佐古忠彦監督最新作となる映画『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』(3月20日公開)が18日、東京・渋谷のユーロライブにて同日開幕した「TBSドキュメンタリー映画祭」にて先行上映され、佐古監督が舞台挨拶に登壇した。本作は、『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』2部作で戦後沖縄史に切り込んだ佐古監督が、新たに発見された資料を交え、知られざる沖縄戦中史に挑んだ野心作。沖縄戦を生き延びた住民、軍や県の関係者、その遺族らへの取材を通じ、戦中最後の沖縄県知事となった島田叡(しまだ・あきら)氏の生涯と、語り継ぐべき沖縄戦の全貌に迫った長編ドキュメンタリー映画だ。沖縄で先行公開されており、佐古監督は「開館前から列を作っていただいていて。『いい映画だったよ』という言葉を残してくれる方が本当に多かった」と沖縄での反響を明かし、「沖縄戦は、今の状況につながる一つの原点。沖縄のみなさんにとっては、あの時代に何があったのか、改めて原点を見ることにつながったというところもあり、本当に作ってよかったと思うことができる沖縄の公開でした」としみじみと語った。また、3月に公開することについて、「沖縄戦は3月に始まっている。この季節の中で、あの出来事が起きたという季節感を感じながら作品を見ていただくことも意義があるのかなと」と述べ、「どういった中で人々が命に向き合っていたのか感じながら映画を見ていただけたらうれしい」とメッセージ。さらに、「命に向き合うことは、時代関係なく、一番の尊厳の部分。この映画には、昔話だけではなく、今日的なテーマがたくさん含まれている。リーダー論、官僚の在り方、そして、全体主義の中で個がどんな行動をとれるのか。時代を超えて今に投げかけてくるメッセージがある」と語った。本作では、佐々木蔵之介が島田叡氏の語りを担当。佐古監督は「蔵之介さんのお力をお借りし、その場面場面での島田さんの気持ちを考えに考え抜いて、素晴らしい表現をしていただいた。沖縄でも『佐々木蔵之介さんの語りが島田さんのイメージにぴったりだ』という声をたくさんいただいて、本当に蔵之介さんにお願いしてよかった」と感謝し、「実は蔵之介さん、直前に沖縄に行かれて、いろんな空気を感じとって収録に臨まれた。いろんなものをこの作品に乗せていただいた」と明かした。「TBSドキュメンタリー映画祭」は3月18日~21日に東京・渋谷のユードライブにて開催。テレビ放映版から新たに編集をした作品に加え、劇場公開作を含む全22作品を上映し、監督やゲストによるトークイベントも実施する。なお、この日の舞台挨拶ではTBSの出水麻衣アナウンサーが進行を務めた。
2021年03月18日「昔から百恵さんの生き方に憧れていたんです。あれだけのスターだったのに、引退後はほかのタレントのように中途半端に復帰したりしませんでした。自分の考えをしっかり持っている方で、すごく尊敬しています。その百恵さんの新しい本が発売されたと聞いて買いにやって来たんです」そう語るのは、東京都内の書店を訪れた50代女性。彼女が持っていたのは購入したばかりのキルト作品集『時間の花束Bouquet du temps』(日本ヴォーグ社)だった。’80年10月に歌手・山口百恵として引退してから39年。いまは三浦百恵さんとなった彼女が刊行した著書が話題を集めている。結婚してから制作を始めたという70点ものキルト作品などを紹介した写真集で、本人の近影も掲載されているのだ。300万部を突破した自叙伝『蒼い時』刊行からも39年。百恵さんは決断の理由を、あとがきで次のように書いている。《日々の軽い雑談の中で、夫にそんな話(※キルト作品集刊行を勧められたこと)をしたところ、「30年以上続けてきたことだし、還暦のいい記念になると思う。やってみたらいいんじゃない」という言葉が背中を押してくれました》結婚して以来、自分の仕事を支えてくれ、2人の息子を育て上げ、さらに老親の介護にも励んでくれた妻。そんな百恵さんが還暦を迎えることについて、夫・三浦友和(67)も深い感慨を抱いていたのだ。友和は本誌のインタビューで次のように語っていた。《60歳は妻にとっては母親が亡くなった年齢でもあります。それだけに60歳への思いが強いのか、すごく重く捉えているようです。誕生日には何かしてあげようと思っています。息子たちもそのつもりでいるようです》(’19年1月1・8日合併号)『時間の花束Bouquet du temps』には、子供たちの手提げバッグや体操着袋なども掲載されており、作品のバリエーションの多様さ、そして込められた愛の深さには驚かされる。また著書では、百恵さんが“もう一つの針仕事”と呼んでいるビーズ織りとの出会いについても紹介されている。百恵さんはデパートで鑑賞したビーズ織りの作品展に感動し、自身も習うようになったという。いまも百恵さんを指導している佐古孝子さんが、本誌の取材に応じてくれた。「百恵さんが、私の教室に通いたいと言ってくださったのは、もう15年ほど前のことでしょうか。月に1度のペースでマンツーマンでお教えしています。彼女は時間にも几帳面で、1度も遅刻したことがないのです。最初はアクセサリーをいくつか作り、慣れたころからハンドバッグなどに挑戦されるようになりました。特に色彩感覚に優れているのと、キルトもそうなのでしょうが、“自分が作りたいもの”よりも“作ってあげる相手が喜ぶもの”を優先しているような方です」マンツーマン指導の2時間で、よく雑談もするという。「ご家族のお話をされることも多いですね。ご次男が寮で生活している時期もあったそうですが、『これは息子が作ったお弁当なんです』と携帯電話の写真を見せてくださったこともありました。息子さんもお料理が得意なのだそうです」いつもは自分で運転して教室にやってくるという百恵さんだが、ときには友和が送迎をしてくれることもあるようだ。そんなときは、まるで新妻のように少しソワソワした様子になるという。「『今日は主人が迎えに来るんです』と、とても嬉しそうにされています。百恵さんもご主人を大切に思っていますし、ご主人も百恵さんをとても大事にされているようです」ファイナルコンサートでは「皆さんの心を裏切らないように、精いっぱい、さりげなく生きていきます」と語り、芸能界を去った百恵さん。彼女は二度とステージに立つことはないが、これからも数々の作品に家族への愛情を“精いっぱい、さりげなく”注ぎ込んでいくのだろう。
2019年08月01日「姉はいま、無菌室に入っています。母と姉の娘がそばについているのですが、母はもう年も年ですから……」と語るのは、岡村孝子(57)の実弟。4月22日、公式サイトで岡村が急性白血病のため長期治療に入ると発表されたのだ。彼女のインスタグラムには約1千件の激励や心配の声が寄せられているが、具体的な闘病の様子はまだ伝えられていない。そんななか、愛知県岡崎市に住む実弟が語ってくれた。現在は喜寿をすぎた母と21歳になる長女が、つきっきりで看病を続けているという。「あまりにも突然入院してしまったため、姉とはまだ話せていません。今回のことも、母から連絡があって知りました。もちろん私もすぐ駆けつけたいという思いです。しかし今はまだしっかりとした検査も終わっていない状況で……。それがわかってから具体的な治療方針が決まることになるので、行っても邪魔になってしまいます。だから『男手が必要なことがあったら、すぐに連絡して』と伝えています」岡村といえば、大学在学中に加藤晴子(56)とデュオ「あみん」を結成。1982年のデビュー曲『待つわ』がミリオンセラーを記録すると、同年の『NHK紅白歌合戦』に出場。一躍、時の人となった。翌83年に活動休止したが、85年にソロデビュー。87年にリリースした『夢をあきらめないで』をはじめ、数々の名曲を生み出してきた。だがプライベートは苦難の連続だった。97年には、プロ野球選手だった石井浩郎氏(54)と結婚。長女にも恵まれたが、03年に離婚した。以降は、女手ひとつで育児と仕事を続けてきた。また01年に実父がラブホテル経営に乗り出すも、失敗。15億円もの負債を背負うことに。さらに岡村も連帯保証人になっていたため、借金の返済に奔走することとなった。「岡村さんは岡崎市で135坪もの土地を購入し、両親に家を建ててあげていました。しかし事業失敗により、その“親孝行御殿”も差し押さえられることになったのです。それでも彼女はあきらめることなく、地道に借金を返し続けました。そして一度は手放すこととなった思い出の自宅を、06年になってもう一度買い戻したのです」(前出・スポーツ紙記者)そんな矢先、実父が肺がんのため08年に死去。75歳だった。葬儀では人目もはばからず涙する岡村の姿があったという。「その後、お母さんは東京で孝子ちゃんと暮らすことになりました。お母さんは、いつも孝子ちゃんを支えてきました。孝子ちゃんの子供がまだ小さいころは、代わりに育児をしてあげたりね。孝子ちゃんが海外レコーディングなどで1カ月ほど家を空けなくてはならなくなったときも、お母さんが家に住み込んで世話をしたりしていました」(母の知人)そうして、ようやく訪れた穏やかな日々。07年にあみんとしての活動を再開し、ソロとしても活躍。だがそんな彼女を、病魔が襲ったのだ。それを支えるのは、ほかでもない実母と娘だ。岡村の実弟がこう思いを明かす。「母は高齢の体を押して、病院へ通っています。ただ、かなり心労もたまっているようです。それに姉の娘もまだ学生ですから。でも今はただ『大変だと思うけど頑張って』と励ましています。そして姉にも、その言葉を伝えたいと思っています」
2019年05月01日4月22日、公式サイトで岡村孝子(57)が急性白血病のため長期治療に入ると発表された。闘病に伴い、6月から予定されていた6年ぶりのコンサートツアーの中止も決定。実は、彼女が数年前から準備を続けてきたイベントにも参加できなくなってしまったという。「全国植樹祭愛知県実行委員会」の樋口浩司さんは本誌にこう打ち明ける。「岡村さんは16年4月から『LOVEあいちサポーターズ あいち音楽大使』を務めています。そのご縁で、今年6月に愛知県森林公園で開催される『全国植樹祭』のイメージソング制作もお願いしたのです。新曲『と・も・に』は昨年5月に完成しており、岡村さんは当日の式典に参加して歌を披露する予定でした」6月2日の『全国植樹祭』式典は新天皇皇后両陛下にとって初めての地方ご公務であり、早くも注目を集めている。そして岡村は、新天皇と雅子さまの御前で歌うことを楽しみにしていたようだ。樋口さんが続ける。「ふだんのコンサートは夜の公演が多いのですが、式典は午前中に開催予定です。岡村さんは出演しているインターネットラジオ番組で『朝からしっかり声が出るかしら。今から生活を朝型に変えないと!』と話していたそうです……」雅子さまは63年生まれの55歳、岡村は62年生まれの57歳と同世代。雅子さまのご成婚が発表されたとき、30歳だった岡村は93年1月7日付の朝日新聞にこんな祝福のコメントも出している。《誠実でやさしそうな皇太子殿下と、外交分野でのキャリアを積んでいらっしゃる小和田さん。素晴らしいロイヤルカップルの誕生で、私までうれしくなってしまいます。日本をより適切にアピールして下さると信じています》さらに6月9日のご成婚の日にも、岡村は慶祝ソング『フォーエバー・ロマンス』を発表していた。当時から岡村を知る音楽関係者はこう語る。「お二人の永遠の愛を歌い上げたバラードで、日本テレビのロイヤルウエディング特別報道番組のテーマソングにもなりました。岡村さんは雅子さまをずっと尊敬しており、今回も雅子さまの前で歌う機会が与えられたことを本当に喜んでいたのです。それだけに白血病闘病のために辞退しなくてはならなくなったことはとてもつらかったでしょうね……」当日は晴れ舞台に立つことができなくなった岡村だが、撮影された彼女の映像が会場で流される予定だという。「式典まであと1カ月あまり。映像の準備など、私たちも慌ただしく対応を続けています。岡村さんが出演できなくなったことは本当に残念です。しかしお預かりしている楽曲を最大限に活用して、今回の植樹祭を成功させたいと思っています」(前出・樋口さん)これまで数々の苦難を乗り越えてきた岡村。雅子さまへ歌を捧げる夢をあきらめることなく、きっと再び元気な姿でステージに立ってくれるはずだ――。
2019年04月30日