茶屋の娘。いわゆるカフェの看板娘です。高嶺の花、セクシー系なら吉原の人気遊女でした。遊女は芸能にも秀でており相当のお金がないと会える機会も無いので庶民は芸能人のような感覚で見ていたようです。いずれも現代のグッズ戦略を彷彿とさせる物販が大盛況。ポスターにうちわにタオル(手拭い)…マジで昔からオタクもグッズも存在してたんです…!男女問わず、相撲の力士も大人気でした。両国で時々見かけるお相撲さんってやっぱりテレビで見るより断然大きくてびっくりしますが、当時さらに平均身長が低かった日本人の中で力士は別格の体格でさらに違いが際立ちますよね。人気力士には役者同様固定ファンがついて、中でも裕福なファンがパトロンとなり宴席に招いて自慢したり金銭的に支援したりしていたようです。インターネットがない時代…どうやって推しを見つけたの?ここまでいろいろな種類の江戸っ子の推し活を見てきたけれど、今のようにインターネットも無い時代にみんなどうやって推しを見つけたり、その良さを広めたりしていたの?そう、推しと持ちつ持たれつの存在「絵師」が大活躍だったんですね。カメラ小僧と言われた人たちは「野鳥でも撮るんか?」ってぐらいのなっがい望遠レンズを担いで写真を撮ってますし、彼らが撮った写真が、公式では出せない臨場感やオタクのツボを突いてバズることでアイドルたちの宣伝になったりしていますよね。ファンがファンを広げていくあの現象です。当時の絵師たちも、役者や遊女、力士などを次々と描いて最新の姿をグッズ化。まぁ彼らの場合は特定の推しを応援するためというよりは、自分の絵師としての人気、商売を確立することが主な目的も大きかったのでしょうが結果的に「○○の描く△△が良い」と評判になって、絵師も推しも知名度と人気が上がるという相乗効果があったというわけです。なんだか本当に江戸時代と現代は似ているな〜と思っていたらおこんさんが「現代の推し活ブームは『自分を取り戻すため』なのかもしれないね」と…。いい学校に行っていい会社に入らなければ、結婚しなければ、子育てに専念しなければ、家庭のために尽くさねば…こんな「あるべき姿」の圧に対して、自分の意志で見つけた推しに、はたから見たら無駄なお金や時間を注ぐ…自分だけの楽しみ。そして同じく趣味の合う人たちと推しの良さを語りあう喜びがそこにはある…。なるほどな〜。私も推しを見つけてから育児や仕事・家事で埋まっていた日々の中に「非日常」な時間ができています。推し活している間は母とか妻とか仕事のこととか、社会の中から期待されている自分の役割とは無関係な「いちオタク」でいられるし、相手の素性は全く知らないままただ同じ人のファンであるというだけのオタ友もできました。ハマりすぎて健康を害したり生活費まで使い込んだり…と生活や身を持ち崩すような状態は良くないと思うので、最低限のルールや常識を持つことは大前提として…「推し活」は精神の解放…というかつまり最高です!そして、さんざん人の推し活を白い目で見ていた夫ですが、スラムダンクの映画三回見てるし 限定グッズ、欲しいんだって! ってことでそれぞれの楽しみがあって何よりです。
2023年03月31日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。暖かくなって目や鼻がむず痒くなってきたなぁ(花粉症)と思ったらもう3月ですね。春らしい可愛らしいお節句、ひな祭りじゃないですか〜!ってウキウキしたいけど…男3兄弟、最近仲間入りした犬まで男の子のわが家には縁の無い話。華やかな雛飾りが飾れなくて寂しいです(涙)でも保育園児がいる間は、制作物で作ってくるのクスッと笑える可愛いお雛様を見るのが楽しみ。目下制作中の三男は、園で聞いて覚えてきたことを事細かに教えてくれます。「今日はおだいりさまのおぼうし作って〜、なんか持つやつ作って〜」「ねぇ冠とか持つ棒(笏です!)ってさ、なんであるの? いらなくない?」そんな合理主義な夫のツッコミにイラッ! としたところで…歴史案内人のお二方に登場してもらいます〜。最近は雛人形の小物が省略されて販売されている商品もあるんですよね。誤解のないように強調したいのは、時代に合わせて改変していくことは賛成しています!古臭いままでは売れない、職人さんも食べていけない。伝統を継承しつつ新しい雛人形のジャンルを打ち立てることは素晴らしい取り組みだと思っています。人形のお顔はその時代の流行を反映するので、後々の研究史料にもなることもあるし、衣裳の色や生地が斬新になるのも良いですね。でもね、やっぱり歴史を知った上で省略しても良いものと絶対に外せないものとあると思うんですよ。というわけで今回はひな祭りと雛人形の歴史を見てみましょう。雛人形のはじまりは…何時代?時代はたぬ君の出身、平安時代。桃の節句は魔除けの意味のある桃にちなんで、厄払いの願掛けがもとになっていました。紙で作った人形(ひとがた)に病をうつして川に流す(地味な)お祓い行事だったようですが、それとは別にこの時代にはもう女の子遊びとして紙人形やミニチュアの調度品を使った、今でいうままごとのような「ひいな遊び」はあったみたいです。それから時代が流れて〜中世には雛人形自体が少しずつ技巧を凝らしたものになっていき…江戸時代には、雛人形は(裕福な家庭限定ですが)女の子の成長を祝って飾るためのものになり、天皇の結婚式を模して豪華絢爛な段飾りになっていき、今に至るのです。私たちの母の時代までは嫁入り道具として揃えたり受け継いだりしていたものです。そんなわけで今に残る雛人形の多くは江戸時代の衣装がベースになるのですが、平安の世からずっと受け継がれている伝統の中で男雛は衣冠束帯、女雛は唐衣裳装束の姿です。男性にとって冠をつけない状態が「恥ずかしい」のはなぜ?私は毎年SNSでひな祭り頃になると絶対にお内裏様の冠は付けてくれ!省略しないで!と騒ぐのですがそれは、以前も 「日本人が恥ずかしいと思うこと」 について描いた記事でも伝えた通り、平安時代の男性にとって冠をつけない状態はとても「恥ずかしい」ことだったからなんです。が…なぜそんなに恥ずかしいのか? をもうちょっと深掘りしてみましょう。実は私も一時期「髷を見せること」が恥ずかしいという解釈をしていたんですが、たぬ君によると実際には当時の冠の構造に理由があったらしいのです!よく時代劇などで、武士は髷を切られることが何よりの屈辱であるというシーンがありますが、この考えの元になるのは平安時代の冠の付け方にあります。髷の髻(結び目)に冠が外れないよう結びつけるようにできているため、この結びつける「髷が無い」ということは当時の「社会的地位を表す冠をかぶれない」ということになるんですね。当時の価値観では自分が真っ当な社会人男性であることの証明のようなものなので、絶対に無くてはならないものだったんですね。他にもお内裏様が持つ笏は、元は大事な儀式で話す内容を忘れないようメモ・カンペとして使っていたものだそうで今はもちろんそのようには使っていません。でもこれが無いとポーズが決まらないんですよねぇ。女雛の小物も例えば髪飾り、釵子(さいし)と言いますが、これも冠と同様成人女性であることを示す「髪上げ」の具です。女性が裳着と呼ばれる成人式を執り行う際に髪を上げていたことが起源。檜扇は平安時代の女性が他人に顔を見せないことがマナーだったことから必需品でしたが、今でも着物の礼装では必ず扇子を脇に挿すものだし、やはり省略して良いものではありません。このように、全てに成り立ちがあり、セットで揃っているからこそ意味がある小物たちなんです!洋装で考えるとわかりやすいのではないかと思います。正式なパーティーの盛装で女性のイブニングドレスから手袋だけを、男性のタキシードから蝶ネクタイだけを「どうせ使わないよね?」と取り上げたら、全体の調和を損なうと思いません?いっそ雛人形の衣装を丸ごとオリジナルで作りました!…というのならなんの文句もありません。現代の価値観で勝手に判断して省略するのではなく、せっかく飾るなら「なんでこんなもんつけてるんだろー?」って疑問から意味や歴史を知る良い機会になると良いなぁと。ちょっと興奮して荒ぶった内容になってしまいましたが…女の子たちの健やかな成長を願う、華やかで楽しい桃の節句を楽しんでください!
2023年03月02日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。これまでも何度か書いたことがあるのですが、ワタシは子どもの頃から本を読むのが好きで、今でも本に囲まれていると落ち着くし、積読本(いつか時が来たら読むはずの未読本)含め、本は資産だと思っています。子どもたちに(強要するつもりはないのですが)読書の魅力が伝わるといいなぁと思って、家族共有の本棚を作り、子どもが自然と手に取ってくれたらといいなぁと思って、そこに置く本を選んでいます。読書という趣味は…・辛いことがあっても逃げ込める別世界を、ポケットやバッグの中に忍ばせておける。・たくさんの文章を読むことで、おしゃべりが苦手でも自分の気持ちを表現できる能力を持つことができる。・旅行よりも簡単に、いろんな世界や時代に触れて視野を広げることができる。・本を読むということで、語彙力や読解力を上げることができる。こんなふうに学習面だけではない多くのメリットがたくさんあるとワタシは思っています。とはいえ…11歳から4歳までいるわが家では、生活リズムもバラバラになってきて昔のように読み聞かせタイムを取ることも難しくなってきました。長男は今は漫画をよく読んでいます。戦国時代マニアなので時代小説ならときどき読むことも。次男は、学校の本読みはとても上手なのに、家でじっくり腰を据えて本を読むというのはどうにも苦手。読んでも図鑑程度です。三男だけは絵本を楽しんでくれるけど、逆に兄たちの対応に追われて読んであげる時間をうまく取れていないのが悩みの種でした。そんな時、ウーマンエキサイト編集部さんを通じて、「ヨンデミーオンライン」の存在を知り、早速お試し体験してみたのでレポートします!「ヨンデミー」とは? 読書教育とは?「ヨンデミー」とは読書教育のオンライン習い事です。英語教育はわかりやすいけど「読書教育」って…?? ですよね。「ヨンデミー」の創業者の笹沼颯太(ささぬま そうた)さんによると読書教育は「学びの土台となる読解力を身につける重要なもの」なのに、現状の学校では読解力を鍛える機会が少ない。 「読書教育って大切! …なら、どうして学校では教えてくれないの?」 より…だとか。確かにどの教科であっても「文章を読んで文脈を把握し、正しい情報を読み取る力」って必要な力ですよね。笹沼さん(なんと現役東大生!)は、ご自身が家庭教師や英語塾の先生をした経験から、動画サイトに夢中になる子どもたちの「読書離れ」が深刻になっていることを肌で感じ、読書教育の大切さを伝えたいという想いで、このサービスを開発したそうです。読書が苦手な子どもは、自分にぴったりの本に出合えていないか、読むコツを知らない …ここを解決するために開発された「AI(人工知能)司書」が、子どもの好みや読書力を分析し、ハマってしまう本を薦めてくれる読書教育サービス。それが、「ヨンデミー」! では、実際「ヨンデミー」ではどのようなことをやるのか? というと…まず、子どもの好みや読書レベルを入力すると、その子にピッタリな本がお勧めされます。そのお勧めされた本を読むことで、その本を救い出すことができる! というゲームのような世界の中で、本の感想を送ったり、また毎日のミニレッスンや読んだ本の冊数によって「バッジ」をもらえる。経験値を獲得→レベルアップするなど、とにかく子どもたちがワクワクする仕掛けがいっぱいなんです。 \自然と本に手が伸びる!/読書教育のオンライン習い事「ヨンデミー」をチェック 「ヨンデミー」を体験!うちの兄弟の反応は…?RPG的な進み方に興味津々なニイチャンズ。長男は、ヨンデミー先生とのミニレッスンが、LINEのようにやりとりできるのが嬉しかったそう。次男はというと、毎回最後にやるヨンデミー先生とのじゃんけん勝負に本気です。そしておすすめされる本を用意して(図書館を活用してます)、読んで感想を送る、ということをやってみて…年末年始はちょっとサボり気味だった兄弟ですが、本を読むという習慣は以前に比べかなり定着してきました。毎日のミニレッスンでは、読書が無理なく続くように「途中まででもいいよ」「いつ読んでもいい」と読書のハードルを下げる声かけをしてもらえる点も良かったです。長男は、調達してきた本を渡すといつの間にか1人で読んでサクサク感想を書いています。ほっとくと歴史ものしか読まないので、時々気分転換になる全然違ったジャンルに触れる貴重な機会になっています。次男は読み聞かせでないと集中力が持たないので、簡単な文であっても三男への読み聞かせも兼ねて読んでいます。まだまだ具体的な感想は出ないかな? と思っていたけど、感想の前に気持ちをアイコンで選ぶことで感想を引き出しやすくしてくれていて、「どんなシーンがどう面白かったか」まで伝えることができるようになってきました。ヨンデミー先生も、ミニレッスンで「たくさん書けなくても大丈夫!」と前向きになれるメッセージをくれるので、イヤイヤにならずに続けられています。【親としての感想まとめ】ゲームや動画サイト時間が増えてきた「小学生」におすすめワタシとしては、当初本を毎回手配するのが正直めんどくさそうだな… と思っていたんですが、紹介された本はすぐに図書館のネット予約につながる形になっていて、まとめて予約しておくことができたので意外に手間になりませんでした。週に一回、図書館に本を入れ替えに行くのが習慣になってしまえば全然苦にならない。ちょっと楽しい。読んでみて子どもたちが面白いと気に入った本は、改めて買ってみたりもしました。何より、ワタシが選ぶとどうしても内容がわかっていて安心な名作絵本になってしまったり、世界観や作者が偏ったりしてしまうんです。その点「ヨンデミー」でAIが選んでくれる本は、ワタシが知らない絵本や児童書が次々と出てきて、自力では出会えなかっただろうなと思う本に出会えたのが良かったですね。本を(活字を)読むということに慣れて、あとはハマる本に出会えれば… 読書の楽しさがわかるんだろうなと見守ってます。最初は、「たかが本を読ませるためだけと考えると、月額がなかなか高いなぁ…」と二の足を踏んだのですが、逆にこういう幅広いジャンルからその子その子に合ったものを探してくれて、感想を引き出してくれる習い事 …って考えると、ちょっと他に見当たらないんですよね。「ヨンデミー」をやっていくと、子どもたちはゲーム感覚で感想を書くたびに経験値が上がってヨッシャ! なんて喜んでいるうちに、「動画サイトをだらだらとみる時間」が減っていったことに驚きました。読書習慣を身につけるって自力でできそうに見えて(本棚も用意していた)、でも実際親が「本を読め」と口うるさく言おうもんなら子どもは苦手意識や義務感を持つばかり…。年齢が上がるにつれていろいろと難しくなってくるのを実感しているので、読み聞かせがフェードアウトしてゲームや動画サイト時間が増えている小学生のおうちは、30日無料なのでぜひ試してみて欲しいです!30日間無料体験から始められる!日本初・読書教育のオンライン習い事「ヨンデミー」は日本初の読書教育のオンライン習い事サービスです。AI司書のヨンデミー先生が的確な選書から環境づくりまで、徹底的にサポート。そのほかにも、お子さんが「自立した読み手」になるためのさまざまな工夫を凝らしたサービスを提供しています。不安な点があれば、読書教育のプロ・ヨンデミー講師にLINEで直接相談することも可能。「ヨンデミー」が親御さんと二人三脚となり、お子さんの成長を支えます。・好み・読む力を分析しぴったりな本を提案・1日3分のミニレッスンから習慣化・ゲーム感覚でぐんぐんやる気UP↑・徐々に難しい本へ。読める幅が無理なくひろがる・興味の幅を広げる「おすすめ」で世界もひろがる \30日間無料体験!/「ヨンデミー」をチェック 代表笹沼さんによるサービス説明動画受講生の成長例、実績データ事例やデータなど“ここだけの話”も満載です![PR] ヨンデミー
2023年02月15日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。小学校は2学期も半ば、ある日1年生の次男の宿題を覗いてみると漢字の書き取りをしていました。5年生の長男は好きな戦国武将の小説を読んでいます。そんな姿に感慨深い母…江戸時代の日本人の識字率は世界一だった!今では当たり前となっている「読み書きの能力」って、歴史を遡るとふつうじゃ無いんですよね。もちろん現代では、先進国ならだいたい国民に教育の権利が行き渡ってきているので識字率のパーセンテージは大差なくなってきています。でも、ワタシたちが当たり前のように時代劇で見ているような江戸時代のこんなシーン。人々が幕府からのお触れである高札を読んで理解したり、町人が貸本屋から本を借りて読んでいたり…これって実はすごいことなんです!!1800年代後半(江戸時代後期)の日本人の識字率が世界一だったって知ってますか?地域差が大きく、また正確な統計は取れていないのでブレはありますが、識字率はだいたい国民の50〜60%、江戸に限って言えばおそらく70%を超えていたのではと言われています。え、案外低いじゃんって思いました?これ、農民も職人も、大人も子ども、そしてここがポイント!女性も含めてなんですよ。同じ頃のロンドンが20%ほどだと言われています。ヨーロッパでは教育は上流階級の中でも男性に主に与えられる権利で、読み書きのできる女性は少数だったようです。読み書きのできる女性は少数って…日本だと平安時代の感覚じゃない?(紫式部さん、清少納言さんどうぞ〜)歴史を遡ってみると、日本語の文字の元は中国から輸入した漢字・漢文学です。これを古代は貴族男性のみが政治の記録用に習得しましたが、宮中で働く女官たちが使うために「女手」として発達したのがひらがな。ひらがなが書ける女性というのも当時の世界基準で見たら結構すごいことだったのでしょうが、男性が使う漢字も併用して使いこなせる一部の女房が現れ『才女』として名を残しています。当時はそれはそれで嫉妬から嫌がらせを受けたりと「デキる女」ならではの悩みもあったようですが…。中世になると政治の中心が貴族から武士に移行していきます。そんな中で武士たちも読み書きの必要性が出てきて教育が盛んになります。庶民たちは琵琶法師による『平家物語』の弾き語りから耳で文学を吸収していたようですね。近世に流行った『高度な言葉遊び』とは?なんだかね、これって本当にすごいことだと思うんです。貴族や武士が嗜んだ和歌・連歌文化が庶民に降りてきた形ではありますが、町人の間で『高度な言葉遊び』として流行し、練り上げられていくんですよ。俳句を作ってみたことがある方はわかると思いますが、単純に日常的な読み書きができれば良いってもんじゃないですよね。風景や心中を限られた文字数で表す豊富な語彙、季節を表現する季語などかなりの知識量が試されます。過去に編纂されてきた有名な和歌集など、裕福な人たちに限ってだとしても触れる機会があったのならすごいことですよね。俳句からさらに大衆化していったのが川柳や狂歌。江戸末期には幕府の政治を風刺した、皮肉の効いた歌が庶民からいくつも生まれました。それにしても…なんでこんなに日本では大昔から文字の教育が盛んだったのでしょうか?その背景は仏教教育でした。平安時代から、お寺は教育の場でもあり、当時は貴族の子弟、そして中世には武士たちも通うようになり、江戸時代になり藩政治が安定してくると各藩ごとに藩士の教育が始まります。では庶民は? というと…。戦国時代から江戸幕府の安定までの間に多くの大名や藩が取り潰され、浪人と呼ばれるどこにも属さない武士が大量に町に溢れました。武士として持つ能力を職業にして生き残る術の一つが、寺子屋と呼ばれる庶民の子どもたち向けの教育の場でした。(今で言うと、雇い主の会社が無くなったので得意分野でフリーランス起業するみたいな感じですね)。この寺子屋のおかげで、地域差はあるものの多くの庶民の子が『読み・書き・そろばん』という基礎的な教育を受けることができたんです。ということは…もしも、日本の政治がずっと貴族だけのものだったら…?もしかしたら教育は近世までヨーロッパのように上流階級に限定され、国民全体の識字率が高く文化文芸が盛んな時代はもっと後だったかもしれませんね。でも…面白いと思いませんか?他の国と比較するとシャイで対人コミュニケーションが控えめな日本人ですが、昔から、おしゃれな言葉遊びや洒落の効いたコミュニケーションは好きだった…。そういうワタシ自身も対人コミュニケーション超絶苦手です(笑)もしかしたら連歌でやりとりした方が盛り上がれるのかもしれません…(コミュ障仲間大募集)。
2022年11月30日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。子どもがいると、けっこうオバケや妖怪の話が話題になりませんか?「早く寝ないと鬼が来るよ〜」「夜トイレいくの、オバケに遭いそうで怖い〜」「幽霊が脅かしに来るんじゃない?」鬼、オバケ、幽霊…ごちゃ混ぜになってるのは子どもだけじゃないはず。大人もけっこうそこらへんの違いが曖昧だったりしませんか?鬼とオバケと幽霊の違いって…?恐らく最も古くから存在していたのが『鬼』ではないでしょうか。起源は中国で、亡くなった人の魂を鬼(キ)と呼んだようです。日本では平安時代に『物の怪(もののけ)』と呼ばれていた怪異現象や得体の知れない姿や行動をする人、日本古来の神の中で悪神となってしまった神様の概念が混ざって『鬼(おに)』という認識になっていったようです。…なんて子どもたちに説明していると、いつの間にか現れていたたぬ君とおこんさん。そういえばおふたりにも人ならぬアイテムが付いていますね〜?ま、それはともかく『鬼』が街を跋扈していたという平安時代に行ってみましょう!出典: 百鬼夜行図(東京大学総合図書館所蔵) 京を夜な夜な練り歩く不思議なものたちの『百鬼夜行』。物の怪や付喪神(長い年月を経た道具などに魂が宿ったもの)たちが、平安時代の人々を脅かし、これらを総称して『鬼』と呼んでいたようです。そしてこの様子を表した『百鬼夜行図』はコミカルで思わず見ていると楽しくなってきちゃうんですが、なんとこれが描かれたのは室町時代なんですよ。アニメ・漫画文化大国として名高い日本ならではの歴史に納得〜!時代が進む中で、これらの中でもより人々の生活に身近な鬼たちが『妖怪』と呼ばれるようになっていったのかなぁ。でもね、なんとなく妖怪って冒頭に挙げたように、現代では子どもをちょっと脅かすぐらいのイメージじゃないですか? でも、日本の昔話や歴史の話の中では子ども騙しではなく大人も当たり前に妖怪と向き合っているんですよね。なんなら政治に関わる文献にも登場したり、平安時代の殿上人たちは物の怪との遭遇を理由に仕事を休むこともあったようです。なぜ妖怪は、昔の日本人たちの生活にリアルに存在していたのかというと…。そう、妖怪とは『暗闇=見えない/わからない』ことへの“恐怖“。人は見えないもの/わからないものが怖いので、その恐怖を乗り越えるため形を与えたのが妖怪になったようです。木造の家の木が乾燥や湿度の変化によって軋むことで音を発する事象は「家鳴(ヤナリ)」という名で小鬼の姿の妖怪になりました。灯の無い道を歩むと着物の袖を引っ張られるが振り返ってみると誰もいない、草木の枝のいたずらは「袖引き小僧」という黒塗りの子どもの姿に。恐らくアルツハイマーなどの症状で徘徊していたのかも知れない、家にいつの間にかいてお茶を飲んでいる知らない人は「ぬらりひょん」。東北地方のお金持ちの家に現れるという「座敷童子」は、もしかしたら事情により公表していない庶子を客人などがたまたま見かけて噂になったものではないかと言われています。こういった、現代であれば科学的・医学的に理由が分かったり、光が差せば原因が判明するようなものがまだわからなかった時代は得体の知れないものに名前や姿をつけて恐怖を紛らわしていたのではないでしょうか?でもここからが日本人の面白いところ。恐怖を紛らわすだけでは終わらせず、妖怪をキャラクター化してエンタメとして楽しんじゃおう! という流れになっていくんです。(「ゲゲゲの鬼太郎」「妖怪ウオッチ」「アマビエ」など、現代でも妖怪は日本人にとって身近な存在ですよね。)江戸時代に妖怪はキャラクター化する!鳥山石燕という江戸時代中期の浮世絵師は、妖怪の絵を描いて本として発表しました。怖さよりもコミカルでちょっと可愛くも見えてくる画風が大当たりし、庶民の中で妖怪は怖がるものから楽しむものへ。江戸時代後期には、このキャラクター性が高い妖怪を使った見せ物小屋やお化け屋敷が出現し、大人も子どもも楽しむ娯楽になったんですって! 今でもお化け屋敷は遊園地などで体験できますが、現代ではもう本物の?妖怪に出会うことはないですよね。現代の町中では夜でも真っ暗闇の場所なんてないですよね。安全性が高まったことはとてもありがたいけれど、見えないことで高まる想像力は失われているのかも知れません。そして昔は狐憑きと言われたりする人の奇妙な行動や、家鳴りなどの不思議な現象も科学的に解明されてきているため、怖がることもなくなってきたんですね。今回のお話はリアリストで非現実的な話には一切興味の無い夫でもスッキリ納得できたようです。怖いことの乗り越え方として、どこか愛らしい妖怪を作り出した…その想像力って偉大ですよね!
2022年10月30日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。前回は古代から中世(戦国時代末期)までの遊女たちの意外な姿を見てきました。時代劇などで見るイメージとはずいぶん違って驚きましたか?夫にこの話をしても最初はよく理解できなかったようで…。それでは、いつもとは違う格好のおこんさんと、慶長年間(江戸初期)の京都四条河原に行ってみましょう…!阿国歌舞伎(おくにかぶき)とは?そこで演じられていたのは、戦国時代から江戸時代への転換期の話をするのに外すことはできない「阿国歌舞伎」。出雲国の歩き巫女だったという阿国(おくに)が率いる一座は都で一世風靡しました。阿国はジプシー的巫女兼芸能者ですね。阿国歌舞伎は、女性が男装し、当時流行していたかぶき者 (他と異なる服装や行動をする若者) を取り入れた「かぶき踊」を演じて人気となったようです。これも現代の感覚だとなかなか受け入れ難いのですが、江戸時代までの性愛対象って異性に加えて「若衆(未成年男子)」も対象として存在していたんですよね。(詳しくは同性愛の歴史をご参照ください)つまり男装(女装)して演じるという男女が入れ替わった内容は、異性愛に限定されず、どの立場の人にとっても関心が高く注目を集めやすい演目だったのではと…。これを遊女屋が真似し始めると風紀が乱れるとのことで禁じられ、すると若衆を売る陰間屋が真似していき…最終的に「成人男性」だけが歌舞伎を演じてOKというルールに落ち着いて現代に至ります。そして異性装や変わった服装で舞踊に興じるブームって、実は時代の混迷期・転換期によく起こるなぁと。平安時代末期には白拍子舞。戦国末期には歌舞伎。江戸末期にはええじゃないか踊り。そして…ちょっと飛躍してるって言われるかもしれないけれど、個人的には1980年代のディスコブーム。異性装や派手で変わった服装で踊るというのは、文化の爛熟期と不安定な社会情勢への庶民の反発が強まっている時期に流行りがち…と考えられませんか?その視点で見ると阿国は、まるで中世の終わりを告げにきた存在に見えます。貴と賤、聖と俗、男と女、いろんな両極間の媒介者であり自由の象徴でもあった中世までの遊び女(あそびめ)が活躍するのはここまで…です。自由は失われ…管理された街へ阿国歌舞伎ブーム後、幕府によって島原に移転された傾城町は、塀に囲まれた場所に遊女たちを集住させ、主に特権階級の接待をする場所となりました。遊女たちはいずれかの遊女屋に所属し、支配され管理される生活に変化していきました。同時に、それまで曖昧に兼ねていたような宗教性を失っていきます。江戸前期の寛文の頃の史料からは、太夫と呼ばれる全てにおいて優秀な最高級遊女を筆頭に序列を作り、着るものから髪型までを取り決めて管理するようになっていたことがわかります。幼少期(禿)から素質のある子をマニュアル通りに育て、個性よりも完璧性を追求した遊女。中世までのイメージとずいぶんかけ離れていきますね。太夫と花魁の違いとは?ちなみにとてもよく似ているようだけど京都・島原のトップの称号である太夫と、時代劇などで見る江戸・吉原のトップ、花魁は実は全然違うんです。「太夫」とは元々能や舞踊に優れた者に与えられる称号であり、また島原の太夫の中には「正五位」を授けられ天皇と謁見できた人もいたとか。芸能や貴人の接待に重きを置いていたことがわかります。一方この島原を模して江戸に作られた吉原は、同様に江戸幕府公認の遊郭でありながら、犯罪を犯し非人となった女性や人身売買で売られてきた子どもなどが遊女にされることが多く、一握りの高級遊女以外は奴隷的な生活を送っていたのも事実でしょう。江戸吉原は庶民も手を伸ばせば届くような娯楽の場として発展し、目的も性的なことが中心となっていきます。花魁という呼び名は、禿が「おいらの太夫でありんす」などと言うところを省略し「おいらん」と短くなったのが始まりという説があり、禿を従えるクラスの高級人気遊女という意味の敬称のようです。こちらの江戸吉原が、現代の遊郭・遊女のイメージに近いのではないでしょうか。…お気づきでしょうか?遊女には、古代から長きにわたって築き上げられてきた歴史があるにも関わらず、普段私たちがイメージするのは、江戸吉原の遊女・遊郭のみとなっているのです。歴史を学んで身に付く力とは?私は遊女という職業・商売形態を全肯定したいわけでも、酷い目にあった女性たちがいるという事実を伝えずに子どもたちに良いイメージを植え付けたいわけでもありません。どちらかというと、大人には都合の悪いことも史実は史実として伝えていくべきだと思っているクチです。でも今回このテーマで2回に渡って書いたのは(これまでの記事にも共通しているんですが)、現代の私たちが知っている(つもりになっている)歴史なんて流れのほんの一部をだったり、意図的なムーブメントでいかにも伝統のように作られた比較的新しい価値観だったりすることもあるのです。ネットでなんでも調べられる時代だからこそ、簡単にわかったつもりになってしまい浅い理解で止まってしまうことって…歴史に限らずよくありますよね。興味を持ったことだけでもいいので、物事の流れを知って情報を整理していろんな角度から正しく全体像を捉えられる人に自分もなりたいし、これからの子どもたちに必要な力ではないかと思っています。
2022年09月30日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。少し前のことですが、大ヒット漫画がアニメ化&テレビ放映されることで、ちょっと子育て世代を中心にネットがざわついた話題をご存じでしょうか?『遊郭』を子どもが多く見るテレビ番組で描くのはいかがなものか? という論争があったのです。その漫画については、わが家は夫と長男が主にハマっていたんですが、家族でこの話題が出ると真っ先にヒートアップしたのは…ワタシです(笑)ワタシは日本史の中でも服飾史を調べていたのですが、服飾や髪型、化粧などの流行を知る上でどの時代でも外せないのが遊女の存在。そのため、遊女史にもやたら詳しくなりました。だからこの話題について黙っていられない!!現在の遊女や遊郭のイメージは、近世以降の事実をもとに、時代劇や映画などで脚色された独特の淫靡な世界観だったり、搾取される悲惨な話が一般的に浸透しているような気がするのです。でも…でもね、これまでのお話と同様、歴史、文化史を調べてみると、実はぜんっぜん違う印象に…。というわけで今回の主役になりそうなあの方をお呼びしましょう!あ、もう怒ってるわ…おこんさん。おこんさんはその姿から、おそらく中世と近世の間、桃山時代ごろの遊女と思われます。ご本人的にも現代の遊女の一方的なイメージには納得いかないみたいですね。ではでは今回はちょっと長くなりますが前編後編でお送りいたします。ガッツリ語りますよ? いいですか?「遊女」は巫女だったという説も“巫娼“という言葉を聞いたことはあるでしょうか?現代のワタシたちがイメージする「巫女さん」といえば清楚で穢れの無い女性ですよね。厳密に求められることはことは無いにしろ大前提として“処女性“が重要視されているとも言えるでしょう。巫女と遊女なんて、現代では真逆のような存在…。でも古代から中世にかけてはその両方の役割を兼ね備えた巫娼がいたようです。そもそもこの時代は性的なサービスをすることが良くないこと、恥ずかしいことであるという認識はなかったようで…。彼女たちは「遊び女(あそびめ)」と呼ばれていました。「遊」から想像するのは楽をしていたり、一定の場所に留まらずふらふらと好きなことをしている自由なイメージですよね。でも実は「遊」の語源は「神様を楽しませる、喜ばせる」という意味があり、神前で舞や音楽を奉納することを「神遊び」と言ったりもします。歌や踊りも上手な遊び女ですから、社会的地位も低くなかったようです。いや、むしろ一般庶民よりもずっと高い教養を持ち、遊女は特別な存在で憧れの対象だったことも。記録としても高級官僚、大伴旅人が赴任先の太宰府を去る際に、見送り人の1人、児島という遊び女が対等に歌を交わし合ったものが残されているのです。遊び女は歩き巫女とも呼ばれ、巫女としての役割も持ちながらジプシーのように旅をして生活していたようで…。その中で神事に関わる歌や舞の技術を発展させて芸能者として派生していきます。芸の道を行く女たちの栄枯盛衰平安時代には、傀儡(人形使い)や白拍子(男装して仏歌や流行歌を歌いながら舞う)などが遊女性も持ちながら台頭します。ここで、平安末期の平家物語で有名な祇王御前と仏御前のエピソードを例に出してみます。平清盛に気に入られている白拍子、祇王御前ですが、ある日別の若い白拍子、仏御前が現れ清盛に心変わりされて追い出されてしまいます。その後仏御前もまた同様に清盛に捨てられて祇王と共に出家して尼寺で暮らす…。ざっくりあらすじを説明するとこんな話なのですが、ちょっと不思議じゃないですか?平清盛って、一般庶民が会いたいと思ってもとてもとてもお目にかかれるような人ではありません。それなのに、白拍子は次から次へと清盛の家に入っていき、その御前で舞を披露できるんですよね。なんででしょう?この時代、僧侶や芸能者はいわゆる「身分を超越した者」として貴人に直接会うことができたのです。これを「遊行」と言います。白拍子は芸能者ですが遊女性もあり、この時期多くの貴人、それも上級貴族や上皇などの最高権力者の側室となっているんですよ。遊女の「遊」は“自由“の象徴へさてさて、そんな全然今とは違う遊女の成り立ちを見てきましたが、いよいよおこんさんの時代に突入してみます。室町時代に入ると、社会的役割ごとに住む場所ができ、分業が進んでいきます。そんな中で遊女たちの「遊」からは、神遊びという宗教性を失っていき、"自由"の象徴と変化していきます。おこんさんはじめ桃山時代ごろまでの遊女たちはよく絵画にも描かれていますが、さぞかし絵師も描きがいがあったんだろうなぁ、と意気込みが伝わってくるほど彼女たちのいでたちは独特でさまざまです。それまで日本の絵画は様式美が重要視されてあまり個性を感じないものが多かったんですよね。同じ髪型に同じ衣服の着方、顔も引き目鉤鼻がお約束でした。そんな中世末期の時代に、ルールや制限がなく、さまざまな髪型をし、同じ小袖でも越せていきな着こなし方やアクセサリーを身につける遊女たちには、当時の人たちも目を見張ったことでしょう。肩で風切るように街を闊歩する遊女たちの逞しさは、まるで現代のファッションの聖地、渋谷や原宿の若者たちを見ているよう。日本中世の市中を描いた屏風などを見ると、すごく多様で人それぞれだったように見えるんですよね。日本で遊郭をはじめたのは豊臣秀吉この時代の遊女の自由さは、戦国時代を経て武士が天下統一を成し遂げるにつれ、徐々に奪われていくようです。日本で初めての遊郭は、豊臣秀吉によって作られました。とはいえ完全に隔離された島原に移転するまでのいわゆる「六条の頃」は、街の一角に遊女が集住させられるだけで仕切りもなく自由に出入りができたそうです。公然と貴人が出入りし人気の高い遊女は宮中にも招かれることがあったんですって!つまりこの頃の遊郭は、公家や武家とやりとりできるような教養や知識を持ち、貴人をも喜ばせるレベルの舞や楽器などの芸事に秀でた才色兼備の遊女たちがもてなす高級文化サロンだったのです。遊里図などの絵画からは、一般には出回らないような目新しい海外製のインテリアや遊び道具なども見られ、流行の最先端を感じられる場所でもあったのでしょう。こうして見ていくと、どうでしょう? 思っていた遊女とだいぶイメージ違いません?ワタシがこの話を初めて知った時、中世までの遊女って時代の最先端の文化に触れ、ハイレベルな教養や知性を身につけた文化レベルが高い存在だったんだな…と思ってちょっと憧れちゃいました。もちろん、「昔の遊女は素晴らしかった!」と美化するつもりはありません。でも、「不幸でかわいそうな存在」と決めつけるのも一方的だなと…黙っていられなかったのです!でもね…と暗い表情のおこんさん。幕府の体制が整い武家社会として社会の秩序を求めていく時代になるにつれ、遊女・遊郭のイメージは憧憬の対象から全く違うものになっていくのです…。ということで、後半へ続く!!
2022年09月02日ウーマンエキサイトをご覧の皆さん、こんにちは。tomekkoです。わが家はワタシと長男の趣味で大河ドラマを欠かさず見ているのですが、その中では当たり前のように現代とは全く違った文化・習慣が見られますよね。小5の長男がふと疑問を持ったのは、一人の男性を挟んで睨み合う二人の女性。一夫多妻制だった昔の日本。時代劇には他にも妻とは別の女性の元を訪れる男性や、ひとりの権力者男性の子どもが複数の女性から生まれることで跡目争いが起こる様子も描かれています。これまでの連載でも、男性に比べ歴史上の女性たちは決定権が無く人生の選択肢も少なく、なんとも不自由を強いられてきたような印象を受けている方が多いのではないでしょうか?実際、戦国時代や江戸時代を舞台とするドラマでは、女性や子どもは立場が低く人質や貢物のような扱いとして描かることもあります。さらには日本女性の理想とされるイメージはほんの数十年前までは『大和撫子』。男性の半歩後ろを歩き、どんな扱いを受けても慎ましく従順で貞節を守る姿ですが…。でも…それってホント!?なんだかワタシの知ってる女性史とは違うんだよなぁ〜!とモヤモヤ…そこでやっぱりあの方たちをお呼びしま…あ〜もう察して出てきてくれるようになりましたね!史料を紐解けば、歴史の中から“女性たちの姿”が見えてくるはず…二人の天皇に愛された額田王恋多き女の坂上郎女ということで、まずは古代まで遡ってみましょう〜!!出典:万葉集 ~夫がいても元夫と愛の歌を交わす額田王~出典:万葉集ーー男女の恋愛が平等&自由じゃない?最高権力者の男性二人に愛されて、結果的にどっちも手に入れちゃう額田王ってシンプルに…カッコよくない?そして恋多き女として有名な坂上郎女の、自分からどんどん男性にアプローチしていく自己肯定感の高さ、憧れません?古代には「歌垣」と呼ばれるイベントがあり、既婚者にも大っぴらに声を掛けても許されるという出会いの場だったようです。(今だったら許されない! 感覚かもしれませんが、実は昭和初期まで地方の集落のいわゆる「お祭り」は、これに近い風習だったところもあるんですよね…余談)平安時代の女性は受け身だった?次に、女性が公の場から姿を消し男性が複数の妻の家を訪れる形の『通い婚』になった平安時代はどうだったのでしょうか?いかにも女性=待つ、受け身な感じがしますよね。出典:後拾遺集和泉式部の場合はお相手が高貴な方ばかりだったり、「恋ふ」というワードを使うのは男性が主流になっていた時代に女性ながらガンガン使っていたこともあり、平安女性のイメージを覆す派手さはありますね。基本は受け身であることが推奨された時代なので周りからの評判も人によってさまざまなようですが、宮廷に勤める女房たちにとって、恋は教養のようなものでした。なぜならこの時代、どんなに字が書けても容姿が良くても、和歌のセンスが無ければ評価されません。投げかけられた歌にその場で情緒ある返歌を詠む機転、引用された古い漢詩を理解して自分の想いを掛けた言葉を入れて返す知識と語彙力、そして限られた文字数の中で切ない恋心を伝えられる感性…。これらは数をこなさなければ身に付きません。つまり和歌が上手い=モテる女性(男性ももちろん)という相関関係があるのは当然のようです。戦国時代も…思いのほか女性は強かったさて、冒頭であったように時代劇ではいろんな武将に嫁に出されたり人質にされたりとモノのように描かれがちな戦国時代のリアルは…?日本史の中では貴重な海外とのやりとりが盛んだった期間ということで、せっかくなので客観的な外国人の感想をお伝えしましょう。・処女の純潔をなんら重んじない。それを欠いても栄誉も結婚も失いはしない・各々が自分のわけ前を所有し時には妻が夫に高利で貸し付ける・しばしば妻の方から夫を離別する出典:ルイス・フロイス著『日本覚書』ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスもびっくり!!西洋に比べ、日本人女性の性への奔放さや離婚がなんの恥にもならないこと、男女が財産を別々に管理したり女性にも男性と同等の教養があって当たり前であることなどを驚きと共に伝えています。(もちろん平安時代も中世も、高貴な女性は親の権力争いや献上品のような扱いで利用されていたのでこれには当てはまりません。物語や日記に残る女性は相応の身分であることが多いので、不憫なイメージの方が強く残ってしまうのかもしれないですよね。)江戸時代…武家の女性は貞淑だったけど…さて、江戸時代へと時が進み武家社会が確立されていく中で、それまでに比べて女性に貞節を求める考え方が強くなっていくようですが、それも武家限定の話…。先にも書いた通り、庶民の間では古代の「歌垣」からあまり変わらぬ風習は続いていたようだし、夜這いの習慣なども意外と最近まであったことだと知ると不思議な感じがしますよね…。一夫一婦制が確立したのは明治31年現代に戻ってみると、個人的にはとりあえず一夫一婦制の時代に生まれて良かったな〜(汗)とは思います。でも、制度はそうでも価値観は古いまま残っているところがあるような…?少なくとも夫婦はお互いの貞節への価値観は一致させておかないと揉める原因に…といった個人の話から、結婚制度はどう改善するべきか? など社会的な話まで…制度はもちろん、貞操観念なども、時代によって生きやすいように改善していけるといいですよね。
2022年08月04日