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京都市東山区東山安井町。「ミナミ美容室」は、悪縁を切り、良縁を呼ぶ神社として若い女性に人気の「安井金毘羅宮」のはす向かいにある。創業131年。南登美子さん(91)の祖母、南ぢうさんが1888年(明治21年)に、舞妓芸妓の髪を結う「髪結い」として始めた店だ。戦後に建て替えられた木造2階建ての2階が店舗であり、急な階段を上ると、そこにはタイムスリップしたかのような空間が――。鏡の前に並ぶレトロな椅子、年代物のパーマ器が並び、大正時代のレジはいまも健在。登美子さんが日本髪を結うのは、店のいちばん奥のスペースである。電熱器で熱し、髪を整えるための愛用のコテも大正時代のものだ。「いま、京都でも舞妓さんの髪を結えるのは10人もいません」登美子さんは、引出しから京つげ櫛の老舗「十三や」の櫛を手に取り、慈しむように見やりながら語る。「ただ結うのではなく、頭や顔の形、雰囲気やどのような場所に行かれるのか、いろんなことを考え、その人が輝くイメージをもってこしらえなければいけません。『きれいになれ、きれいになれ』と思う心が大事なんですね」祖母は、京都一とうたわれた髪結いだった。2代目の母・ちゑさんも、その腕を高く評価され、昭和天皇ご即位の御大典では、高等女官のお髪上げを任されている。そして3代目の登美子さんは、古代朝廷の貴婦人から現代の舞妓まで、長い歴史のなかの300種類の髪形を再現できる。しかも、それぞれの時代の風俗や文化までも記憶しているという徹底ぶりだ。「髪形の変遷は、美を追求してきた歴史なんです。古墳時代の昔から、女性はずっとオシャレをしてきた。美容も、時代ごとにさまざまな手法、技を生み出してきました。美しくなってほしい--伝統を守るとは、そんな思いをつないでいくことなんでしょうね」1700年の美を受け継ぐ登美子さんは、伊勢神宮の神事にも関わる。現在は、天皇陛下の長女であり、祭主を務める黒田清子さんの結髪と着付けを担っている。1928年(昭和3年)、登美子さんは京都市東山区で画家の娘として生まれた。ミナミ美容室を営む父方の祖母・南ぢうさんと伯母・ちゑさんのもとに引き取られたのは、3歳のときだ。宮尾登美子の小説『序の舞』は、女流日本画家・上村松園(1875~1949)の生涯を描いたものだが、中にこんな記述がある。《南さんは京都中でいちばん上手と評判だったが、なるほど結って戻ったます子の頭はぴったりと形よく品よくでき上がっていて、申し分なく、それを婚礼衣裳の振袖を着せ、丸帯を締めさせて画室に入ってもらった》この“南さん”が、ぢうさんである。登美子さんは、ちゑさんの娘として育てられた。「当時の店は、お弟子さんが5~6人もいてすごく繁盛していました。私は、お母さんの傍らにいたくて、いつも店で髪結いさんごっこです。“さん払い”(和紙のハタキ)を髪に見立てて、島田や丸髷に結っては遊んでいましたね」母・ちゑさんは、生涯独身を通し、髪結いの技術はもとより、日本髪の変遷と研究に情熱を燃やした人だった。’56年に、京都三大祭りのひとつ「葵祭」のヒロイン・斎王代が復活したときには、斎王代の平安貴族の髪形から髪飾り、衣装の着付けまで担当。時代祭の皇女和宮、祗園祭の小町踊りの少女の結髪も手掛ける。「母は、それは熱心に日本画家の研究会に通ったり、大学教授と一緒に時代風俗を考察。そうやって勉強していたのです。また、大正天皇の貞明皇后にお仕えしていた女官さんに、宮中の女性の髪形もじかに教わっています。そうして伊勢神宮の神事もまかされるようになりました。私も、そんな母の助手としてついていき、多くを学びました」’81年、ちゑさんは功績が認められ、黄綬褒章を受賞。古代の朝廷や公家、武家の行事や風俗・習慣、装束などの伝統を学び伝える「有識美容師」になった。登美子さんもまた、髪形の歴史と伝統を学び、文献を読みあさり、雛形や日本画を参考に研鑽を積んでいった。「髪結いが下に見られんように、ほんまに頑張ってきました」驚いたことに、登美子さんが仕事で初めて日本髪を結ったのは、60歳のときだという。「花嫁の髪でした。病気で伏せていた母が、おぶわれて仕事場に来て、『上手に結えてる』とひと言。最初で最後の褒め言葉でした」翌’89年、ちゑさんは85歳で亡くなった。登美子さんは、母の仕事を引き継いだ。伊勢神宮の祭主である池田厚子さん(昭和天皇の四女)の結髪と着付けを担うようになる。祭主とは、神への天皇の勅使であり、2月の祈年祭、6月と12月の月次祭、10月の神嘗祭という大きな祭典を主宰する神職である。「ご祭主様は大変ですよ。式典は真夜中に行い、睡眠時間は3時間ほど。それを3日間、外宮と内宮をまわられるわけですから。私どもは小さな部屋で待ち、潔斎(沐浴)されたご祭主様の装束と髪形をつくります。その日の式典が終わると解くわけですが、寝る時間もやはり3時間ほどです」’95年、登美子さんもまた「有識美容師」になった。そして毎年4回、大きな祭典が行われるたびに伊勢神宮に足を運んできた。黒田さんは、’17年から伊勢神宮の祭主となり、登美子さんは引き続き現在もおつとめしている。登美子さんは「京都美容文化クラブ」の会長であり、会員は若い人も含めて50人ほど。「有識美容師をめざしている人たちに日本髪の伝統を受け渡し、次世代につなぐのが私の役目。クラブのみんなが後継者ですねん」銀縁の眼鏡の奥から優しいまなざしで前を見据える。「古代から現代の舞妓まで300種類の髪形を再現できる技を伝えていきたい」
2019年03月18日「日中友好に生涯を捧げた父と母が愛した庭でしたから、若い世代の方々が、この庭を通じて、隣国や平和への関心を持つきっかけとなっていただければと願うのでございます」兵庫県西宮市の武庫川女子大学附属中学・高校にある「日中友好の庭」。2月半ばの好天に恵まれた日の午前。庭の寄贈者で、同市在住の福永こ生さん(78・『こ』は樗の字の木へんが女へん)は、寒風に耐えるような木々を愛おしそうに見やりながら、みやびな響きをもつ美しい日本語で語り始めた。「本当は、もっとカラフルなお庭なんですが、今は冬枯れの時期だけに、残念でなりません。ここの植木も庭石も、かつてわが家にあったものを寄贈させていただきました。中央のモミジは、父のいちばんのお気に入り。かつて父は日本の来るたびに、大好きな日本酒を嗜みながら眺めておりました。そして、白雲木。母が結婚して満州(現・中国東北部)に渡るとき、赤坂御所で貞明皇后(大正天皇の皇后)が、御自ら種をお拾いくださって『記念に満州に植えるように』と賜ったそうでございます。その種から育った木の孫木になります。ここに来ると、どの木や花を見ても父や母を思い出します。懐かしゅうございます」こ生さんの父親は、中国・清朝のラストエンペラーであり、満州国皇帝であった愛新覚羅溥儀の実弟の溥傑さん。母親は、日本の天皇家と縁戚関係にある嵯峨侯爵家令嬢の嵯峨浩さん。つまり、こ生さんは、あのラストエンペラーの姪であり、幼少のころには満州国の正統な皇位継承者として、2番目の皇女を意味する「二格格(アルゴーゴー)」と呼ばれていた。しかし、敗戦で運命は一変。5歳のこ生さんは、そのまま母と、内戦下の中国大陸6,000キロを1年5カ月もの間、流転。命からがら日本に帰国できたときに、憧れたのは「普通の生活」だった。やがて結婚して母となり、両親亡きあとも、その遺志を継いで日中親善に努め、時代の語り部として生きてきた。また、日本の皇室との交流も続いている。「昨夏も、毎日書道展で溥儀や溥傑の書が特別展示されて両陛下にお会いしたとき、父の話になりました。天皇陛下が’92年の初めての中国訪問時をふり返られて、『北京では、溥傑さんにたいへんお世話になりました』と語られ、皇后さまも『心のおきれいなお人でしたね』とおっしゃられて。父からは、そうした話は聞いておりませんでしたので、初めてうかがって、とてもうれしゅうございました」’07年、夫の死を機にそれまで住んでいた西宮市内の一戸建てを引き払い、こ生さんは同じ市内のマンションへと移った。ピアノや家具などの大半を、幼稚園や福祉施設に寄付し整理した。「唯一の心残りが、庭でした。嵯峨の家の家紋にもなっている連翹、父のモミジ、そして白雲木などなど。この庭だけはなくしてはいけない、と思ったのでございます」そんな庭は、末娘の母校で、中国との交流もあった武庫川学院に寄贈され、「日中友好の庭」となった。?生さんは、一本の木にまつわるこんな思い出を語った。「’92年の両陛下とのお食事会のとき、まだご結婚前の紀宮さまもご一緒でした。赤坂御所のお部屋の前に、ここの白雲木の元木があるとのことで、紀宮さまは、『花が落ちたら、白いじゅうたんのようになって、とてもきれいなんですよ』と、お話しくださいました。今、その部屋には愛子さまがおられるとうかがっております」皇室との交流は世代を超えて続き、皇太子ご夫妻とお会いになったのも去年の夏。やはり、花にまつわるエピソードがあった。「皇太子さま、雅子さまが夏の甲子園の百周年記念大会にご出席されるためこちらにいらした際に、お会いできました。その数日前に、わたくしが両陛下と懇談させていただいたことをお聞きになっていたのでしょう。お会いになったときにまず、『(両陛下に)お会いになっていたのですね』と、お聞きくださいました。わたくしは、『はい』と申し上げてうなずくばかりでしたが。そのときに、白雲木のある庭や『日中友好のアサガオ』のお話もさせていただきました」日中友好のアサガオも、戦後、生死も定かでなかった溥傑さんの消息がわかり、’61年に再会するときに、浩さんが日本で種を買って中国に持参したものがもととなっている。「北京の自宅で両親が丹精込めて世話をして、縁の白い赤紫の花を咲かせました。母亡きあとも、父が7年間、一人で水をあげたり、種を収穫していたものです。その父も亡くなったあとは、わたくしが両親の思いを受け継ぐかたちで育て、ご縁のあった方に種をお配りしています。すでに日本各地だけでなく、中国の日本人学校などでも育っています。昨夏は、採れたばかりの種を、皇太子さま、雅子さまに、お礼状とともに遅らせていただきました。もちろん、その前には、皇后さまにもお送りしております」一輪の花が国境を超え、時を超え、横たわる大河にかかる橋のように、人と人とをつないでいく。「国同士は難しいことがあっても、人と人は別ですね。父の好きだった『相依為命(あいよっていのちをなす)』の言葉どおり、時代が変わっても、相手を思いやる気持ちがあれば、共に生きていけるのでございます」まもなく、厳しい冬が終われば春が訪れる。木々は緑の葉を茂らせ、花は色とりどりに咲いて、また誰かの心を温かくしてくれる。
2019年02月22日「本当は、もっとカラフルなお庭なんですが、今は冬枯れの時期だけに、残念でなりません。ここの植木も庭石も、かつてわが家にあったものを寄贈させていただきました。中央のモミジは、父のいちばんのお気に入り。かつて父は日本の来るたびに、大好きな日本酒を嗜みながら眺めておりました。そして、白雲木。母が結婚して満州(現・中国東北部)に渡るとき、赤坂御所で貞明皇后(大正天皇の皇后)が、御自ら種をお拾いくださって『記念に満州に植えるように』と賜ったそうでございます。その種から育った木の孫木になります。ここに来ると、どの木や花を見ても父や母を思い出します。懐かしゅうございます」兵庫県西宮市の武庫川女子大学附属中学・高校にある「日中友好の庭」。2月半ばの好天に恵まれた日の午前。庭の寄贈者で、同市在住の福永こ生さん(78・『こ』は樗の字の木へんが女へん)は、寒風に耐えるような木々を愛おしそうに見やりながら、みやびな響きをもつ美しい日本語で語り始めた。「日中友好に生涯を捧げた父と母が愛した庭でしたから、若い世代の方々が、この庭を通じて、隣国や平和への関心を持つきっかけとなっていただければと願うのでございます」こ生さんの父親は、中国・清朝のラストエンペラーであり、満州国皇帝であった愛新覚羅溥儀の実弟の溥傑さん。母親は、日本の天皇家と縁戚関係にある嵯峨侯爵家令嬢の嵯峨浩さん。つまり、こ生さんは、あのラストエンペラーの姪であり、幼少のころには満州国の正統な皇位継承者として、2番目の皇女を意味する「二格格(アルゴーゴー)」と呼ばれていた。しかし、敗戦で運命は一変。5歳のこ生さんは、そのまま母と、内戦下の中国大陸6,000キロを1年5カ月もの間、流転。命からがら日本に帰国できたときに、憧れたのは「普通の生活」だった。やがて結婚して母となり、両親亡きあとも、その遺志を継いで日中親善に努め、時代の語り部として生きてきた。また、日本の皇室との交流も続いている。「昨夏も、毎日書道展で溥儀や溥傑の書が特別展示されて両陛下にお会いしたとき、父の話になりました。天皇陛下が’92年の初めての中国訪問時をふり返られて、『北京では、溥傑さんにたいへんお世話になりました』と語られ、皇后さまも『心のおきれいなお人でしたね』とおっしゃられて。父からは、そうした話は聞いておりませんでしたので、初めてうかがって、とてもうれしゅうございました」’95年1月17日、阪神・淡路大震災に遭遇し、こ生さんは西宮市の自宅で被災。当時、神戸市で老人ホームを経営していた夫が、すぐに施設を開放するなど、あわただしい毎日を過ごしていたころ、思いがけない電話がかかってきた。まず女官長が出て、すぐに皇后美智子さまのいつものやさしいお声が受話器を通して聞こえてきた。「お電話するのがたいへん遅くなりました。おうちはいかがでしたか」「自宅は半壊でございましたが、家族は全員無事でございました」「ご無事でなによりでした。きっと、お父さまの溥傑さんが見守ってくださったのね。どうか、お体を大切に頑張ってください。またお目にかかりましょうね」その後も被災地を訪問されるときなどに、「ご不自由はないですか」とのお心遣いがあったという。’07年、夫の死を機にそれまで住んでいた西宮市内の一戸建てを引き払い、こ生さんは同じ市内のマンションへと移った。ピアノや家具などの大半を、幼稚園や福祉施設に寄付し整理した。「唯一の心残りが、庭でした。嵯峨の家の家紋にもなっている連翹、父のモミジ、そして白雲木などなど。この庭だけはなくしてはいけない、と思ったのでございます」そんな庭は、末娘の母校で、中国との交流もあった武庫川学院に寄贈され、「日中友好の庭」となった。「なにより、この庭の成り立ちを知って、心の交流の大切さを学んでいただきたいと思いました。そういえば、白雲木では……」こ生さんは、一本の木にまつわるこんな思い出を語った。「’92年の両陛下とのお食事会のとき、まだご結婚前の紀宮さまもご一緒でした。赤坂御所のお部屋の前に、ここの白雲木の元木があるとのことで、紀宮さまは、『花が落ちたら、白いじゅうたんのようになって、とてもきれいなんですよ』と、お話しくださいました。今、その部屋には愛子さまがおられるとうかがっております。初夏になり、その白いじゅうたんを、愛子さまや雅子さまも、きっとご覧になっていらっしゃるのだと、想像したりしております。花とは、大切な人を思い出させて、心をなごませてくれるものでございますね」現在は、西宮市内のマンションで、次女と次男と同居するこ生さん。リビングの一角には、’92年の両陛下との食事会の写真なども飾られていた。「皇后さまからは、日中友好の節目の年などに、お電話をいただきました。先日は、まず『お子たちは、みなさん、お元気?』というお言葉から始まりました。また、関西方面に、たとえば植樹祭などでお見えのときは、侍従さんを通じて、『いかがお過ごしですか』とお電話をいただいて、お近かったら、ホテルのほうなどへ、わたくしからご挨拶にうかがったこともございます。わたくしは、これまでも必ず電話の最後には申し上げてまいりましたが、両陛下には、春以降、大きなお役目を終えられてからも、国民の理想のご夫婦として、『いつまでもお健やかにお揃いあそばして、ご長命であられますように』と、お祈り申し上げております」
2019年02月22日元ハンセン病患者の姿を描いた『あん』のプレミアム試写会が5月26日(火)に開催され、河瀬直美監督をはじめ、主演の樹木希林、永瀬正敏、原作者のドリアン助川が舞台挨拶に出席。来賓として高円宮妃殿下がご来場され、安倍首相夫人の昭惠氏も姿を見せた。千太郎が雇われ店長を務めるどら焼き屋の求人にあん作りの名人である老女・徳江が応募してくる。彼女のあんが評判を呼び店は繁盛するが、彼女がかつてハンセン病を患っていたという噂が広まり客足が途絶えはじめ…。樹木さんは、平成の世になってようやく元ハンセン病患者に対する差別撤廃に国が動き出したが、それよりはるか前に、大正天皇の皇后である貞明皇后がハンセン病患者の施設を訪れ、患者と触れ合いの時間を持ったという事実に触れ「国よりも先に啓いてくださった、そのことに感謝してここに立っております」と語り、この日、高円宮妃殿下が来賓として来場されたこととあわせて、皇室のハンセン病に対する関わりに深い感謝の思いを口にした。原作者のドリアンさんは「この小説を書こうと思ったのは20年くらい前で、書き始めたのは7~8年前。12回書き直しました。期待していた大手出版社には断れ、話を伺った元患者の方々との『本にする』という約束を裏切ることになるんじゃないかと思ったこともありました。こうして日本を代表する俳優さん方と監督の手で映画になり、世界の人に見ていただけました」と喜びを語った。先日、閉幕したカンヌ国際映画祭では本作がオープニングを飾ったが、永瀬さんは「世界中に映画に関わるいいろんな友人がいますが『おめでとう』と連絡がありすごく嬉しかったし、本当にすごいことなんだと感じました」と振り返る。樹木さんは「上映が終わったら、明るくなる前に逃げようと思った」と語り、その後のスタンディングオベーションの中、河瀬監督に手を差し伸べられたことについても「恥ずかしかったです」と語る。ドリアンさんはその時の様子について「千人以上の人が形式上ではなく、心から拍手を送ってくれました」と世界に本作が届いたことを実感したよう。改めてこの日の上映を前に「ハンセン病の元患者の人生を描いていますが、ハンセン病そのものを描いているわけではありません。人はなぜ生まれたのか?人生を全うするとはどういうことか?どうしても目標を持って頑張るということになりがちですが、それでかえって見えなくなるものがあるのではないか?生まれてきただけで既に与えられているのではないか?という人生の普遍的なテーマに向かった作品です」と語り、温かい拍手に包まれた。『あん』は5月30日(土)より公開。(text:cinemacafe.net)
2015年05月26日「最近なんかツイてない」「もっと良いことないかな?」なんて思うこと、誰にでもあるのでは?去年までの自分にサヨナラし、今年をよりハッピーに彩るためにも、お正月にはパワースポット情報が欠かせないところ。そこで、テレビや雑誌で人気のギャル霊媒師・飯塚唯先生に、今おすすめのパワースポットを教えていただきました!≪飯塚先生一押しのパワースポット≫◆ラッキーゾーンパワースポットというか…個人的に「ラッキーゾーン」って呼んでいるスポットがあるんです。富士山もラッキーゾーンの一つですが、それよりも2015年は「高尾山」の“気”をふつふつと感じています。富士山は周りで噴火が多かったから、今はちょっと疲れてるみたいですね。だから高尾山のほうがオススメです。◆厄除けのパワースポット2015年は気の流れがいろいろ変わってクリーンになる年だと思うんです。だから厄除けの効果が強いパワースポットに行かれると相性がいいと思います。特に良いのは成田山。お祓いもいいけど、護摩焚きをしてもらうのもいいですね。成田山以外にも不動明王を奉っている所に参拝に行っていただきたいです。◆学業祈願・出世祈願のパワースポット学業や出世の祈願には龍神がいいから、こちらも成田山。不動明王と龍神が一緒に祀られている所もあるので、これから学業に専念する方や就活する方、出世が近い方などは、そういう所に行かれるといいと思います。◆金運のパワースポット金運は、明治神宮にある「清正の井戸」。(霊的に)怖い所なのですが、気が強いからすごいパワーを感じられます。磁場が発生しているというか…悪いものも引き寄せるし、でも、良いものも跳ね返していく力があったりして。あの場所のパワーは本当に強いので、体調が悪いときは行かないほうがいいと思います。体調が良いときだけ行くようにしましょう。◆恋愛のパワースポット恋愛は伊勢神宮系列が一番良くて、都内なら「東京大神宮」が一押し。あそこは日本で初めて結婚式が行われた神社でもあるんですよ(※明治33年、後の大正天皇と貞明皇后のご成婚を記念して神前結婚式を創始したそうです)。京都だったら、「貴船神社」も良いのですが、「清水寺」もパワーがあります。清水寺の中にある、縁結び神社(地主神社)がすごく効きます。恋愛でお困りの方は、絶対、東京大神宮の恋みくじを引いてください。個人的に、一番当たるおみくじだと感じています。匂いがするので、どれだかわからないときは、神社の方に「匂いがするおみくじを引きたい」と言えば教えてくれるはず。◆おみくじは結んだほうがいいみなさん、おみくじを結ぶときは右から結ぶ場合が多いと思いますが、左手で枝を巻くようにして結ぶのがオススメです。結果が悪かったときは必ず結びましょう。なぜかというと、神社の方が全部祈祷してくれるから。良いと持って帰る人もいますが、汚れてしまったら神社に返しに行かないといけないんです。それが面倒な場合は、最初から置いていったほうがいいですよ。ビニールに入れて持ち歩くなど、汚さずに持っていられるなら、引いてから1年間はお財布に入れておいてください。そうすると運気が高まります。バッグとかではなく長財布に入れるのが一番いいですね。◆参拝の作法神社に参拝するときは歩く場所が決まっていて、男性が右側、女性が左側を歩くといいと言われています。真ん中は神様が通ります。お正月は混むのでそうも言ってられませんけどね…。参拝の前は厄を落とし、なるべく襟のついた服(タートルネックのような首の隠れたもの)を着てお参りに行ってください。あまり露出が多いと良くないので。できるだけ肌を隠すのが正装なんです。◆お参りの際の注意点「清正の井戸」もそうですが、パワースポットだけど、心霊スポットでもある場所はたくさんあります。そういう所には、行っちゃいけないゾーンもあるので気をつけましょう。足を踏み入れると事故が起こりやすい所とかも、実は霊と関係がある場合もあるんです。だから、「立ち入ったら危険」と言われているゾーンは、霊が集まりやすい場所なのかなと考えて、ズカズカ入らないようにしたほうがいいと思います。パワーのあるスポットは、その分、霊的な意味でも強いエネルギーを持っているんですね。お参りに行く際は、そのあたりを意識したほうがいいかも。そして、おみくじや参拝のルール、興味深いですね!左巻きに結ぶ、タートルネックを着るetc.お参りの際には、参考にしていただけるとうれしいです。飯塚唯(いいづかゆい)霊能力の強い家系に生まれ、祖母は霊媒師として活躍していた。高校時代に体験した強烈な霊体験を通して能力が覚醒。高校卒業後は渋谷109でカリスマ店員となるが、周囲の人々の霊視・鑑定を行っていたところ、当たると大評判に。その後、本格的に霊能力を活かすことを決め、現在は渋谷占いの館で鑑定を行っている。TV番組や雑誌で何度も取り上げられる話題の占い師。【スマートフォンサイト】ギャル霊媒師・飯塚唯
2015年01月03日