2022年7月22日 06:15
「二次障害にならないように」の呪い。その言葉に囚われ、気づけば親子で二次障害の中に…?怯えからの卒業宣言
気づけば私たちは二次障害の中にいたのです。
Upload By ウチノコ
昔、私が鬱と診断されたとき。悩むし、苦しいし、生きることがつらくて仕方なくなったこともありました。そして今も息子とのことを悩みながら、日々試行錯誤しています。どちらも「もがく」という表現がしっくりくる時間のように感じています。
それでも、その日を境に「おしまい」になんてなりませんでした。楽しいことも幸せなことも変わらずたくさんありました。
そして、それと真摯に向き合う中でたくさんの「気づき」を得ることができています。苦しいこともあるけれど、充実した大切な時間だとも感じています。息子と私が、私たちらしくあるためにどうしても必要で通らないといけない時間のようにも思うのです。
通り過ぎたと思うから、そう言えるのかもしれません。だけど、あの時間を私は後悔していません。あのおかげで、自分の生きづらさに気がつけました。生き方を変えることができました。少々のことは乗り越えられる力を得ることができました。
そして今、息子との不登校生活に悩みもあるけれど、そんな悩みも吹き飛ぶくらい楽しいことがたくさんあります。そう思えるのも、若いころに苦しんだ時間があったからだと思っています。
幸せにいきていくために
「二次障害にならないように」この言葉に呪いを感じてしまうのは、私なりに必死で子どもと向き合っているからなのかもしれません。だけど私は「二次障害にならないように」するために発達障害を学んでいるわけではありません。適切なかかわりへの努力をしているわけではありません。
愛おしい息子たちが、幸せな人生を送ることを願い、祈り、そのために自分にできることを模索するために努力しているのです。
発達障害のある子は「二次障害」を起こしやすいかもしれません。だけど大切なことは「二次障害にならないこと」ではなく、この先何が起こっても、どんな目にあったとしても。
たとえ二次障害を起こしたとしても。それでも幸せを感じ生きていけるように、人間としての確かな基盤を子どもともに作りあげていくことではないでしょうか?
私はそろそろ「二次障害」という言葉に怯えることから卒業したいと思っています。そのために「二次障害にならないように」という言葉は「何があっても幸せに生きていくために」と、私の中で言い替えることにしています。それは、何が起ころうと子どもを愛し続け、絶対に支えていく覚悟を決めるという一つの受容の形だと思っています。