「かわいい」は作れる。かわいいという概念や価値観は作れる。感性なんて簡単に構築できる。
たとえば昔、私は、おちょぼ口と丸顔、あと奥二重ーーそういう私の顔を我ながら好きだった。似てる有名人を見てみたくて、わくわくしてググる。検索窓のサジェストに、おちょぼ口、スペース「気持ち悪い」「ブス」。好きだった私の顔。私のまなざしがゆらぐ。
丸顔を入力すれば、丸顔をカバーする髪型を勧める記事。どうやら欠点。
こうして、一人ひとりがもってた素朴な自分へのまなざしが、第三者視点という膜に覆われる。第三者視点が後頭部から刺さって私のまなざしを貫いて、その視座で私は私を、そして他者を見る。ひずんだ認知の奥二重で誰かをみる(たぶんこの奥二重はまだ短所じゃない)。こうして「何がかわいいか」が作られる。かわいいは作れる。
「かわいいは作れる」には、
①「社会的な美の基準にあなたでも則れる」という本来の意味と、
②「社会的な美の基準はあなたでも乗っ取れる」という誤読の意味とがあるのだと思う。
また、垢抜けとは往々にして、「社会的な美の基準に則れている」ことを指すことが多い。それっぽい風体へと社会化するのが垢抜け。