●「この人、好きだなぁ」で「一緒に」村上淳、村上虹郎、三浦誠己、渋川清彦、大橋トリオといった俳優・アーティストをかかえる芸能事務所・ディケイドが設立25周年を記念して、「日本映画とは何か」を掲げた映画『AMY SAID エイミー・セッド』(9月30日公開)を製作。前記の5人をはじめ、ディケイド所属の俳優たちが総出演し、静かな物語の中で個性をぶつけ合いながら共鳴し合うアンサンブルを披露している。元映画研究会の40代男女8人が、20年前に亡くなったエミの命日に、かつて行きつけだったバーで再会する一夜。「わたし本当は知ってるの、エミが死んだ理由」という直子(中村優子)の告白をきっかけに、それぞれの胸の奥に閉まっていたことが明らかになっていく。三浦演じる主人公・朝田は周囲から映画監督としての才能を認められながら、自らその才能に失望し、現在はパン屋で働く。彼らに共通しているのは、かつてはたぎるほどあった情熱がすっかり冷めてしまっていること。どこの同窓会にもあるようなほのかな哀愁が、この映画の中にも漂っている。公式サイトには「本気で挑んだ大人の青春映画」とある。芸能事務所自らが企画、製作した作品でここまで熱量のこもった作品は稀だ。ディケイド・佐伯真吾社長はどのような思いをこの映画に込めたのか。村上淳との出会い、そして「キミ明日から社長だから」と2代目社長に指名された日など、語られるエピソードの数々からはこの映画に至るまでの分岐点、そして映画愛・役者愛が溢れ出ている。○震災で諦めかけた20周年前作――「大人の青春」とある通り、誰もが同窓会で感じる哀愁が漂う作品でした。いつ頃からこの映画の構想を練っていたのでしょうか?5年前、設立20周年という大義名分を掲げて、主演・村上淳、主題歌・大橋トリオで映画『Playback』を撮りました。ただ、それ以前にもそういう動きはあったんですよね。それはマネージメントの一環、例えば新人育成という目的の場合もあります。大橋トリオは今年で10周年を迎えましたが、デビュー当時から映画音楽をやらせたかったので、CMなども数多く手掛けている柿本ケンサクの長編企画映画『Colors』(05)にお願いして長編を4社の出資で撮りました。そのうちの1社がディケイド。そういう「映画作りの序章」が過去にはありました。そういう流れの中である日、村上淳が「彼、才能あるよ」と勧める監督の作品DVDを受け取りました。それは『やくたたず』(10)という作品で、三宅唱という当時は学生監督だったんですが、確かに良かった。彼で1本映画を作ろうとしたんですが、すぐにできるわけでもない。制作機能がなく、そもそも自分は映画プロデューサーでもない。知り合いの映画制作会社、監督、僕の3者で集まって台本を作って自主映画を作ることに。その間、1年ぐらいかかっていたのかな。ディケイドとしてはお金を出すので、大義名分として20周年を掲げました。でも、そこで震災が起こってしまって。ちょうど3月に撮ろうと思っていたんですよ。不安だらけの世の中は混乱し、映画を撮るようなそんな状況でもなく、制作会社が降りてしまったんですが、自主体制でやるしかないと。三宅もせっかく一年アルバイトを続けながらがんばってきていたので、やめるべきではないと思ったんです。それが『Playback』でした。通常のマネージメントは、台本をもらって撮影をして、終わったら宣伝をする。断片的なことしか映画やドラマに携われないんですが、企画から公開までを知ることも裏方にとって勉強になるんじゃないかなと思って、だからこそスタッフ含め全員参加で役割分担をしています。――『Playback』後、設立25周年で映画を作るというのは、かなり早い段階から決まっていたんですか?全くないといえばウソになりますが、そのあたりは資金次第というか。ただ、お金がなくてもやってしまおうという思いはどこかにありました(笑)。我々は限られた製作費の中でやることしか作ることはできない。でも、何よりもアクションすることが重要なんだと思っています。『AMY SAID エイミー・セッド』の撮影は去年。その半年ぐらい前に台本の企画があって、村本大志監督とは撮影の一年ぐらい前から話し合っていました。――その時にストーリーは決まっていたんですか?いえ、全く決まってませんでした。監督とは15~6年の付き合いになるお茶飲み友だちです。いろいろなことを話していて、うちの役者をCMに使っていただくこともありました。村上淳のジャックスカード(01~03年)が始まりです。とにかく、いろいろなシチュエーションでキャスティングしてくださいました。そして、監督が企画する映画に役者の名前を出してくださって。でも、なかなか実現しなかった。お互い寂しい思いをしていて、「監督と映画を撮る」というのがいつの間にか1つの目標になっていました。映画の話をはじめたぐらいの時に、監督が「ディケイドのサイズ感に合ってない?」と持ってきてくれた原作がありました。企画書を書いて某出版社に持ち込んだんですがボツになってしまったんです。ここで途絶えてしまうのももったいなかったので、僕から「ディケイドの俳優が全員同級生という設定の話はどうですか」と以前から温めていた企画を提案してみたんです。それは僕が体感した40歳の頃の同窓会の空気。あの感じ、誰しもが通る道だよなぁと盛り上がりました。監督も映画研究会でそういう集まりがあったらしくて。それでお互いの方向性が合致して、2週間後には監督がプロットをあげてきたんです。それで、本格的に進めることになりました。○ちょっと面倒くさい俳優の方が面白い――近況を報告し合って、以前と違う自分を伝える同窓会。それ以外の場所でも、久しぶりに再会した人とはそういう話になりますよね。僕も40歳の時に25年前の友人と会う機会がありました。広島から上京してほぼ会ってないわけですよ。一夜、わずか3~4時間の間にいろいろなことが昨日のことのように蘇ってくる。それぞれが何をやってるのかを語り合いました。自分の岐路はどこだったのか、その時ふと思ったんですよ。自分の進路を決めたのが19~20歳ぐらい。同窓会ってそういう場だよなぁという記憶が残ってて、ディケイドで同窓会をテーマにした物語ができたらなと考えていました。――それだけの思い入れがある作品で、なぜ三浦さんを主演に指名したのでしょうか。役者をやれば、誰だって真ん中にいたいはず。そこは独断と偏見、僕の中での「真ん中にいるべき人」が三浦誠己だった。この作品は8人が主役みたいなものです。全員が脇役ですし、全員が主人公。プロットが上がってきた時に、この役は三浦しかいないと直感的に思いました。――劇中には、渡辺真起子さん演じる芸能事務所の社長(香田)が登場しますが、「自意識のない俳優はつまらない」というセリフがすごく印象に残りました。これは佐伯社長の分身ですか?僕はそんなセリフを口にしたこともないんですけども(笑)、監督はそう感じたんでしょうね。僕の心の代弁をしてくれたんだろうなと感じました。――今、このセリフを聞いてどう思われますか?大人しい回答をする俳優よりも、ちょっと面倒くさいと思わされるような俳優の方が楽しいとは思います。例えば、決められたようにやろうとしない人。でも、そういう俳優は、結果的にきっとやり遂げる。ちゃんと心と心がつながっていればね。そういう人たちばかりではないと思うんですけど、マネージメント側から見た意見です。――それは役者だけですか?たぶんマネージメントという中での話で。お仕事先の方とか監督とか、それは思い通りにならないことは避けたい。でも、往々にしてそういう人の方が面白いものを作ったりしてるんですよね。――なるほど。ところで、ディケイド所属の俳優は共通する匂いのようなものを感じますね。村上淳とは彼が17歳の時に会って、僕が23歳。それからほとんどマンツーです。僕は2代目社長なんですが、ディケイド立ち上げの時は彼の担当マネージャーでした。社長になってから17~8年ぐらい経つんですが、最初は1~2人ぐらいしか受け持てないんですよね。スタッフも増えて行く中でそれぞれの俳優といろいろなタイミングがありました。中村優子は直筆でもらった手紙で惚れた。オーディションとかの募集はしてないんですけどね。その後に山本浩司、渡辺真起子、三浦誠己が入ってきます。山本は自分がたまたま好きな映画に出ていた。「この役者はすごい!」と思う作品があって、それは彼のデビュー作でした。「どこにこんな役者いるんだろう」と思っていたら、知り合いが紹介してくれたんです。そんな感じで、自分が「この人、好きだなぁ」と思わない限り、「一緒にやりましょう」とはなりません。大西信満、KEE(渋川清彦)は別の事務所にいたんですよね。大西は『赤目四十八瀧心中未遂』(03年)、KEEは『ポルノスター』(98年)のデビュー作。そうやって、彼らの出演作が心に残っていた。事務所移籍とかは、仕方がないかもしれないけど、やはりどちらの立場も気分は良いとは思わない。でも、縁というのはある。彼らは、自ら事務所を辞めた後に、うちに来たいと言ってくれた。●藤原ヒロシ氏・高城剛氏が命名、事務所名の由来――役者を広く募ってないのはつまりはそういうことなんですね。人と人の縁だったり、社長ご自身の心に残っていた人を重視して。スカウトもしないんですか?全く無いですね。最近は資料もたくさん届きますが、そこでお会いするのも稀有ですし、所属してもらうのもなかなかないです。――三浦さんはどういうきっかけだったんですか?山本浩司を紹介してくれた子が僕に資料を送ってきてくれて。ただ、三浦誠己の場合は存在すら知らなかった。でも、いただいた資料の作品を観て驚きました。熊切和嘉監督の『爛れた家~蔵六の奇病より~』(04年)だったと思いますが、彼は2番手をやっていて、主演を超える魅力があった。「ぜひうちに来てほしい」とすぐになりましたよ。――お笑い芸人から転身した三浦さんでしたが、その後役者として出演作が増え、オファーも絶えません。これだけ成功することを予感されていたんですか?それこそ、何が成功で、何が満足かわからない。満足していないからできることでもあると思うんです。村上淳にしても村上虹郎にしても、映画でもドラマでもバラエティでも雑誌でも何でもいいと思うんですけど、目標地点はそれぞれ違う。そんな中でも「やってよかった」とか思える機会を1つでも多く作ってあげたいですね。○村上淳「カッコイイ大人になりたい」映画の世界へ――こういう話を所属の方々とすることはあるんですか。ほとんど、しないですね。一年に一回だけみなさんと新年会を迎えるぐらい(笑)。基本はそこでお話します。ご飯に誘ってくれることもありますが、基本的には各担当マネージャーが受け持っています。――先ほど2代目社長とおっしゃっていましたが、もともとはマネージャーとして入られたんですか?プロシードというキャスティング会社があって、そこの社員だったんです。石川(宏明)社長の下でお手伝いをやっていて。石川社長が91年に、藤原ヒロシ氏と高城剛氏の事務所として立ち上げたのがディケイドです。過去には松岡俊介も在籍していました。僕は藤原ヒロシ氏の担当になり、マネージャーのことを何も知らないので、とにかく一緒にいることしかできなかった。彼がやっていたのはファッションと音楽で、ほとんど付き人みたいなものでした。ディケイドを設立して数カ月後に、村上淳と会ったんです。彼はフリーでモデルをやっていて。自分でスケジュール管理をしていたんですが、混乱してきたりして、どうにもならなくなって僕が担当することになりました。――それがマネージメントの転機に。そうですね。本当に自分が芸能で頑張ろうと思ったのは村上淳が初めてです。藤原ヒロシ氏は仕事もいっぱいあったし、僕が何かをやる必要もなかった。だから、お手伝い。でも村上淳の場合は、これから何をやっていけばいいんだろうという「ゼロ」の状態だった。当時彼は「カッコイイ大人になりたい」と漠然と思っていたんでしょうね。モデルでも、役者でも「何を我慢してやらなければカッコイイ大人になれるか」を意識しているように感じました。彼の周りにはカッコイイ大人がたくさんいましたからね。どうすべきかを悩んでいて、ある時に気づいたんです。それは、「もしかしたら映画をやり続けるとカッコイイ大人になれるかもね」みたいに、本当に漠然としたものでした。なぜ映画がカッコイイのかではなくて、厳しい映画の中で揉まれれば村上淳も自分も育っていくはずと。○社長に指名された時の本音「この世の終わり」――2代目社長になる時、すぐに二つ返事だったんですか?石川会長は、割りとそういう人なんです。僕は本当に、「キミ明日から社長だから」と言われたぐらい(笑)。――急に(笑)。ある提案をしようとしたら、じゃあ自分でやってみればいいじゃんと言われて。それは決して投げやりな感じではなくて、「がんばってみな」という励ましでした。ライオンが子どもを崖から落とすみたいな感じ。僕は「この世の終わりだな」と思いましたよ(笑)。会社の経営状態も分かっていましたからね。プロシードという母体がしっかりしているから、ディケイドが支えられていると分かっていたから。――すぐに決心はついたんですか?やらないと自分が変われない。そう思いました。その上、お金を稼いでないくせに、わりと仕事は断ってましたからね。やるべきことしかやらないと心に決めていて。後々、これよく断ったなという仕事がたくさんありますが(笑)。――すごく気になります(笑)。2代目社長として17年。振り返ってみていかがですか?「もうダメだ」という瞬間はありましたけど、「しゃあない」と切り替えるようにしています。ディケイドは「10年紀」という意味。藤原ヒロシ氏と高城剛氏が「10年経ったら解散しよう」と思ってつけた名前だったんです。僕が社長になって藤原ヒロシ氏はいなくなったんですけど、それは時がそうさせたんですよね。この世の中、10の中で8は悪い状態だと思うんです。でも残りの2で挽回する。そのくらいになるよう常に考えています。8の試練を乗り越え、辛いことをがんばって2ぐらいの喜びを得ようとする。それくらいのことです。苦労や試練の先に、思っていた仕事が巡ってくることが結構あります。仕事を得るということなんですかね。営業10件行って、2件ぐらいに聞いてもらえる。そういう感覚です。○ディケイドに天才はいない――所属俳優も増えて事務所の知名度も上がってきました。8が減ってきたんじゃないですか?それはあるかもしれないですね。でも、誰?と思ってらっしゃる方はまだまだたくさんいらっしゃるはずです。――この作品には「才能」がキーワードになっています。これまでたくさんの方々を見てこられて、あらためて「才能」についてはどのようなお考えですか?たぶん、天才はうちにはいないんだと思います。でも、みんな努力する人。役者をやっていると、バイトやらないと食えない人もいるでしょうし、ディケイドにも役をとるためにバイトで食いつないでいる役者もいました。そうやって苦労して1本仕事が決まっても、それが次につながるとは限らないですよね。いい結果を残さないと次につながらない。そういう爪あとを残すために彼らは日々努力をして、それを積み重ねているんだろうなと思います。(C)2017「AMY SAID」製作委員会■プロフィール佐伯真吾株式会社ディケイドの代表取締役。1991年3月28日より同社を立ち上げ、俳優・クリエーターのマネージメント、音楽レーベル運営、音楽、映像、イベントの企画制作プロデューサーなどを行う。国際映画祭の常連である河瀨直美監督をはじめ塚本晋也監督、山下敦弘監督、若松孝二監督、瀬々敬久監督、諏訪敦彦監督、大森立嗣監督らの国際的評価の高い映画作品に数多く俳優を輩出し、同社を牽引してきた。本作『AMY SAID エイミー・セッド』は、企画から全体プロデューサーしている。自社製作は『Playback』(11)に続き2作目。
2017年10月01日ファン・ゴッホと日本をテーマに世界中から選びぬかれた逸品が一堂に会する「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」が、2017年8月26日(土)~2018年3月4日(日)の期間、札幌、東京、京都の3都市を巡回して開催されます。オランダのファン・ゴッホ美術館やクレラー=ミュラー美術館をはじめとした世界の名だたる美術館、そして個人のコレクションが集結し、日本美術がファン・ゴッホに与えた影響をさまざまな角度から見ることができます。ファン・ゴッホと日本・本展の構成1853年オランダに生まれたフィンセント・ファン・ゴッホは、1886年にパリに移り、自らの絵画表現を模索しました。そこで彼に大きな影響を与えたのが、日本の浮世絵でした。浮世絵版画を収集し、油彩で模写をして、構図や色彩を学んだのです。さらにファン・ゴッホは、浮世絵をはじめとする美術作品、日本を紹介した文章を咀嚼しながら、独自の日本イメージを醸成していきます。彼にとって日本は創意の源であり、夢に見た理想郷でした。本展の第1部は「ファン・ゴッホのジャポニスム」と題し、ファン・ゴッホが日本からどんな影響を受け、どんなイメージを抱いていたのかを多角的に検証します。そして「日本人のファン・ゴッホ巡礼」と題した第2部では、最初期における日本人のファン・ゴッホ巡礼を、ガシェ家の芳名録に基づいたおよそ80点の資料からたどります。●日本初!ファン・ゴッホ美術館との本格的国際共同プロジェクトファン・ゴッホの展覧会は日本で数多く開催されていますが、本展はオランダのファン・ゴッホ美術館との初の国際共同プロジェクトで、日本展終了後はファン・ゴッホ美術館でも開催されることになっています。「ゴッホと日本」をコンセプトに、本展の企画が立ちあがったのは6年前のこと。その後、2013年から共同企画として、ファン・ゴッホ美術館と日本の監修者・学芸員が作品選定や出品交渉を行ってきました。そうして出品される作品の中には、個人所蔵で普段はまったく見ることができない作品、日本初公開の作品も多く含まれています。ファン・ゴッホを生んだオランダと、ファン・ゴッホに大きな影響を与えた日本。この両国で本展が開催される意義は、とても大きなものになること間違いなしです!●第1部 ファン・ゴッホのジャポニスム●パリー夢のはじまりフィンセント・ファン・ゴッホ《花魁(溪斎英泉による)》1887年、油彩・綿布、ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵©Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)ファン・ゴッホの生年は、日本では黒船来航の年にあたります。オランダは鎖国中の日本とも交易をおこなっていましたし、ファン・ゴッホの伯父ヤンは日本に滞在した経験もありましたが、オランダ時代のファン・ゴッホと日本との接点をうかがわせるものは、何も見つかっていません。ファン・ゴッホが日本に関心を抱くようになったのは、1886年にパリに移住したのちだと言われています。パリに移ったファン・ゴッホは、画商ビングの店で大量の浮世絵を見て、鮮やかな色彩、作品の質の高さに魅せられます。平坦で鮮やかな色面を使ったファン・ゴッホの画風は、浮世絵の研究を通じて培われていったのでした。1880年代、パリはジャポニスムの最盛期でした。1886年に刊行された『パリ・イリュストレ』誌の日本特集号に使われた英泉の花魁図を、ファン・ゴッホは拡大模写して《花魁》に描きこんでいます。フィンセント・ファン・ゴッホ《カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ》1887年、油彩・カンヴァス、ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵©Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)この頃から、ファン・ゴッホは日本と日本人を理想化しはじめていたようです。そして、浮世絵の中の鮮やかな色彩世界を求めて「フランスにおける日本」たる南仏へ旅立つのでした。●アルルー「日本」という名のユートピアフィンセント・ファン・ゴッホ《寝室》1888年、油彩・カンヴァス、ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵©Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)1888年2月、ファン・ゴッホの南仏暮らしは大雪の中で始まりました。ファン・ゴッホがしたためた手紙には、「まるでもう日本の画家たちが描いた冬景色のようだった」、「この土地が、空気の透明さと明るい色彩効果のために、ぼくには日本のように美しく見える」と記されています。ファン・ゴッホにとって、南仏は「まさに日本そのもの」でした。「ここではもう浮世絵は必要ない。目の前にあるものを描きさえすればいい」と語るほど。夏に向かって日差しが強く明るくなるにつれ、ファン・ゴッホの絵も浮世絵のように鮮やかな色で描かれるようになります。浮世絵風の大胆な構図を取り入れるなどしたほか、ピエール・ロティの『お菊さん』を読み、日本を、そして日本人を理想化していきました。フィンセント・ファン・ゴッホ《アイリスの咲くアルル風景》1888年、油彩・カンヴァス、ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵©Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)理想化された日本人は、まるで花のように自然の中に生き、深い思想と真の宗教を持ち、他人と兄弟のように生活する貧しく素朴な人々でした。つまりファン・ゴッホは、自分が持っていた芸術的、社会的、宗教的理想を、日本人に投影していったのです。フィンセント・ファン・ゴッホ《タラスコンの乗合馬車》1888年、油彩・カンヴァス、ヘンリー&ローズ・パールマン財団蔵(プリンストン大学美術館長期貸与)©The Henry and Rose Pearlman Collection / Art Resource, NY 札幌、東京の2会場のみ展示そんな理想を実現すべく、ゴーギャンと「黄色い家」ではじめた共同生活は、1888年12月、有名な「耳切り事件」によって破綻します。日本を夢見た、南仏での1年足らずの生活期間は、ファン・ゴッホがもっとも想像力に満ち、もっとも幸福な時期だったのでしょう。●サン・レミ、オーヴェールー遠ざかる日本の夢フィンセント・ファン・ゴッホ《蝶とけし》1889年、油彩・カンヴァス、ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵©Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)「耳切り事件」のあともたびたび精神病の発作に襲われたファン・ゴッホが日本について語ることは、ほとんどなくなりました。しかし、発作の合間に描きつづけた作品のなかには、浮世絵の影響を感じさせるものもありました。フィンセント・ファン・ゴッホ《渓谷(レ・ペイルレ)》1889年、油彩・カンヴァス、クレラー=ミュラー美術館蔵© Kröller-Müller Museum,Otterlo1890年、サン・レミの療養所を出たファン・ゴッホは、パリで「現実」と直面します。そのひとつは弟テオが家庭を持ったこと、もうひとつは日本のイメージの急激な変化でした。1890年の近代化が進んだ日本は、もはや「楽園」ではなく、現実として見られるようになっていました。多くの人が「日本の夢」から目覚めさせられることになったのです。フィンセント・ファン・ゴッホ《オリーヴ園》1889年、油彩・カンヴァス、クレラー=ミュラー美術館蔵© Kröller-Müller Museum,Otterloフィンセント・ファン・ゴッホ《ポプラ林の中の二人》1890年、油彩・カンヴァス、シンシナティ美術館蔵(メアリー E. ジョンストン遺贈)© Cincinnati Art Museum, Bequest of Mary E. Johnston, 1967.14301890年7月28日、ファン・ゴッホの「日本の夢」に火をつけた画商ビングが大浮世絵展の功績を認められてレジオン・ドヌール勲章を授与されたその日、ファン・ゴッホはオーヴェールの屋根裏部屋で腹に銃弾を抱えたまま、瀕死で床に横たわっていました。そして翌29日、静かにこの世を去ったのでした。●第2部 日本人のファン・ゴッホ巡礼●オーヴェール巡礼の旅ファン・ゴッホはオーヴェールの墓地に、あとを追うように没した弟テオと、隣りあって埋葬されています。ファン・ゴッホの死からまもない頃、その作品や生涯を熱心に紹介したのが、小説家の武者小路実篤、画家の斎藤與里や岸田劉生、美術史家の児島喜久雄といった「白樺派」及びその周辺の文学者や美術家たちでした。その熱狂は徐々に広がり、大正から昭和初期にかけて、少なからぬ日本人がオーヴェールの地におもむきました。生前ほとんど売れなかったファン・ゴッホの作品の多くは、オーヴェールのガシェ医師の元に残され、医師亡きあとは同名の息子が大切に守っていました。当時パリで見ることができるファン・ゴッホ作品はわずかだったため、日本人たちはオーヴェールをファン・ゴッホ巡礼の地と定めることになりました。ガシェ家には、そんな日本人たちの名が記された芳名録が3冊残されました。現在はギメ東洋美術館に収蔵されている芳名録ですが、今回日本ではじめて公開され、近代日本の知識人たちによるオーヴェール巡礼の実相が紹介されることになりました。オーヴェールに詣でた洋画家には、佐伯祐三や前田寛治などがいました。ファン・ゴッホの強烈な色彩表現は、若い日本人画家たちに大きな影響を与えたのです。本展では、佐伯の《オーヴェールの教会》や前田の《ゴッホの墓》など、巡礼から生まれた日本近代絵画の名作のほか、写真や手紙などの豊富な資料も紹介されます。●クレラー=ミュラー・コレクションへの巡礼ファン・ゴッホに傾倒した白樺派は文学者が中心で、作品以上にその悲劇的な生涯への関心が強かったことが、日本でのファン・ゴッホ受容に見られる特質となっています。ガシェ家の芳名録では、歌人斎藤茂吉の署名がその象徴的な存在といえます。精神科医でもあった茂吉は医学研究のために欧州に留学し、西洋美術、とりわけファン・ゴッホへの関心を深めていきました。茂吉は、オーヴェールでファン・ゴッホを歌に詠んでいます。一向に澄みとほりたる/たましひの/ゴオホが寝たる/床を見にけり(斎藤茂吉)オーヴェールに先だって茂吉が訪ねたのは、オランダ・ハーグのクレラー=ミュラー家でした。そのクレラー=ミュラー家の芳名録にも、画家の荻須高徳や佐分眞ら日本人の名前が散見され、オーヴェールと並ぶファン・ゴッホ巡礼地となっていたことがわかります。クレラー=ミュラー家の芳名録や当時の展示風景写真、目録などの貴重な資料も、本展で紹介されます。日本の浮世絵がファン・ゴッホを突き動かし、ファン・ゴッホの作品が日本の近代美術や文学に大きな影響を及ぼしたことを考えると、ファン・ゴッホと日本の縁がいかに深いものかがわかりますね。現代でもとりわけ日本人に愛されるファン・ゴッホの軌跡を、日本との結びつきという切り口で見つめる本展。日本とオランダを巡回することからも、いかに力が入った企画かが伝わってきます!【展覧会詳細】名称:ゴッホ展 巡りゆく日本の夢■札幌展会場:北海道立近代美術館所在地:札幌市中央区北1条17丁目会期:2017年8月26日(土)~10月15日(日)休館日:月曜日(9/18、10/9は開館。翌火曜日休館)■東京展会場:東京都美術館所在地:台東区上野公園8-36会期:2017年10月24日(火)~2018年1月8日(月・祝)休室日:月曜日(1/8は開館)、年末年始(12/31、1/1)■京都展会場:京都国立近代美術館所在地:京都市左京区岡崎円勝寺町26-1会期:2018年1月20日(土)~3月4日(日)休館日:月曜日(2/12は開館。翌火曜日休館)公式サイト:
2017年09月05日新ブランド「CHIZU SAEKI Japan Le Salon Cosme」美容家の佐伯チズは、2017年6月11日、自身のオフィシャルブログの中で、新ブランド「CHIZU SAEKI Japan Le Salon Cosme(チズ・サエキ・ジャパン・ラ・サロン・コスメ)」を立ち上げることを発表。「チズさんのお化粧品はどこで手に入るの?」という、多くの女性たちの声に応え、安心して手にしてもらえる化粧品作りのために努力を重ねてきたという。新シリーズには、日本で唯一、JAS認定を受けたバラの女王・ダマスクバラ花水をたっぷり使用。世界特許取得の「ラメラ・テクノロジーR」技術も採用した。半世紀以上に渡って、美容家として活躍してきた佐伯チズの集大成ともいえるブランドとなっている。佐伯チズの新ブランド発表会2017年6月23日(金)15:30から17:30まで、第一ホテル東京シーフォート 3階「ハーバーサーカス」において、「CHIZU SAEKI Japan Le Salon Cosme」の発表会が開催される。会費は、1人10,000円。発表会では、一般販売に先立ち、新ブランドの初回販売会が開催される。申し込み及び問い合わせは、株式会社チズ・コーポレーション(電話番号:03-6718-4411)まで。締め切りは、6月17日までとなっている。(画像は佐伯チズ オフィシャルブログ「願えば、かなう。」より)【参考】※佐伯チズ オフィシャルブログ「願えば、かなう。」
2017年07月02日日本でも人気の画家フィンセント・ファン・ゴッホ(1853ー1890)は、浮世絵など日本美術に強い興味を抱いていたことが知られている。一方で日本でのゴッホブームも意外に早く始まっており、彼の死後30年が経った1920年代には、多くの日本人画家がフランス・オーヴェール(ゴッホの没した地)を訪れている。今夏開催される『ゴッホ展 巡りゆく日本の夢』は、ゴッホが愛した“日本”とその作品の軌跡をたどると共に、日本の画家や作家がゴッホから受けた影響までを展示する大規模な展覧会だ。オランダにあるファン・ゴッホ美術館と6年をかけた初の本格的共同企画展で、日本初公開作品も目白押しというから見逃せない。ゴッホ展 巡りゆく日本の夢 チケット情報3月14日に行われた会見では、総合監修を務めた圀府寺司氏(大阪大学文学研究科教授)が本展のユニークな内容を解説。第1部「ファン・ゴッホのジャポニズム」では、オランダに生まれ、1886年にはパリに移ったゴッホが、浮世絵などから構図や色彩を学んでいく課程が示される。渓斎英泉の『雲龍打掛の花魁』を模写し、理想郷“日本”に似た風景を追い求めて移り住んだアルルでは『雪景色』(日本初公開)を描き上げたゴッホ。「雪の中で雪のように光った空を背景に白い山頂を見せた風景は、まるでもう日本人の画家たちが描いた冬景色のようだった」と自ら語るとおり、その灰色の色彩は確かに日本の寒村を思わせる。また『寝室』については「日本人はとても簡素な部屋で生活した」「(この作品では)陰影は消し去った。浮世絵のように平坦で、すっきりした色で彩色した」とも語っており、日本文化そのものへの敬愛がうかがえる。続く第2部「日本人のファン・ゴッホ巡礼」では、今度はゴッホに魅せられた日本人の、ゴッホへの想いが明らかにされる。ゴッホの死後まもなく彼の生涯や作品を紹介したのは、武者小路実篤や岸田劉生ら白樺派と、その周辺の文学者や画家たち。ゴッホを看取ったガシェ医師の家には、生前売れなかったゴッホの作品が残されていたこともあり、多くの日本人が同家を訪れて芳名録に署名した。本展ではこの芳名録(フランス・ギメ東洋美術館蔵)を日本初公開するほか、同地を描いた佐伯祐三ら日本人画家の作品や、日本画家の橋本関雪がガシェ家を訪問した際の記録映像など、貴重な動画も併せて公開される。本展は北海道立近代美術館(8月26日~10月15日)、東京都美術館(10月24日~2018年1月8日)、京都国立近代美術館(2018年1月20日~3月4日)と巡回。その後はアムステルダムのファン・ゴッホ美術館でも開催され、カタログは最新の情報を盛り込んで日本語、英語、オランダ語など数ヶ国語で出版される予定だ。ここでしか見られない、人間・ゴッホのリアルな姿。想像以上の日本との関わりに、新鮮な感動を呼び覚まされる展覧会になりそうだ。取材・文佐藤さくら
2017年06月30日佐伯チズの美肌塾2017年7月、品川教室(サロン ドール マ ・ボーテ内)において、佐伯チズの美肌塾が開催される。佐伯チズによる講話と、スタッフ(水野あや)による佐伯式ローションパックとお手入れ方法を学ぶレッスンとなっている。品川教室は、少人数制。受講料は、54,000円(税込み)。詳細な日程は、Saeki Chizu official websiteを確認。申し込みは、サロン ドール マ ・ボーテ(電話番号:0120-68-284)まで。佐伯チズのプロフィール1943年生まれの佐伯チズは、外資系化粧品会社を定年退職後、エステティックサロン「サロン ドール マ ・ボーテ」を開業。その後、自身の美容理念と、美容メソッドを提供するため、「佐伯式美肌塾チャモロジースクール」を開校している。「ひとりでも多くの方をきれいにしてさしあげたい」という想いから、講演、執筆活動、テレビ出演などを精力的に行い、現在も肌のお悩み相談やお手入れを継続している。佐伯チズの著書「美肌革命」は、英語、フランス語、ロシア語、ポーランド語に翻訳され、美容にとどまらず、食文化やライフスタイルまでも、世界中から注目を集めている。(画像はSaeki Chizu official websiteより)【参考】※Saeki Chizu official website
2017年06月10日日本初、オランダのファン・ゴッホ美術館との国際共同プロジェクト「ゴッホ展巡りゆく日本の夢」が開催される。北海道立近代美術館では2017年8月26日(土)から、 東京都美術館では10月24日(火)から、 そして京都国立近代美術館では2018年1月20日(土)から順次開催される。日本を夢想したファン・ゴッホ。そして、ファン・ゴッホに憧憬した日本人。その交差の軌跡をたどる本展は、「ファン・ゴッホのジャポニスム」と「日本人のファン・ゴッホ巡礼」の2部構成に分け、関係性を両方向から検証する。第1部 日本に魅了されたファン・ゴッホファン・ゴッホは、パリの画商店で大量の浮世絵と出会い、鮮やかな色彩や質の高さにひどく感銘し、魅了された。その大きな衝撃は幾度となく彼自身の作品に投影され、肖像画の背景に描き込むほどだった。第1部では、国内外のコレクションより厳選した《タラスコンの乗合馬車》、《雪景色》など4つの作品を日本初公開。さらに、彼が描いた浮世絵の模写や構図や色彩の表現様式、理想郷として夢見ていた日本のイメージを反映した作品など約40点を展示する。また、浮世絵をはじめとする約60点の日本美術作品もあわせて公開。さまざまな角度から日本の影響を紐解いていく。第2部 日本人のファン・ゴッホ巡礼1890年、この世を去ったファン・ゴッホ。彼の最期を看取った医師・ポール=フェルディナン・ガシェ一家は、残されたファン・ゴッホの作品の多くを大切に所蔵していた。それら作品を一目見ようと、彼の生涯や作品に強い憧れを抱いた日本の小説家や学者、美術家たちは、ファン・ゴッホ終焉の地オーヴェールにあるガシェ家を訪れた。その記録として「芳名録」に、240人あまりの来訪者が名前を残したのだった。第2部では、フランスのギメ東洋美術館に所蔵されている3冊の「芳名録」を日本初公開。さらに、近代日本の知識人たちが訪れたオーヴェール巡礼の実相を、約80点の豊富な資料からたどる。加えて、ここでは洋画家・佐伯祐三の《オーヴェールの教会》、前田寛治の《ゴッホの墓》といった、巡礼によって描かれた日本近代絵画の名作も展観できる。さらには当時の写真や手紙などの資料、日本画家・橋本関雪がガシェ家訪問時に撮影した貴重な映像もあわせて紹介する。ゴッホの自画像が12年ぶりに来日さらに、ゴッホの自画像が12年ぶりに来日し、全会場で公開されることが決定した。本作は、パリ滞在中の最後期に描かれたもので、彼の自画像の中でも高さ60cmを超えるひときわ大きいもの。近くに寄って眺めると、実に細かなタッチが入念に重ねられている。画面全体は静謐としていながらも、青やオレンジなど様々な色彩の連なりに、ゴッホのエネルギーを感じさせる1枚だ。ウェスティン都ホテル京都では開催記念メニューもまた、ウェスティン都ホテル京都のレストラン「グランドビュー」では、出展作品やゴッホにちなんだシェフの感性溢れる料理の数々を、期間限定ランチで販売。南仏アルルの風景に見たてたノルウェーサーモンのマリネや、『種まく人』をイメージした彩りで盛り付けられた、牛肉の赤ワイン煮込みの京都産野菜添えなど。さらに、ティールーム「メイフェア」では、 南仏の風景をイメージしたレモン・ライム・ラズベリーのムースを使用したケーキも登場する。開催概要展覧会「ゴッホ展巡りゆく日本の夢」■札幌展会期:2017年8月26日(土)~10月15日(日)会場:北海道立近代美術館住所:北海道札幌市中央区北1条西17丁目開館時間:9:30~17:00※会期中の金曜日は19:30まで(入館は閉館の30分前まで)休館日:月曜日(9/18、10/9を除く)、9月19日(火)、10月10日(火)問い合わせ:011-644-6882観覧料:一般 1,500円(1,300円)、高大生800円(600円)、中学生600円(400円)、小学生以下無料(要保護者同伴)※()内は前売りと10人以上の団体料金■東京展会期:2017年10月24日(火)~2018年1月8日(月・祝)※11月15日(水)、12月20日(水)はシルバーデーにより65歳以上の方は無料(要証明)会場:東京都美術館住所:東京都台東区上野公園8-36開室時間:9:30~17:30※会期中の金曜日、11月1日(水)、2日(木)、4日(土)は20:00まで(入館は閉館の30分前まで)休室日:月曜日(1/8を除く)、年末年始休館 12月31日(日)、1月1日(月・祝)問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)観覧料:一般 1,600円(1,300円)、大学生・専門学校生 1,300円(1,100円)、高校生800円(600円)、65歳以上1,000円(800円)※()内は前売りと20人以上の団体料金※中学生以下は無料■京都展会期:2018年1月20日(土)~3月4日(日)会場:京都国立近代美術館住所:京都府京都市左京区岡崎円勝寺町 京都国立近代美術館開館時間:9:30~17:00 ※金・土曜日は20:00まで開館(入館は閉館の30分前まで)休館日:月曜日(2/12を除く)、2月13日(火)問い合わせ:075-761-4111観覧料:一般 1,500円(1,300円)、 大学生 1,100円(900円)、高校生600円(400円)※()内は前売りと20人以上の団体料金※中学生以下は無料「ゴッホ展巡りゆく日本の夢」開催記念メニュー■「巡りゆく日本の夢」ランチコース開催場所:ウェスティン都ホテル京都 3階レストラン「グランドビュー」時間:11:30~14:30料金:1人 3,300円/チケット付 4,500円特典:「ゴッホ展」チケット半券を提示で開催記念メニュー料金を10%割引 ※他の特典・割引との併用不可メニュー内容:・ノルウェーサーモンのオレンジマリネ アルルの風景に見立てて・ムール貝入りピストースープ サフラン風味・牛肉の赤ワイン煮込み 京都産野菜添え『種まく人』 をイメージして・マンゴーのアイスクリーム クロカンブッシュ『ひまわり』をイメージして・コーヒーまたは紅茶■プロヴァンス開催場所:ウェスティン都ホテル京都 1階ティールーム「メイフェア」時間:10:30~21:00料金:・単品 (テイクアウト)600円、(イートイン)660円・ドリンクセット 1,650円特典:「ゴッホ展」チケット半券を提示で開催記念メニュー料金を10%割引 ※他の特典・割引との併用不可
2017年03月17日東京・六本木の国立新美術館にて9月2日から14日まで、「第100回記念 二科展」が開催される。1914年、文部省美術展の洋画部に対して新進作家たちが“第二科”の新設を働きかけたが実現できなかったことから、有志が日本洋画の革新をめざして集結して始められた「二科展」。“流派にとらわれず、新しい価値を尊重し、創造者の制作上の自由を擁護する”を信条とし、洋画界の黎明期に多くの著名な芸術家を輩出してきた。これまでの参加者は、安井會太郎、熊谷守一、東郷青児、岸田劉生、梅原龍三郎、小出樽重、中川一政、林武、佐伯祐三、宮本三郎、岡田謙三、藤田嗣治、岡本太郎など。海外からもジェレニェフスキー、マチス、ドラン、ピカソ、デュフィ、ブラック、モネ、ボナール、ブールデル、ゴヤ、ルオー、ロダン、モディリアーニなど、数多くの著名作家の作品が出品された。「第100回記念 二科展」では、同展に多大なる功績を遺した洋画家、彫刻家たちの作品を特別展示。歴代理事長の作品や、デザイン部と写真部の会員による同展に向けた作品も展開される。また、国立新美術館2階にある休憩室A、B、C、Dでは、絵画、彫刻、デザイン、写真の4部の会員有志によるコラボ展を実施。メインテーマは“あそび”、サブテーマは“ネコ100態”と設定され、様々な“ネコ”作品が展示される他、講演会やギャラリートーク、ミニコンサートなども予定している。また、二科の100年の歴史を一覧出来る「伝説の洋画家たち 二科100年展」が現在、東京都美術館で開催中。9月12日から11月1日まで大阪市立美術館、11月7日から12月27日まで福岡・石橋美術館でも行われる予定だ。【イベント情報】「第100回記念 二科展」会場:国立新美術館住所:東京都港区六本木7-22-2会期:9月2日~14日時間:10:00~18:00(入場は17:30まで)※金曜日は20:00まで入場は19:30まで、最終日は14:00までで入場は13:00まで休館日:9月8日料金:一般1,000円、高大学生800円、中学生以下無料
2015年08月24日「伝説の洋画家たち二科100年展」が上野公園の東京都美術館で7月18日に開幕、17日には開会式が行われ、本展覧会の音声ナビゲーターを務める石坂浩二(74)らが出席した。「伝説の洋画家たち二科100年展」チケット情報本展覧会は、1914年に結成された二科会主催の美術展覧会である「二科展」が、今年で第100回を迎えたことを記念し、開催される。安井曾太郎、東郷青児、小出楢重、林武、村井正誠、吉原治良、吉井淳二、織田廣喜、鶴岡義雄、佐伯祐三、藤田嗣治、岡本太郎など、名だたる画家たちが研さんを積んだ時期の画壇デビュー作が一堂に会するほか、東北から九州まで70を超える全国の美術館や所蔵家が所蔵する約120点の名品を鑑賞することができる。常に時代を先取りしてきた二科展の100年の歩みを「草創期」、「揺籃期」、「発展そして解散」、「再興期」の4期に分けた本展は、日本近現代美術史における二科会の意義が浮き彫りになるような仕組みとなっている。日本を代表する画家・彫刻家による二科展出品作を紹介、100年続く二科展の気風を体感できる「伝説の洋画家たち二科100年展」は東京都美術館にて、9月6日(日)まで開催。当日券は一般 1,500円、学生 1,200円、高校生 800円、65歳以上1,000円。
2015年07月30日東京都・上野の東京都美術館は、日本三大公募展の一つ「二科展」の第100回を記念した「伝説の洋画家たち 二科100年展」を開催する。会期は7月18日~9月6日(月曜、7月21日は休み、ただし7月20日は開室)。開室時間は9:30~17:30(金曜は21:00まで)。入場料は、大人1,500円、学生1,200円、高校生800円、65歳以上1,000円、中学生以下無料。同展は、70を超える日本全国の美術館や所蔵家が所蔵する、日本近現代美術史に欠かせない洋画家・彫刻家たちの名品約120点を、時代背景やエピソードを織り交ぜながら紹介するもの。1914(大正3)年に若き画家の研鑽の場として、一部の画家たちによって創設された二科会は、常に新しい傾向の作風を吸収し日本の美術史上に名を残す才能を次々と輩出しており、岸田劉生、佐伯祐三、小出楢重、関根正二、古賀春江、坂本繁二郎、藤田嗣治、松本竣介、東郷青児など、二科展によって名をはせるようになった芸術家は数多く挙げられる。同展では、巨匠たちの画壇デビュー作として、安井曾太郎、東郷青児、小出楢重、林武、村井正誠、吉原治良、吉井淳二、織田廣喜、鶴岡義雄など、名だたる画家たちが、認められるべく研鑽した時期の作品などが紹介される。なお、同展で展示される作品は全て二科展出品作品となっており、100年間続く二科展の歩みを通して、日本近現代美術史を知ることができる内容となっている。また、関連企画として、田中 良(二科会 理事長)、吉野 毅(二科会 常務理事)による記念講演会が開催される。開催日時は7月18日14:00~15:30。また、学芸員又は二科会が展覧会の見どころを解説するイブニングレクチャーも開催される。開催日時は7月24日、7月31日、8月7日、8月14日、8月21日、8月28日、各回とも19:00~約30分。いずれも聴講無料だが、同展観覧券が必要となる。そのほか、音声ガイド(ナビゲーターは俳優・石坂浩二)の貸し出しも行われる。貸出価格は520円。
2015年06月24日