鉄道トリビア (164) 大阪市中心部へ私鉄が乗り入れできた理由
1909(明治42)年、いわゆる「キタの大火」が起きる。
空心町(現在の天満橋付近)から大阪駅南側、福島駅あたりまでを焼き尽くした大火事で、36万坪以上、1万1,000戸以上が消失した。
この延焼の教訓から、幅広い公道を整備し、一体的に路面電車を整備すれば効率もいいし、防災面でも都合がいいという考えもあったようだ。
当時、大阪の私鉄は阪堺鉄道(後の南海電鉄)が難波まで乗り入れており、京阪電気鉄道は天満橋駅まで、近鉄(当時の大阪電気鉄道)は上本町駅まで通じていた。
市営主義の方針の下、京阪、近鉄は大阪市中心部へ延伸できなかった。
阪神も難波まで乗り入れる計画だったものの、戦前は千鳥橋駅より先へ線路を延ばせなかった。
大阪市電は広大な路線網を持ち、戦後の復興にも貢献した。
しかしその後、自動車の普及により渋滞の原因とされ、バスに置き換わっていく。
当初、市内の大型バスの運行は難点があると指摘されていたが、後に大阪府が民間のバス会社に免許を与えてしまった。
そこで大阪市も市営バスの運行を開始。
民間バスと市営バスの激しい競争を経て、1938(昭和13)年に公布された陸上交通事業調整法を背景に、大阪市に統合された。