2015年8月20日 10:30
航空会社のつくりかた (1) 6人の男たちがライト兄弟の精神を受け継いで起業
まずはまっさらの神戸に狙いを付け、わずか15ページの事業構想書を手に神戸市役所へのアプローチを始めた。
2002年末、スターフライヤー設立の前には「神戸航空株式会社」という今からでは想像もつかないほどベタな名前にしていたのも、神戸への思い入れがあることを感じてもらいたいとの率直な意図だったが、神戸市の反応はさめていた。会議での「神戸空港に興味を持っていただくのは非常にありがたい」との助役の言葉が空虚に響く。事務方の対応も同様だ。
その理由はすぐに分かった。神戸空港は管制上の制約と関空との関係から、「1日30便(往復)」の制限があるのだが、市としては空港ネットワークを拡充するにはまず大手2社に多く飛んでもらうことを第一に考えていた。つまり、新規会社に枠を割くと大手の枠がなくなり、他社誘致に支障を来す。余計なことはしてくれるな、との思いが本音だったわけだ。
これ以上神戸に固執すると2006年の開業に間に合わないと判断し、2003年夏、既にJALが旧空港に就航している北九州での事業開始を目指す方向に舵(かじ)を切った。
○ライト兄弟に立ち返って北九州へ
北九州市長に企画書を持ち込んだのが2003年5月のことだったが、まさか神戸航空のままではだめだろうということで、社名をどうするかの議論になった。