陛下が即位された5月1日以降の行事には“フル出席”。ここまで、あふれる自信、堂々たる皇后ぶりで陛下をお支えになっている雅子さまだが、今後は立て続けに大きなご公務に臨まれる。5月22日には皇后となられて初の全国赤十字大会が、5月25日~28日には、国賓として来日するトランプ米大統領の接遇が予定されている。さらに6月1~2日には全国植樹祭ご出席のため愛知県へ。両陛下にとって初の地方行幸啓だ。「非常にハードなスケジュールですが、このところのご体調のよさからすると、雅子さまはすべてに出席されようとするのではないでしょうか」(前出・皇室担当記者)しかし、精神科医で立教大学教授の香山リカさんはこう語る。「まだ雅子さまはご療養中であり、回復の途中なのです。たしかに、家族の力になる経験はとても大切で、回復にも繋がります。ただ、すべてのご公務にそろって臨まれなくても、雅子さまの知識を生かしてアドバイスされることも、陛下の支えになるはずです。無理をされずにしっかりとお休みになることも大切です」陛下は今年2月の記者会見でこう述べられた。《雅子にはこれまで、私や愛子のことにもいろいろと良く心を配り、私の活動を支えてきてくれています。私も、できる限り力になり、雅子を支えていきたいと思っております》お二人が支え合っていかれるのが“令和流”の天皇皇后スタイル。26年にわたり培われた絆は、いっそう強くなっていくことだろう。
2019年05月17日5月1日、「即位後朝見の儀」に臨まれた陛下は、天皇として最初のお言葉を述べられた。《常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国および日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓います》そのとき、お言葉の書かれた紙を持つお手元が、映像で見てもわかるほど小刻みに震えていた。「59歳にして天皇となられる重みを、お感じになったのでしょう。お小さいころから帝王教育を受けてこられた陛下でも、想像をはるかに超えるプレッシャーがおありだったのかもしれません」(宮内庁関係者)その3日後、5月4日には令和初の一般参賀が皇居で行われた。参賀者の列は東京駅まで伸び、14万1千人が即位を祝福した。長和殿ベランダでの陛下は、傍らの雅子さまとにこやかに声を掛け合われ、高円宮妃久子さまや寛仁親王妃信子さまとも和やかにコミュニケーションをとられていた。朝見の儀とは一変して、とてもリラックスしたご様子だったのだ。陛下が心に余裕を持って一般参賀に臨まれたのは、雅子さまからの助言があったのではないかと話すのは皇室担当記者だ。「陛下は、天皇になるためのご努力を欠かすことはありませんでした。ご成婚後の26年間、そのお姿を最も近くで見つめ続けてきたのは、雅子さまです。ずっと研鑽を積まれてきたのですから、ご心配はいりません――。雅子さまは、そういったお言葉をかけられたかもしれません」それはまさに、緊張されていた陛下のお心をほぐした“親愛の助言”と言えるだろう。この日は、陛下が参賀者にお気遣いを見せる場面もあった。東京の最高気温は24.8度まで上がり、5月としてはかなり汗ばむ気候となっていた。すると5回目のお出ましから、陛下のお言葉の中に《暑い中、来ていただいたことに感謝いたします》という一文が加えられたのだ。そして、最後となる6回目のお出ましは午後3時からの予定だったのだが、急きょ10分間早められた。直前には雷鳴が轟いており、雲も厚くなってきていたのだ。「集まった参賀者の体調、安全を第一に気遣ったご対応でした。こうしたお気遣いも、両陛下がお二人でご相談されたことかもしれません」(前出・皇室担当記者)
2019年05月16日アカデミー賞受賞のオリヴィア・コールマン、レイチェル・ワイズ、エマ・ストーンの競演で贈る『女王陛下のお気に入り』。そのブルーレイ&DVDリリースに先駆け、豪華女優陣に負けず劣らずの装いを披露しているニコラス・ホルトに注目した特別映像がシネマカフェに到着した。豪華絢爛の英国王室に渦巻く、女性たちの愛と嫉妬、裏切り、野心を描いた本作。ニコラスが演じたのは、病気がちで気まぐれなアン女王(オリヴィア)に代わって権力をふるうレディ・サラ(レイチェル)と対立するロバート・ハーリー。国内経済のためフランスとの戦争には反対しており、戦争推進派のレディ・サラの動向を探るべく、又従兄妹であるアビゲイル(エマ)を利用しようとする横柄で傲慢な政治家だ。3人の女性たちに絡むキャラクターであり、出番も多めだが、劇場公開時から「TLがニコラスホルトでざわざわしっぱなし」と話題を呼んでいたのは、やりすぎともいえるハーリーのいでたち。「なんだこの愛着しかわかないビジュアルは?合格」「また白塗りになってる!!!!似合うな!!!」「ばっちり化粧でキメてるニコラスホルトが可愛くて可愛くて」「ニコラスホルトの『男は美しくなくては』がキいてました」「それにしてもニコラスホルトが可愛いかった」などなど、SNS上にはニコラスも強烈な印象を放っていたという声が続々とアップ、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』以来の白塗りメイクも注目を集めていた。白塗り+カツラ+ハイヒールのニコラス・ホルトは必見!今回の映像では、「18世紀の男性の装いは女性よりもはるかに派手だった」と語るヨルゴス・ランティモス監督や、本作の衣装デザインを担当しアカデミー賞にノミネートされたサンディ・パウエルほか、ニコラス本人らキャストたちもド派手な衣装やメイクについてコメント。188cmのニコラスが8センチヒールを履きこなし、白塗りメイクにカツラ、大げさなレースだらけの衣装を着けた姿を「最高だったわ」とエマが語れば、「まるでスーパーモデルよ」とレイチェル。「思わずとろけそうになった」と打ち明けている。『女王陛下のお気に入り』は5月24日(金)より2枚組ブルーレイ&DVDリリース、5月15日(水)より先行デジタル配信。(text:cinemacafe.net)■関連作品:女王陛下のお気に入り 2019年2月15日より全国にて公開(C)2018 Twentieth Century Fox
2019年05月10日オリヴィア・コールマンの第91回アカデミー賞主演女優賞受賞など、賞レースを賑わせた『女王陛下のお気に入り』が早くもリリース。5月15日(水)より先行デジタル配信、5月24日(金)より2枚組ブルーレイ&DVDが発売されることになった。18世紀初頭のイングランドの宮廷を舞台に、17人もの我が子を亡くした孤独な女王と、その寵愛を奪い合う女官と侍女を描いた禁断の歴史絵巻。気まぐれで孤独なアン女王を演じるのは、本作でアカデミー賞ほか各国の主演女優賞を総なめにしたオリヴィア・コールマン。人間の弱さと脆さ、そして愚かさを表す迫真の演技が世界を魅了した。また、没落した貴族で上流階級への返り咲きを狙う侍女アビゲイルを演じたのは、『ラ・ラ・ランド』でアカデミー賞を受賞したエマ・ストーン。本作で初のヌードシーンに挑んだ。さらに、女王の心を支配し絶大な権力を振るうレディ・サラに『ナイロビの蜂』でアカデミー賞を受賞したレイチェル・ワイズと、実力派が集結。三大アカデミー賞女優による火花散る演技合戦を、ぜひ目撃して。(text:cinemacafe.net)■関連作品:女王陛下のお気に入り 2019年2月15日より全国にて公開(C)2018 Twentieth Century Fox
2019年05月10日ハーバード大学卒、元外務省職員――と、輝かしい経歴をお持ちの新皇后陛下、雅子さま。その背景には、多感な幼少期を世界各地で過ごされたご経験があった――。父・小和田恒さん(86)は外交官。そのため、雅子さまは1才8カ月のときにはモスクワに移住。4才のときにニューヨークへと引っ越された。現地では、すぐにロシア語や英語をマスターされるなど、語学的な才能を発揮された。明るいご性格でお友達にも恵まれ、日本、米国で学ばれた中学高校時代は、ソフトボールに熱中。成績も大変優秀で、ベルモントハイスクール時代のニックネームは“頭脳”を意味する「ブレイン」だった。一方、中学の卒業文集では夏目雅子さん(享年・27)をもじって「芸名・脱目雅子」と自己紹介するお茶目な一面も。好きな曲は「浪曲、民ようならなんでも!自分で三味線を弾きながら歌うのが最高ヨ!」とも書かれていた。ハーバード大学進学後も、寮のパーティでマイケル・ジャクソンの曲に合わせディスコダンスを披露されるなど、学生生活を謳歌された。真面目なストイックさと、お茶目な一面を持たれる雅子さま。皇后となられた今、国際親善の場で、そのお人柄がより輝かれるに違いない――。
2019年05月07日苦悩の日々を乗り越え、新皇后となる日を迎えられる雅子さま。宮内庁関係者は、新時代に臨まれるお気持ちは明るいと断言する。「26年前、外務省職員から皇太子妃へ“転身”された雅子さまは、新たなステージで国際親善に取り組むことに大きな使命感を感じていらっしゃいました。最近の雅子さまからは、ご成婚当時と同じくらいポジティブなお気持ちが感じられます。もともと雅子さまは、一度目標を定めると、実現のために努力を惜しまない方。すでに新時代の皇室に向けて思い描いている目標もいくつかお持ちのようです。それを一言で言い表すなら“愛される皇后”を目指すことだと言えるでしょう」この15年あまりはご療養のために公務を休まざるをえず、雅子さま本来の人間性が発揮される場面はあまりなかった。しかし、皇室担当記者はこう説明する。「実は雅子さまはお話し好きでユーモアもお持ちなのです。海外生活が長く語学も堪能でいらっしゃいますから、ご成婚直後に臨まれた宮中晩餐会では、フランス語、英語、ドイツ語を駆使して招待客に話しかけられて海外マスコミの注目も集めました」皇太子さまも一昨年、マレーシアの首相とセルフィー(自撮り)を撮影されるなど、フランクな一面をお見せになっている。「かねてから皇太子さまは会見で、理想の皇室像を“国民の中に入っていく皇室”と表現されていました。天皇皇后両陛下が平成を通じて示された“国民と共にある皇室”よりもさらに一歩国民に近づき、多くの声を聞きたいという思いが感じられます。国民に親しまれ、愛される天皇皇后像へ――。その目標はご夫妻で話し合われたものでしょう」(皇室担当記者)雅子さまの目標とする“愛される皇后”への思いの根底には、ご自身が苦しまれた経験があると、精神科医で立教大学教授の香山リカさんは語る。「ご出産と子育てで悩まれ、適応障害で長期療養されてきた経験があるからこそ、災害の被災者や障害のある方など様々な立場の人々の苦難にも深く共感できるはずです。そういった方々にお会いになることで、社会問題に光を当て国民の関心を生むことも、皇后として大切なお務めだと思います」
2019年04月30日4月18日、天皇皇后両陛下が伊勢神宮を訪れ、ご退位に向けた儀式「親謁の儀」に臨まれた。親謁の儀を終えられた両陛下は18日の夜、志摩観光ホテル・ザ・クラシックにご宿泊。両陛下は清子さんや伊勢神宮の関係者をお招きになり、夕食をともにされた。「今年の4月18日は、清子さんの50歳の誕生日でした。そして60年前の4月18日は、ご成婚8日目の両陛下が伊勢神宮に結婚のご報告をされた日。そんな由縁のある日、夕食後も清子さんはホテルに残って、両陛下と一緒に泊まったそうです。親子ご一緒に旅先でお泊りになるのは、御用邸や軽井沢でのご静養に清子さんが合流することを除けば、清子さんが結婚してから初めてのこと。14年前の’05年8月に長野県・山梨県を訪れて以来です。退位を前に久しぶりに娘と一夜をともにされて、両陛下にとっても感慨深かったことでしょう」(宮内庁関係者)また伊勢神宮は41年前の’78年11月、美智子さまと当時9歳の清子さんが2人旅で訪れた思い出の場所でもある。「そのときは老舗の旅館にお泊りになりました。8畳の和室にお布団を2つ並べてお休みになったそうです。東宮御所には和室がなく、普段はベッドで眠っていた清子さんは興味津々だったそうです」(前出・宮内庁関係者)旅館では、伊勢神宮ご参拝のリハーサルも行われた。仲居さんたちを下がらせて、お座敷でお辞儀の作法などを、美智子さまがマンツーマンで細かくお教えになったという。皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんが当時を懐かしむ。「美智子さまは、清子さんが学習院の初等科に進学してから、皇室に縁のある神社や陵墓などをめぐる“母娘旅”を10年間にわたって続けられました。それは皇族としての教育であると同時に、いつの日か皇族の身分を離れる清子さんとの思い出作りだったのではないでしょうか」清子さんが幼いころから、いずれ皇室を離れることを覚悟されていた美智子さまは、そうして母娘の時間を大切にされ、宮中の外の世界についてお教えになっていた。そして、美智子さまの愛情に包まれて育った清子さんは、’92年、学習院大学を卒業するにあたっての記者会見でこう述べた。《たくさんの公務をお果たしになりながら、いつも温かく見守って育ててくださいました皇后さまが、やはり理想の、理想という言葉は少しきついかもしれませんけれど、そのような女性になれたらと思います》親子水入らずで過ごされた伊勢の夜、美智子さまが清子さんと語り合ったのは「追憶と労い」、そして「令和の願い」……。「陛下が退位されると、皇后としてのお務めを終えられる美智子さまも今までより余裕のある生活をお送りになられるでしょう。これまではお控えになってきた“母娘旅行”も、きっとまた実現するはずです。その日を待ちわびていると、美智子さまもお伝えになったことでしょう」(渡邉さん)また、母娘一緒に――。美智子さまが訴えられた「願い」に、清子さんも笑顔で頷かれたはずだ。
2019年04月26日「平成の御代は、現在の天皇皇后陛下による日々の祈りのおかげで、この国を守る“結界”が各所に張られていると私は感じていました。けれど、御代替わりによって一時的にこの結界が揺らぐ可能性があります。新たな御代が安定するまでは、悪しき力が渦巻きやすく、怪しい誘いも発生しやすいので、注意が必要です」新たな御代・令和を目前に、こう警鐘を鳴らすのは、霊視カウンセラーとして活躍中の尚さん。今、日本人にとって大切なのは、一人ひとりが本来の目的に向かってブレずに生きることだと続ける。「今こそ魂が求めるもの、自分にとって真に必要なものは何かを見極める力を持つべきです」しかし、建て前ばかりのご時世、自分が何を欲しているのかさえ見失いがちなのが現実だ。そこで、尚さんが注目するのが、欲望のままにわが道を突き進む天才、安田大サーカス・クロちゃん(42)。言わずもがなのクズっぷりで一挙手一投足が炎上のネタになるクロちゃんだが、「実は彼の持つ“邪な力”こそが新時代を生きるエネルギーになる」と尚さんは霊視する。ということで、さっそくこの話をクロちゃんにぶつけてみた。「霊視カウンセラー?実は僕、叔母が病気などで悩む人を祈祷で治癒させることを生業としていましたから、いつも霊の存在を身近に感じているんです。だからその話、すごくわかりますね」そうサラリと語るクロちゃんのブレないものとは。「僕は何をするにも『トクするかどうか』が判断基準。そう考えれば、どんな困難も乗り越えられると思いますよ。たとえば、いま僕がツイッターで一言つぶやくと100~200の罵詈雑言が跳ね返ってくる。友人たちからは「よく耐えられるね」って同情されるけど、嫌なことを言われたら、正面からではなく、角度を変えて受け止めればいいんです。だって、正面から受け止めると、正面衝突で大事故になるじゃないですか。それは大いなるソン。でも、起こる物事にはすべて裏表があるのだから、自分にとって都合の悪いことを言われたら、トクするほうへ転がせばいい。炎上だって『こんなアドバイスもあるのか。気づけてよかった』と感謝すればいいんです」子どものころから「受け止める角度を変えるのはうまかった」というクロちゃん。「というか、ごまかすことは得意でしたね。母親の『50万円貯まる貯金箱』からこっそり500円玉を抜きとって、1円玉や5円玉に替えておく。バレそうになったら『僕じゃない、妹!』ってなすりつける。心の中で『盗んだんじゃない。取り替えたんだ』って角度を変えると、100の罪悪感が30くらいになるんです。要するに大切なのは、どんなことが起きても、そのベクトルを自分のトクする方向に向けること。これ、僕的には「ベクトルを変える」って言ってるんですけど、これが上手にできるようになれば、迷いもなくなると思いますよ」クロちゃんの話のなかで印象的だった「ベクトルを変える」という言葉。実は、尚さんも同様に“魂のベクトル”の向きを意識しながら霊視カウンセリングを行っているそう。「誰しも生きていると、あれこれ批判されたり忠告されたり、さまざまな方向から雑音が聞こえてきます。でも、自分と合わない意見にまで耳を傾けていると魂レベルで疲弊してしまいます。ですから、魂のベクトルをプラスの方向に向けるために、ときには“スルー”したり、“自己中”になったりするのはとても大切なことです。ただし、相手がいるときは思いやりは大切にしてください」他人からの忠告は、しょせん他人の視点からのもの。腑に落ちれば参考にすればいいし、的外れだと感じたらスルーすればいいという尚さん。「無理に迎合すると、自分の魂のレベルで望んでいる生き方ができなくなってしまいます。そういった意味では、私もクロちゃんと同じように、自分が本当に望んでいるものを見極めつつ生きることを大事にしています」また、クロちゃんが「トクするかどうか」で物事を判断することについてはこう分析する。「興味深いのは『自分にとって都合が悪いことが起きたら、受け止める角度を変える』という話。彼がトクだと言っていることは、金銭的な打算ではなく、精神的な打算を基準として判断しているといえます。このときのトクは、実は魂のレベルでは“徳を積む”ほうのトクを意味してもいるんです。これはご自身でも気づいていないかもしれませんが」終始、クロちゃんへの深い理解を示す尚さん。「人はそれぞれ生まれる前から、現世での役目や目標が決まっています。当然、進む道も人それぞれ違うので、他人に惑わされず、自分を信じることが必要です」
2019年04月21日新元号「令和」も決定し、天皇陛下が退位される4月30日まで2週間あまりとなった。退位後の約1年半は品川区の高輪皇族邸に仮住まいされることになっている。高輪皇族邸は’73年に高松宮邸として建てられた。鉄筋コンクリート造りの地下1階、地上1階建て。高松宮妃喜久子さまが’04年に亡くなられるまで住まわれていたが、その後は空き家になっていた。「仮住まいの期間に、現在は皇太子ご夫妻がお住まいになっている赤坂御用地の東宮御所が改修されます。両陛下は’20年末までにその東宮御所に引っ越しされる予定です。改修後の東宮御所は、退位した天皇の住居として『仙洞御所』と改称されます」(宮内庁関係者)高輪皇族邸では改修工事が進むが、両陛下は「リフォームは最小限に」と希望されていた。「両陛下はできるだけ現状のままお住まいになりたいとおっしゃったそうです。国民の負担を極力少なくしたいというお考えなのでしょう。計画されていた運動場や陛下の魚類研究施設も、両陛下のご意向で取りやめになりました」(皇室ジャーナリスト・山下晋司さん)両陛下は引っ越されてから、運動のために皇居の多目的ホールに通われる予定だという。高輪皇族邸は高いビルに囲まれた土地なので、目隠しのための植林が進められている。ほかに邸内の空調設備の取り換えや屋根の防水などが主な改修工事だ。当初約8億4千万円だった予算は、5億円台半ばまで縮小された。「ご退位までお忙しい日々が続きますが、両陛下はお時間を見つけられては私物を確認されているそうです」(宮内庁関係者)皇居からのお引っ越しは大規模なものになるようだ。両陛下の前回のお引っ越しは’93年12月。赤坂御所(現在の東宮御所)から吹上御苑に新築された御所に移り住まれたが、その際に運び出された荷物は2トントラック延べ約100台分。引っ越し全体の予算は約4千万円だった。「陛下のご研究関係の資料や両陛下の蔵書、ご家族の思い出の品など、かなりの量になるはずです。最終的なお住まいとなる現在の東宮御所に倉庫が新設されます。そちらに直接運び込むもの、仮住まいの高輪皇族邸に運び込むもの、この仕分けなどもされているでしょう」(山下さん)
2019年04月13日「私が『陛下と私は、ほぼ同い年ですなあ』とお話しすると、陛下のお顔がほころんで『やあ、そうですねえ』とお答えになりました」そう語るのは、京都仏教会代表理事で、相国寺や金閣寺の住職も務める有馬頼底さん(86)。天皇皇后両陛下は3月25日から京都・奈良を訪問された。その初日、両陛下が近畿地方の首長やゆかりの人々などを京都御所にお招きになり、茶会が開かれた。そこに有馬さんも出席したのだ。お二人の出会いは80年以上も前に遡る。幼稚園に入って2年目の有馬さんが、翌年から入園される陛下(当時は皇太子殿下)の遊び相手8人のうちの1人に選ばれた。月に1~2回、朝から教師に引率されて東宮御所へと向かったという。「御所の庭でもらったビスケットを食べながら待っていると、小柄な陛下が三輪車に乗ってお見えになるのです。陛下と一緒に泥だらけになってブランコや砂場で遊んだものでした。取っ組み合って相撲を取ったのもよく覚えています。帰り道、友人に『お前、東宮さまを殴っただろう』と言われて、『相撲で投げ飛ばしただけだ』と口論になりました。すると先生が『お相撲の勝負だから仕方がないだろう』と仲裁に入ってくれました。今ではいい思い出です」茶会では、有馬さんが金閣寺の住職を兼任していることを伝えると、陛下は「焼ける前の金閣寺を拝見しております」とおっしゃったという。「私は『退位なされたら、ぜひ、修復した金閣にもおいでください』とお誘いしました。さらに『ご退位後は自由になられるのですから、ご先祖様のいらっしゃる京都に1年の半分くらいでも、お住みになってはいかがですか』とご提案させていただくと、陛下はやっぱり『そうですねえ』と笑顔でうなずかれていました」有馬さんは昨年の9月、日仏友好160周年の記念行事に出席するためフランスを公式訪問された皇太子さまにも同行した。「相国寺にある承天閣美術館所蔵の寺宝を出展した関係で、案内役の一人を務めました。エッフェル塔の点灯式では、皇太子殿下がボタンを押すことになっていました。しかし、トラブルで1時間以上も待たされることになったのです。関係者はヤキモキしていたのですが、殿下は焦ることなく、むしろ周囲に笑顔で話しかけ、場をなごませていらっしゃいました。しかもそのあとのスピーチでは流暢なフランス語も披露されました。フランスでの立ち居振舞いを拝見して、御代替わりとなっても、この方が即位なされば皇室は安泰だと思いました」
2019年04月02日2月23日、皇太子さまは59歳の誕生日を迎えられた。会見のなかで記者からは、新皇后となられる雅子さまについて「どういった内容でご公務、ご活動をされていってほしいとお考えでしょうか」と質問があった。しかし皇太子さまは、《今具体的にどういうものかということは、お答えできないのですけれども》と、明確な言及を避けられた。2月25、26日には天皇陛下のご即位30年を祝う茶会が開催されたが、雅子さまは欠席された。精神科医で立教大学教授の香山リカさんはこう語る。「いよいよ皇太子さまのご即位が近づき、雅子さまにとって『皇后』という言葉は大きなプレッシャーとなっているのかもしれません。一般の方ならば、適応障害であったとしてもリワーク(慣らし出勤)という形で段階的に仕事復帰ができます。しかし皇后になられる雅子さまは、一夜にしてお立場が変わってしまいます。皇太子さまはご即位後に、国際的に活躍される皇后・雅子さまを実現するためにも、今は雅子さまのプレッシャーになるようなご言動は避けられていると思います」今回は皇太子さまにとって、平成最後の会見だった。「宮内記者会は再三にわたり『雅子さまのご同席』を要望したのですが、実現しませんでした。雅子さまの記者会見は、ご病気になられて以来15年間、一度も行われていません。昨年6月の皇太子ご夫妻の銀婚式や、12月の雅子さまの誕生日にも会見を要請しましたが、宮内庁は聞き入れませんでした。お代替わりまで雅子さまの会見は“お預け”となってしまいました」(皇室担当記者)さらに前出の皇室担当記者は、愛子さまの近況を心配する。「この4月から学習院女子高等科の3年生になられる愛子さまですが、最近は学校をお休みがちなのです。愛子さまの体調不良も、雅子さまにとって不安要素になっているはずです」お代替わりとなる5月には、さっそくいくつもの重責が雅子さまを待っている。「宮内庁は、皇太子さまのご即位から数日以内に一般参賀を開催することを検討しています。新天皇皇后両陛下が国民の前に姿を見せられる初めての機会となるため、雅子さまが欠席されるわけにはいきません」(前出・皇室担当記者)2月22日午後には、安倍首相が東宮御所を訪問。お代替わりのスケジュールとともに国内外の情勢について報告したという。「首相が皇太子さまに直接説明するのは極めて異例です。安倍首相は5月26~28日の日程で調整が進んでいるトランプ米大統領の訪日についても報告したはずです。新天皇皇后にとっては外国首脳との初会談。しかも国賓待遇ですので宮中晩餐会も催されることになります。その様子は世界中に報道されるでしょうから、新天皇皇后の国際的な“お披露目”になるでしょう。雅子さまの語学力や外交的な知見が大統領相手にいかんなく発揮されれば、今後の『新しいご公務』への道も一気に拓けるかもしれません」(前出・皇室ジャーナリスト)新皇后となられるまであと2カ月。雅子さまは皇太子さまとともに、この重圧をはねのけることもできるはずだ――。
2019年03月01日《両陛下がなさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、あるいは共に悲しみながら、象徴としての務めを果たしてまいりたいと思います》2月21日、皇太子さまが23日の誕生日を前に記者会見を開かれ、ご即位への決意を語られた。東宮侍従や式部副長を務め、皇太子さまを古くから知る竹元正美さん(73)も感慨深げだ。「59歳でのご即位で、すでに多くの経験を積み重ねてこられたにもかかわらず、何度も“自己研鑽”というお言葉をお使いになりました。皇太子殿下の謙虚で慎み深いお人柄がにじみ出た会見だったと思います」会見のなかで記者からは、新皇后となられる雅子さまについて「どういった内容でご公務、ご活動をされていってほしいとお考えでしょうか」と質問があった。しかし皇太子さまは《今具体的にどういうものかということは、お答えできないのですけれども》と、明確な言及を避けられた。皇室担当記者は言う。「皇太子さまは雅子さまに『外交官として働くのも、皇室の一員になるのも、国のために働くという意味では同じではないですか』とプロポーズされたといいます。ところが、皇室に入られた雅子さまを待っていたのは『早くお世継ぎを』という声。’01年に待望の第一子となる愛子さまがお生まれになっても『次は男子を』というさらなる重圧が雅子さまを苦しめ、海外訪問は制限され続けました。雅子さまが外交官としてのキャリアを活かす場面はほとんどなかったのです」そして雅子さまは’03年12月に帯状疱疹で緊急入院。翌年、適応障害と診断される。「皇太子さまはそのころから、雅子さまのキャリアを活かせる『時代に即した新しい公務』の必要性を訴えてこられましたが、いまだに形にはなっていません。それゆえお代替わりを約2カ月後に控えての今回の会見では、新皇后のご公務について、皇太子さまからの踏み込んだご発言が期待されていたのですが……」(前出・皇室担当記者)昨年12月9日、55歳のお誕生日に発表されたご感想で雅子さまは《内戦や紛争の影響が、特に子供を始めとする弱い立場の人々に大きく及んでいる現状を深く憂慮しております》と綴られている。ユニセフ事務局長や国連難民高等弁務官の名前も挙げながら、世界の子供たちの貧困や難民の状況について具体的に述べられていたのだ。「いっぽうで会見での皇太子さまのおっしゃりようを聞くと、このところご回復傾向にあった雅子さまですが、現在はまだご公務やご活動について具体的な目標を明らかにできる段階ではないように感じられます」(皇室ジャーナリスト)2月25、26日には天皇陛下のご即位30年を祝う宮中茶会が開かれたが、雅子さまは欠席された。心配される雅子さまのご体調。26年前のプロポーズにこめられた“約束”の実現も難しい状況なのだろうか――。
2019年03月01日2月24日、歌手の三浦大知(31)が「天皇陛下御在位三十年記念式典」で、天皇陛下がご作詞、皇后陛下がご作曲された『歌声の響き』を歌唱し、話題となっている。午後2時より東京・国立劇場で行わた式典で、沖縄出身である三浦は『歌声の響き』を記念演奏として披露。同曲は沖縄周辺の島々に伝わる八・八・八・六の音数律をもつ定型詩である琉歌で、天皇陛下が1975年に初めて沖縄を訪れ、名護市のハンセン病療養所を訪問したことがきっかけで詠んだ歌だという。同式典は、NHK総合、テレビ朝日、またインターネットで生中継が行われ、三浦の歌唱が終わるとネットでは大反響。TwitterやYahoo!のトレンドランキングに「三浦大知」「大地くん」がランクインした。ネットは「歌声も演奏も素晴らしかったです。もぅ…言葉にならない」「正座して聴きました。感動!鳥肌立ちました!式典の雰囲気を崩さずに、尚且つ三浦大知のスタイルも崩さずに、本当に人間性が滲み出ててた。日本の宝です」「素晴らしい歌唱感動を有り難うございました同じ時代に生まれて良かったぁ」と三浦の歌声に称賛の声が殺到している。
2019年02月24日三浦大知(31)が2月24日に東京・千代田区の国立劇場で開かれる「天皇陛下在位30年記念式典」にて、記念演奏すると発表された。三浦の国民的行事への参加に、ネットでは大きな反響を呼んでいる。各メディアによると今回三浦は、「歌声の響」を披露。天皇陛下が沖縄訪問時の思いを込めて作詞され、皇后陛下が作曲された楽曲だという。Twitterではファンからの驚きとともに、喜びの声が上がっている。《沖縄県出身の、MJに憧れて歌いはじめ、踊りはじめた小さな少年は、青年になってとうとう天皇陛下、皇后陛下の作られた楽曲を御本人達の前で歌い、舞い踊る事になりましたとさ。いや、すげえや》《天皇皇后両陛下はきっと、三浦大知くんの歌声が国民の心を少しでも和やかにしてくれるだろう、って。そんな風にお考えになっているんじゃないかと想像して今夜は眠りたいです》《驚きすぎて気持ちが成層圏を突破している》三浦は97年にパフォーマンスグループ・Folderのメンバーとしてデビュー。9歳にしてメインボーカルを務めていた。「当時から、その歌声はMISIAさん(40)といった数々の大物ミュージシャンから認められていました。ソロに転向してからも着実にステップアップし、17年には紅白歌合戦に初出場。昨年も出場し、30人のダンサーを引き連れたパフォーマンスで多くの視聴者を魅了しました。昨年12月にリリースした楽曲『Blizzard』のMVが、YouTubeで1,000万回再生を突破したばかり。そのタイミングでの今回の発表に、ファンは喜びもひとしおのようです」(音楽関係者)そのキャリアは20年以上。三浦はついに、国民的歌手としての階段を登りつめたようだ。
2019年01月17日第76回ゴールデン・グローブ賞主演女優賞(オリヴィア・コールマン)に続いて、英国アカデミー賞では最多12ノミネートを果たした『女王陛下のお気に入り』。この度、本作に登場する3人の女たち、オリヴィア、レイチェル・ワイズ、エマ・ストーンとヨルゴス・ランティモス監督が語る特別映像が到着した。『ロブスター』『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』など、クセがスゴすぎる作風で知られるランティモス監督の最新作として映画賞レースを席巻中、アカデミー賞主要部門のノミネートも確実な本作。今回の特別映像では、宮廷を舞台にした女たちの愛と権力を巡る複雑でハチャメチャな関係性が、ランティモス監督と彼が信頼を寄せる実力派三女優のインタビューと共に紹介されていく。監督が「3人の女性全員を主人公にするアイデアに興味をそそられた」「3人とも複雑なキャラクターに仕上げた」と見どころを説明すると、アン女王役のオリヴィアも「どうなるか最後までわからない」と明かし、「3人の関係の描き方がとても斬新よ。すばらしいストーリーだわ」と大絶賛を贈る。「特定の悪役も、被害者もいない。悪役と被害者がコロコロ変わっていく」と監督も言うように、エマ演じる没落貴族の娘アビゲイルも単なる“被害者”ではない。「誰もが欠点だらけで滑稽だけど、一筋縄ではいかない。全員が自分なりの理由で動いている」とエマ。「パワーバランスと支配権を巡る争い」と語るレイチェルも、そんなアビゲイルは「レディ・サラにとってはただの泥棒猫よ」とピシャリ!彼女たちの辛辣な発言とともに、美しい宮廷でのドロ沼な“攻防”も映し出され、見逃せない映像となっている。『女王陛下のお気に入り』は2月15日(金)より全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:女王陛下のお気に入り 2019年2月15日より全国にて公開(C)2018 Twentieth Century Fox
2019年01月10日1958年11月、美智子さまが皇太子妃に選ばれたことが報じられ、日本中に巻き起こった“ミッチー・ブーム”。そのさなかに創刊された『女性自身』だが、本誌は天皇陛下の独身時代についても、貴重な証言をスクープしていた。天皇陛下の独身時代のエピソードとしてひときわ有名なのが、学習院高等科のご学友2人との“銀ブラ事件”だ。「銀座の夜に消えた皇太子と4時間」(68年2月26日号)では、銀ブラに同行した千家崇彦氏(故人)と橋本明氏(故人)が登場している。高等科卒業を目前にした1952年2月、天皇陛下はこうおっしゃったという。「大学に入るといろいろむずかしいと思う。ボクは立太子式後はますます公的行事に時間をとられて身動きできなくなる。いまがいちばんのチャンスだと思うんだよ」数カ月後に正式に皇太子と認められる立太子式を控える陛下には、並々ならぬ決意があったのだ。学習院の寮を抜け出した3人は目白駅から満員の山手線に乗車。新橋駅で降りて銀座の喫茶店に向かう道のり、陛下はこのようなご様子だったという。《殿下の足どりはゆっくり落ちついていたが、軽やかだった。殿下は手放しの喜びようだった》喫茶店では《殿下は運ばれてきたコーヒーを実にうまそうに飲んだ》という。新橋駅に戻る前に刑事に見つかってしまった3人。その後、橋本氏と千家氏は侍従たちから激しい叱責を受けたそうだ。(『女性自身』皇室SPECIAL増刊 )【創刊60周年記念「女性自身」皇室SPECIAL増刊】ご婚約から60年 美智子さまその輝きは時代を超えて――2018年12月25日(火)発売特別定価 500円(税込)
2018年12月31日天皇皇后両陛下(昭和の皇太子殿下と正田美智子さん)が結婚されたのは、’59年4月10日。“民間からの初のお輿入れ”は、大きな注目を集め、日本中に「ミッチー・ブーム」が巻き起こる。’58年創刊『女性自身』でも、多くの読者の要望に応える形で皇室記事が増えていった。あれから60年。両陛下と共に歩んだ本誌が伝えてきた“変わりゆく皇室”とは何だったのか。そして未来は--。元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司さん(62)と本誌皇室担当、近重幸哉記者(57)が語り合った。近重「’89年1月7日、昭和天皇が崩御されたとき、山下さんは宮内庁の報道担当。昭和から平成へのお代替わりは、どのようなものだったのでしょうか」山下「1年間は昭和天皇の喪中ですから、おめでたいという雰囲気はありません。1月7日の『皇位継承の儀式』も喪装で執り行われました。’19年5月1日は、男性は燕尾服の正装ですかね。とくに忙しかったのは、新天皇が内外に即位を宣明される『即位礼正殿の儀』などが行われた’90年11月。ほかに『祝賀御列の儀』(オープンカーでのパレード)、『饗宴の儀』(「即位礼正殿の儀」に参列した各国の賓客などを招いた祝宴)が4日間で7回、一般参賀、園遊会、そして、同じ月に『大嘗祭』『大饗の儀』まで。宮内庁で勤務した23年間の中でもっとも忙しい期間でした」「大嘗祭」とは、天皇が即位の礼後に初めて行う、一世一度の新嘗祭(収穫祭)のこと。11月、秋篠宮さまがお誕生日に際しての記者会見で、大嘗祭について《宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか》と発言された。近重「戦後の憲法下でのお代替わりですから『政教分離原則』については、再び注目されるでしょう」山下「はい。国事行為か皇室行事かなどの線引きが難しいですね」近重「秋篠宮さまのご意見は、大嘗祭は宗教色の強い行事なので、両陛下、皇太子ご一家の私的な予算である『内廷会計』から支出するべきだというものでした」山下「新天皇が即位当日に行う『剣璽等承継の儀』という国事行為がありますが、実はこれは平成へのお代替わりのときに“新たに作った”名称です。本来は『剣璽渡御の儀』(剣と璽が新帝の下に自らお渡りになるという意味)です。宗教色を排除するために本来の儀式の名称を変えたらしいのですが、国事行為ではなく皇室行事にしておけば、変更しなくてもよかったのに、残念です」近重「あまり“建て前”にこだわるのはどうかということですね」山下「たとえば元号。元号は政令ですから閣議で決めます。国民に知らされるまでの流れを見ると、天皇が初めて新元号を目にするのは閣議で決定した元号の政令書に署名されるときです。天皇と元号の関係から考えれば、これはあまりにも失礼なことです」近重「皇室の伝統行事は、陛下の“お気持ち”を忖度しながら進めるべき--秋篠宮さまは、そこを含ませて発言されていたと思います。皇族減少問題をずっと先送りにしている政府ですから、不信感をお持ちなのでしょうか」山下「それはわかりませんが、皇位継承や女性宮家の議論が表立って始まったのは’05年、小泉内閣のときです。それから14年経過しますが、何も変わっていません。今のままですと将来、皇室は悠仁親王殿下のご家族だけになります」近重「ただ残念なことに、眞子さまと小室圭さんの“結婚延期”の影響か、世論調査では女性宮家設立の『賛成票』は減り始めています。やはり、伊勢神宮の祭主となった黒田清子さんのように、一度皇籍を離れた方たちにも協力してもらうことも考えなければ」山下「女性皇族が結婚後も皇室にとどまるとなった場合、結婚は今のように私的ではなく、国が関与する公的な扱いになるでしょう。高円宮家の三女で10月に結婚された守谷絢子さんは、皇族として務めていた名誉総裁職を結婚後も続けるというご意向です。皇室で生まれ育った方は一般国民になっても特別な目で見られますので、そのまま続けられても違和感はないでしょう。『皇室の公務』と位置付けたほうがいいと思いますが」近重「そうして『皇族の存在意義』は少しずつ変化していくわけですが、最も重要なのは、次の御代に新天皇と新皇后がどのようなスタイルを築かれるのかということ」山下「皇室には千年以上続く儀式や伝統もあります。それらを大切にしつつも、時代に合わせた活動もしていただきたいですね」近重「特例法につながった陛下のお言葉、秋篠宮さまのご発言など、今後は“皇室からの発信”が重要な転機になっていくと思います。これまで美智子さまが話されたお言葉も、非常に影響力がありましたが、雅子さまの『世界に対する発信力』にも期待したい。国際親善の舞台では独特の“存在感”をお持ちの方ですから」山下「宮内庁がホームページで情報を発信するようになって約20年です。将来、天皇皇后両陛下や皇族殿下方が自らSNSなどを使って、お言葉や情報を発信されるようになるかもしれませんね」
2018年12月31日天皇皇后両陛下(昭和の皇太子殿下と正田美智子さん)が結婚されたのは、’59年4月10日。“民間からの初のお輿入れ”は、大きな注目を集め、日本中に「ミッチー・ブーム」が巻き起こる。’58年創刊『女性自身』でも、多くの読者の要望に応える形で皇室記事が増えていった。あれから60年。両陛下と共に歩んだ本誌が伝えてきた“変わりゆく皇室”とは何だったのか。元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司さん(62)と本誌皇室担当、近重幸哉記者(57)が語り合った。近重「新憲法下でのご成婚となった両陛下ですが、今回のお代替わりの経緯も含め、これまで数々の皇室の“変革”がありました。元宮内庁職員として、印象的だったものをお聞かせください」山下「両陛下は一般社会と同様に“家族ご一緒の生活”をされてきました。それが、国民が皇室に親近感を持つようになった、ひとつの要因になったのでしょうね」近重「確かに、美智子さまのファッションだけでなく、お子様方の育児方法や食卓メニューまでこと細かに報道されました。皇太子ご一家は、戦後の経済成長期にあって“憧れの家族像”でしたから」山下「東宮御所に『ご自分で料理をするための台所』を作られるなど、一般家庭も目指せるような、“幸せムード”がありましたね」近重「雲の上の存在から『開かれた皇室』に大きく舵を切られた」山下「ただ、それらは『昭和天皇のご理解があればこそ』だということを忘れてはいけません。昭和天皇は今上陛下が3歳のときから離れて暮らされたため、寂しい思いをされました。家族は一緒に暮らすべきという考えをお持ちでも、時代が許してくれなかったのです。晩年、昭和天皇は『(自分はできなかったけれど)東宮ちゃんができているからいい』とおっしゃっていました」近重「’89年1月7日、昭和天皇が崩御されたとき、山下さんは宮内庁の報道担当。昭和から平成へのお代替わりは、どのようなものだったのでしょうか」山下「1年間は昭和天皇の喪中ですから、おめでたいという雰囲気はありません。1月7日の『皇位継承の儀式』も喪装で執り行われました。’19年5月1日は、男性は燕尾服の正装ですかね。とくに忙しかったのは、新天皇が内外に即位を宣明される『即位礼正殿の儀』などが行われた’90年11月。ほかに『祝賀御列の儀』(オープンカーでのパレード)、『饗宴の儀』(「即位礼正殿の儀」に参列した各国の賓客などを招いた祝宴)が4日間で7回、一般参賀、園遊会、そして、同じ月に『大嘗祭』『大饗の儀』まで。宮内庁で勤務した23年間の中でもっとも忙しい期間でした」「大嘗祭」とは、天皇が即位の礼後に初めて行う、一世一度の新嘗祭(収穫祭)のこと。11月、秋篠宮さまがお誕生日に際しての記者会見で、大嘗祭について《宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか》と発言された。近重「戦後の憲法下でのお代替わりですから『政教分離原則』については、再び注目されるでしょう」山下「はい。国事行為か皇室行事かなどの線引きが難しいですね」近重「秋篠宮さまのご意見は、大嘗祭は宗教色の強い行事なので、両陛下、皇太子ご一家の私的な予算である『内廷会計』から支出するべきだというものでした」山下「新天皇が即位当日に行う『剣璽等承継の儀』という国事行為がありますが、実はこれは平成へのお代替わりのときに“新たに作った”名称です。本来は『剣璽渡御の儀』(剣と璽が新帝の下に自らお渡りになるという意味)です。宗教色を排除するために本来の儀式の名称を変えたらしいのですが、国事行為ではなく皇室行事にしておけば、変更しなくてもよかったのに、残念です」近重「あまり“建て前”にこだわるのはどうかということですね」
2018年12月30日《両陛下のお導きを仰ぎつつ、少しでも皇太子殿下のお力になれますよう、そして国民の幸せのために力を尽くしていくことができますよう、研鑽を積みながら努めてまいりたいと思っております》12月9日に55歳の誕生日を迎えられた雅子さま。皇后となられる日を5カ月後に控え、文書の中で決意を述べられた。雅子さまは’03年の12月4日、40歳の誕生日会見直前に体調を崩され入院。長年にわたり療養を続けられてきた。しかし今年は5月に全国赤十字大会に臨席され、11月には園遊会の全行程にご出席。いずれも適応障害の発症以来初めてで、15年ぶりのことだった。今年度の文化功労者に選ばれた作曲家の都倉俊一さん(70)は、園遊会の直前に皇居で開かれた茶会での様子を語ってくれた。「雅子さまは非常に明るいご表情で、私の楽曲についても『昔から楽しませていただいています』とのお言葉をいただきました。3年後に大きなミュージカル公演を予定しているのですが、雅子さまはそのこともご存じで『楽しみにしています』と応援してくださいました。皇太子さまや雅子さまとお話しして、次の御代は大丈夫との確信を持つことができました」皇太子さまのご学友であり、新天皇像を解き明かす『新天皇と日本人』(海竜社)を11月に出版した小山泰生さん(59)もこう語る。「雅子さまは、美智子さまに相談されながら、あれこれと準備をされているのでしょう。新天皇となられる皇太子さまにとって、雅子さまは非常に心強い存在だと思います。療養を続けられた15年間も、決して休んでいたわけではないのです。たとえば宮中祭祀についても、お代替わりしてからでは遅いと、丁寧に学んでいらっしゃいます」新皇后となられる日が近づくにつれてご体調も上向き、地道な努力が実り始めているようだ。また、宮内庁で東宮侍従や式部副長を務めた竹元正美さん(73)は、雅子さまの“皇室外交”に期待を寄せる。「皇后陛下が海外に訪問されると、現地のマスコミにも大きく取り上げられます。国際親善の場で担われる役割はとても大きいのです。雅子さまは療養期間中にも国連関係者と面会されたり、ご進講をお受けになったりと、皇后となられてからの国際親善を見据えた準備をしていらっしゃいました」お代替わりへ向けて、雅子さまが続けてこられた地道な努力が実り始めている。
2018年12月14日エマ・ストーン、レイチェル・ワイズ、そしてオリヴィア・コールマンという3人の実力派女優が三つ巴の争いを繰り広げる『女王陛下のお気に入り』。この度、歴史に基づく女たちの激突を描く予告編が公開された。『ロブスター』でカンヌ国際映画祭・審査員賞、『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』で同・脚本賞を受賞したヨルゴス・ランティモス監督の最新作となる本作。第75回ヴェネチア国際映画祭では銀獅子賞(審査員大賞)に輝いている。この度解禁された予告編では、18世紀フランスとの戦時下、グレートブリテン王国を支配していた虚弱で気まぐれな女王アンと、女王を支配し権力を奮っていた強気な公爵夫人レディ・サラ。没落した貴族の娘で、女王を魅了し上流階級への返り咲きを目論む女官アビゲイルという三者三様の女性たちが登場。彼女たちの三つ巴の争いを、世代を代表する3大女優がこれまで見せたことのない挑発的な演技と、美しくも斬新なビジュアルと音楽とともに描き出していく。まさに、鬼才と呼ばれるランティモス監督の才能が炸裂した映像となっている。10月31日に発表された英国インディペンデント映画賞では、作品賞、監督賞、脚本賞、主演女優賞(オリヴィア・コールマン)、助演女優賞(エマ・ストーン/レイチェル・ワイズ)、キャスティング賞、撮影賞、衣裳賞、編集賞、メイキャップ&ヘア賞、美術賞、音響効果賞と12部門13ノミネートとなる最多ノミネートを達成。イングランドの女王アンを演じたオリヴィアはヴェネチア国際映画祭で主演女優賞を受賞しており、アカデミー賞主演女優賞最有力との声も上がっている。また、女王の幼なじみレディ・サラを演じるレイチェルも先日、第22回ハリウッド映画賞にて助演女優賞を受賞。そして女官アビゲイルを、『ラ・ラ・ランド』でアカデミー賞主演女優賞に輝き、『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』でも新境地を切り開いたエマが熱演する。美しい宮廷を舞台に巻き起こる、3人の女たちの刺激溢れる関係を、まずはこの映像から覗いてみて。『女王陛下のお気に入り』は2019年2月、全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:女王陛下のお気に入り 2019年2月、全国にて公開予定(C)2018 Twentieth Century Fox
2018年11月10日天皇陛下の執刀医・天野篤さん(順天堂大学医学部附属順天堂医院院長・63)が本誌に独占告白!陛下の泰然たるご様子と美智子さまの「献身」……。6年前の心臓手術の“舞台裏”がいま明かされる。2012年2月18日。東京大学医学部附属病院・入院棟14階の特別室をあとにした陛下は、美智子さま、黒田清子さんに見送られるようにして、午後9時24分、手術室にお入りになった。手術を担当したのは東京大学と、順天堂大学の合同チーム。執刀にあたったのは当時、すでに6,000例もの心臓手術を手がけ「神の手」と称されていた心臓血管外科医、順天堂大学医学部教授(当時)の天野さんだ。午後11時1分。天野さんの握るメスが陛下の胸に当てられる。歴史上初めての天皇の心臓手術、冠動脈バイパス手術が始まった。あれから6年――。手術前日、天皇皇后両陛下に直接、お会いして手術の説明をしたとき、経験したことのない緊張に包まれたと天野さんは明かす。「たった30分の説明が、3時間に感じられました。全身の水分が、全部背中から流れ出たみたいな感じ。普通だったら映像の中にいる人。会いたくたって会えない人。そういう人と、同じ空気のなかに、僕なんかがいていいのかなと。もう、それぐらい圧倒的に神々しい。オーラが違いました」説明をお受けになる両陛下のご様子を、天野さんは述懐する。「天皇陛下は泰然となさっておいででした。医療に対する信頼がおありだったんだと思います。手術のことも、最初からすべて受け入れてくださっていた。『何かご質問はありますか?』とうかがっても『お任せしてありますから』と」一方、陛下のお体をとても心配なさっていた美智子さまからは、「矢継ぎ早に多くのご質問を受けました」と天野さん。「皇后陛下はご質問をされるたび、必ず『そうでございましょう』と天皇陛下にご同意をお求めになっていました。それに対して陛下は『うん、そうね、そうね』と」天野さんは、お二人の深い絆が見えるようだったと語る。「天皇陛下がお生まれになってから、日本はずっと戦争のただ中でしたよね。そして、皇后陛下に出会うまでに、いろいろご苦労があったわけじゃないですか。皇后陛下のなかには『私がもっと早く出会い、少しでもその辛苦をご一緒に背負って差し上げられていたら』というお気持ちが強くあったと思う。その強い思いを、天皇陛下もきちんと受け止めていらっしゃって。だから、皇后陛下のおっしゃることは基本的にすべて肯定される。あのお二人は、まさしく一心同体、そう感じました」こうして迎えた2月18日。3時間56分に及んだ手術は、無事に終わった。手術が終わって1時間ほどで天皇陛下は麻酔からお目覚めになった。そして、美智子さま、清子さんのお見舞いを受ける。「術後のご面会で、天皇陛下は左手を皇后陛下、右手を清子さんにさすってもらいながら『気持ちいい』とつぶやかれていました。おそらく術後の痛みだってあったはずです。それなのに、決してお辛いところをお見せにはならない。手術前、偉ぶることなく全員にお声をかける陛下にも感動しましたが、ご自身の威厳をしっかりと保つお姿は、とても神々しく思えました」――半年後の’12年夏。両陛下は天野さんを食事会に招かれた。吹上御所の応接間の窓からは、満開のキスゲの花が見えたという。「皇后陛下が『奇麗でしょう、いまがいちばんの見ごろなんです』と説明してくださいました。天皇陛下は、キスゲの隣にあった大きな木をお示しになって『悠仁がカブトムシをよく捕りにくるんです』と。そのお顔からは、お孫さんのことが可愛くて仕方ないというお気持ちがにじみ出ているようでした」そのとき、御所で供されたのは松花堂弁当。その中にカツオの刺身が入っているのを見て、天野さんは驚きを隠せなかった。じつは手術後、天野さんは天皇陛下に、「ご回復のためにも食事できちんと栄養を取るよう心がけてください。タンパク質を取るには、これからの季節、カツオがおいしくて、よろしいと思います」と、進言していたのだ。美智子さまはにっこりほほ笑んで、天野さんにこうおっしゃった。「先生もお好きだとお話しされていたので、カツオをご用意しておきました」天野さんは美智子さまのお心遣いに「感じ入った」という。「ほかに注意点として『ケガに気をつけてください』と申し上げました。ケガをすると体力も落ち、生活の質も下がりますから。手術後、公務に復帰された両陛下が、腕を組む場面が増えたように感じませんか。ちょっとした階段などでも、皇后陛下は必ず、天皇陛下を支えられている。もしかしたら、僕の助言を皇后陛下がお聞き入れくださったのではないかと思います。内助の功の素晴らしさを拝見した気がしました」来年4月30日、天皇陛下はお元気なまま、ご退位の日を迎えられるに違いない。「200年ぶりといわれる歴史的な生前退位に、ほんのわずかでも関われたことはとても誇らしく、僕にとっては勲章のようなものです」
2018年10月19日「天皇陛下はご自分の足で、歩いておみえになりました。そして、緊張した面持ちで整列していた医師やスタッフ、一人ひとり、全員にお声をかけてくださった。それは、とても印象的な光景でした」すべての人に分け隔てなく――それは、私たち国民には見慣れたいつもの天皇陛下のお姿だった。ただ、その場所がこれからご自身の心臓手術が執り行われる、手術室という一点を除けば……。2012年2月18日。東京大学医学部附属病院・入院棟14階の特別室をあとにした陛下は、美智子さま、黒田清子さんに見送られるようにして、午後9時24分、手術室にお入りになった。手術を担当したのは東京大学と、順天堂大学の合同チーム。執刀にあたったのは当時、すでに6,000例もの心臓手術を手がけ「神の手」と称されていた心臓血管外科医、順天堂大学医学部教授の天野篤さん(現・順天堂大学医学部附属順天堂医院院長・63)だ。午後11時1分。天野さんの握るメスが陛下の胸に当てられる。歴史上初めての天皇の心臓手術、冠動脈バイパス手術が始まった。あれから6年――。「手術後、陛下からはいつも招待状を送っていただいて。毎年、12月23日に吹上御所でお目にかかります。でも、それも、おそらく今年で最後になるでしょう」順天堂医院の院長応接室で、間もなく迎える平成最後の天皇誕生日を前に、天野さんは感慨深げにこう語った。そして、改めて、あの日に思いをはせた。「いよいよ手術という場面、執刀医にあいさつする人はいても、全員に声をかける患者さんなんていません。それも決して偉ぶる素振りもなく、ごくごく自然に。こんなことを言っては畏れ多いですが、僕はもう、そのお姿を見ただけで、陛下の大ファンになりました」心臓手術を受けた’12年の天皇誕生日。記者会見の席で、記者からの「手術後も以前と変わらぬペースで公務に取り組まれているが、来年80歳となるのを機に一層の負担軽減が必要との指摘があるが」という問いかけに、天皇陛下は次のようにお答えになった。「……負担の軽減は、公的行事の場合、公平の原則を踏まえてしなければならないので、十分に考えてしなくてはいけません。いまのところしばらくはこのままでいきたいと考えています」天野さんの胸に響いたのが、「公平の原則」というお言葉だった。「関係者の方からも、陛下は公務の優先順位も、ご自分の中にある『公平の原則』に照らして、お決めになる、と聞きました。国民とともにあるため、陛下は徹底的に公平の原則を貫いてこられたんだと改めて感銘を受けました」陛下の信念に触れ、天野さんも仕事に対する姿勢を変えた。「以前は部下任せにすることも多かった緊急手術を、極力すべて自分で引き受けるようにしました。経験値がいちばん高いものがあたれば、緊急といえど、高いレベルの治療が提供できるからです」いつ飛び込んでくるかわからない手術のため、酒もきっぱり断った。「当時の僕は、年間500例の手術をこなしていました。だけど、それは結局、自分のためだったんです。手術がうまくなりたい、有名になりたい、症例数を増やし学会で名をなしたいって」そんな、思い上がった気持ちも、奇麗さっぱり捨て去った。「陛下のおっしゃる公平の原則を、僕なりに守るにはどうしたらいいか。それは、どんな患者に対しても、自分のベストを尽くすことだと思いました。それを続けることができれば、周りの人もきっとついてきてくれる。天皇陛下も、そうじゃないですか。自分の中で公平の原則を常に意識し、きちんと守っていらっしゃるからこそ、国民誰もが尊敬のまなざしを向ける。そんなところを、ちょっとでも、僕もまねしていきたい」症例数はもはや8,000件を超え、いまさら、数をこなしたいとは思わない。いかに、質の高い医療を誰にでも提供できるか。その思いが、天皇陛下のお心に触れて固まったのだ。だからこそ、陛下の手術もあくまで8,000分の1にすぎないと考える。「陛下の手術はあの時点での僕のベスト。でも、あの手術から僕はもっと進化して、さらに質の高い手術を、現在の患者さんには行えているはず。きっと、公平の原則を大切にされている陛下なら、『それでいいんですよ』とおっしゃってくださるに違いないと思います」
2018年10月19日映画『女王陛下のお気に入り』が2019年2月15日(金)より全国ロードショー。監督はギリシャの鬼才・ヨルゴス・ランティモス、エマ・ストーン主演最新作となる。『ラ・ラ・ランド』のエマ・ストーン主演最新作映画『ラ・ラ・ランド』でアカデミー賞主演女優賞を受賞し、『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』で新境地を開いた女優エマ・ストーン。彼女の主演最新作となる映画『女王陛下のお気に入り』では、再び貴族の地位に返り咲くため必死に戦う、召使いの役を演じる。貴族へ返り咲くため戦う召使い役にエマ・ストーン演じるアビゲイルは、18世紀初頭フランスと戦争状態にあるイングランドの女王のもとに入った、新しい召使い。しかし、アビゲイルはただの召使いではなく、再び貴族の地位に登りつめたいと激しい野望を持つ人物だった。レイチェル・ワイズが女王の下で絶大な権力を振るう強者にそんなアビゲイルに惹かれたのが、レイチェル・ワイズ演じるレディ・サラ。レディ・サラは虚弱な女王・アンの幼馴染でありながら、病身で気まぐれな女王の世話をし絶大な権力を振るう強者。そんなレディ・サラと友情を育み、女王の近臣としてサラを手助けするアビゲイル。レディ・サラがサポートしてくれるものの、アビゲイルの行く手には数々の試練が待ち受けていた。共演はレイチェル・ワイズ&オリヴィア・コールマン共演はオスカー女優のレイチェル・ワイズ。ゴールデン・グローブ賞/エミー賞に輝く名女優オリヴィア・コールマンが女王役を担当する。また、実力派に加え、ニコラス・ホルト、ジョー・アルウィンといった、フレッシュな英国俳優たちの登場も作品の魅力の一つだ。監督は“ギリシャの鬼才”ヨルゴス・ランティモスメガホンをとるのは、『ロブスター』でカンヌ映画祭 審査員賞、『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』でカンヌ映画祭 脚本賞を受賞した、ヨルゴス・ランティモス。今最も注目されるギリシャの鬼才と呼ばれる人物だ。ベネチア映画祭&ゴールデングローブ賞で快挙、オリヴィア・コールマンが主演女優賞受賞なお、映画『女王陛下のお気に入り』は、第75回ベネチア映画祭のコンペ部門で、FOXサーチライト配給作品として出品されワールドプレミアを実施。審査員大賞の“銀獅子賞”を受賞した他、オリヴィア・コールマンが“女優賞”を受賞し、W受賞となった。またアカデミー賞の前哨戦となる第76回ゴールデングローブ賞においては、作品賞(ミュージカル・コメディ部門)、女優賞(オリヴィア・コールマン:ミュージカル・コメディ部門)、助演女優賞(レイチェル・ワイズ、エマ・ストーン)、脚本賞(デボラ・デイヴィス、トニー・マクナマラ)の主要賞4部門5ノミネート。授賞式では、オリヴィア・コールマンが主演女優賞の受賞を果たした。アカデミー賞で最多10部門にノミネート新たに発表された第91回アカデミー賞においては、作品賞、監督賞(ヨルゴス・ランティモス)、主演女優賞(オリヴィア・コールマン)、助演女優賞(レイチェル・ワイズ、エマ・ストーン)、脚本賞(デボラ・デイヴィス、トニー・マクナマラ)、編集賞(ヨルゴス・モヴロブサリディス)、衣裳デザイン賞(サンディ・パウエル)、美術賞(フィオナ・クロムビー)、撮影賞(ロビー・ライアン)の9部門10ノミネートの快挙。ついにアカデミー賞も本格的になり、この賞レースから目が離せない。エマ・ストーンら着用の舞台衣装が六本木に第91回アカデミー賞で『女王陛下のお気に入り』『メリー・ポピンズ リターンズ』のWノミネート中の衣裳デザイナー、サンディ・パウエルの衣装展が、2月6日(水)より、TOHOシネマズ六本木ヒルズにて開催。オリヴィア・コールマン、エマ・ストーン、レイチェル・ワイズが『女王陛下のお気に入り』の撮影で実際に着用した舞台衣装が展示される。ストーリー18世紀初頭、フランスとの戦争状態にあるイングランド。虚弱な女王、アン(オリヴィア・コールマン)が王位にあり、彼女の幼馴染、レディ・サラ(レイチェル ・ワイズ)が病身で気まぐれな女王を動かし、絶大な権力を振るっていた。そんな中、没落したサラの従妹アビゲイル(エマ・ストーン)が召使いとして参内し、その魅力がレディ・サラとアン女王を引きつける。レディ・サラはアビゲイルを支配下に置くが、一方でアビゲイルは再び貴族の地位に返り咲く機会を伺っていた。戦争の継続をめぐる政治的駆け引きが続く中、急速に育まれるサラとの友情がアビゲイルにチャンスをもたらすが、その行く手には数々の試練が待ち受けていた。【詳細】映画『女王陛下のお気に入り』公開時期:2019年2月15日(金)監督:ヨルゴス・ランティモスキャスト:エマ・ストーン、レイチェル・ワイズ、オリヴィア・コールマン、ニコラス・ホルト、ジョー・アルウィン2018年/アイルランド・アメリカ・イギリス映画配給:20世紀フォックス映画原題:The Favourite
2018年07月29日御所で育てられたバラ「プリンセス・ミチコ」の花束を抱かれた美智子さま。その手を引き、エスコートされた天皇陛下。5月5日、天皇皇后両陛下は、例年と同様に東京ローンテニスクラブを訪問された。 「出会いは軽井沢のテニスコートですが、その後、両陛下はご成婚前に、このコートで何度かプレイされています。お若い頃に通われた東京ローンテニスクラブは、いわば“愛を育んだテニスコート”なのです」(皇室担当記者) この日、クラブで両陛下をお迎えしたメンバーの1人、天皇陛下の学習院時代の後輩で、長年のテニス仲間である織田和雄さん(82)はこう語る。 「当日はおふたりとも、とても明るい笑顔で、メンバーと一緒に記念撮影された後、ご歓談を楽しまれていました。お土産に、白あんと味噌の『ちまき』を持ってきてくださいました」 実はこのちまきは、両陛下の思い出の品なのだと織田さんは明かす。 「ちょうど60年前、’58年の5月4日に、陛下と仲間が集ってテニスをしたのですが、美智子さまも招かれてミックスダブルスをされました。陛下と美智子さまは、前の年の8月に軽井沢で出会われたばかりでした。おそらく陛下のお気持ちをくんで、友人の1人がお誘いしたのだと思います。その日、端午の節句にちなんで陛下が持ってこられたお土産が、ちまきだったのです。以来両陛下は、5月にテニスをなさる際に、ちまきをお土産に持ってこられます」 ちまきは両陛下にとって、旧友との親睦の証であると同時に、ご成婚前の淡い記憶を呼び起こすものかもしれない。 「今回は、テニスはなさいませんでしたが、これからもお声がけいただければ、いつでも一緒にプレイさせていただきます」(前出・織田さん) お代替わり後も両陛下はこのテニスコートで、60年前と変わらぬ仲むつまじいお姿を見せてくださることだろう。
2018年05月18日雲ひとつない快晴となった1月2日、新年一般参賀のために開門前から並んでいた2万人もの人が、二重橋を渡り皇居前広場へと入場していく。10時10分、天皇皇后両陛下をはじめとする皇族方が宮殿のベランダにお出ましになると、例年をしのぐ大きな歓声が上がった。 「午前3回、午後2回の計5回で、12万7千人がお祝いに訪れました。平成に入って最多の入場者数です。譲位まで1年4カ月。その前に両陛下にお会いしたいと、国民が切望してのことでしょう」(皇室担当記者) 大盛況に終わった今年の新年一般参賀。しかし、宮内庁関係者は声を潜める。 「2回目のお出ましで、陛下のご様子に“異変”があったのです」 本来の手順では、皇族方がベランダにお並びになってからしばらくして「ただいまから、天皇陛下のお言葉がございます」というアナウンスがあり、陛下がお言葉を記された紙をジャケットの内ポケットから取り出される。 「しかし、このとき陛下はアナウンスの前に紙を取り出そうと、2度もポケットに手を入れようとされました。タイミングを失念されている陛下に気づかれた美智子さまが、さりげなくお伝えすると、陛下は手を戻されました」(前出・宮内庁関係者) 陛下は2年前、82歳を迎える誕生日にも《年齢というものを感じることも多くなり、行事の時に間違えることもありました》と述べられている。 「ご退位の日まで、象徴天皇としてのお務めを果たしていただきたい――。そうお思いの美智子さまは、大変心配なさっていることでしょう」(前出・宮内庁関係者) ‘18年は両陛下のご出席が最後となる行事も多数ある。宮内庁は戦没者慰霊や被災地訪問など、「平成の集大成」となるご公務を検討しているという。“最後の1年”は大忙しになりそうだ。さらに、ベテランの皇室ジャーナリストはこう語る。 「今年は、代替わりに向けた準備を1年がかりで進めていかなければなりません。なかでも御所からのお引っ越しは一大事業といえます」 両陛下は譲位後約1年半にわたり、東京都港区の高輪皇族邸で仮住まいされる予定だ。現在は皇太子ご夫妻がお住まいの赤坂御用地の東宮御所が、改修後に上皇・上皇后両陛下の正式なお住まいになるが、その工事が終わるまでは高輪皇族邸に住まわれる。 「両陛下が使われたものはほとんど捨てずに保管されており、その整理は大変な作業になります。‘93年に両陛下が現在の御所に引っ越された際には、旧赤坂御所から2トントラック約100台分の荷物が運び出されました。高輪皇族邸は、床面積でいうと御所の4分の1しかないので、何を持っていくのか、1つずつ整理しなければならないのです」(前出・皇室ジャーナリスト) 前出の宮内庁関係者はこう語る。 「陛下は、ご高齢であるご自身の限界を自覚されながらも、懸命に“最後のお務め”に臨まれるお気持ちです。美智子さまは”そんな陛下を全力でお支えせねば、そしてお引っ越しの準備も万全に――“という覚悟を、この新年に固められたのではないでしょうか」 天皇陛下につつがなくご退位の日を迎えていただき、安らかで健康な退位後の生活を送っていただくため……。過酷なお覚悟を胸に秘め、美智子さまは奮励の日々を歩まれる――。
2018年01月10日天皇皇后両陛下は、11月16日から18日の日程で、鹿児島県の屋久島、沖永良部島、与論島を訪問された。 天皇陛下の即位20年にあたる’09年に「できるだけ遠方の島を」とのご意向から沖永良部と与論の離島訪問が検討され始めたのだが、東日本大震災(’11年)、陛下の心臓パイパス手術(’12年)もあり、長い間、叶わなかったのだ。まさに“8年越しの悲願”ともいえるご訪問だった。 そして屋久島は、口永良部島民の避難先であった。両陛下の強いご希望で、島民と面会するために屋久島ご訪問も加えられた。 「結果として、3日で3つの離島、総移動距離が約3,300キロという“強行日程”になりました」(宮内庁関係者) 高齢で心臓手術を経験された陛下にとって、負担の大きすぎるスケジュールといえる。 「宮内庁は侍医長を中心に非常時の医療体制を確認し、地域の病院にも“準備”を要請していました。特に重篤の場合は、屋久島からは鹿児島へ、与論島からは沖縄本島に、飛行機やヘリコプターで緊急搬送する態勢を準備していたと聞いています」(同・宮内庁関係者) 訪問初日の11月16日。両陛下は午前9時40分に特別機で羽田空港を発たれ、2時間弱のフライトで鹿児島空港に。さらに小型機に乗り換えられて、屋久島までは35分。45年ぶりとなる屋久島ご滞在は、13時から15時の約2時間。まさに分刻みのスケジュールだった。 そして、両陛下が屋久島空港から姿を現されて、車へ向かわれているときだった。お迎えの島民が声を発した。 「アッ、危ない!」 お疲れでいらしたのか、陛下が通路の段差を踏み外されてよろめかれた。周囲の誰よりも早く美智子さまが両手を差しのべられ、抱きかかえるようにお支えに。まさに、全力で陛下をお守りされたのだ。 両陛下は島民たちを心配させないようにと考えられたのだろう。笑顔まで浮かべて、何事もなかったように屋久島町総合センターへと向かわれ、口永良部島民とご懇談された。予定時間を過ぎてもお話は尽きず、側近に4度促されてようやく、両陛下は席をお立ちになった。美智子さまは、島で牛を3頭飼っている山田ヨリ子さん(74)らに「お体をお大事に。ね、牛さんも」とユーモアたっぷりにお声がけされて、にこやかに会場を後にした。 だが、皇室ジャーナリストはこう語る。 「美智子さまは終始朗らかなご様子でしたが、実はご自身も万全のご体調ではなかったのです。陛下と同じく多忙な日々を過ごされ、11月9日の秋の園遊会では、ふだんよりご表情が晴れず、お疲れのご様子でした。そのような状態でありながら、今回のご訪問の前日、15日の夕方には都内の病院を訪れ、絵本を通じてご交流のある古くからのご友人をお見舞いされています。身近な方にも、遠方の国民にも、美智子さまはご多忙の時間を調整し、お心を寄せられていたのです」 天皇陛下とご一緒に国民と触れ合われ、陛下をお支えする責務を全うする。その覚悟を胸に、美智子さまは悲願の“離島の旅”に臨まれていたのだーー。
2017年11月22日「皇后陛下のお誕生日のご感想の中で、思いもかけずに私のことに触れていただいたことを出張先のモスクワで知り、畏れ多くまたありがたく存じております」 そう本誌にコメントを寄せてくれたのは、中満泉さん。10月20日に83歳を迎えられた美智子さまは、お誕生日に際し「この1年を振り返って」のご感想を文書で寄せられ、《中満泉さんが国連軍縮担当の上級代表になられたことは、印象深いことでした》と記された。中満さんはこう続ける。 「私が軍縮担当上級代表になったことより、皇后陛下の平和への強い願い、そして世界を少しでもより安全で平和なところにしていくための、軍縮分野における国連の活動へのお気持ちであると理解申し上げ、そのお気持ちに微力ながらお応えできるよう、ますます努力しなくてはならないと思いました」 国連難民高等弁務官だった緒方貞子さん(90)のもとで経験を積んできた中満さんに、天皇皇后両陛下は何度かお会いになっている。美智子さまは「軍縮とは予防のこと」という中満さんの言葉に感銘を受け、「軍縮」という分野への関心を深められたことも綴られていた。 陛下のご退位まで1年半――。 ご退位の時期は’19年の3月末が有力となり、皇后として誕生日の「ご感想」を記されるのも、来年で最後になる。それゆえ、美智子さまの“強いお気持ち”込められていると、ジャーナリストの久能靖さんが言う。 「今回、美智子さまは、核廃絶や軍縮について、具体的に触れられています。最近の世界情勢に危うさを感じ、お心を痛めていらっしゃる証ではないかという気がするのです。そこには『みんなで協力して平和を守ってください』という国際社会へのメッセージも感じます」 戦後70年の前年である’14年、沖縄県、そして被爆地である長崎と広島を天皇陛下とともに歴訪し、被爆者と交流されている美智子さま。今年のノーベル賞で、文学賞を受賞した日系英国人作家カズオ・イシグロさんに触れた後段に、こう記された。 《平和賞は、核兵器廃絶国際キャンペーン「ICAN」が受賞しました。核兵器の問題に関し、日本の立場は複雑ですが、本当に長いながい年月にわたる広島、長崎の被爆者たちの努力により、核兵器の非人道性、ひと度使用された場合の恐るべき結果等にようやく世界の目が向けられたことには大きな意義があったと思います》 今年7月、国連で核兵器を史上初めて非合法化する核兵器禁止条約が採択された。「ICAN」の受賞は、条約制定に果たした役割を高く評価されてのものだった。「ICAN」国際運営委員の川崎哲さんに話を聞いた。 「実は、この美智子さまのお言葉には、すでに世界中から“喝采の声”が上がっています。非常に残念なことですが、日本政府は条約の採決もボイコットするなど、核兵器禁止条約について非協力的な姿勢を改めませんでした。美智子さまが、広島、長崎の被爆者の努力を心から理解してくださったように、政府が率先して、被爆者の証言を世界に発信していくべきです」 今年3月の、国連総会の核兵器禁止条約制定に向けた交渉会議。日本代表の空席には、核廃絶のシンボルでもある折り鶴が。その羽には、『あなたがここにいてほしい』と書かれていた。日本政府が出席を拒否するなか、この条約制定には前出の中満さんも尽力していた。 「9月末に急逝した熊本出身の私の父は、15の時に見た長崎の原爆のキノコ雲の話を、私の2人の娘たちに伝えてくれました。人間は過去の過ちから教訓を学び、それを世代を超えてつなぎ伝えて世界をより良いところにしていく力を持っている、と私は思っています。皇后陛下のご感想は、そういう平和への強い想いを世代を超えて繋げていくことの大切さ、災害や紛争の被害者、海外からの移住者などに私たちが寄り添っていくことの大切さを、皇后陛下ならではの誠実なお言葉で静かにしかし力強く訴えておられると深く感じ入りました」 戦争時代を経験し、陛下とともに昭和、平成を生き、平和を希求するお言葉を語り続けてこられたた美智子さま。世代を超え、一人ひとりが平和への思いを胸に――。
2017年10月27日トランプ米大統領が、11月に初来日する方向で調整が進んでいると、複数の政府関係者が明らかにした。天皇皇后両陛下との接見も調整中だという。ジャーナリストの歳川隆雄さんが言う。 「トランプ大統領が皇居を表敬訪問すれば、天皇皇后両陛下との写真や映像が世界中に配信されて、日米の強固な関係をアピールすることになるのは間違いありません」 政治部記者もこう語る。 「11月4~6日の来日で調整が続いています。2泊3日ですと国賓となる可能性もあり、その場合は、天皇の歓迎式典、会見、晩餐会がワンセットで組み込まれます」 “暴言王”トランプ氏の来日には反発も予想される。イギリスではメイ首相が「トランプ氏をエリザベス女王が歓迎する国賓として招待する」と表明したところ批判が殺到。英議会のオンライン請願サイトには、招待に反対する186万もの署名が寄せられた。 皇室担当記者は、そんなトランプ氏の来日に違和感を禁じ得ないと話す。 「自らのツイッターで北朝鮮と舌戦を繰り返しているトランプ大統領は、天皇陛下と美智子さまのイメージから、もっとも遠い存在に感じてしまうのです。トランプ氏が両陛下に対面して、どんな言動を取るのか懸念を抱きます」 トランプ大統領が訪日する前後、両陛下のスケジュールは繁忙を極めている。 10月27日に九州豪雨被災地を見舞われ、28~30日に福岡県で開催される「全国豊かな海づくり大会」へご出席。11月3日、文化の日には文化勲章の授与式があり、すぐあとには秋の園遊会、そして屋久島・沖永良部島・与論島へのご訪問も予定されている。 気がかりなのは、陛下のご体調だ。宮内庁は、外国要人との会見は1ヵ月前に連絡するルールを定めているが、これも両陛下に想定外のご負担をかけないよう配慮したもの。 09年、中国政府がこの“1ヵ月ルール”を無視して求めた天皇陛下と習近平国家副主席(当時)との会見を、鳩山政権が一度は宮内庁に拒否されながらも強引に実現したことがある。 「陛下の国際親善は、政府のやることとは次元を異にするもので、政治的な重要性、懸案、政治判断を超えたところでなされるべきだ」 当時の羽毛田信吾宮内庁長官はこう発言し、政府への憤りを隠さなかった。トランプ大統領の来日は1ヵ月以上先ではあるが、過密日程の中での会見は心配だ。 今回、日米首脳会談のメインテーマは、緊迫する「北朝鮮問題」のはずだが、 「来日に合わせてゴルフも計画されています。米ツアーで活躍する松山英樹プロや日本ゴルフツアー機構の青木功会長が、トランプ氏と一緒にプレーする案も浮上しています」(皇室ジャーナリスト) 天皇陛下のご学友、明石元紹さんは、そんな“接待コース”に両陛下との会見が含まれているのではないかと懸念する。 「過去には陛下との会見が訪日の条件だったケースもありました。両陛下は相手がトランプ氏であろうと、米大統領としてしっかり接遇されることでしょう。たとえ陛下のお気持ちに沿わないことがあっても、それを表に出すことはできないお立場なのです」 懸念される点の多いトランプ氏の初来日だが、前出の文化学園大学客員教授の渡辺みどりさんはこう語る。 「トランプ氏に対しても、天皇陛下と美智子さまは、国際平和の視座に立ってお話されるでしょう。外国の首脳が両陛下のお人柄に感銘を受け、日本が再評価されたことも過去にあったのです」 どのような相手を前にしても、平和を希求する両陛下の信念が揺らぐことはない――。
2017年09月21日両陛下は7月24日から28日まで、那須御用邸で静養された。皇太子さまご一家も8月には例年、須崎御用邸や那須御用邸で過ごされている。 皇族の方々が「夏休み」を過ごされる場所といえば、皇族の別荘ともいえる御用邸だ。葉山御用邸(神奈川県)、那須御用邸(栃木県)、須崎御用邸(静岡県)の3つの御用邸があるが、それぞれにどんな特色があるのだろうか。 両陛下が最も頻繁に訪れるのが葉山御用邸。3つの御用邸のうち最も皇居から近く、ご友人も多いからだという。 御用邸は海岸に面しており、両陛下が散策されることもある。6月のご静養の際には海岸にいた親子連れの海水浴客からサーフィンをしていた青年にまで、両陛下がお声がけされていた。 いっぽう、皇太子さまご一家が好まれているのは那須御用邸だという。登山好きの皇太子さまご一家は、御用邸に近い茶臼山や朝日岳に登られることも。 敷地内はたいへん自然豊かで、植物学者でいらっしゃった昭和天皇が『那須の植物』という本を執筆されたほど。’11年には「那須平成の森」として御用邸用地の約半分が一般に開放された。 静岡県下田市の須崎御用邸も、葉山と同じく海に面しているが、こちらはプライベートビーチ。愛子さまは昨年「バタフライ以外は全部泳げるようになりました」と出迎えた川勝平太静岡県知事に話していて、海水浴は楽しみにされているようだ。 ちなみに御用邸までの移動手段は、葉山へは自動車、那須へは新幹線、須崎にはE655系という列車が使われる。皇太子さまご一家がご乗車になるときには1車両が貸切りとなり、両陛下がご乗車の場合は全車両が貸切りの「お召し列車」となる。
2017年08月07日ライトブルーの広大な空から、沖縄の強い日差しがじんじんと照りつける。沖縄本島南部に位置する糸満市の「国立沖縄戦没者墓苑」にも、真夏の日差しが降り注いでいた。ここは、太平洋戦争末期の激戦の地。墓苑には、沖縄戦で亡くなった市民や軍人など、約18万柱もの遺骨が納められている。 納骨堂へと続く石畳で、黒のレースのスーツで正装した沖縄県遺族連合会・元会長の照屋苗子さん(81)は、ふいに立ち止まった。 「この通路でね、ちょうどこの辺りに立って、天皇皇后両陛下をお迎えしたんです。両陛下は車を降りられると、献花台まで歩いていかれ、お花を供え、慰霊の祈りをささげられて、亡くなった方々の御霊を慰めてくださいました」(照屋さん・以下同) 皇太子時代から、戦没者の慰霊の旅を続けてこられた両陛下だが、国内で唯一、一般住民をも巻き込んだ激戦地・沖縄へ寄せる思いは、ことのほかお強いといわれる。 沖縄が昭和47(’72)年、日本へ返還されて以降、両陛下はこれまで10回、沖縄へ足を運ばれ、「摩文仁の丘」や「ひめゆりの塔」などの南部戦跡で、献花・黙祷をささげられてきた。昭和50(’75)年7月には、ひめゆりの塔の前で、過激派に火炎瓶を投げつけられる事件が起きたが、両陛下のお気持ちは揺らぐことはなかった。その後も予定どおりに「魂魄の塔」や「黎明の塔」で頭を下げられ、流れる汗を拭うこともなさらずに、関係者の話を聞かれ、ハンセン病療養所では入所者と談笑された。 積極的に沖縄の人々と交わろうとされる両陛下のそのようなお姿に、沖縄戦で芽生えた反日感情を、少しずつほぐされていった人は多いという。照屋さんも、沖縄戦で10人家族のうち5人を失った遺族の1人だ。長年、遺族会の活動を続けるなかで、慰霊に来られた両陛下をこれまで4回、お迎えし、お声をかけられている。 照屋さんが初めて、遺族会を代表して天皇皇后両陛下をお迎えしたのは、昭和62(’87)年10月24日のこと。昭和天皇の御名代として、国立沖縄戦没者墓苑を訪問された皇太子ご夫妻(当時)からお声をかけられ、照屋さんは、美智子さまのお美しさに目を見張るばかりだった。 「陛下に、『どなたを亡くされましたか?』と、質問されて、『父、祖母、家族5人が亡くなりました』と答えると、『大変でしたね』と。美智子さまも『大変でしたね』と、お声をかけてくださいました。このときは、雲の上の天上界の方にお会いしたという驚きのほうが大きかったですね」 2度目は、平成5(’93)年、平和祈念堂でのことだ。 「両陛下は、前列に並ぶ10人のことを事前に頭に入れられていて、『お父さまを亡くされたんですね』などと、一人一人にお声がけされたんです」 照屋さんは、天皇陛下から、「ご苦労なさいましたね」と、お声をかけられ、ふいに、68歳で亡くなった母・ツルさんのことが心に浮かんだ。そして、涙が止まらなくなった。ツルさんは、過酷な時代を生き抜いてきたというのに、常に穏やかで、面倒見がよく、誰からも慕われた。 「母はいつも『自分のことより人のことをよくしてあげなさい』と、言っていたの。『人のためにしたことは、陰徳となって、子や孫に返ってくるよ』って。私がずっと遺族会やボランティアに関わってきたのも、そういう母の言葉があったからです」 人のために。家族を守るために――。ツルさんの生き方は、いつも照屋さんの指針になってきたのだ。 「苦労したのは、私じゃなく母。なぜ、もっと早く沖縄に来てくださらなかったの?という思いが急に湧き上がってきて……」 涙が止まらない彼女に、陛下は、さらに優しくお尋ねになった。 「(沖縄遺族連合会の)青年部長をなさっておられますね。今、何をなさっていますか?」 それでようやく落ち着いた。 「遺骨収集を頑張っております」 その日、照屋さんは、ツルさんが眠るお墓に行き、手を合わせた。 「お母さん、今日、天皇陛下からお言葉をいただいたよ。お母さんがいただくべきだったのにね。私がいただいたよ。本当に大変だったね。私をこんなに大きく育ててくれて、お母さん、ありがとう……」 それから19年後の平成24(’12)年、沖縄県遺族連合会の会長になっていた照屋さんは、冒頭で紹介した場所で、両陛下をお迎えした。 「雨がザーザー降っていて。お待ちする間、晴れればいいのになぁと、空を見上げていたのを覚えています」 雨がやむ気配もなく、県職員も「今日はお声がけはないです」と、言っていた。ところが、慰霊を終えると雨のなか、陛下のほうからお声をかけてくださった。照屋さんが一歩前に進み出て、頭を下げ、挨拶すると、陛下は穏やかな笑みを浮かべ、「ああ、照屋さんね」と、お隣を歩く美智子さまに二言三言、ささやかれた。美智子さまも、「照屋さんね。前にもお会いしましたね。覚えていますよ」と、ほほ笑みながらおっしゃった。 最後に、陛下が照屋さんに「(遺族の皆さんも)お年を召されているでしょうから、どうかよろしく」と、おっしゃったとき、母のことを思ったときとは違う涙がこぼれてきた。 「遺族の1人として、私は頑張らなければと、陛下のお言葉が胸に迫ってきてね……」 両陛下は、照屋さんと同世代にあたられる。戦争を体験し、強く平和を願いながら、共に年を重ねた世代だ。 「両陛下はずっとお変わりなく、沖縄に心を寄せ、慰霊を続けられ、尽力されてね……。いまはもう感謝しかないです」
2017年07月30日