2022年3月24日 18:30
『ドライブ・マイ・カー』の“車”と“肉体”とのつながり、「老い」を受け入れるということ
カンヌ映画祭の脚本賞や日本アカデミーの作品賞など、国内外で数々の賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』。米アカデミー賞の脚色賞など4部門でノミネートもされており、注目が高まっている。
筆者は、この映画について、何度も文章を書いたり、また監督と対談する機会にも恵まれたりして、語るべきことは語りつくしたと思っていた。しかし、初めて見てから半年以上経った今になっても、こういう見方もできるのではないか、ということがまだ出てくる。
本作は、俳優でもあり演出家でもある家福悠介(西島秀俊)の妻の音(霧島れいか)が急死したところから始まる。数年後、家福は国際演劇祭の仕事で広島に向かい、渡利みさき(三浦透子)という運転手と出会う。彼がそこで手掛ける舞台「ワーニャ伯父さん」のオーディションには、生前、妻が関係を持っていた俳優の高槻耕史(岡田将生)が現れるのだった。
当初はこの映画のテーマは、主人公の家福が、音を失ったあと、どのように自分の内面と向き合い、再生していくかを描いたものだと思っていた。家福は、再生することを最短距離で探すのではなく、毎日、車の中で音が吹き込んだテープに対して、何度も何度も同じセリフを繰り返したり、みさきの運転で、毎日、同じ稽古場に通い、そこで演出をしたりする中でひとつの呼吸を掴んだりする中で徐々に再生に向かうのである。