「障害者の感動ポルノ」を巡る議論で、私たちが見落としていること
感動や消費の対象としてテレビ画面に登場することの難しい発達障害者は、健常者の社会の中で困難の存在や努力の過程を認めてもらうことさえ難しいのではないか。
番組を見終わった当初は、そんな風に考えていました。
その人の障害の有無を知ることと、その人の生きづらさを知ることは全く違う
出典 : http://amanaimages.com/info/infoRF.aspx?SearchKey=10417000438
24時間テレビについて批判する声の中には、
「ここにも、あそこにも、困難を抱えている人はいるよ、困難は潜んでいるんだよ」ということを伝えたい、知ってほしいがゆえの叫びも混じっているように思います。
目に見えないところにも、たくさんの困難がちりばめられている社会。
それなのに、わかりやすいハンディのある人だけが特別なステージを与えられて、スポットを浴びている。
私も、発達障害児の親として、そこにモヤモヤする気持ちがなかったかとは言えません。
けれども…「見えている障害」だから分かりやすい、「見えていない障害」だから分かりにくいというのは、果たして本当だろうか。
2つの番組を見終わってからしばらく経って、私の中にそんな問いが浮かんできました。
そして、気づいたのです。
そんな風にして「見栄え」だけで障害者の境遇を比べることは結局、「感動ポルノ」を作ろうとしている人たちが持つのと同じような、勝手な先入観であることに。私自身が、そんな先入観に飲み込まれそうになっていたのです。
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肢体障害者の障害は確かに「見えて」います。でも、ただ見えているだけでは、本当にその人たちが抱える困難など私には知りようもありません。
ある人にとっては、24時間テレビでアイドルとたった一日共演することよりも、バリアフリーの十分でない道や駅を通って、遠くの街にいる友人に会いにいくことの方が、ずっと大変で、ずっと特別な時間かもしれない。またある人にとっては、移動の不自由はほとんど感じていなくて、むしろ勝手に「かわいそう」扱いしてあれこれ余計な干渉をしてくる周囲の人間の方が、大きな悩みの種かもしれない。
「片足が無い」という障害が、具体的にどんな困難を引き起こしているのかは、その当人にしか分かりません。
私たちは勝手な想像で、大変さを推し量って当てはめているに過ぎない。