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菅政権のもとで、皇室の今後を左右する議論が進められている。安定的な皇位継承策を議論する有識者会議の会合が、3月からスタートしたのだ。現在、皇位継承者は秋篠宮さま、悠仁さま、85歳の常陸宮さまのお三方のみ。皇室存続の危機を迎えており、女性天皇や女系天皇の是非などを検討するべく、専門家へのヒアリングが進められている。女性天皇が認められれば、愛子さまをはじめとする内親王も皇位継承資格を持つ。さらに女系天皇も容認されれば、内親王の子供にも皇位継承資格が与えられるため、“お世継ぎ不足”は一気に解消に近づく。共同通信社の’20年4月の世論調査でも、女性天皇容認は85%、女系天皇容認は79%が賛成となっている。しかし、ヒアリングでは専門家の賛否が拮抗。「男系維持」を求める意見も目立っているのだ。ジャーナリストの櫻井よしこ氏は、皇族の役割は「皇統継続の男系男子の人材を供給することに尽きる」と主張。さらに耳を疑うような発言も飛び出した。歴史学者の今谷明氏は、男系男子での皇位継承維持のために、次のような提言を行ったのだ。「悠仁様の後どうなるか。側室制を前提として、なおかつ非常に継承が難しかったことをどうやって維持していくか。ここに書いたように、近代医学の粋を尽くして男子出生を目指すというような医学的なことは当然おやりになったほうがいいと私には個人的に思う。しかし、これはあまり公には出せないことだが、個人的には側室制の代償として近代医学の技術を入れた皇位継承があるべきだというふうに考える」天皇が側室を取らなくなったのは大正天皇以降のこと。これまで男系男子による皇位継承が続けられたのは、側室制という“一夫多妻”が大きな理由だ。■問題発言の歴史学者に話を聞くと…では、男子出生のために用いる「近代医学の粋」とは、いったい何なのか。本誌は発言の真意を聞こうと試みたが、今谷氏からは「取材はお受けできない」との返答だった。医学の力で男女の産み分けをすることはできるのか。20年にわたって不妊治療に携わる生殖医療の専門医に話を聞いた。「数年前から不妊治療の現場では『着床前スクリーニング』といって、重篤な遺伝子疾患が生じる可能性のある遺伝子変異や染色体異常を検査するために、体外受精させた受精卵の着床前診断を行っています。技術的には、この着床前診断で受精卵の染色体を調べ、男子の受精卵を子宮に移植すればほぼ100%男子を産むことができます。男女の産み分けにはゼリーなどを用いる方法もありますが、精度は低く、もし確実に産み分けるならば着床前診断を行うしかないでしょう。しかし、男女の選別は倫理的に大きな問題があり、日本産科婦人科学会は性別の検査を目的とした着床前診断は行わないとの見解を出しています。また、体外受精のためには卵子を針で吸引する必要があり、女性の体に負担がかかります」今谷氏の発言に、近現代の皇室に詳しい名古屋大学大学院教授の河西秀哉さんは「正直、ギョッとしてしまいました」と語る。「もし着床前診断を想定した提言ならば、生命倫理や人権の観点から問題があると思います。また、そこまでして男子出生を求めると、ジェンダー平等が進む社会に逆行して“男子を産むことこそがよいことだ”という風潮を発信することにもなります。国民からの支持を失い、皇室の『国民統合の象徴』という存在意義を損ねてしまう可能性もあると考えられます」■「ルールを変えずに皇位継承維持は難しい」悠仁さまや将来のお妃の人権を無視するかのような“医学の粋で男子出生を”の提言――。まるで皇室に嫁ぐ女性を“産む機械”とみなしているようにも感じられる。“トンデモ提言”の一方で、有識者会議では男系維持の限界を指摘する声も上がっている。歴史学者の古川隆久氏は、女系天皇が容認されないと《女性皇族に男子出生のプレッシャーがかかるため人道上非常に問題》との意見を提出している。また、同じく歴史学者の本郷恵子氏は、皇族数が減少していることに触れ「悠仁様の御結婚にも差し支えるというか、あまりにも不安でお嫁になんか来られないというようなことがあるんじゃないか」と発言している。本郷さんに改めて話を聞いた。「今は側室を設けることはできませんし、子供を5~6人産む時代でもありません。男系男子のみというルールを何も変えずに皇位継承を維持するのは難しいでしょう。旧宮家の男系男子を皇室に戻すという話も出ていますが、直系のお子さんがいるのに、遠い傍系の男子から後継者が出るとなれば、国民の理解を得るのは困難です。悠仁さまの代までは男系男子で継承するとしても、女性宮家を創設して女性皇族に結婚後も皇室に残っていただくといった方策が必要です。“絶対に男子を産まなければならない”という状況を変え、悠仁さまや結婚相手の女性の精神的負担を軽減しておかなければ、結婚そのものが困難になります」生命倫理や人権をないがしろにしてまで“男系男子”を維持しようとすれば、皇室に入ろうとする女性はいなくなり、皇室の存続はむしろ危うくなるに違いない――。
2021年06月08日報道各社が昨年行った世論調査では、約8割が女性天皇の容認に賛成。しかし、政府は皇位継承策の議論を何度も先送りし、皇室典範の改正に着手しようとしていない。現在の皇室典範で女性天皇は認められていないのか?本当の「伝統」とは何なのか?皇室に関する近現代史を専門とする歴史学者・小田部雄次さん(静岡福祉大学名誉教授)に解説してもらった。【Q】なぜ現在、女性は天皇になれないのですか?江戸時代まで、女性の即位も禁じられていませんでした。しかし、明治時代に制定された皇室典範で、天皇に即位できるのは「男系男子」に限られてしまいました。男尊女卑の意識が強かった明治初期の政治家たちの後押しによって、こうした原則が成文化されたのです。【Q】なぜ、皇族減少の危機に陥ってしまったのでしょうか?現在、皇位継承権がある男性皇族は、秋篠宮皇嗣殿下、悠仁親王、常陸宮殿下の3人だけです。戦後に憲法や皇室典範が改正されたときにも、「男系男子」については改正されず、「男系女子」さえも天皇になれないままになってしまいました。以前は皇室に「男系男子」の皇族が数多くいました。それは、側室が認められていたことも大きな要因です。大正天皇を産んだのも、明治天皇の正妻である昭憲皇太后ではなく、側室の女性でした。男系による皇位継承は歴史的に続いてきましたが、それは側室の存在が許されるような社会であったからこそ可能だったのです。【Q】「男系男子」より重要な天皇の条件はあると思われますか?生まれながらの皇族であることが、尊重されるべき伝統でしょう。天皇の子として生まれ、生まれたときから皇室で育ってきたということがもっとも大切なことです。戦後まもなく皇室を離れた「旧皇族」の子孫には、男系の男子もいます。しかし、何百年も前まで男系の血筋を遡らなければ天皇にたどり着かないのです。生まれたときに皇族ではなく、親も皇族ではなく、何百年も遠い祖先が天皇という「男系男子」に皇位継承権を与えたことは、歴史上ありません。そうした男子より、天皇の長女として天皇のそばで育った皇族女子のほうが、将来の天皇としての資格があると私は考えています。男系女子の「女性天皇」だけではなく、その子の「女系男子」や「女系女子」も、生まれながらの皇族となるので、女系天皇として皇位継承権を認めていいと思います。「女性自身」2020年2月11日号 掲載
2020年02月07日「お妃候補と報じられた女性たちも、雅子さまと同じくすでに50代になっています。実は、愛子さまの同級生のお母さまの中にも、かつてお妃候補だった方がいるのです」(皇室担当記者)今年5月の御代替わりで、雅子さまは皇后となられた。雅子さまが初めてお妃候補と報じられたのは’87年12月のこと。天皇陛下からのプロポーズ、ご成婚、愛子さまの誕生という喜ばしい出来事のかたわら、適応障害での長いご療養の日々もあった。その一方で、“雅子さまのライバルたち”も、それぞれ激動の半生を送っていたのだ――。’87年ごろ、お妃候補と報じられていた小林詔子さん。父は大手生命保険会社の専務(のちに社長)で、週刊誌報道では3姉妹そろって名前が挙がっていた。現在の職業は、なんと国会議員。’88年に学習院大学を卒業した直後、小学校の先輩で富士急行の御曹司・堀内光一郎氏と結婚。光一郎氏の父は富士急行社長を務め、自民党の衆議院議員として労働大臣や通産大臣を歴任した堀内光雄氏。光雄氏が’09年に政界を引退すると、後継者として白羽の矢が立ったのが義理の娘である詔子さんだったのだ。’12年の初当選から当選3回と、現在も衆議院議員を務める堀内詔子さんに本誌は取材を申し込んだが、秘書を通じて「畏れ多いことですので」との返事のみだった。実は詔子さんだけではなく、息子のMくんまで「佳子さまと交際している」と報じられたこともあった。だが『週刊新潮』の取材に対し詔子さんは「まったくない」ときっぱり否定。親子2代での“候補”報道に、困惑も大きかったのだろうか……。雅子さまはトランプ米大統領やマクロン仏大統領への接遇ぶりなどで世界から脚光を浴びているが、元お妃候補のなかにも世界的な実績を残している女性たちがいる。小学6年生で全日本学生音楽コンクール1位になり、お妃候補としても注目を集めていた瀬川祥子さんは、ヴァイオリニストとして活躍中。現在はパリ在住で、世界各地で演奏を披露している。姉・冬子さんとともにお妃候補に挙げられていた徳川直子さんは徳川宗家の分家の出身で、曾祖父は大正天皇に仕えた元侍従長という名家。直子さんは現在、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の研究員になっており、HPにもその名前が記載されている。’05年には小型超音速実験機「NEXST-1」の飛行実験を成功させた。東京―パリ間を6時間で結ぶマッハ2の飛行を想定した実験で、次世代超音速旅客機の開発に向けた大きな成果だったという。くしくも皇室と関わることになった元お妃候補も。10代のころから天才ハープ奏者として名を馳せた吉野直子さんは、’87年12月に上皇ご夫妻がコンサートを鑑賞されたことで、一躍候補に浮上した。現在も日本を代表するハーピストとして活躍を続け、今年2月の「天皇陛下在位30年記念式典」にも出演。ソプラノ歌手の鮫島有美子さんとともに、美智子さまが作曲された子守歌『おもひ子』を披露している。本誌が取材を申し込むと、マネージャーより「音楽のお話しでしたらさせていただきますが、お妃候補のことについては、何もお話しできません」との返答だった。’77年8月に『週刊新潮』が報じ“お妃候補第一号”と呼ばれた山崎妙子さんは、美術館の館長になっており、天皇陛下との“再会”も果たしていた。軽井沢で陛下とテニスでダブルスを組んでいたことが明らかとなり注目を集めた山崎さんだったが、東京藝術大学大学院在学中の’86年11月に結婚。日本美術史の博士号を取得した山崎さんは、’07年に山種証券創業者である祖父が設立した山種美術館の館長に。日本で初めての日本画専門の美術館として’66年に開館した山種美術館には、皇族方が鑑賞に足を運ばれることも多い。’12年11月には上皇ご夫妻がご訪問。さらに’15年1月には、天皇陛下と雅子さまがそろって展覧会に。かつてのお妃候補と雅子さまが顔を合わせるという、珍しい場面もあったのだ。
2019年08月09日京都市東山区東山安井町。「ミナミ美容室」は、悪縁を切り、良縁を呼ぶ神社として若い女性に人気の「安井金毘羅宮」のはす向かいにある。創業131年。南登美子さん(91)の祖母、南ぢうさんが1888年(明治21年)に、舞妓芸妓の髪を結う「髪結い」として始めた店だ。戦後に建て替えられた木造2階建ての2階が店舗であり、急な階段を上ると、そこにはタイムスリップしたかのような空間が――。鏡の前に並ぶレトロな椅子、年代物のパーマ器が並び、大正時代のレジはいまも健在。登美子さんが日本髪を結うのは、店のいちばん奥のスペースである。電熱器で熱し、髪を整えるための愛用のコテも大正時代のものだ。「いま、京都でも舞妓さんの髪を結えるのは10人もいません」登美子さんは、引出しから京つげ櫛の老舗「十三や」の櫛を手に取り、慈しむように見やりながら語る。「ただ結うのではなく、頭や顔の形、雰囲気やどのような場所に行かれるのか、いろんなことを考え、その人が輝くイメージをもってこしらえなければいけません。『きれいになれ、きれいになれ』と思う心が大事なんですね」祖母は、京都一とうたわれた髪結いだった。2代目の母・ちゑさんも、その腕を高く評価され、昭和天皇ご即位の御大典では、高等女官のお髪上げを任されている。そして3代目の登美子さんは、古代朝廷の貴婦人から現代の舞妓まで、長い歴史のなかの300種類の髪形を再現できる。しかも、それぞれの時代の風俗や文化までも記憶しているという徹底ぶりだ。「髪形の変遷は、美を追求してきた歴史なんです。古墳時代の昔から、女性はずっとオシャレをしてきた。美容も、時代ごとにさまざまな手法、技を生み出してきました。美しくなってほしい--伝統を守るとは、そんな思いをつないでいくことなんでしょうね」1700年の美を受け継ぐ登美子さんは、伊勢神宮の神事にも関わる。現在は、天皇陛下の長女であり、祭主を務める黒田清子さんの結髪と着付けを担っている。1928年(昭和3年)、登美子さんは京都市東山区で画家の娘として生まれた。ミナミ美容室を営む父方の祖母・南ぢうさんと伯母・ちゑさんのもとに引き取られたのは、3歳のときだ。宮尾登美子の小説『序の舞』は、女流日本画家・上村松園(1875~1949)の生涯を描いたものだが、中にこんな記述がある。《南さんは京都中でいちばん上手と評判だったが、なるほど結って戻ったます子の頭はぴったりと形よく品よくでき上がっていて、申し分なく、それを婚礼衣裳の振袖を着せ、丸帯を締めさせて画室に入ってもらった》この“南さん”が、ぢうさんである。登美子さんは、ちゑさんの娘として育てられた。「当時の店は、お弟子さんが5~6人もいてすごく繁盛していました。私は、お母さんの傍らにいたくて、いつも店で髪結いさんごっこです。“さん払い”(和紙のハタキ)を髪に見立てて、島田や丸髷に結っては遊んでいましたね」母・ちゑさんは、生涯独身を通し、髪結いの技術はもとより、日本髪の変遷と研究に情熱を燃やした人だった。’56年に、京都三大祭りのひとつ「葵祭」のヒロイン・斎王代が復活したときには、斎王代の平安貴族の髪形から髪飾り、衣装の着付けまで担当。時代祭の皇女和宮、祗園祭の小町踊りの少女の結髪も手掛ける。「母は、それは熱心に日本画家の研究会に通ったり、大学教授と一緒に時代風俗を考察。そうやって勉強していたのです。また、大正天皇の貞明皇后にお仕えしていた女官さんに、宮中の女性の髪形もじかに教わっています。そうして伊勢神宮の神事もまかされるようになりました。私も、そんな母の助手としてついていき、多くを学びました」’81年、ちゑさんは功績が認められ、黄綬褒章を受賞。古代の朝廷や公家、武家の行事や風俗・習慣、装束などの伝統を学び伝える「有識美容師」になった。登美子さんもまた、髪形の歴史と伝統を学び、文献を読みあさり、雛形や日本画を参考に研鑽を積んでいった。「髪結いが下に見られんように、ほんまに頑張ってきました」驚いたことに、登美子さんが仕事で初めて日本髪を結ったのは、60歳のときだという。「花嫁の髪でした。病気で伏せていた母が、おぶわれて仕事場に来て、『上手に結えてる』とひと言。最初で最後の褒め言葉でした」翌’89年、ちゑさんは85歳で亡くなった。登美子さんは、母の仕事を引き継いだ。伊勢神宮の祭主である池田厚子さん(昭和天皇の四女)の結髪と着付けを担うようになる。祭主とは、神への天皇の勅使であり、2月の祈年祭、6月と12月の月次祭、10月の神嘗祭という大きな祭典を主宰する神職である。「ご祭主様は大変ですよ。式典は真夜中に行い、睡眠時間は3時間ほど。それを3日間、外宮と内宮をまわられるわけですから。私どもは小さな部屋で待ち、潔斎(沐浴)されたご祭主様の装束と髪形をつくります。その日の式典が終わると解くわけですが、寝る時間もやはり3時間ほどです」’95年、登美子さんもまた「有識美容師」になった。そして毎年4回、大きな祭典が行われるたびに伊勢神宮に足を運んできた。黒田さんは、’17年から伊勢神宮の祭主となり、登美子さんは引き続き現在もおつとめしている。登美子さんは「京都美容文化クラブ」の会長であり、会員は若い人も含めて50人ほど。「有識美容師をめざしている人たちに日本髪の伝統を受け渡し、次世代につなぐのが私の役目。クラブのみんなが後継者ですねん」銀縁の眼鏡の奥から優しいまなざしで前を見据える。「古代から現代の舞妓まで300種類の髪形を再現できる技を伝えていきたい」
2019年03月18日「日中友好に生涯を捧げた父と母が愛した庭でしたから、若い世代の方々が、この庭を通じて、隣国や平和への関心を持つきっかけとなっていただければと願うのでございます」兵庫県西宮市の武庫川女子大学附属中学・高校にある「日中友好の庭」。2月半ばの好天に恵まれた日の午前。庭の寄贈者で、同市在住の福永こ生さん(78・『こ』は樗の字の木へんが女へん)は、寒風に耐えるような木々を愛おしそうに見やりながら、みやびな響きをもつ美しい日本語で語り始めた。「本当は、もっとカラフルなお庭なんですが、今は冬枯れの時期だけに、残念でなりません。ここの植木も庭石も、かつてわが家にあったものを寄贈させていただきました。中央のモミジは、父のいちばんのお気に入り。かつて父は日本の来るたびに、大好きな日本酒を嗜みながら眺めておりました。そして、白雲木。母が結婚して満州(現・中国東北部)に渡るとき、赤坂御所で貞明皇后(大正天皇の皇后)が、御自ら種をお拾いくださって『記念に満州に植えるように』と賜ったそうでございます。その種から育った木の孫木になります。ここに来ると、どの木や花を見ても父や母を思い出します。懐かしゅうございます」こ生さんの父親は、中国・清朝のラストエンペラーであり、満州国皇帝であった愛新覚羅溥儀の実弟の溥傑さん。母親は、日本の天皇家と縁戚関係にある嵯峨侯爵家令嬢の嵯峨浩さん。つまり、こ生さんは、あのラストエンペラーの姪であり、幼少のころには満州国の正統な皇位継承者として、2番目の皇女を意味する「二格格(アルゴーゴー)」と呼ばれていた。しかし、敗戦で運命は一変。5歳のこ生さんは、そのまま母と、内戦下の中国大陸6,000キロを1年5カ月もの間、流転。命からがら日本に帰国できたときに、憧れたのは「普通の生活」だった。やがて結婚して母となり、両親亡きあとも、その遺志を継いで日中親善に努め、時代の語り部として生きてきた。また、日本の皇室との交流も続いている。「昨夏も、毎日書道展で溥儀や溥傑の書が特別展示されて両陛下にお会いしたとき、父の話になりました。天皇陛下が’92年の初めての中国訪問時をふり返られて、『北京では、溥傑さんにたいへんお世話になりました』と語られ、皇后さまも『心のおきれいなお人でしたね』とおっしゃられて。父からは、そうした話は聞いておりませんでしたので、初めてうかがって、とてもうれしゅうございました」’07年、夫の死を機にそれまで住んでいた西宮市内の一戸建てを引き払い、こ生さんは同じ市内のマンションへと移った。ピアノや家具などの大半を、幼稚園や福祉施設に寄付し整理した。「唯一の心残りが、庭でした。嵯峨の家の家紋にもなっている連翹、父のモミジ、そして白雲木などなど。この庭だけはなくしてはいけない、と思ったのでございます」そんな庭は、末娘の母校で、中国との交流もあった武庫川学院に寄贈され、「日中友好の庭」となった。?生さんは、一本の木にまつわるこんな思い出を語った。「’92年の両陛下とのお食事会のとき、まだご結婚前の紀宮さまもご一緒でした。赤坂御所のお部屋の前に、ここの白雲木の元木があるとのことで、紀宮さまは、『花が落ちたら、白いじゅうたんのようになって、とてもきれいなんですよ』と、お話しくださいました。今、その部屋には愛子さまがおられるとうかがっております」皇室との交流は世代を超えて続き、皇太子ご夫妻とお会いになったのも去年の夏。やはり、花にまつわるエピソードがあった。「皇太子さま、雅子さまが夏の甲子園の百周年記念大会にご出席されるためこちらにいらした際に、お会いできました。その数日前に、わたくしが両陛下と懇談させていただいたことをお聞きになっていたのでしょう。お会いになったときにまず、『(両陛下に)お会いになっていたのですね』と、お聞きくださいました。わたくしは、『はい』と申し上げてうなずくばかりでしたが。そのときに、白雲木のある庭や『日中友好のアサガオ』のお話もさせていただきました」日中友好のアサガオも、戦後、生死も定かでなかった溥傑さんの消息がわかり、’61年に再会するときに、浩さんが日本で種を買って中国に持参したものがもととなっている。「北京の自宅で両親が丹精込めて世話をして、縁の白い赤紫の花を咲かせました。母亡きあとも、父が7年間、一人で水をあげたり、種を収穫していたものです。その父も亡くなったあとは、わたくしが両親の思いを受け継ぐかたちで育て、ご縁のあった方に種をお配りしています。すでに日本各地だけでなく、中国の日本人学校などでも育っています。昨夏は、採れたばかりの種を、皇太子さま、雅子さまに、お礼状とともに遅らせていただきました。もちろん、その前には、皇后さまにもお送りしております」一輪の花が国境を超え、時を超え、横たわる大河にかかる橋のように、人と人とをつないでいく。「国同士は難しいことがあっても、人と人は別ですね。父の好きだった『相依為命(あいよっていのちをなす)』の言葉どおり、時代が変わっても、相手を思いやる気持ちがあれば、共に生きていけるのでございます」まもなく、厳しい冬が終われば春が訪れる。木々は緑の葉を茂らせ、花は色とりどりに咲いて、また誰かの心を温かくしてくれる。
2019年02月22日「本当は、もっとカラフルなお庭なんですが、今は冬枯れの時期だけに、残念でなりません。ここの植木も庭石も、かつてわが家にあったものを寄贈させていただきました。中央のモミジは、父のいちばんのお気に入り。かつて父は日本の来るたびに、大好きな日本酒を嗜みながら眺めておりました。そして、白雲木。母が結婚して満州(現・中国東北部)に渡るとき、赤坂御所で貞明皇后(大正天皇の皇后)が、御自ら種をお拾いくださって『記念に満州に植えるように』と賜ったそうでございます。その種から育った木の孫木になります。ここに来ると、どの木や花を見ても父や母を思い出します。懐かしゅうございます」兵庫県西宮市の武庫川女子大学附属中学・高校にある「日中友好の庭」。2月半ばの好天に恵まれた日の午前。庭の寄贈者で、同市在住の福永こ生さん(78・『こ』は樗の字の木へんが女へん)は、寒風に耐えるような木々を愛おしそうに見やりながら、みやびな響きをもつ美しい日本語で語り始めた。「日中友好に生涯を捧げた父と母が愛した庭でしたから、若い世代の方々が、この庭を通じて、隣国や平和への関心を持つきっかけとなっていただければと願うのでございます」こ生さんの父親は、中国・清朝のラストエンペラーであり、満州国皇帝であった愛新覚羅溥儀の実弟の溥傑さん。母親は、日本の天皇家と縁戚関係にある嵯峨侯爵家令嬢の嵯峨浩さん。つまり、こ生さんは、あのラストエンペラーの姪であり、幼少のころには満州国の正統な皇位継承者として、2番目の皇女を意味する「二格格(アルゴーゴー)」と呼ばれていた。しかし、敗戦で運命は一変。5歳のこ生さんは、そのまま母と、内戦下の中国大陸6,000キロを1年5カ月もの間、流転。命からがら日本に帰国できたときに、憧れたのは「普通の生活」だった。やがて結婚して母となり、両親亡きあとも、その遺志を継いで日中親善に努め、時代の語り部として生きてきた。また、日本の皇室との交流も続いている。「昨夏も、毎日書道展で溥儀や溥傑の書が特別展示されて両陛下にお会いしたとき、父の話になりました。天皇陛下が’92年の初めての中国訪問時をふり返られて、『北京では、溥傑さんにたいへんお世話になりました』と語られ、皇后さまも『心のおきれいなお人でしたね』とおっしゃられて。父からは、そうした話は聞いておりませんでしたので、初めてうかがって、とてもうれしゅうございました」’95年1月17日、阪神・淡路大震災に遭遇し、こ生さんは西宮市の自宅で被災。当時、神戸市で老人ホームを経営していた夫が、すぐに施設を開放するなど、あわただしい毎日を過ごしていたころ、思いがけない電話がかかってきた。まず女官長が出て、すぐに皇后美智子さまのいつものやさしいお声が受話器を通して聞こえてきた。「お電話するのがたいへん遅くなりました。おうちはいかがでしたか」「自宅は半壊でございましたが、家族は全員無事でございました」「ご無事でなによりでした。きっと、お父さまの溥傑さんが見守ってくださったのね。どうか、お体を大切に頑張ってください。またお目にかかりましょうね」その後も被災地を訪問されるときなどに、「ご不自由はないですか」とのお心遣いがあったという。’07年、夫の死を機にそれまで住んでいた西宮市内の一戸建てを引き払い、こ生さんは同じ市内のマンションへと移った。ピアノや家具などの大半を、幼稚園や福祉施設に寄付し整理した。「唯一の心残りが、庭でした。嵯峨の家の家紋にもなっている連翹、父のモミジ、そして白雲木などなど。この庭だけはなくしてはいけない、と思ったのでございます」そんな庭は、末娘の母校で、中国との交流もあった武庫川学院に寄贈され、「日中友好の庭」となった。「なにより、この庭の成り立ちを知って、心の交流の大切さを学んでいただきたいと思いました。そういえば、白雲木では……」こ生さんは、一本の木にまつわるこんな思い出を語った。「’92年の両陛下とのお食事会のとき、まだご結婚前の紀宮さまもご一緒でした。赤坂御所のお部屋の前に、ここの白雲木の元木があるとのことで、紀宮さまは、『花が落ちたら、白いじゅうたんのようになって、とてもきれいなんですよ』と、お話しくださいました。今、その部屋には愛子さまがおられるとうかがっております。初夏になり、その白いじゅうたんを、愛子さまや雅子さまも、きっとご覧になっていらっしゃるのだと、想像したりしております。花とは、大切な人を思い出させて、心をなごませてくれるものでございますね」現在は、西宮市内のマンションで、次女と次男と同居するこ生さん。リビングの一角には、’92年の両陛下との食事会の写真なども飾られていた。「皇后さまからは、日中友好の節目の年などに、お電話をいただきました。先日は、まず『お子たちは、みなさん、お元気?』というお言葉から始まりました。また、関西方面に、たとえば植樹祭などでお見えのときは、侍従さんを通じて、『いかがお過ごしですか』とお電話をいただいて、お近かったら、ホテルのほうなどへ、わたくしからご挨拶にうかがったこともございます。わたくしは、これまでも必ず電話の最後には申し上げてまいりましたが、両陛下には、春以降、大きなお役目を終えられてからも、国民の理想のご夫婦として、『いつまでもお健やかにお揃いあそばして、ご長命であられますように』と、お祈り申し上げております」
2019年02月22日世界中から約1,000種類のお酒が集まる、日本最大級ワインの祭典「第92回世界の酒とチーズフェスティバル」が、2017年10月11日(水)から10月17日(火)まで大丸東京店で開催される。来場者数約1万人、ワイン約3万本を売り上げる人気企画が再び大丸東京店へ。今回は世界中から約1,000種類のお酒が集結し、毎日300種類以上の試飲が可能になる。今回のテーマは「歴史的瞬間に立ち会うワインたち」。会場には、オバマ大統領主催のTPPランチミーティングにバッグヴィンテージが採用された「2015ブレッド&バター シャルドネ白」や、大正天皇に献上したこともある生産者が手掛ける「2014ヴァンイングート・ハムヴィンケラー・ダッハスベルク・ラインガウ・リースリング1erドライ白」などが揃う。お酒だけでなく、フードも充実。日本のチーズや世界三大珍味も登場。冬においしいラクレットの実演販売も行う。また、参加費500円で、「常識をくつがえす南アフリカワインの魅力」などをテーマにした現役ワイン講師によるセミナーも実施。さらに、オーストリアワインの魅力に迫る参加費無料の講演会も行われる。【詳細】第92回 世界の酒とチーズフェスティバル開催期間:2017年10月11日(水)~10月17日(火)開催場所:大丸東京店 11階催事場住所:東京都千代田区丸の内1-9-1<アイテム例>・「2015ブレッド&バターシャルドネ白」3,110円、・「2014ヴァンイングート・ハムヴィンケラー・ダッハスベルク・ラインガウ・リースリング1erドライ白」3,985円
2016年09月10日元ハンセン病患者の姿を描いた『あん』のプレミアム試写会が5月26日(火)に開催され、河瀬直美監督をはじめ、主演の樹木希林、永瀬正敏、原作者のドリアン助川が舞台挨拶に出席。来賓として高円宮妃殿下がご来場され、安倍首相夫人の昭惠氏も姿を見せた。千太郎が雇われ店長を務めるどら焼き屋の求人にあん作りの名人である老女・徳江が応募してくる。彼女のあんが評判を呼び店は繁盛するが、彼女がかつてハンセン病を患っていたという噂が広まり客足が途絶えはじめ…。樹木さんは、平成の世になってようやく元ハンセン病患者に対する差別撤廃に国が動き出したが、それよりはるか前に、大正天皇の皇后である貞明皇后がハンセン病患者の施設を訪れ、患者と触れ合いの時間を持ったという事実に触れ「国よりも先に啓いてくださった、そのことに感謝してここに立っております」と語り、この日、高円宮妃殿下が来賓として来場されたこととあわせて、皇室のハンセン病に対する関わりに深い感謝の思いを口にした。原作者のドリアンさんは「この小説を書こうと思ったのは20年くらい前で、書き始めたのは7~8年前。12回書き直しました。期待していた大手出版社には断れ、話を伺った元患者の方々との『本にする』という約束を裏切ることになるんじゃないかと思ったこともありました。こうして日本を代表する俳優さん方と監督の手で映画になり、世界の人に見ていただけました」と喜びを語った。先日、閉幕したカンヌ国際映画祭では本作がオープニングを飾ったが、永瀬さんは「世界中に映画に関わるいいろんな友人がいますが『おめでとう』と連絡がありすごく嬉しかったし、本当にすごいことなんだと感じました」と振り返る。樹木さんは「上映が終わったら、明るくなる前に逃げようと思った」と語り、その後のスタンディングオベーションの中、河瀬監督に手を差し伸べられたことについても「恥ずかしかったです」と語る。ドリアンさんはその時の様子について「千人以上の人が形式上ではなく、心から拍手を送ってくれました」と世界に本作が届いたことを実感したよう。改めてこの日の上映を前に「ハンセン病の元患者の人生を描いていますが、ハンセン病そのものを描いているわけではありません。人はなぜ生まれたのか?人生を全うするとはどういうことか?どうしても目標を持って頑張るということになりがちですが、それでかえって見えなくなるものがあるのではないか?生まれてきただけで既に与えられているのではないか?という人生の普遍的なテーマに向かった作品です」と語り、温かい拍手に包まれた。『あん』は5月30日(土)より公開。(text:cinemacafe.net)
2015年05月26日「最近なんかツイてない」「もっと良いことないかな?」なんて思うこと、誰にでもあるのでは?去年までの自分にサヨナラし、今年をよりハッピーに彩るためにも、お正月にはパワースポット情報が欠かせないところ。そこで、テレビや雑誌で人気のギャル霊媒師・飯塚唯先生に、今おすすめのパワースポットを教えていただきました!≪飯塚先生一押しのパワースポット≫◆ラッキーゾーンパワースポットというか…個人的に「ラッキーゾーン」って呼んでいるスポットがあるんです。富士山もラッキーゾーンの一つですが、それよりも2015年は「高尾山」の“気”をふつふつと感じています。富士山は周りで噴火が多かったから、今はちょっと疲れてるみたいですね。だから高尾山のほうがオススメです。◆厄除けのパワースポット2015年は気の流れがいろいろ変わってクリーンになる年だと思うんです。だから厄除けの効果が強いパワースポットに行かれると相性がいいと思います。特に良いのは成田山。お祓いもいいけど、護摩焚きをしてもらうのもいいですね。成田山以外にも不動明王を奉っている所に参拝に行っていただきたいです。◆学業祈願・出世祈願のパワースポット学業や出世の祈願には龍神がいいから、こちらも成田山。不動明王と龍神が一緒に祀られている所もあるので、これから学業に専念する方や就活する方、出世が近い方などは、そういう所に行かれるといいと思います。◆金運のパワースポット金運は、明治神宮にある「清正の井戸」。(霊的に)怖い所なのですが、気が強いからすごいパワーを感じられます。磁場が発生しているというか…悪いものも引き寄せるし、でも、良いものも跳ね返していく力があったりして。あの場所のパワーは本当に強いので、体調が悪いときは行かないほうがいいと思います。体調が良いときだけ行くようにしましょう。◆恋愛のパワースポット恋愛は伊勢神宮系列が一番良くて、都内なら「東京大神宮」が一押し。あそこは日本で初めて結婚式が行われた神社でもあるんですよ(※明治33年、後の大正天皇と貞明皇后のご成婚を記念して神前結婚式を創始したそうです)。京都だったら、「貴船神社」も良いのですが、「清水寺」もパワーがあります。清水寺の中にある、縁結び神社(地主神社)がすごく効きます。恋愛でお困りの方は、絶対、東京大神宮の恋みくじを引いてください。個人的に、一番当たるおみくじだと感じています。匂いがするので、どれだかわからないときは、神社の方に「匂いがするおみくじを引きたい」と言えば教えてくれるはず。◆おみくじは結んだほうがいいみなさん、おみくじを結ぶときは右から結ぶ場合が多いと思いますが、左手で枝を巻くようにして結ぶのがオススメです。結果が悪かったときは必ず結びましょう。なぜかというと、神社の方が全部祈祷してくれるから。良いと持って帰る人もいますが、汚れてしまったら神社に返しに行かないといけないんです。それが面倒な場合は、最初から置いていったほうがいいですよ。ビニールに入れて持ち歩くなど、汚さずに持っていられるなら、引いてから1年間はお財布に入れておいてください。そうすると運気が高まります。バッグとかではなく長財布に入れるのが一番いいですね。◆参拝の作法神社に参拝するときは歩く場所が決まっていて、男性が右側、女性が左側を歩くといいと言われています。真ん中は神様が通ります。お正月は混むのでそうも言ってられませんけどね…。参拝の前は厄を落とし、なるべく襟のついた服(タートルネックのような首の隠れたもの)を着てお参りに行ってください。あまり露出が多いと良くないので。できるだけ肌を隠すのが正装なんです。◆お参りの際の注意点「清正の井戸」もそうですが、パワースポットだけど、心霊スポットでもある場所はたくさんあります。そういう所には、行っちゃいけないゾーンもあるので気をつけましょう。足を踏み入れると事故が起こりやすい所とかも、実は霊と関係がある場合もあるんです。だから、「立ち入ったら危険」と言われているゾーンは、霊が集まりやすい場所なのかなと考えて、ズカズカ入らないようにしたほうがいいと思います。パワーのあるスポットは、その分、霊的な意味でも強いエネルギーを持っているんですね。お参りに行く際は、そのあたりを意識したほうがいいかも。そして、おみくじや参拝のルール、興味深いですね!左巻きに結ぶ、タートルネックを着るetc.お参りの際には、参考にしていただけるとうれしいです。飯塚唯(いいづかゆい)霊能力の強い家系に生まれ、祖母は霊媒師として活躍していた。高校時代に体験した強烈な霊体験を通して能力が覚醒。高校卒業後は渋谷109でカリスマ店員となるが、周囲の人々の霊視・鑑定を行っていたところ、当たると大評判に。その後、本格的に霊能力を活かすことを決め、現在は渋谷占いの館で鑑定を行っている。TV番組や雑誌で何度も取り上げられる話題の占い師。【スマートフォンサイト】ギャル霊媒師・飯塚唯
2015年01月03日手軽に楽しめるハイキングコースや見どころが点在している静岡県御殿場市で、「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に選定された「東山路」を巡るハイキングツアー「紅葉の東山路を歩く」が11月24日(土)と25日(日)、開催されることになった。「東山路」は、秩父宮記念公園や東山旧岸邸をはじめ数多くの名所が存在し、人気の行楽スポットとなっている。特にこの「紅葉の東山路を歩く」が予定されている時期は、カエデやナラが紅色に染まる紅葉狩りの絶好のシーズン。そんな東山路の絶景ポイントを地元ボランティアガイド団体「みくりやの風」のメンバーが案内してくれるのが今回のハイキングだ。両日ともに、10時00分「秩父宮記念公園正門前」に集合。まず、「秩父宮記念公園」を見学。ここは大正天皇の第二皇子である秩父宮殿下が昭和16年より10年の間御療養生活を送った別邸。園内は1年を通じて花や山野草が咲き誇り、春には樹齢130年を超えるといわれる「しだれ桜」、秋には「紅葉」など、自然豊かな景色が楽しめるスポットだ。次いで、「東山湖」へ。県指定文化財、東山荘の入口、東山湖畔に生育する古木「サイカチ(西海子)」を堪能。そして、東山厳島神社を経て、岸信介元首相の自邸として1969年に建てられた、伝統的な数寄屋建築の美と、現代的な住まいとしての機能の両立を目指したという「東山旧岸邸」を見学。建築家・吉田五十八の晩年の作品、居間から望む庭園が楽しめる。次に向かうのは、刻々と移りゆく富士山の全景を見ながら温泉を楽しめる「ごてんば市温泉会館」。そして昼食をとる「乙女森林公園キャンプ場」。ここは箱根外輪山の麓、豊かな森林にめぐまれ、富士を望む本格的キャンプ場だ。昼食と休憩をとった後は、富士山を正面に御殿場市街が一望でき、四季を通して楽しい自然公園「平和自然公園」へ。インドの故ネール首相寄贈のシャカの分骨を納めた白亜の仏舎利塔から富士山が望めるスポットだ。そして、「二の岡アメリカ村」「二岡神社」を経て、「秩父宮記念公園」に戻るという行程で、約5時間のハイキングとなる。参加者は昼食、水、雨具を持参、ハイキングのできる服装とのこと。なお、各日とも最小催行人数は30名で、参加費は大人700円、小人400円(入館料及び保険料)。申し込み11月18日(日)まで。詳細は、御殿場市観光協会ホームページで確認を。昼食の弁当の注文(1個1,000円・500円)も受け付けている。交通は、JR御殿場駅(富士山口の富士急行バスターミナル7番乗り場)から無料送迎バス(9時40分発・記念公園9時50分)がある。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年11月07日日常生活を送る中でなにげなく迎えている祝日や記念日。みどりの日や体育の日などがそうですよね。みなさんはこういった祝日や記念日の由来や意味をご存じですか? 今回は、さまざまな記念日の由来・意味をご紹介します!まずは海外の記念日からご紹介。日本でも知られているものちらほらあります。●バレンタインデー(2月14日)日本では女性がチョコレートを渡す日、というのが一般的でありますが、日本以外では男女の愛の誓いの日とされており、あまりチョコレートは関係ないのだとか。本来、2月14日はヴァレンティヌスというキリスト教の司祭が皇帝の教えを破ってローマ兵士を結婚させたことで処刑された日。いまから約200年前に、このヴァレンティヌスを守護聖人とした記念日を、とバレンタインデーが生まれました。●ハロウィン(10月31日)アメリカの行事だと思っている人が多いハロウィンですが、実は起源はヨーロッパ。本来はケルト民族が一年の終わり(ケルト民族では10月31日が一年の終わり)に行っていた魔よけの行事なのです。一年の終わりには魔女や精霊が出てくるとされていいて、それから身を守るために仮面をかぶったりしていました。それが各地に広まり、いまの形になったそうです。ちなみにハロウィンで有名な『トリック・オア・トリート』も本来は死者の日の行事とのこと……。●感謝祭(11月第4木曜日)※カナダでは10月第2月曜日アメリカのドラマや映画でも頻繁に登場する感謝祭。これはアメリカとカナダの祝日で、家族や友人で集まり、ターキーなどの感謝祭料理を食べる大切な記念日です。感謝祭は、インディアンたちがアメリカ大陸にやって来たイギリス人たちに食料を分け与えた事が始まりとされていますが、最近ではあまり信ぴょう性がないようです。●ブラックデー(4月14日)バレンタインやホワイトデーに恋人ができないまま過ごした男女が黒い服を来て黒い食べ物を食べる集会を開くという韓国の記念日。いまでは合コンのような形になりつつあるのだとか。さてここからは日本国内の祝日・記念日です。●海の日(7月第3月曜日)海に感謝する日というイメージのある海の日ですが、本来は明治天皇が東北巡幸から横浜へ帰港されたことを記念した日。以前は記念日だったのですが、1995年に祝日に制定されました。いわゆる昇格パターンです。突如として夏休み前の祝日が増えたことに驚いた人も多かったはず。ちなみに世界中で海の日を祝日にしているのは日本だけ。●時の記念日(6月10日)日本で初めて時計が動いて鐘を鳴らした日ということで制定されました。マイナーだけど歴史的にかなり大事な記念日です。ちなみに何年前の6月10日かというと、今から1341年前の西暦671年だそう。●天皇誕生日(12月23日)在位中の天皇陛下の誕生日を祝うための祝日です。基本的に天皇陛下の誕生日と祝日は同じ日になりますが、歴代の天皇誕生日の中には、実際の誕生日とは違い日が天皇誕生日の祝日とされたこともあったそうで、大正天皇がそれにあたります。大正天皇の誕生日は8月31日でしたが、暑い中で祝日行事を行うことができないために10月31日が祝日とされました。●学校給食記念日(12月24日)昭和21年の12月24日から東京・神奈川・千葉で学校給食が始まり、それを記念して制定されました。が、一般的には12月24日は学校が休みという問題が……。それにより、各地の学校では、独自に1月24日を給食記念日としたそうです。何気なく遊んだり寝ていたりする祝日や記念日も、こういった色んな由来や背景があります。また、何でもない日だと思っていても、実は何かしらの記念日だったりするので、いろいろ調べてみるとおもしろいですよ!(貫井康徳@dcp)
2012年06月08日